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1章

37話

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 千尋の部屋の前までやってきた鈴は、ドアを何度かノックして中に声をかけた。

「千尋さま、朝食をお持ちしました」
 
 少しすると中から千尋が顔を出した。

「ありがとうございます。凄いですね。この短時間でこれだけの物を作れてしまうなんて」
「いえ、お味噌汁とおにぎりと焼き魚と卵焼きだけですから。それに雅さんがお米を炊いていてくださったみたいなんです」
 
 嬉しくて思わず事情を説明する鈴に千尋はニコニコして頷いてくれる。

「それでは後で雅にもお礼を言っておきましょう。鈴さん、今日はゆっくりしてくださいね。私の力があなたの中でどんな風に作用するか分かりませんから」
「はい。分かりました」
 
 そう言って千尋の部屋を後にしようとした鈴に、千尋が不思議そうに声をかけてきた。

「あなたは食べないのですか?」
「え?」
「いえ、私の分しか無いので。一緒に食べないのですか?」
「え、えっと……すぐに持ってきます!」

 何となく千尋から無言の圧力のようなものを感じた鈴が返事をすると、納得したかのように千尋が微笑む。

「ええ。それではお待ちしています」

 鈴は踵を返してまた炊事場に戻ると、自分の分の食事をお盆に乗せる。そこへ雅がやってきた。

「雅さん! 申し訳ないでのすが、弥七さんにこれを持って行ってあげてもらえますか?」
「そりゃ構わないけど、そんなに急いでどうしたんだい?」
「千尋さまに朝食をお持ちしたら、一緒に食べないのか? と言われて急いで取りに来たんです」

 まさかあんな事を言われるなんて思わなかった鈴が慌てて味噌汁をお椀に入れていると、雅は腕を組んで呆れたように言った。

「良い年して何を甘えてんだ、千尋は。ゆっくりでいいよ、鈴。散々待たしてやりな」
「そ、そういう訳にはいきません。あ、それから雅さん」
「ん?」
「お米、炊いておいてくれて助かりました。ありがとうございます」

 深々と頭を下げた鈴を見て雅は「大げさだね」と笑うが、鈴にとっては何も大げさなんかではない。料理の手を止めてまで探してくれたのだ。その事も含めてのありがとうだと理解したのか、雅はフイとそっぽを向いて言う。

「ほら、早く行かないと味噌汁が冷めるよ」
「はい!」
 
 鈴は満面の笑みでお盆を持って炊事場を後にした。
 
「すみません、お待たせしました」
「さほど待っていませんよ。さあ、食べましょう」
「はい」

 鈴は千尋の正面に座って簡単に挨拶をすると、おにぎりを齧る。
 
 目の前では千尋が味噌汁に舌鼓をうっておにぎりに海苔を巻いていた。千尋は海苔はパリパリ派なのだ。神森家ではその為にわざわざいつも焼き海苔を苦労して入手している。

「以前はよくこうやってここでおにぎりを食べていたんですよ」

 ふと、おにぎりに海苔を巻く手を止めて千尋が話しだした。

「そうなのですか?」
「ええ。私はいつも部屋で食事をしていましたから。行儀が悪いと叱られてしまうかもしれませんが、仕事をしながら食べるにはおにぎりは最適だったんです。まともな食事は大体夕食だけで、それすらもここで食べていたんですよ」
「誰かと食事をするのは苦手なのですか?」
「いえいえ。そんな難しい話ではなくて、単純にそういう習慣が今まで無かっただけなんですけどね」

 そう言って笑う千尋を見て鈴も思わず笑ってしまう。

「龍の都では初さんとお食事をしたりはしなかったのですか?」
「初とですか? 数える程度しかしませんでしたねぇ。それも仕事関連で数人の人たちと仕方なくという感じでしたし。私が忙しかったというのもありますが、龍は個人を大事にすると言いますか、時間に沿って行動をしないのですよ」
「時間に沿って行動をしない?」
「ええ。私達は基本的に起きたい時に起きて好きな時に食べ、寝たい時間に寝る。それが龍の生活でした。それに誰かを付き合わせる事もしないし、誰かに付き合う事もありません。ですが何でしょうね。最近はあなたと食べないと食事をした気になりません。不思議ですね」

