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31話
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「あなたは雅が本当に好きなんですね」
「え?」
「顔がね、全てを物語っています。少しだけ……羨ましいですね、雅が」
そんな風に誰かに愛情を向けられた事が無い千尋は、何だかそんな光景が羨ましかった。そんな千尋に鈴は不思議そうな顔をして言う。
「千尋さまにはご両親やご兄弟はいないのですか?」
「え?」
「雅さんに撫でられると、何だか両親に撫でられた時の事を思い出すんです。私が雅さんに撫でられてそんな風に思うと言うことは、きっと雅さんがそんな思いを込めて撫でてくれているのだろうなって思って」
「ああ、なるほど。もちろん私にも両親は居ますが、私は両親に撫でられた記憶は無いですね」
「一度も?」
「ええ、一度も。私は子どもの頃に養子に出されたので」
「!」
何故かショックを受けたような顔をする鈴を見て千尋は困ったように笑った。
「龍の世界では日常茶飯事なのですよ、鈴さん。だからそんな顔はしないでください」
「そ、そうなのですか?」
「ええ。優秀な子や見目の美しい子や水龍はしかるべき所に預けられ、しかるべき教育を受ける。そして成人したら養子縁組は解除されます。立派な龍を育て上げた家にはそれなりの見返りがあるので、皆少しでも優秀そうな子どもを引き取ろうと躍起になる。それが龍の世界なんです」
「そんな……それは辛いですね。本人が望んだのならともかく、幼い頃に両親と引き離されるのは……辛いです」
そう言って視線を伏せた鈴を見て、何かを思い出したかのように珍しく千尋の胸がギュっとなる。実際に幼い頃に突然両親と別れる羽目になってしまった鈴には、もしかしたらとてもよく分かるのかもしれない。
「それが当然なので誰にもそんな風に言われた事はありませんでしたが……そうですね。幼い頃の私も、もしかしたら泣いたのかもしれませんね」
もう記憶にも無い両親の姿をいくら思い描こうとしても無理だった。何だかそれが酷く寂しい。そんな千尋に鈴は言った。
「きっと、泣いたと思います。泣かない子なんて……居ません」
珍しく強い口調で返してきた鈴に千尋は微笑んだ。
「あなたは優しいですね。そしてとても強い。あなたが他人に怒らないのは心の器が大きいのでしょう。私とは真逆です」
「? そんな事はありません。私よりも千尋さまの方が器が大きいに決まっています。国一つを守るなんて、凄い事です」
「いえいえ。私の場合はただの義務感ですから。そのせいで龍の都を追放されたのです」
「どういう……意味ですか?」
「それを今からお話します。私は龍の都で法議長という仕事をしていました。そんな私には幼馴染が居たんです。龍の王の二番目の姫の、初という女性です」
「初、さん」
「ええ。私が養子に行ったのは高官の家でした。必然的に幼い頃から王の娘である初とは顔見知りだったんです。幼い頃からよく知っていた為、将来は初と番になり、婚姻関係になるのだろうと周りからは期待されていました。ちなみに番というのは、こちらで言う恋人同士のようなものです。ここまではいいですか?」
「はい」
「ですが、周りの期待とは裏腹に私は誰かと番になるつもりはありませんでした。そもそも仕事が忙しくてそんな事を考える暇すら無かったのです。そんなある日、私は王に呼ばれました」
「王様にですか?」
「はい。理由は、誰かが私の暗号を使って都のお金を横領したというものでした」
「暗号?」
不思議そうな顔をする鈴に千尋は頷きながらお茶を一口飲んで続きを話す。
「都には莫大な財産があります。その財産を一人の龍が管理していたらいざという時に危ないので、数人で管理するのですよ。そしてそれを引き出す為の暗号という物があるのですが、私の暗号が誰かに使われてしまったのです」
