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1章

59話

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「それじゃあさ、地上に居る間はあんたが千尋を幸せになしてやりな」
「はい! 頑張ります」

 鈴の寿命など龍の千尋からしたらそれこそ一瞬だろう。そのほんの一瞬だけでも鈴がここに嫁いできて良かったと、鈴と居て幸せだったと思えるように頑張ろう。
 
 鈴が拳を握りしめて力強く頷くと、雅はやっぱり困ったように微笑んだ。
 
 けれど、この決意がこの後すぐに叶えられなくなるかもしれない事など、この時はまだ誰も知らなかった。


 その日の夜、深夜に窓を叩く風の音で鈴は目を覚ました。何だか急に冷え込んだようで、手足が冷たくなっている。それと同時に背中まで軋み出した。
 
「っ……雪、かな」

 千尋はこの痛みは気圧の変化のせいだろうと言っていたけれど、今回の痛みは少し酷い。恐らく体が冷えていた事もあるのだろう。
 
 鈴は手探りで明かりをつけると、引き出しを開けて戸惑った。どちらの薬を飲もうかと考え、蘭の薬を手に取り飲んだ。やはり舌が痺れるが、以前ほどではない。
 
「本当にこれで治るのかな……」

 蘭が嘘をつくとも思えないし、それが薬の好転反応だと言われてしまえば、それを信じるしかない。何よりも蘭の薬は本当に良く効いたのだ。
 
 それから鈴は、やはり冬の間は蘭の薬を飲もうと決めた。痛みは大抵深夜にやってくる。
 
 佐伯家に居た時のように冬はずっと寝不足になってしまって迷惑をかけてしまうという事なく、少しでも早く眠りについてきちんと神森家を支えたかった。
 
 心のどこかで、神森家から追い出されたくないという思いがあったのかもしれない。
 
 最初のうちは舌の痺れや目眩ぐらいだったが、それは好転反応だと自分に言い聞かせ、どうにか耐えていた。
 
 ところが、少しした辺りからそこに倦怠感や息苦しさが加わりだしたのだ。
 
 流石に心配になって蘭にすぐに手紙を書いたのだが、蘭からの返事はやはり同じだった。
 
 「それは好転反応だと先生が言っていた。途中で止めると全て台無しになってしまうから、きちんと最後まで飲みなさい」と。
 
 蘭は鈴にとって、佐伯家で唯一心を許して話せる人だった。疑うだなんて、そんな事ほんの少しも考えなかったのだ。
 
「鈴、あんた大丈夫かい? 何だか最近顔色が悪いよ」
「そうですよ、鈴さん。少し休んだ方がいいのでは?」
「大丈夫ですよ。最近寒いので、もしかしたら色んな感覚が鈍ってるのかもしれません」

