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1章

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「懐かしいというよりは、何だか緊張しています。変ですよね……8年も暮らしていた場所なのに、今はもう神森家に居る方が落ち着くだなんて」
「その言葉が聞けたのは私達にとってはとても嬉しい事ですよ、鈴さん」
「そうだよ。あんたにとって神森家が家だって思えてるって事だからね。ついでに楽も神森家を家だと思っていいよ」
「お、俺の家は千尋さまが居る所なので! でも……ちょっとだけ俺も鈴さんの気持ち分かるかも」
「そうですか?」
「ああ。ここに来てまださほど時間は経ってないけど、居心地が良いんだ……俺、寂しかったのかな……」

 そう言って楽は視線を伏せた。そんな楽の頭を雅がガシガシと撫でてやっている。

「あんたはまだ子どもだろ? そりゃ寂しくない訳ないじゃないか。たった一人でコイツの尻拭いしてさ。あんたはもっと反省しな」

 そう言って雅が千尋を睨むと、千尋も神妙な顔をして頷いた。

「それは本当に反省しています。当時の私は本当に自分の事しか考えない愚か者でしたから。流星や息吹、初や当時居た使用人達は大人でしたが、楽はまだ幼かった。そんな多感な時に放り出してしまった事を、今はとても後悔していますよ」
「ち、千尋さまのせいじゃないです! 俺が馬鹿で考えなしだったから初さまに……利用されちゃっただけで……」

 そこまで言って言葉を濁した楽に、千尋は静かに首を振る。

「いいえ。本当に私は愚か者だったのですよ。ですが、鈴さんのおかげでそれに気付けました。鈴さんは私と正反対で、常に誰かの事を考えているような人です。そのおかげで今の神森家になったと言っても過言ではありません」
「そ、それは大げさですよ、千尋さま! それに私が神森家に来てからさほど時間も経っていませんし!」

 突然の千尋のセリフに思わず鈴が言うと、千尋はそっと首を振る。

「いいえ、大げさなんかではないのですよ。もう何千年も変わらなかった物が、あなたが来てから大きく動いたのです。時間など関係ないのですよ。何かが変わる時は一瞬です。あなたはまるで春の嵐のようでした。冬を一蹴してしまうほどの力を持っていたのですよ、鈴さんは」

 そんな事を言う千尋の顔はいつになく真剣だ。その顔を見て思った。これはお世辞なんかではなくて、千尋は本当に鈴の事をそんな風に思ってくれているのだという事を。

「それは私にとっても同じことです。千尋さまは私にとって太陽のようでした。ずっと日陰で過ごしていた私に光を当ててくれたのですから」
 
 そう言って頬を染めた鈴を見て、千尋はこれでもかというぐらい優しく微笑む。
そんな二人を見て雅がこれ見よがしに咳払いをする。

「だから! そういうのは二人の時にやれっていつも言ってるだろ!? 楽、見るんじゃないよ! 聞くんじゃないよ! 目の前で戯けられるのは教育に悪いからね!」
「雅さん、お母さんみたいです」
「誰が母だ! せめて姉だ!」
「それは無理があると喜兵衛に言われたのでしょう?」
「うるさい! ほら鈴、そろそろ見えてきたよ」
「!」

 雅の言葉に鈴は窓の外に視線を移して息を呑んだ。窓の外には既に懐かしい佐伯家が見える。

「あそこか? へぇ、純和風なんだな」
 
 楽が身を乗り出して佐伯家を見てそんな事を言うが、鈴はそんな言葉も耳に入らないほど硬直してしまう。

「鈴さん、大丈夫です。私達が居ますよ」

 そう言って千尋は鈴に向かって手を差し出してきた。その手を鈴はそっと握る。
 そうだ。今日は皆も居る。それに鈴は佐伯家を嫌っていた訳ではないのだ。だって、佐伯家にもちゃんと味方は居たのだから。
 
