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1章

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「え? で、でも千尋さまと楽さん……」
「私達は大丈夫です。さあ行ってください。それから鈴さん、弥七に鴉の手配をするよう伝えておいてもらえますか?」
「鴉ですか? 分かりました。それじゃあ千尋さま、楽さん、気をつけてくださいね」

 鈴は久子のヒステリックさをよく知っているからだろうか。心配そうに千尋と楽を見て泣きそうな顔で雅に引きずられるように部屋を出て行った。

「まさかこんな時間に戻ってくるとは……」

 鈴が居なくなったのを確認した勇はそう言って項垂れた。そんな勇を見て千尋は肩を竦める。

「まぁいいではありませんか。丁度良いと言えば丁度良いですから」

 相変わらず笑顔で居る千尋を見て勇は何か言いたげに口を開きかけたその時、玄関から今度は久子と菫の声が聞こえてきた。

「菫ちゃん、誰か来てるの? 男物と女物の靴が置いてあるけど」
「まぁね。でもお母様たちには関係の無い方たちよ」
「どういう意味かしら? あなたのお友達でも来ているの? だとしたら感心しないわね。嫁入り前の娘が男を家に連れ込むなんて、誰かに知られたらどうするつもりなの? そこをどきなさい。あの人は一体何をしているの!?」

 早口で捲し立てるように話す久子に、隣で楽が怯えたように千尋を見上げてくる。

「あんなのはまだまだ可愛いほうですよ、楽。都の討論などこの比ではないぐらい荒れますから」
「そ、そうなのですか?」
「ええ。最悪変身して襲いかかってきます」
「ひえ……」

 楽が素直に青ざめるのを楽しんでいたところへ、とうとう菫が戻ってきた。それに続いて久子と蘭もズカズカと部屋に入ってくる。

「お前たち、客の前だぞ」

 あまりにも不躾に入ってきた久子と蘭に勇が声を荒らげるが、そんな事に構いもせずに久子は勇に怒鳴り返す。

「客ですって!? 私達の居ない間にやってくる客なんて――まぁ……」
「か、神森さま!?」
「蘭さん、これはこれはお久しぶりですね」
「お、お久しぶりです。今日は一体どうして……あ、もしかして私達の帰りを待っていてくださったのですか? 菫ちゃん、すぐにお茶の準備を!」
「もう出してるでしょ? ちゃんと見なさいよ」

 面倒そうにそんな事を言う菫に思わず千尋は笑いそうになったが、そんな菫を久子と蘭が物凄い顔で睨みつけた。

「冷めてるでしょう? あなた、お茶もまともに淹れられないの?」
「まぁ、そうなの? 菫」

 久子と蘭は二人して菫に向かって哀れそうな顔をするが、菫はそんな二人を見てもどこ吹く風だ。

「だったら蘭がご自慢のお茶の腕を披露すれば?」
「それもそうね。あなたに任せたら茶葉がお茶に入っていそうだもの」
「失礼ね! お茶ぐらい私も淹れられるわ!」
 
 そんなやりとりを諌めたのは勇だ。

「お前たち客人の前だぞ! いい加減にしなさい! 菫、お茶を入れ直してきてくれるか」
「仕方ないわね。ちょっと待っていてちょうだい」
「ええ、ありがとうございます、菫さん」

 そう言ってにこやかに菫を送り出した千尋を見て蘭と久子が急いで頭を下げる。

「も、申し訳ありません! あの子ったら神森様になんて口の利き方!」
「出来の悪い子で本当に恥ずかしいです! 申し訳ありません」

 そんな二人を見下ろして千尋はにこやかに手を振った。

「いえいえ、ご心配には及びません。何せうちの雅と菫さんは文通相手なので」
「え?」

 この一言に楽も含めた四人が固まった。

「おや? 菫さんに聞いていませんか? 菫さんはうちの執事の雅と仲が良いのですよ。ねぇ? ご当主?」
「え、あ、はい! そうなんだ。この間も雅さんと出掛けたみたいだぞ」
「そんなの聞いてないわ! どういう事なの!? 父様!」
「どういうと言われても、俺が菫の交友関係を制限する訳にはいかないし、何よりも神森様の家の執事だ。制限するはずもないだろう?」
「そういう訳なので、菫さんも私に気安くしてくれるのですよ。雅が私にあんな感じなので」

 そう言って軽く笑った千尋を見て久子と蘭は顔を真っ赤にしている。隣では千尋の意図がわかったのか、楽が大きく頷いていた。

「と、ところで今日は一体どういうご要件で来られたのですか?」

 気を取り直したのか、久子はそう言って千尋の正面に座ってシナを作る。その隣に蘭もいそいそと座り込んで、何故か頬を染めた。

「ああ、挨拶に伺ったのですよ」
「挨拶?」
「ええ。結婚の申し込みのご挨拶です」

 千尋が言うと、久子の顔色が変わった。

「で、ですがその件はまだ……」
「あなたの言いたいことは分かります。ですが、私は彼女の保護者に手紙を出したのです。あなたではありません」

 ピシャリと言い切った千尋の言葉に久子はとうとう黙り込んだが、何故かそんな久子の隣で蘭が目を輝かせている。

「では、今日はもしかしてそのお返事に!?」
「いえ、今日は結納のご挨拶に伺ったのです。式を早くあげたいので」
「そんな! それなら私の居る時にしてくだされば良いのに!」
「?」
 
 何故か喜んでいる蘭を見て千尋は内心首を傾げた。どうして蘭が千尋と鈴の結婚を喜ぶのだ? 不思議に思ってふと久子に視線を移すと、何故か久子は青ざめている。
 
 流石に蘭の態度を不思議に思ったのか、勇が思わずと言わんばかりに口を挟む。

「蘭、お前何か勘違いしていないか?」
「勘違いだなんて! お父様も人が悪いわ! こんな事をして私をビックリさせようとしたの?」
「いや、今日の結納は――」
「鈴さんですよ? 私が結婚を申し込んだのは鈴さんです。もう結納は済ませてちゃんと受書ももらいましたよ」

 千尋は勇の言葉を遮って笑顔でそう告げた。その途端、久子は勇を睨みつけ、蘭はあっけにとられたようにポカンと口を開く。

「え……? 鈴が千尋さまと……?」

 唖然としている蘭を押しのけて久子が勇を怒鳴りつける。

「あなた! 何故そんな勝手な事を! あんな娘にこんな良縁、正気ですか!? あなたは黙って私の言う事を聞いていればいいっていつも言ってるでしょう!? 蘭を神森家に嫁がせればうちは一生安泰なのに、どこの馬の骨とも知れないあんな娘!」
 
 この一言に千尋が上がろうとしたその時、耐えきれなくなったのか勇が千尋よりも先に立ち上がって拳を震わせて久子に怒鳴った。

「どこの馬の骨だと!? 鈴は俺の妹と恩師の娘だ! れっきとした的場家の縁者だぞ! 大体正気かも何も、最初に神森家に鈴を嫁がせようと言い出したのはお前だろう!? うちの娘をこんな気味の悪い家に嫁がせるなど以ての外だと言ったのはどこの誰だ!」
「なんですって!? 今まで佐伯家がどれほどあなたに恩恵を与えたと思っているの!? そんな口をこの私に利いて良いと思ってるの!?」
「恩恵だと!? きな臭い手を使って貰った恩恵なんか、一体何の役に立つんだ! お前がしてきた事の尻拭いを今までずっとしてきたのは俺だ! お前に貰った物など、ただの一つも無い!」
「そうかしら? 菫を認知してあげた。今まで私の本当の娘のようにしてあげたじゃない。それだけで十分よ!」
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