 おにぎりに海苔を巻くのを再開した千尋は、巻き終わったおにぎりを食べて目を細める。

「ああ、美味しいです。中身は高菜漬ですか」
「はい。少し前に仕込んだんです。辛くないですか?」
「いいえ、丁度良いです。ご飯にとても良く合いますよ」
「良かったです。私も千尋さまの気持ちが少しだけ分かる気がします」
「おや、そうですか?」
「はい。私も長い間誰かと食事をする事が無かったので、今はとても何ていうか、えっと……ご飯を食べてる! って気がします。合ってますか?」

 こういう時に最適な言葉が思いつかなかった鈴が思った事をそのまま千尋に伝えると、千尋は口元に手を当ててクスクスと笑う。

「大丈夫です、伝わっています。こんな事を言ったらあなたは怒るかもしれませんが、私はあなたの選び取る日本語がとても好きですよ」
「そ、そうですか?」

 何となく褒められている気がしないが、貶されたりバカにされている感じでもない。

 多分、鈴が訝しげな顔をしていたのだろう。千尋は小さく吹き出して言う。

「そんな顔をしないでください。そういう所があなたの愛らしい所なんですから」
「愛らしい……初めて言われました」
「そうですか?」
「はい。私も千尋さまがチョイスする言葉はとても好きです」
「ふふ、ありがとうございます」

 千尋はそう言って今度は卵焼きに手を伸ばしている。
 自分が作った物を誰かが食べてくれている所が見られるというのは、こんなにも嬉しい事なのだと神森家に来て初めて知った。
 
 小さい頃、母が父と鈴に毎日食事を用意してくれていたのは、きっとこんな顔を毎日見たかったからに違いない。
 
 何となくそれを千尋に伝えたくて鈴はそっと箸を置いた。

「千尋さま」
「はい?」
「私、今とても毎日が楽しくて幸せです。嬉しい事が毎日あって、同じ日って無いんだって実感してます。それもこれも、佐伯家に千尋さまが婚約のお話を持ってきてくれたからだと思います。ここに私を嫁がせてくれて本当にありがとうございます。これからも末永く、どうぞよろしくお願いします」
「……こちらこそ、よろしくお願いします」

 鈴の突然の宣言に千尋の箸からポロリと卵焼きが皿に落ちた。いつもは冷静でにこやかな顔が、珍しく驚いたように固まっている。

「すみません、突然おかしな事を言って。でも、どうしても伝えておきたかったんです。私はこんなにも幸せです、と」

 鈴に子供は産めない、寿命が縮んでしまうかもしれない、と伝えてくれた千尋の顔は本当に申し訳無さそうで、それはきっと今までの人たちにもずっと感じていた事なのだろうと思うと何だかやりきれなかった。

 他の人達がここでの生活をどんな風に思っていたのかは分からないが、少なくとも鈴は神森家に嫁げて良かったと心の底から思っている。

 突然の鈴の感謝に千尋はさらに戸惑ったような顔をした。

「それはそれは……大変良かったです。私も鈴さんがもっと幸せを感じられるよう、尽力しますね」
「もう十分ですよ、千尋さま」
「いいえ……いいえ。もっと頑張らないと雅に叱られてしまいますから」
「雅さんにですか?」
「ええ。今回の結婚には監視役が三人も居るので、あなたを不幸にしたら私はここを追い出されてしまうかもしれません」
「神様を追い出すだなんて!」
 
 珍しい千尋の冗談に鈴が笑うと、千尋も何故かホッとしたような顔をして笑う。
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