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1章

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 フレックスは当時、外国語教師でとても優秀な人物だった。面倒見がすこぶる良くて、英語に興味を示した菊子に幾度となく俺も交えて英語を教えてやってくれていたんだ。その二人が恋仲になっていた事なんて俺は気づかないまま、気がつけば菊子の縁談が決まっていた。

 ところが菊子は結婚が近づくにつれてどんどん塞ぎ込んで痩せ細り、あまりにも何かに思い詰めているので理由を聞くと、菊子の腹の中に既に子どもが居る事が分かった。

 俺はもちろん激怒した。相手は誰だと詰め寄り、菊子を口汚く罵った。そして相手がすフレックスだと知った俺は、すぐさま菊子を連れて彼の下宿先に行き彼を殴り倒したんだ。彼は、一切の抵抗をしなかった。

 彼は泣いていた。殴られている間ずっと、英語で菊子に愛の言葉を告げていたんだ。それに気づいた俺は少しだけ冷静になった。菊子を見ると、菊子もまた泣いてフレックスの腫れ上がった頬や腕をさすっていた。それを見た時、俺は自分のした事が過ちだったという事に気づいたんだ。
 
 時代が時代だ。このままでは確実にこの二人は離され、菊子は傷物として一生を蔵で過ごすことになる。菊子だけじゃない。子どもだってどうなるか分からない。

 家ではもう既に菊子が嫁ぐ準備が着々と進んでいた。だから俺はその場でフレックスに菊子を連れて、国に帰って欲しいと頼んだ。もしも本当に菊子を愛しているのであれば、それぐらい容易いはずだ、と。

 フレックスの事情は何も知らなかったが、彼はすぐにそれを了承した。それから一週間も経たないうちに深夜、フレックスは菊子を連れてイギリスに帰ったんだ。

 もちろん家は大騒ぎだった。俺は菊子と一番仲が良い兄妹だったからすぐに問い質されたが、知らぬ存ぜぬで嘘を突き通した事で、結局縁談は破断になり菊子は事故で亡くなった事になった。

 誰も菊子が駆け落ちしたなどとは、思ってもいなかった。両親はそれはもう落ち込んでいた。それを見て何度本当の事を告げようと思ったか分からない。

 それでも、本当の事を告げれば菊子はきっと連れ戻されてしまう。だから俺は両親に悪いと思いながらも、菊子の事はずっと黙っていたんだ。

 それから二ヶ月ほど経ったある日、俺宛に一通の手紙が届いた。

 差出人は「Chrysanthe」という女性からだった。その名前を見て俺はすぐにピンと来た。菊子だ、と。お前ならどういう意味だか分かるだろう? 

 手紙の内容は、あの時の子どもが流れてしまった事、それから今はイギリスの郊外でフレックスと二人で毎日幸せに暮らしていると書かれていた。

 きっと本当は偏見や差別などもあっただろうが、菊子は手紙にそんな事を書いてきた事はただの一度もなかった。

 それから数年が経ちお前が生まれてからはほとんどがお前の自慢話で、たまにフレックスの自慢もあった。

 俺は菊子からの手紙が届くたびにまだ見ぬフレックスによく似ているという姪に会いたかった。フレックスは美青年だったからな。きっと姪は可愛いに違いない。そんな風に思っていたんだ。

 そしてあの日、フレックスの戦死報告が届いた。菊子の字が震えていた。俺は胸が押し潰されそうになった。イギリスなどという遠い場所で、幼い子どもと二人だけで日本人が生きていくのはどれほどに苦労するというのだ!

 俺はすぐにでもお前達を迎えに行きたかった。

 けれど当時の俺は既にこの佐伯家に婿入りした身だ。花嫁の承諾が無ければ何も出来ない。その頃には既に蘭も菫も居たし、昔のように自由に動くことが出来なくなってしまっていたんだ。

 俺はずっと祈っていた。どうか菊子とお前が無事にこちらへ戻って来る事が出来るように、と。
 
 そしてお前たちがいつ戻ってきても良いように、とうとう俺は両親と兄妹達に手紙を書き、当時のあらましを伝えた。両親などは怒るだろうと思っていたが、俺の思いとは裏腹に皆、喜んでいたよ。当然だ。死んだはずの娘が生きていた上に、娘まで居たんだ。

 実を言うと皆、お前に今も会いたがっている。特に菊子のすぐ下の妹は菊子が戻ってきたらお前たちと一緒に住むと言ったほどだったんだ。

 けれど、それは出来なかった。

 俺は菊子の訃報が届いた時、家に居なかった。

 そのせいでChrysantheというのが菊子だと、あいつにバレてしまったんだ。結局、お前を佐伯の家で引き取ることになった。俺はもちろん反対した。久子が善意でお前を引き取るなどと、到底考えられなかったからだ。
 
 けれど何故かあいつはお前を佐伯家で引き取るのだと譲らなかった。

 すまない、鈴。俺は未だに何故あいつがお前にそんなに執着するのかが分からないんだ。突然俺に婿養子になれと言って来たことも未だに分からない。
 
 ただ分かるのは、あいつは異常なほど菊子を恨んでいるということだ。そしてその娘のお前の事も。その理由が分かるまでは、俺はこの家から出る事は出来ない。理由が分からなければ、あいつらはまたお前を狙うだろう。

 菊子とフレックスを守れなかった俺に今出来る事は、あの二人が愛したお前を代わりに守ってやる事ぐらいだ。

 随分長くなってしまったな。お前は本当に菊子によく似ている。

 こちらを見上げてくる時の顔の角度や話し方、正座が苦手ですぐに足が痺れてしまう所も、はにかんだような笑い方も菊子そっくりだ。

 俺はお前に「こちらを見るな」とよく言ったが、お前の顔を見るとどうしても菊子とフレックスを思い出してしまう。

 菊子は今も最愛の妹で、フレックスは大切な恩師だ。二人の大切な人間を失ったのだと言う事を思い出して、ずっとお前の顔を真っ直ぐに見ることが出来なかった。その事も菫に随分と叱られてしまったよ。

 謝罪を書こうと思ったが、それは直接言えとそちらの猫様に叱られた。

 顔を見てしまうと上手く謝罪が出来ないかもしれないが、その時は笑って許してくれ。                               勇】
 
 
 
 手紙はそこで終わっていた。鈴は手紙を抱きしめてその場に蹲り、嗚咽を押し殺して泣いた。そこへ、静かに誰かが入ってくる。

「……鈴さん」

 千尋だ。鈴は顔も上げずに無言で抱っこをねだる子どものように千尋に両腕を伸ばした。

 普段なら絶対にそんな事はしないのに、何故か無性に誰かに側に居てほしかった。子どものように泣きじゃくりたかった。

 千尋は鈴のそんな考えが伝わったかのようにそっと鈴の前にしゃがみ、鈴の両腕を引っ張り上げて強く抱きしめてくれた。その拍子に千尋の冷たい体温が鈴にも伝わってくる。

 千尋の体温は目を閉じるとまるで水の中にいるようでとても安堵した。

 千尋は鈴に何も聞いては来なかった。ただ黙って鈴を抱きしめてくれている。

 しばらくして鈴が少しずつ落ち着いてきた頃合いを見計らって千尋がようやく問いかけてきた。

「良い手紙でしたか?」
「……はい、とても」
「そうですか。おや? その写真は?」
「両親です……叔父さまがくれました……」
 
 鈴は涙を袖で拭いながら千尋に写真を見せた。すると千尋は鈴を抱きしめたまま写真を覗き込んで目を細める。
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