 

 佐伯家が近づけば近づくほど鈴の心音が早くなり、体温が下がる。それに気づいた千尋は鈴を落ち着かせる為に鈴に手を差し出し、少しだけ力を使った。

 鈴は佐伯家の事を憎んでなど居ないようだが、やはり幼い頃の事故と長年蔵で過ごした記憶はそう簡単には消えないのだろう。佐伯家にも味方は居たのだが、それが分かっていても鈴の指先は震えていた。

 やがて車は停まり、弥七が扉を開きにやって来た。

「俺はあそこの広場で待ってますんで、何かあったらすぐ呼んでください。なぁ、俺も居るからな」

 そう言って弥七は鈴の頭を何気なく撫でた。

 それを見て千尋の胸はザワつくが、それを素直に口にして心の狭い男だと鈴に思われたくはないし、弥七は鈴の事を妹ぐらいにしか思っていないのも分かっている。

 そんな千尋の想いとは裏腹に鈴は泣きそうな顔で弥七に頭を下げた。

「弥七さん……はい! ありがとうございます」
「おう」

 弥七はそれだけ言って行ってしまった。その車を名残惜しそうに鈴が見ている。

「弥七にもついてきてもらいますか?」

 癪だが、もしも鈴がその方が安心だと言うのなら我慢するつもりでそう言うと、鈴は一瞬キョトンとしてすぐに首を振った。

「あ、すみません……何だか既に神森家に帰りたくなってしまって」
 
 そう言って視線を伏せた鈴を思わず抱きしめそうになったが、千尋はすんでの所で堪えた。もしもここで何かしでかして鈴の評判が落ちるような事は出来ない。

 千尋は深呼吸をして鈴に言う。

「大丈夫です。すぐに済みますよ」
「はい」

 不安そうな鈴を雅に任せて千尋は佐伯家に向かって一歩踏み出した。

 屋敷の門を千尋だけが先にくぐると、そこには菫が仁王立ちをして扉の前で立ちはだかっていた。

「遅いじゃない! またあいつの車だったの!?」
「すみません。ですが、弥七しかうちで車を扱える者がいないのですよ」
「仕方ないわね。早く入ってちょうだい。今日は母と蘭は演劇を見に行ってて夜まで戻らないわ」
「そうなのですか?」
「ええ。鉢合わせしないように父と色々画策したの」

 そう言って菫は自慢気に胸を張った。

「あなたは本当に有能ですね。ありがとうございます。ではお二人が戻って来られる前に済ませてしまいましょう」

 千尋が言うと、菫はすぐさま頷いて屋敷の扉を開く。それを見て千尋はようやく振り返って皆を呼んだ。

「さあ行きましょう。鈴さん、今日は奥方と蘭さんは演劇を見に行っているそうですよ」

 それを聞いて鈴はパッと顔を輝かせて菫に向かって走り出した。やはり鈴が心配だったのは久子だったようだ。

「菫ちゃん!」
「久しぶりって訳でもないけど、久しぶり。いいじゃない、その髪型。雅がやったの?」
「うん!」
「猫なのに器用よね、彼女」
「よ! 菫。あんたは一言も二言も多いねぇ、相変わらず」
「仕方ないわ。それが私だもの。さ、急いでちょうだい、皆。ん? あんた誰よ?」
 
 菫は皆を招き入れようとして、ふと楽を見て首を傾げた。そんな菫に楽は少しだけ顔をしかめる。

 そう言えば菫が遊びに来た時は楽はまだ部屋に引きこもっていたので、菫は楽の存在を知らない。

「俺は千尋さまの執事の楽だ」
「ふぅん。神森家の執事って事?」
「違う! 千尋さまの! 執事!」
「よく分かんないわね。まぁいいわ。子どもでも礼儀はちゃんとしてちょうだいね」
「は……はあ!?」
「す、菫ちゃん! 楽さんはその――」
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