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淡水真珠と龍神
二話
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「風吹さん、何か聞いてないんですか? 姉がどこに行ったかとか」
由乃はカウンターの奥を覗き込んでみたが、当然姉はいなかった。鉱石茶を淹れかけていたのだろうか、グラスには真珠と桂花茶、薬缶には水が入っている。由乃は薬缶を水晶焜炉にかけて、手元の燐寸で火を入れた。
「いやぁ、聞いてないな。僕も頼んでた薬を取りに来たんだけど、その時に何かを思い出したみたいで、丁度いいところに来たって言われてすぐに君を迎えに行くことになっちゃったんだよ。まぁ、アレで来たから好都合だったんだろうね」
そう言って風吹は外の自動二輪車を顎で指した。風吹は既に我が物顔で寝椅子にどっかりと座り、そのままごろんと横になっていた。由乃よりも寛いでいる。
「……成る程」
人んちでごろごろと横になる風吹に少々唖然としつつ、由乃も薬棚から鉱石茶に入れる蜜を探していた。ラウンヂのテーブルには常に砂糖が置かれているが、由乃は砂糖よりも蜜を好んで入れていた。姉の秘蔵の蜜は希少かつ高価なものである事を由乃は知っている。時々こうやってくすねては姉によく怒られているのだが、由乃は懲りるということを知らなかった。しかし、姉は自分でしまった場所を忘れるところがあるので、姉のしまい込んだものを探し当てるのはなかなか至難の業なのだが。
「しかし、あと二時間ほどで下校時間だと思うんですけど……その時間は掻き入れどきなので、そろそろ準備を始めなければ間に合わないと思うんですけどね。千代さんもいないし、どうしちゃったのかな?」
由乃は普段店で女給をしている女性の名を口にした。千代は姉ととても親しく、彼女もまた雲水峰の卒業生であると聞いている。噂によれば、もともと姉と千代は「エス」の関係であったと聞いたことがあるのだが、本当のところはわからない。
「エス」とはシスターの頭文字から取った言葉で、女学校に特有の生徒間の関係だ。とても親密な上級生の「お姉様」と下級生の「妹」が、休み時間の度に逢瀬を重ねて仲睦まじくしているのを由乃は学校で時々見かけていた。 羨ましいと思わない事も無いのだが、由乃にはいまだに「お姉様」からお声がかかったことがない。そこそこ魅力的で無い事は無いと思うのに。
いや、そういえば声は掛かるのだ。上級生のみならず、下級生からも。今日だって沢山の彼女たちからの手紙の束が鞄に入っている。但しそれは、自分宛では無いのだが。
はあ、と由乃はため息をついた。どこかに私自身の魅力に気付いてくれる「お姉様」はいないものだろうか。
「……ところで、最近物騒と言ってましたが、何かあったんですか?」
滅入ってしまった気持ちを打ち消すように、由乃は風吹に声をかけた。しかし、由乃の何気ない質問に、風吹は少し怪訝そうな顔をした。
「学校から何も聞いてないのかい? 最近、不審な男が女学生の後を追いかけてくる付き纏いがあるって聞いたよ。旦那もそれを心配して僕を迎えに行かせたんだ」
「付き纏い……ですか。私は聞いてないような気がしますが……」
「付き纏いで済んでるうちはいいけどね。そこから通り魔に変わることだって十分在り得るんだし。いつだっけなぁ、男が夜な夜な女性を襲う吸血鬼事件なんても噂を聞いたことあるけど、あれ結局どうなったのかな?」
「えっ何それ怖い」
「でしょお? 由乃ちゃんなんて可愛いんだからガブリだよ、ガブリ」
「やだ、からかわないで下さいよ」
言葉ではそう言ったが、可愛いと言われて由乃は満更でもなかった。やはり、自分の可憐さをわかってくれる人はわかってくれるのだ。自分にお声が掛からないのはきっと環境が悪いに違いない。
「……風吹さんが、私の『お姉様』だったら良かったのにな」
「えっ、何? 何か言った?」
「なんでもないです。鉱石茶、飲みます?お姉ちゃん淹れかけで出てったみたいで、真珠と桂花茶のがここにあるんです。ちょうどふたつありますよ」
