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1章

10話

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 母は仕事の都合で国に戻らなければならなかった父についていくため、勘当同然で家を飛び出したと聞いている。それは偏に母がそれだけ父を愛していたからだ。そして父もそんな母の事をずっと宝物でも扱うかのように接していた。

「そう言えば先ほど喜兵衛に聞いたのですが、鈴さんは文字が読めないと伺いました。良ければ私がお教えしましょうか?」
「え? で、ですがそんな事で千尋さまのお手を煩わせる訳には……」
「文字を教える事ぐらい手間でも何でもありません。あなたもお年頃です。流行りの少女小説の一つも読みたいでしょう?」
「少女小説……蘭ちゃんがよく読んでいました。面白いのですか?」
「どうなのでしょう? 私は読んだことがないので分かりませんが、巷では流行っているそうですよ」
「そうなのですね。こちらに戻ってからはずっと本が読めなかったので、文字を覚えられたらそれほど嬉しい事はありません」

 何気なく鈴が言いながらとんかつを頬張ると、それを聞いて千尋が大きく目を開いた。
 
「もしかして鈴さん、あなた英語であれば読めたりしますか?」
「はい。あ、そう言えば言っていませんでした。私、8つまで父の祖国、イギリスにいたんです。両親が亡くなったあと私だけこちらへ戻ってきたんです。ですから日本語が少々おかしな時もあると思います」
「大丈夫。どこにもおかしな所はありませんよ。そうですか、それは苦労されましたね。最初は大変だったでしょう?」
「そう、ですね。言葉が理解出来ないのが一番困りました」
 
 家では両親は定期的に日本語を教えてくれたが、普段はずっと英語だったのだ。なので突然ずっと日本語を話せと言われても最初は簡単な会話しか出来なかった。

「分かりました。では時間を見つけてあなたに文字を教えましょう。字が読めれば出来ることの幅もきっと広がるはずです」
「ありがとうございます。とても助かります。では千尋さまは何か食べたい洋食があればいつでも仰ってくださいね。私の料理で良ければ、いつでもお作りしますので」

 千尋の提案に鈴は素直に頭を下げた。龍神に文字を教わるなど恐れ多い気もするが、鈴はいつここから追い出されても一人で生きていけるようにならなければならない。
 
 何よりも文字が読めればレシピが読める。そうすれば、千尋達にもっと喜んでもらえるかもしれない。鈴の言葉に千尋はにっこり笑って頷いた。

「とんかつ、美味かったよ」
「雅さん! 食べてくださったんですね」

 部屋に戻ると今日も雅が寝台の上で毛づくろいをしていた。それを見た鈴はすぐさま雅に駆け寄ると寝台に腰掛ける。そんな鈴の膝の上に雅は「よっこらせ」と言って上ってきて言った。
 
「もちろんさ。毎日和食だから洋食は新鮮だったし、狐の二人は洋食食べた事ないんだ。そりゃもう比喩じゃなく本当にとんかつを噛み締めてたよ」
「そうですか、良かったです。噛みしめなければならない程硬かったですか?」
「いやいや、そうじゃない。あまりにも美味しくて肉と一緒に感動を噛み締めてたんだ。たまには洋食もいいね」

 言いながら舌なめずりをして目を細める雅。どうやらとても気に入ってくれたようだ。

「雅さん、質問なのですが、千尋さまが明日から時間の空いた時に文字を教えてくれるそうなんです。甘えてしまっても良かったのでしょうか?」
「千尋が? あんたに文字を? 読めないのかい?」
「はい。幼少期を海外で過ごしていて、こちらに来てからすぐに私だけ離れに移動したんです。なので文字を教わる機会を失ってしまって」

 しょんぼりと項垂れた鈴を見て雅は怪訝な顔をしてこちらを見上げてくる。

「離れに一人で? 何でまた」
「こちらへ来てすぐに事故に遭ったんです。その時に菫ちゃんを巻き込んでしまって、それから叔母様は私を少し怖がるようになってしまいました」

 大分お茶を濁したが、要は菫と二人で事故に遭い、疫病神認定をされてしまっただけの話である。
  
「怖がるってなんだい! あんたも一緒に事故に遭ってんだろ!?」
「はい。ですが、その事故というのが私が来てすぐの事だったので……」

 久子は占いや吉兆などをとても気にする人だ。信心深く、そういう類の話にはとても敏感である。そもそも鈴と菫が遊んでいなければ、あの事故は起こらなかったのではないかと思ってしまっても不思議ではない。
 
 それを聞いた雅は呆れたような声で言った。

「バカバカしい。何があったのか知らないけど、そこらへんの奴に罰当てて回るほど神様は暇じゃないよ。ただ単に運が悪かっただけだろ」
「はい。偶然が沢山重なった結果です。私はそう思ってます」

 そう言って鈴は雅を抱き上げて立ち上がると、水差しの水をコップに汲んだ。

「なんだ、もう寝るのかい?」
「はい。久しぶりにはりきってしまっていたみたいです」
 
 鈴がそう言って照れたように笑うと、雅は呆れた様子で寝台から下りた。

「体力が無いね。そんな事でここの嫁が務まるのか?」
「つ、つけます。これから」
「ああ、そうしな。貧弱な嫁はここをすぐに追い出されちまうよ」
「!」

 雅はそう言って意地悪に歯を見せて笑いながら部屋を出ていった。
 
 鈴は雅が部屋から出たのを確認すると、そのまま佐伯家から持ってきた荷物の中から薬の入った袋を探し出し、その中から1包取り出して水で流し込む。

「雨が降りそう……嫌だなぁ」

 事故で負った傷の痛みは、今もなおこうやって雨が降りそうになる度、鈴に襲いかかってくる。案外、久子の言う通りあの事故は何かの罰だったのかもしれない。
 
 

「報告だよ。鈴、小さい頃に事故に遭って、それから佐伯家で疫病神扱いされてたみたいだよ」
 
 雅の定期報告に千尋は特に関心を持たず頷いた。

「なんだい、それだけか」
「小さい頃の話なのでしょう? 疫病神扱いは酷いと思いますが、私に出来る事など何もありません」

 言いながら千尋は机の上に広げられた書類のチェックをしていた。そんな千尋を邪魔するかのように雅が机に飛び乗ってくる。

「あんたね、曲がりなりにも次の嫁かもしれないんだよ。もうちょっと興味持てないのかい?」
「龍神としては興味ありますよ。鈴さんは今までいらした方たちとは随分違う。あなたは何故かすっかり懐いているし、狐たちの評判も上々です。ですが、それは龍神としてです。千尋個人の感情には何の関係もありません。私が地上で人間の花嫁をもらうのは、あくまでも私の力を配るためです。花嫁を愛する為ではありません。先方もそれを承知で娘たちをここへ差し出してくるのですから」

 どこもそう。神森家が侯爵家だからこそ、大事な娘たちを生贄のように差し出してくるのだ。そして何よりもその事を本人たちが一番理解している。

 そういう意味では、鈴など佐伯の者でもないのに本当にここに金の為に人身御供として捧げられたようなものだ。

 千尋からしたら本当は鈴のような大人しい者よりも、家に利用されていると分かった上でここでの暮らしを満喫しようとする人間の方がまだ花嫁にしやすい。 
 そういう娘たちは贅沢さえさせておけば特に何の文句も出ないからだ。
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