「え!?」
鈴は青ざめて千尋を見つめてきた。
「そ、それは大変な事なのでは?」
「大変です。もちろん私が横領した訳ではありませんが、暗号を管理していたのは私です。その情報がどこかから漏れ、悪用されてしまった。その事で王に呼ばれたのです」
「は、犯人は見つかったのですか?」
「はい。割と早い段階で。ですが捕まってはいません。あと一歩の所で逃げられてしまい、犯人の家には手紙が残されていました。犯人は女性で、お金に困って明日寝る場所も食べる物も無いというような生活を送っていた彼女に、誰かが私の暗号を教えたそうです。それを使って彼女は都の金庫からお金を盗みました。けれどもちろん都の金庫などそう簡単に開けられる物ではありません。そこで私の幼馴染である初が利用されたのですよ」
「!」
「初の話では、彼女は初を脅して無理やり金庫を開けさせたそうです。罪の意識からでしょうか。女性は初を利用してそこから金銭を盗んだのだと、謝罪の手紙を残してそのまま行方知れずになってしまいました。彼女は初にこう言ったそうです。私に暗号を教えてもらった。この事が世間にバレたら、私がどうなるか分かるだろう? と」
「それは脅迫ではないですか!」
鈴が珍しく声を荒らげて視線を伏せた。
「そうですね、脅迫です。初はそれを信じて金庫を開けたと嘆いていました。私の罪が外部に漏れるのを恐れたのだと」
「初さんは直接千尋さまに確認はされなかったのですか?」
「ええ。そんな事をしている暇は無いと思ったそうですよ」
「確かに大切な人が何か犯罪に関わっているかもしれないと思ったら、そんな行動を取ってしまうかもしれませんね」
そう言って悲しげに視線を伏せた鈴を見て千尋は首を傾げた。どうして鈴がこんな顔をするのだろうか? と。
「鈴さん、そんな顔をしないでください。これはもうずっと昔の話ですから」
慰めるように千尋が言うと、鈴は泣きそうな顔をして千尋を見上げてくる。
「ですが、千尋さまは故意に暗号を流した訳ではないのでしょう? それなのに千尋さまが全ての罪を被って地上に追放になったのですか?」
「ええ。私が罪の中でも最も重いとされる、地上での龍神をするという罪を自ら望んだのですよ」
「……え?」
「私は確かに関与していません。ですが、使われたのは私の暗号です。それは私の管理が悪かったという事に他なりません。ですから私は、当時地上の管理が空いていたので自ら地上に追放される事を望んだのですよ。そして利用されてしまった初と番関係を結んだのです。それが彼女の望みでしたから」
「せ、せっかく番になったのに……そんな事をしたら初さんが……」
泣きそうな顔をする鈴を見て千尋はポツリと言った。
「そこが、私が冷たいと言われる所以なのですよ」
「どういう……事ですか?」
「その時の私は番になったばかりの初や友人の事など少しも考えていませんでした。私は私の責務を果たすことだけを考えていたのです。だから罰を望んだ。その時に皆がどんな思いをするかなど考えもせずに」
あの日の千尋の決断は、きっと皆を深く傷つけた事だろう。今更になってそんな事に気付くなど本当に愚かな事だ。だから余計に待たないで欲しいと思うのかもしれない。
そんな千尋に鈴は悲しそうにポツリと言う。
「早く、都に戻れるといいですね」
と。
そんな鈴の一言に千尋は思わず首を傾げてしまった。
「どうしてそう思うのです?」
「私は千尋さまが冷たい方だと思った事が無いんです。あなたはこの国の全ての人たちを守ろうとしてくれている。それは愛情が無ければ絶対に出来ない事です。それから……実は少し前に雅さんが教えてくれたんです。あなたは絶対に心を人には渡さない、と。だから私がいずれ傷つくと忠告をしてくれた事がありました。その時はどういう事かと思っていたのですが、こういう事だったのですね」