「おっ。いいねぇ、頂戴」
風吹の返事を確認すると、由乃はちょうど沸騰し始めた水晶焜炉の上の薬缶を手にとって、中の湯をグラスに注いだ。季節違いの金木犀の華やかな香りが湯気とともに広がる。由乃はこの金木犀の香りの茶が好きだった。お茶であれば春先であっても金木犀の香りが楽しめるのは、一種の贅沢であると思う。特に水晶焜炉で沸かした湯は鉱石の香りや効能を引き出すので、金木犀の中に柔らかい真珠の香りが合間ってえも言えぬ馥郁とした香りが漂っている。これならやはり、添えるのは蜜が最適だ。さて、本人もどこに隠したかわからないであろうイースター・エッグは何処にあるものか。
由乃はカウンターを探し回っていると、一枚の手紙に気付いた。素っ気ない便箋ではあったが、裏に手書きの精密な蜉蝣が描かれている。これは、普段姉が手にしている仕事の書類や、千代から貰う華やかな手紙とも違うようだ。絵の側には達筆な字で「成瀬 文無」と書かれていた。
「なるせ あやなし……えっ!? 文無って、あの画家の成瀬 文無さん!?」
「ふえっ!?」
由乃の素っ頓狂な声に、風吹は思わず飛び起きた。由乃は便箋を手にしたまま、食い入るようにそれを見つめている。
「えっ? どうしたの由乃ちゃん」
「これ! お姉ちゃん宛に画家の文無さんから手紙が来てるんですけど! 成瀬 文無って確か、小説家の森 紫鶴先生に専属で絵を提供している日本画家ですよ! 私、森先生の小説凄い好きで、いつも鼓梅ちゃんから借りて読むぐらいで……!」
鼓梅とは、由乃の同級生の少女で地主の娘だ。裕福な家に育っているので、比較的好きな書物も揃えられるらしい。由乃はよくそれを借りて読んでいたのだが、その中でも特に森 紫鶴のものは好んで読んでいた。
「森 紫鶴? あー、聞いたことがあるな……『証人』だっけ? 小説はあんまり読まないからわからないけど……」
風吹は森氏の小説表題を口にした。『証人』は彼の代表作で、世界を二分する敵対勢力がせめぎ合う有名な仮想の歴史小説シリーズ第一作目である。
「そう! そうです! 『証人』の表紙や挿絵を描いたのも文無さんですよ!?」
由乃は興奮してその手紙を握り締める。最早それが姉当てに届いた手紙だという概念は無くなっていた。
「ええ……なんでそんな凄い人が、お姉ちゃんに手紙を……? お姉ちゃん、フアンレターでも書いたのかな……?」
「……旦那って、本読むの? なんだか普段から辞典しか読んでない印象があるんだけど……」
「お姉ちゃんは私以上の本の虫ですよ。私が生まれた時にはもう家にある数少ない本は手垢が付くほど読み込まれて、最終的に辞典が一番面白かったと狂気じみたことを言っていました」
「うわぁ……」
風吹は奈落の意外な側面を知って、驚愕の表情を見せた。言われてみればあの語彙力は、辞典を諳んじてると言われても不思議ではない。
その時、入口の引き戸が音を立てて開いた。
「ああ、由乃。来ていたか。風吹、ご苦労だったな」
聞き馴染んだいつもの口調が聞こえて由乃と風吹がそちらに目を向けると、件の人物…極楽堂鉱石薬店の女主にて由乃の姉 極楽院 奈落と、見覚えのない和服の妙齢女性が共に立っていた。
由乃はカウンターの奥を覗き込んでみたが、当然姉はいなかった。鉱石茶を淹れかけていたのだろうか、グラスには真珠と桂花茶、薬缶には水が入っている。由乃は薬缶を水晶焜炉にかけて、手元の燐寸で火を入れた。
「いやぁ、聞いてないな。僕も頼んでた薬を取りに来たんだけど、その時に何かを思い出したみたいで、丁度いいところに来たって言われてすぐに君を迎えに行くことになっちゃったんだよ。まぁ、アレで来たから好都合だったんだろうね」
そう言って風吹は外の自動二輪車を顎で指した。風吹は既に我が物顔で寝椅子にどっかりと座り、そのままごろんと横になっていた。由乃よりも寛いでいる。
「……成る程」
