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ウェヌスの涙

一話

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「珍しいね。旦那が僕んとこ来るなんてさ」

 診療室に奈落を通し、風吹はへらりと笑ってそう言った。

 だが、奈落はその表情を緩める事はない。隠されもしていない机の上の紅い模造煙管に目をやって、その中のひとつを手に取った。

「……じい様から聞いたよ、お前が何をやっているのか」
「へえ」

 奈落の言葉に、風吹は動じもしない。そんな風吹の態度に、奈落はやや苛立ちを募らせた。

「言う事はそれだけか」
「んー、特には無いね。極楽堂さん、やっと話したのかぁって感じかな」

 そう言ってまた口元だけで笑う風吹に、奈落は無言でその頬を平手打ちした。風吹の眼鏡がその勢いで飛んでいき、床に叩きつけられる音が診療室に鳴り響く。風吹は身動きひとつしなかったが、奈落は煙管を握りしめたままわなわなと微かに慄えてさえいた。

「見損なったよ」
「意外だな。見損なって貰えるほど、信用されてたのか」
「風吹!」
「旦那ぁ、声がでかいよ。患者がいるんだからさぁ、もうちょい音量落として貰える?」

 風吹は奈落の言う事などまるで意に介さないような口調で、眼鏡を拾い上げながらのらりくらりと話している。だが、そんな風吹の態度が奈落は気に入らないのだろう。物凄い眼光で風吹を睨みつけていた。

「おお、おっかなぁ……旦那さぁ、いくつだったっけ?」
「……」
「あ、そんな気分じゃ無い?確か僕より結構年下だったよね。じゃああれでしょ。関東大震災とかわかんないでしょ?」

 唐突にそんな事を言い出した風吹に、奈落は虚を突かれて眉を顰めた。

「なんだ、藪から棒に……確かあれは、大正十二年の……」
「そう。僕はまだ十才とおにもならなかったかな。……僕ね、被災してるんだ」

 突然の風吹の告白に、奈落は狼狽えた。

 関東大震災。大正十二年に発生して、帝都やその周辺地域に多数の被害者を出した。それは、奈落も話に聞いた事しか無い。その時奈落は二才かそこらであったし、この地から遠く離れた場所での出来事であったので現実味がなかったのだ。

 風吹は前髪を掻き上げる。以前から気付いてはいたが、風吹の顔の左側には火傷の跡が広がっていた。それは左額の上の頭皮まで広がっており、その部分は頭髪が生えていない。そのため、頭頂部や隣の前髪を伸ばして左前に流し、眼鏡で固定してそれを隠していたのだ。

「この顔と背中の火傷の跡はその時のものだよ。あの震災は火災が酷くてね……どこもかしこも燃え盛っていた。僕の本当の親も目の前で焼け死んだ。どこを歩いても死体や死に損ないばかりでさ。僕の腕を掴んで、水をくれだとか、助けてだとか……もう殺してくれだとか、言うんだ」

 話しながら、風吹は前髪を戻して眼鏡を掛け直す。いつもの風吹に戻ると、机の前の椅子に座って背もたれに体を預け、痛みを思い出したように叩かれた頬をさすった。

「そんな事言われたってさぁ……親もいなくなっちまった餓鬼に何ができるって言うんだよ。今でもその言葉は耳に残ってるし、目に焼き付いてる。幸いにして、今の養父……常盤 鐘煙しょうえんに拾われて、ここまで育てて貰ったけど……まぁ、そういう記憶ってなかなか消えないし、ふとした時に思い出すんだよね。今でも火は怖いから、自分で飯も炊けやしない」
「……それが、お前が『死神』をやっている理由か」

 先ほどよりはやや落ち着いた口調で、奈落が問いかける。風吹は目線を合わせずに、煙管を手に取ってくるくるとそれを手の中で回した。

「あの時、何もしてやれなかったってのはね。強烈に心に残ってるもんだよ。もう僕は、ずっとそれに囚われて生き続けるんだろうね。これからもずっと」

 二人の間にしばらくの沈黙が流れた。奈落は目を瞑り、気持ちを落ち着けるように深く息を吐いた。

「だが、私が聞いているのはそちらではない。……わかっていて言っているだろう」
「まぁね。でも、落ち着いたでしょ?旦那、頭に血が上ってるようだったからさ」
「それは……だが、」

 奈落が言葉を続けようとしたその時、診療所の呼び鈴が鳴った。奈落は反射的に玄関の方角へ顔を向ける。風吹はしばらく無反応だったが、その後にトントンという扉を叩く音が続き、面倒臭そうに頭を搔きむしりながら煙管を机の上に戻した。