「こういう事、とは」
「千尋さまには既に心に決められた方が龍の都にいらっしゃると言う事です」
「……」
あまりにも真摯な鈴の言葉に千尋は思わず言葉を詰まらせた。
初には確かに申し訳無い事をしたと今も思っている。だからこそ初と番を結んだのだ。
けれど、初を愛しているかと問われたら、それは違う。
こんな事を話せばきっと鈴の事も傷つけてしまうのだろう。雅が心配しているのは、千尋のそういう部分なのだ。
千尋は人に心を渡さないのではない。誰にも、心を渡さないのだ。
「千尋さま、私、神森家に嫁ぎます」
「……え?」
あまりにも唐突な鈴の言葉に千尋は一瞬自分の耳を疑った。こんな話を聞かされたら絶対に鈴はここを出ると言うだろうと思っていたのだ。
けれど、それとは反して鈴はここへ嫁ぐという。正気か? とも思ったが、鈴の顔は至って真剣だった。
「私は傷つきません。雅さんも心配してくれましたが、私はもう十分に色んな人から愛情をもらっています。それに、打算的だと笑われてしまうかもしれませんが、もしかしたらこんな私でもこの国の為に役に立つことが出来るのかもしれないと思うと、とても……えっと、光栄です」
「!」
こんな話を聞いてもなお微笑んで見せた鈴を見て千尋は胸を詰まらせた。
そして気付く。鈴に比べてどれほど自分が今まで無価値で虚しい人生を送ってきたかを。
そんな千尋に鈴は言った。名前の通り鈴の鳴るような透明な声で。
「何より千尋さまにも早く幸せになってほしいと思います。あなたはもう十分この国を守ってくれたと思うので」
「……鈴さん……」
こんな事を今までの花嫁たちが、初が、友人が、同僚が言ってくれた事があっただろうか?
胸の奥が詰まって言葉が出てこない。鼻の奥がツンとして頭の後ろ側がツキンと痛む。これが一体何なのかは分からない。
ただ言えるのは、鈴は今まで見てきた花嫁候補達とは全然違うという事と、千尋にはやはり勿体ないということだ。
「鈴さん、あなたは私には少々出来すぎています。私はあなたが思うほど完璧な存在ではありませんよ」
「それは千尋さまが決める事ではありません。あなたを慕う人たちが決める事です。少なくとも私は、そう思っています」
千尋は視線を伏せて静かに正直な気持ちを伝えたけれど、鈴はそれを受け入れはしなかった。
そんな鈴に千尋は静かに問いかけた。どのみちそろそろ本気で花嫁を見つけなければならなかったのだ。そういう意味では鈴は理想的すぎる。
「本当に……良いのですか? 雅の言う通り、あなたはこの先傷つくかもしれませんよ? 私は本当に愛が何かよく分からないのです。また初の時のように間違いを侵す事もあるでしょう」
「それは誰にも分かりません。傷つかないかもしれませんし、傷つくかもしれない。でも、千尋さまの仰る部分も全て含めて千尋さまです。それに私も愛の種類はイマイチよく分かっていないので、その部分に関してはお揃いですね」
そう言ってにっこりと笑った鈴を見てとうとう千尋は顔を覆う。
そんな千尋を見て慌てたように鈴が言った。
「あ、でも私は千尋さまのお考えに従うつもりです。生意気を言いましたが、自分の立場はちゃんと理解しているつもりです」
「はは、何を言うのですか。あなたほどここに相応しい人は居ませんよ。ただ、そうですね……あなたのその美しさが私には少し眩しいです。あなたの返事はとても嬉しいです。ですが、もう少しだけあなたの返事は保留にしておきます。龍の花嫁になるには後少しあなたに不利な条件があるので、全てを聞いてから決めてください。少し長くなると思うので、先に夕食をとりましょう」
そう言って微笑んだ千尋の言葉に鈴はキョトンとして首を傾げているが、鈴の答えは静かに千尋の中に音も無く沈んでいった。