 手足が痺れるのも、きっと寒さのせいだ。そんな風に自分に言い聞かせながら鈴が答えると、雅も喜兵衛も納得してくれた。
 
 翌日、昼食の準備をしている時にいつもに増して激しい痛みに襲われた鈴は、初めて蘭に言われた分量の薬を飲んだ。
 
 けれど、それから20分もしないうちに気分が悪くなって喜兵衛に断ってお手洗いに向かったのだが、お手洗いに辿り着く前に鈴は動けなくなってしまった。
 
 最初は手足の痺れだ。それから目眩、腹痛と続き、嘔吐が始まり、呼吸が出来なくなる。
 
 しばらくしていつまでも戻らない鈴を心配したのか、雅が廊下で倒れている鈴を見つけてくれた。
 
 屋敷中に響き渡りそうな声で雅が叫ぶのが、やけに耳につく自分の心音の向こうに聞こえてくる。
 
「鈴!? どうしたんだい!? 喜兵衛! 弥七! すぐに千尋に連絡してくれ! 鈴、鈴!」

 その声を聞きつけたのか、途端に屋敷の中が足音で賑やかになる。
 
「みや……び……さ……」

 何とか意識を保とうとするが、体中の力が抜けてしまって動けない。
 
 力は抜けているはずなのに、まるで壊れたおもちゃのように自分では制御できない手足の痙攣に鈴は怯えていた。
 
 これは多分、ただ事ではない。それだけがはっきりと分かる。
 
 ちらりと脳裏に千尋のあの穏やかな笑顔と妖艶な声が聞こえた気がした。
 
 もしかしたらもう千尋には会えないかもしれない。もしかしたらもうすぐ自分も両親の所へ行くのかもしれない……。
 
 こんな時なのに何故か心はとても冷静で、浮かんでくるのは千尋のあの儚げな笑顔だった。本当はあんな笑顔じゃなくて、もっと心から笑っていてほしかった。千尋には、ずっとずっと笑っていて欲しい。
 
 そしていつか、鈴の魂をまた千尋が見つけてくれはしないだろうか。
 
 そんな事を考えながら、徐々に意識が遠のき呼吸もままならない鈴を抱きしめて雅が泣き出しそうな声で叫ぶのを、遠ざかる意識の中で聞いていた。




 鈴が意識を失ってすぐの事だ。混乱した雅がとりあえず鈴を寝台に運ぼうとすると、その手を突然後ろから誰かに叩かれた。
 
 驚いて振り返ると、そこにはここに居るはずのない少女が立っている。
 
「あんた達、鈴に何したのよ!?」
「ちょ、お前待てよ! ここは関係者以外は立入禁止だぞ!」

 青ざめて追いかけてきた弥七は少女の手を掴んで外に連れて行こうとするが、少女はそれを振り払ってこちらを真っ直ぐに睨みつけてくる。
 
 その顔は真っ赤で、大きな目から今にも涙が零れそうだ。
 
「菫? あんたが何で……?」
「鈴に何したんだって聞いてんのよ!」

 雅は腕の中でとうとう意識を失った鈴を抱きかかえたまま、目の前で仁王立ちしてこちらに怒鳴りつける菫を見てポカンとした。
 
 一瞬呆気に取られてしまった雅だったが、そんな事をしている場合じゃない。とりあえず鈴を部屋に運ぼうとすると、今度は菫が鈴に覆いかぶさって泣き叫ぶ。
 
「止めてよ! 触らないで! 鈴に触らないで! あんた達鈴に何したのよ!」
「あ、あたし達は何もしてないよ!」
「嘘言うな! だったら何で鈴がこんな事になってるのよ!」
「それは……」

 そこまで言ってふと鈴の傍らに、蘭から貰った薬の袋が落ちている事に気づいた雅は、それを見てピンときた。
 
「喜兵衛! 鈴はこれ飲んだのかい!?」

 どうにか千尋に連絡をつけて戻ってきた喜兵衛に雅が言うと、喜兵衛は震えながら頷く。
 
 それを見て雅はその薬袋を菫に突きつけた。
 
「あんたの姉ちゃんがこれを寄越したんだよ! 手足が痺れるのも好転反応だから飲めってね! 鈴はそれを信じたんだ! 鈴に何した、はこっちのセリフだよ!」

 雅は怒りと悲しみがごちゃまぜになるのを堪えきれず菫に怒鳴ると、それを聞いて菫が青ざめて息を呑んだ。
 
「蘭が……鈴に?」
「そうだよ! いつも鈴に薬をやってたんだろ!? ちょっとあんた達! 千尋はまだなのかい!?」
「さっき連絡しました!」

 コップを持ってオロオロする喜兵衛の言葉に雅が頷くと、そんな雅を無視して菫は目の前で鈴に縋り付いたまま小刻みに震えていた。
 
「駄目なのに……蘭は……蘭から貰った物は絶対に口にしちゃいけないのよっ! あの時だって――」
「菫?」

 雅が聞き返そうとしたその時だ。空は雲一つ無い晴天だと言うのに、突然バリバリバリ! と雷鳴が鳴り響き、庭に特大の雷が落ちた。
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