君がいた日の月影

春宮ともみ

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 開かれた窓から夏を感じさせる爽やかな風が吹き抜けていく。ひげを撫でていくその感覚に、ぴくりと耳が動いた。ゆっくりと目を開く前に大きなあくびがこみ上げてくる。本能のままにあくびし、薄目を開けて周囲の様子を窺う。

 初めての爪切りとシャワーの後、生前の私の部屋にこーちゃんがゲージやトイレを備え付けてくれた。こーちゃんが仕事の日はいつもあの部屋で過ごしているけれど、今日はこーちゃんも休暇らしい。朝から病院に連れていかれ、帰ってきた後はリビングでソファに寝転んだまま何かの本を読んでいる。

(ねむい……)

 とにかく眠い。どうしてこんなに眠いのかはわからない。人間の赤ちゃんも幼い頃は寝ることと泣くことが仕事と言われていたと記憶しているけれど、それと同じ原理なのだろうか。
 そんなことを考えていると、ふたたび大きなあくびがこぼれ落ちた。テレビを乗せたローボードの上で丸めたままだった身体をぴんと伸ばし、前足を舐めて毛づくろいをする。


 こーちゃんに拾われ、2ヶ月の月日が流れた。けれど、私の体感では3年以上の時を過ごしたように感じてしまう。毎日を寝て過ごしているからなのか、それとも人間と猫の時間の違いなのかはわからない。

 交通事故で命を落とし、猫に転生した、と理解したあの瞬間。混乱とともに、喩えようもない哀しみと、相反する喜びを抱いた。
 輪廻転生だなんて、信じてもいなかった。前世の記憶を残したまま何かに生まれ変わるなんて、小説やアニメの世界の話だろうと。そりゃあ中学生の頃に一度は妄想したけれど、成長するにつれてあり得ないことだと誰しもが理解する。そんな夢物語が自分の身に起こっていることが、まずは信じられなかった。
 けれど。『猫』はどんなに頑張ったって、十数年しか生きられない。いずれ私は、こーちゃんを置いていってしまう。私が命を落としてから1年以上が経っても私の部屋を片付けた形跡は無かった。それほどにこーちゃんは私の死を悲しんでいたのだと思う。そんなこーちゃんを、私はまた独り置き去りにしてしまう。それが――ひどく哀しかった。
 でも……それでも。ふたたびこーちゃんのそばに居られることがとても嬉しかった。私はこーちゃんの言葉を理解できるけれど、こーちゃんは違う。生前のようにしっかりした意思疎通は出来ない。それでも彼のそばにいられるということは、私にとって何にも変えられない幸せだった。欺瞞ということもわかっているけれど、それでも。


 前足から始めた毛づくろい。足先を舐めて顔を洗い、首元やお腹の毛づくろいを終える。最後に首を回して首の後ろの毛を舐め、時折そこを噛んでいく。今朝、連れて行かれた病院で健康状態を診られここに注射を打たれた。こーちゃんと先生の会話からワクチン接種なのだと理解はしているものの、注射針のジクリとした強烈な感覚が抜けていないような気がしてどうしても気になる。

(……こんなもん、かな?)

 本能的に満足するまで毛づくろいを終え、身体を起こして伸びをした。人間としての意識は以前強いままだけれど、猫としての本能には勝てやしない。何か小さな音がすればそちらに意識が向いてしまうし、目の前でカサカサと音の鳴るものを揺らされれば狩猟本能で飛びついてしまう。こーちゃんが作ってくれたアルミホイルの丸い玉はキラキラしていてパンチしたら遠くまで飛んでいくから楽しくて癖になるし、この前買ってきてくれた魚の形のぬいぐるみは後ろ足でキックして遊びたくなる。

「ん? みぃちゃん起きた?」
「にゃう」

 トンと床に降り立ち、てくてくとこーちゃんが寝転んでいるソファまで歩いた。鳴き声も子猫特有の甲高い鳴き声から、猫らしい鳴き声に変わったと思う。歯も永久歯に生え変わったから、離乳食も卒業した。自分の成長をこうした俯瞰した形で認識しているのもひどく不思議な感覚だ。
 ソファに寝転んでいたこーちゃんが身体を起こし、手に持っていた本をテーブルの上に置いた。こーちゃんの薬指の指輪が、リビングに差し込む陽射しを浴びて煌めく。

「みぃちゃん、あの場所好きなんだね」
「……?」

 問いかけられた疑問が嚙み砕けず、こてんと首を傾げて頭上を見上げる。
 言われてみれば、気が付けばあのローテーブルの上に寝転んでいることが多い。窓を開けて過ごすことが多い近頃は、あの場所は風通しがよくてよく眠れる場所なのだ。
 こーちゃんは腕を伸ばし、私の身体を抱き上げてそっと膝の上に乗せてくれた。

「季節に合わせていくつかベッドを作ってたほうがいいってコレに書いてあったからね。最近、よくテレビのところにいるからさ。ん~、でもあの狭さにぴったり合うような猫ベッドって市販されてるのかなぁ……」

 こーちゃんは膝の上の私の頭や背中を撫でながらスマートフォンを片手に百面相をしている。そんなこーちゃんの様子をしばらくの間観察するものの、こちらを見ずにスマートフォンばかりを眺めている。私を撫でる手も段々とおざなりになっていく。
 私のためにいろいろ調べてくれているのだろう。人間としての理性ではそうわかっているものの、猫としての本能から募っていく退屈さ。我慢が出来ず、撫でる手が止まっているこーちゃんの手をカプリと甘噛みする。

「って!」
「にゃ~ぅ」

 そろそろ私にきちんと構って欲しい。寝起きで身体を動かしたいし、何より今日は病院で注射も爪切りも頑張ったのだ。そろそろご褒美があってもいいと思う。

「はいはい。今日は頑張ったもんね。ご要望の通り、遊びましょうか、お嬢さま」
「にゃぁ」

 こーちゃんは思いっきり苦笑いを浮かべて私の頭をわしわしと撫でてくれる。スマートフォンをテーブルの上に置く、カタンという軽快な音。

 私は満足気にゴロゴロと喉を鳴らし、遊ぶ体勢になってくれたこーちゃんの手の甲にすりすりと身体を擦り寄せた。
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