鈴の存在はこれから先もしかしたら千尋の何かを変えてしまうかもしれない。それでも何故か心の中は浮足立っていた。
「え?」
「顔がね、全てを物語っています。少しだけ……羨ましいですね、雅が」
そんな風に誰かに愛情を向けられた事が無い千尋は、何だかそんな光景が羨ましかった。そんな千尋に鈴は不思議そうな顔をして言う。
「千尋さまにはご両親やご兄弟はいないのですか?」
「え?」
「雅さんに撫でられると、何だか両親に撫でられた時の事を思い出すんです。私が雅さんに撫でられてそんな風に思うと言うことは、きっと雅さんがそんな思いを込めて撫でてくれているのだろうなって思って」
「ああ、なるほど。もちろん私にも両親は居ますが、私は両親に撫でられた記憶は無いですね」
「一度も?」
「ええ、一度も。私は子どもの頃に養子に出されたので」
「!」
何故かショックを受けたような顔をする鈴を見て千尋は困ったように笑った。
「龍の世界では日常茶飯事なのですよ、鈴さん。だからそんな顔はしないでください」
「そ、そうなのですか?」
「ええ。優秀な子や見目の美しい子や水龍はしかるべき所に預けられ、しかるべき教育を受ける。そして成人したら養子縁組は解除されます。立派な龍を育て上げた家にはそれなりの見返りがあるので、皆少しでも優秀そうな子どもを引き取ろうと躍起になる。それが龍の世界なんです」
「そんな……それは辛いですね。本人が望んだのならともかく、幼い頃に両親と引き離されるのは……辛いです」
そう言って視線を伏せた鈴を見て、何かを思い出したかのように珍しく千尋の胸がギュっとなる。実際に幼い頃に突然両親と別れる羽目になってしまった鈴には、もしかしたらとてもよく分かるのかもしれない。
「それが当然なので誰にもそんな風に言われた事はありませんでしたが……そうですね。幼い頃の私も、もしかしたら泣いたのかもしれませんね」
もう記憶にも無い両親の姿をいくら思い描こうとしても無理だった。何だかそれが酷く寂しい。そんな千尋に鈴は言った。
「きっと、泣いたと思います。泣かない子なんて……居ません」
珍しく強い口調で返してきた鈴に千尋は微笑んだ。
「あなたは優しいですね。そしてとても強い。あなたが他人に怒らないのは心の器が大きいのでしょう。私とは真逆です」
「? そんな事はありません。私よりも千尋さまの方が器が大きいに決まっています。国一つを守るなんて、凄い事です」
「いえいえ。私の場合はただの義務感ですから。そのせいで龍の都を追放されたのです」
「どういう……意味ですか?」
「それを今からお話します。私は龍の都で法議長という仕事をしていました。そんな私には幼馴染が居たんです。龍の王の二番目の姫の、初という女性です」
「初、さん」
「ええ。私が養子に行ったのは高官の家でした。必然的に幼い頃から王の娘である初とは顔見知りだったんです。幼い頃からよく知っていた為、将来は初と番になり、婚姻関係になるのだろうと周りからは期待されていました。ちなみに番というのは、こちらで言う恋人同士のようなものです。ここまではいいですか?」
「はい」
「ですが、周りの期待とは裏腹に私は誰かと番になるつもりはありませんでした。そもそも仕事が忙しくてそんな事を考える暇すら無かったのです。そんなある日、私は王に呼ばれました」
「王様にですか?」
「はい。理由は、誰かが私の暗号を使って都のお金を横領したというものでした」
「暗号?」
不思議そうな顔をする鈴に千尋は頷きながらお茶を一口飲んで続きを話す。
「都には莫大な財産があります。その財産を一人の龍が管理していたらいざという時に危ないので、数人で管理するのですよ。そしてそれを引き出す為の暗号という物があるのですが、私の暗号が誰かに使われてしまったのです」
「え!?」
鈴は青ざめて千尋を見つめてきた。
「そ、それは大変な事なのでは?」