「何だよ、最近来客が多いなぁ……」

 しかし、風吹が動く前に別な人間が来客に対応したらしい。玄関先から話し声が聞こえてくる。やがて、複数の足音が診療室に近付いてきて、診療室の引き戸が開いた。

「風吹サン、警察の方が……」

 落霞ラオシアが風吹に声をかけるや否や、その後ろから男が落霞ラオシアを軽く押しのけて診療室に入ってきた。

「常盤さん、馬場平署の白岾しろやまです」
「あっ」

 それは、奈落も聞き覚えのある声だった。先日極楽堂に聞き込みにきた白岾しろやま刑事がそこにいた。

「おや、これは……極楽堂さんもご一緒でしたか。ちょうど良かった」

 奈落は訝しげな顔をしたが、白岾しろやまに軽く会釈をして脇に除けた。白岾しろやまは診察室の中に入ってきて、風吹の前にある患者用の椅子に腰掛けた。

「何だい、白岾しろやまさん。この紅い模造煙管については先日報告した通りだよ」
「ええ、それはわかっています」
「……まさか」

 奈落は二人の会話にぽつりと呟いた。白岾しろやまは奈落の方に目を向けると、腕組みをして話し始めた。

「先日お話しした模造煙管の毒については、こちらからお願いして常盤さんに調べて頂いていたんですよ」
「一応、『検証』もしているよ。砒素の反応で間違いないと思う」

 二人の言葉に奈落は唖然としていた。しかし、そんな奈落を気にも留めず、白岾しろやまは話を続ける。

「そんな事より、厄介な事になりました。奈落さん、妹さんは今 何方どちらに?」
「妹? 由乃なら、今日は嘉月製造所の娘と一緒に、芳崎工業に見学に行くと……」
「それは非常にまずいです。模造煙管を女学生に広めていたのは、芳崎和葉です」
「なっ……!」

 白岾しろやまの言葉に、奈落と風吹は殆ど同時に白岾しろやまを見た。

「芳崎和葉って、この前 猪代荘いのしろそうに来ていた森さんの書生候補じゃないか。あいつがなんでそんな事を……」
「それはわかりませんがね。紅い煙管を持っていた女学生の全てが、芳崎和葉の書いた小説の写しを持っていたのです。内容は典型的な、女学生好みの退廃的なサナトリウム文学ですよ。病に伏せった主人公の青年が、タルタロスという黒ずくめのあやかしの女に取り憑かれて心奪われ、最後は女に命を捧げる。真珠煙管も作中で主人公の青年が喫んでいますね」
「タルタロス?」
「……『奈落』を意味する言葉です」

 白岾しろやまの説明を聞いて、奈落はぎり、とその唇を噛んだ。命を奪うという、自分と同じ名前のあやかしの女。それは奈落にとって不本意極まりなく、苛立ちを込み上げさせていた。

「恐らくは、ここ最近頻発していた女学生の付きまとい事件も芳崎である可能性が高いです。……思うに、自らが書いた小説に準えて行動しているんじゃないですかね。そして、彼の小説に登場するタルタロスは、極楽堂さん……貴女の妹さんと酷似する容姿でした」
「!!」

 奈落はそれを聞いた途端に、衝動的に診察室を飛び出していた。

「ちょっと、おい! 旦那!!」

 奈落は風吹の静止も聞かず、そのまま玄関を出る。そして常盤診療所に横付けしてあった白岾の車の運転席に飛び乗ると、やおらエンジンをかけてそのまま走り出してしまった。

「ええええええっ? 俺の車!?」

 追いかけて来た白岾があまりの事態に、情けない声を上げる。奈落が運転する白岾の車は、あっという間に見えなくなってしまった。

「あーらら……そうだった。旦那は頭に血が登ると、衝動的に動いちゃうんだった」

 後からのんびり歩いてきた風吹は、同情した声でそう呟いた。そんな二人の背後から、女給服姿の利一が駆け足で飛び出し、奈落の去っていった方を呆然と眺めていた。

「ちょっと……! もう、奈落さんってば!」
「あれ、おいちちゃん来てたんだ」
「話は聞かせて頂いていました。白岾さん、今芳崎和葉がどこにいるかわかりますか?」
「い、いや、そこまでは……」
「……ッもぉ!! なんで! あの人は! 行き先もわからないのに先走っちゃうのかなぁ!!」

 利一の剣幕に白岾がたじろぐ。

 その時、馬の足音が聞こえてきた。先日極楽堂に白岾と連れ添って来ていた佐久間が馬の上に乗っていた。

「白岾さん、芳崎和葉の居所がわかりました!天鏡沼の保養地近くにある、芳崎工業の倉庫です!」

 佐久間は三人の前で馬を止めてそう言うと、懐から地図を取り出し馬を降りた。

「あ、あぁ、そうか」
「!!」

 しかしその瞬間、利一は佐久間から乗馬鞭をひったくり、馬に飛び乗った。そして思いっきり馬に鞭を振るう。馬は一声嘶くと、利一を乗せて走り出してしまった。

「えっ、ちょっと! その早馬は借り物で!」
「ちょっとお借りします!!」

 遠くからそう叫ぶ利一の声が聞こえてくる。止めるにももう遅く、利一は奈落を追いかけて馬と共に去っていった。

「ええええええぇ……」

 目の前で展開された出来事に頭が追いつかないらしい白岾と佐久間は、ただぼうっとその場に立ち尽くすだけだった。そんな白岾の肩を風吹が叩く。振り向いた白岾に、風吹は自分の自動二輪車を親指で指差して見せた。

「……アレ、使うかい?」
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