「大変です。もちろん私が横領した訳ではありませんが、暗号を管理していたのは私です。その情報がどこかから漏れ、悪用されてしまった。その事で王に呼ばれたのです」
「は、犯人は見つかったのですか?」
「はい。割と早い段階で。ですが捕まってはいません。あと一歩の所で逃げられてしまい、犯人の家には手紙が残されていました。犯人は女性で、お金に困って明日寝る場所も食べる物も無いというような生活を送っていた彼女に、誰かが私の暗号を教えたそうです。それを使って彼女は都の金庫からお金を盗みました。けれどもちろん都の金庫などそう簡単に開けられる物ではありません。そこで私の幼馴染である初が利用されたのですよ」
「!」
「初の話では、彼女は初を脅して無理やり金庫を開けさせたそうです。罪の意識からでしょうか。女性は初を利用してそこから金銭を盗んだのだと、謝罪の手紙を残してそのまま行方知れずになってしまいました。彼女は初にこう言ったそうです。私に暗号を教えてもらった。この事が世間にバレたら、私がどうなるか分かるだろう? と」
「それは脅迫ではないですか!」
鈴が珍しく声を荒らげて視線を伏せた。
「そうですね、脅迫です。初はそれを信じて金庫を開けたと嘆いていました。私の罪が外部に漏れるのを恐れたのだと」
「初さんは直接千尋さまに確認はされなかったのですか?」
「ええ。そんな事をしている暇は無いと思ったそうですよ」
「確かに大切な人が何か犯罪に関わっているかもしれないと思ったら、そんな行動を取ってしまうかもしれませんね」
そう言って悲しげに視線を伏せた鈴を見て千尋は首を傾げた。どうして鈴がこんな顔をするのだろうか? と。
「鈴さん、そんな顔をしないでください。これはもうずっと昔の話ですから」
慰めるように千尋が言うと、鈴は泣きそうな顔をして千尋を見上げてくる。
「ですが、千尋さまは故意に暗号を流した訳ではないのでしょう? それなのに千尋さまが全ての罪を被って地上に追放になったのですか?」
「ええ。私が罪の中でも最も重いとされる、地上での龍神をするという罪を自ら望んだのですよ」
「……え?」
「私は確かに関与していません。ですが、使われたのは私の暗号です。それは私の管理が悪かったという事に他なりません。ですから私は、当時地上の管理が空いていたので自ら地上に追放される事を望んだのですよ。そして利用されてしまった初と番関係を結んだのです。それが彼女の望みでしたから」
「せ、せっかく番になったのに……そんな事をしたら初さんが……」
泣きそうな顔をする鈴を見て千尋はポツリと言った。
「そこが、私が冷たいと言われる所以なのですよ」
「どういう……事ですか?」
「その時の私は番になったばかりの初や友人の事など少しも考えていませんでした。私は私の責務を果たすことだけを考えていたのです。だから罰を望んだ。その時に皆がどんな思いをするかなど考えもせずに」
あの日の千尋の決断は、きっと皆を深く傷つけた事だろう。今更になってそんな事に気付くなど本当に愚かな事だ。だから余計に待たないで欲しいと思うのかもしれない。
そんな千尋に鈴は悲しそうにポツリと言う。
「早く、都に戻れるといいですね」
と。
そんな鈴の一言に千尋は思わず首を傾げてしまった。
「どうしてそう思うのです?」
「私は千尋さまが冷たい方だと思った事が無いんです。あなたはこの国の全ての人たちを守ろうとしてくれている。それは愛情が無ければ絶対に出来ない事です。それから……実は少し前に雅さんが教えてくれたんです。あなたは絶対に心を人には渡さない、と。だから私がいずれ傷つくと忠告をしてくれた事がありました。その時はどういう事かと思っていたのですが、こういう事だったのですね」
「こういう事、とは」
「千尋さまには既に心に決められた方が龍の都にいらっしゃると言う事です」
「……」
あまりにも真摯な鈴の言葉に千尋は思わず言葉を詰まらせた。
初には確かに申し訳無い事をしたと今も思っている。だからこそ初と番を結んだのだ。
けれど、初を愛しているかと問われたら、それは違う。
こんな事を話せばきっと鈴の事も傷つけてしまうのだろう。雅が心配しているのは、千尋のそういう部分なのだ。
千尋は人に心を渡さないのではない。誰にも、心を渡さないのだ。
「千尋さま、私、神森家に嫁ぎます」
「……え?」
あまりにも唐突な鈴の言葉に千尋は一瞬自分の耳を疑った。こんな話を聞かされたら絶対に鈴はここを出ると言うだろうと思っていたのだ。
けれど、それとは反して鈴はここへ嫁ぐという。正気か? とも思ったが、鈴の顔は至って真剣だった。
「私は傷つきません。雅さんも心配してくれましたが、私はもう十分に色んな人から愛情をもらっています。それに、打算的だと笑われてしまうかもしれませんが、もしかしたらこんな私でもこの国の為に役に立つことが出来るのかもしれないと思うと、とても……えっと、光栄です」
「!」
こんな話を聞いてもなお微笑んで見せた鈴を見て千尋は胸を詰まらせた。
そして気付く。鈴に比べてどれほど自分が今まで無価値で虚しい人生を送ってきたかを。
そんな千尋に鈴は言った。名前の通り鈴の鳴るような透明な声で。
「何より千尋さまにも早く幸せになってほしいと思います。あなたはもう十分この国を守ってくれたと思うので」
「……鈴さん……」
こんな事を今までの花嫁たちが、初が、友人が、同僚が言ってくれた事があっただろうか?
胸の奥が詰まって言葉が出てこない。鼻の奥がツンとして頭の後ろ側がツキンと痛む。これが一体何なのかは分からない。
ただ言えるのは、鈴は今まで見てきた花嫁候補達とは全然違うという事と、千尋にはやはり勿体ないということだ。
「鈴さん、あなたは私には少々出来すぎています。私はあなたが思うほど完璧な存在ではありませんよ」
「それは千尋さまが決める事ではありません。あなたを慕う人たちが決める事です。少なくとも私は、そう思っています」
千尋は視線を伏せて静かに正直な気持ちを伝えたけれど、鈴はそれを受け入れはしなかった。
そんな鈴に千尋は静かに問いかけた。どのみちそろそろ本気で花嫁を見つけなければならなかったのだ。そういう意味では鈴は理想的すぎる。
「本当に……良いのですか? 雅の言う通り、あなたはこの先傷つくかもしれませんよ? 私は本当に愛が何かよく分からないのです。また初の時のように間違いを侵す事もあるでしょう」
「それは誰にも分かりません。傷つかないかもしれませんし、傷つくかもしれない。でも、千尋さまの仰る部分も全て含めて千尋さまです。それに私も愛の種類はイマイチよく分かっていないので、その部分に関してはお揃いですね」
そう言ってにっこりと笑った鈴を見てとうとう千尋は顔を覆う。
そんな千尋を見て慌てたように鈴が言った。
「あ、でも私は千尋さまのお考えに従うつもりです。生意気を言いましたが、自分の立場はちゃんと理解しているつもりです」
「はは、何を言うのですか。あなたほどここに相応しい人は居ませんよ。ただ、そうですね……あなたのその美しさが私には少し眩しいです。あなたの返事はとても嬉しいです。ですが、もう少しだけあなたの返事は保留にしておきます。龍の花嫁になるには後少しあなたに不利な条件があるので、全てを聞いてから決めてください。少し長くなると思うので、先に夕食をとりましょう」
そう言って微笑んだ千尋の言葉に鈴はキョトンとして首を傾げているが、鈴の答えは静かに千尋の中に音も無く沈んでいった。
鈴の存在はこれから先もしかしたら千尋の何かを変えてしまうかもしれない。それでも何故か心の中は浮足立っていた。
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