人んちでごろごろと横になる風吹に少々唖然としつつ、由乃も薬棚から鉱石茶に入れる蜜を探していた。ラウンヂのテーブルには常に砂糖が置かれているが、由乃は砂糖よりも蜜を好んで入れていた。姉の秘蔵の蜜は希少かつ高価なものである事を由乃は知っている。時々こうやってくすねては姉によく怒られているのだが、由乃は懲りるということを知らなかった。しかし、姉は自分でしまった場所を忘れるところがあるので、姉のしまい込んだものを探し当てるのはなかなか至難の業なのだが。
「しかし、あと二時間ほどで下校時間だと思うんですけど……その時間は掻き入れどきなので、そろそろ準備を始めなければ間に合わないと思うんですけどね。千代さんもいないし、どうしちゃったのかな?」
由乃は普段店で女給をしている女性の名を口にした。千代は姉ととても親しく、彼女もまた雲水峰の卒業生であると聞いている。噂によれば、もともと姉と千代は「エス」の関係であったと聞いたことがあるのだが、本当のところはわからない。
「エス」とはシスターの頭文字から取った言葉で、女学校に特有の生徒間の関係だ。とても親密な上級生の「お姉様」と下級生の「妹」が、休み時間の度に逢瀬を重ねて仲睦まじくしているのを由乃は学校で時々見かけていた。 羨ましいと思わない事も無いのだが、由乃にはいまだに「お姉様」からお声がかかったことがない。そこそこ魅力的で無い事は無いと思うのに。
いや、そういえば声は掛かるのだ。上級生のみならず、下級生からも。今日だって沢山の彼女たちからの手紙の束が鞄に入っている。但しそれは、自分宛では無いのだが。
はあ、と由乃はため息をついた。どこかに私自身の魅力に気付いてくれる「お姉様」はいないものだろうか。
「……ところで、最近物騒と言ってましたが、何かあったんですか?」
滅入ってしまった気持ちを打ち消すように、由乃は風吹に声をかけた。しかし、由乃の何気ない質問に、風吹は少し怪訝そうな顔をした。
「学校から何も聞いてないのかい? 最近、不審な男が女学生の後を追いかけてくる付き纏いがあるって聞いたよ。旦那もそれを心配して僕を迎えに行かせたんだ」
「付き纏い……ですか。私は聞いてないような気がしますが……」
「付き纏いで済んでるうちはいいけどね。そこから通り魔に変わることだって十分在り得るんだし。いつだっけなぁ、男が夜な夜な女性を襲う吸血鬼事件なんても噂を聞いたことあるけど、あれ結局どうなったのかな?」
「えっ何それ怖い」
「でしょお? 由乃ちゃんなんて可愛いんだからガブリだよ、ガブリ」
「やだ、からかわないで下さいよ」
言葉ではそう言ったが、可愛いと言われて由乃は満更でもなかった。やはり、自分の可憐さをわかってくれる人はわかってくれるのだ。自分にお声が掛からないのはきっと環境が悪いに違いない。
「……風吹さんが、私の『お姉様』だったら良かったのにな」
「えっ、何? 何か言った?」
「なんでもないです。鉱石茶、飲みます?お姉ちゃん淹れかけで出てったみたいで、真珠と桂花茶のがここにあるんです。ちょうどふたつありますよ」
「おっ。いいねぇ、頂戴」
風吹の返事を確認すると、由乃はちょうど沸騰し始めた水晶焜炉の上の薬缶を手にとって、中の湯をグラスに注いだ。季節違いの金木犀の華やかな香りが湯気とともに広がる。由乃はこの金木犀の香りの茶が好きだった。お茶であれば春先であっても金木犀の香りが楽しめるのは、一種の贅沢であると思う。特に水晶焜炉で沸かした湯は鉱石の香りや効能を引き出すので、金木犀の中に柔らかい真珠の香りが合間ってえも言えぬ馥郁とした香りが漂っている。これならやはり、添えるのは蜜が最適だ。さて、本人もどこに隠したかわからないであろうイースター・エッグは何処にあるものか。
由乃はカウンターを探し回っていると、一枚の手紙に気付いた。素っ気ない便箋ではあったが、裏に手書きの精密な蜉蝣が描かれている。これは、普段姉が手にしている仕事の書類や、千代から貰う華やかな手紙とも違うようだ。絵の側には達筆な字で「成瀬 文無」と書かれていた。
「なるせ あやなし……えっ!? 文無って、あの画家の成瀬 文無さん!?」
「ふえっ!?」
由乃の素っ頓狂な声に、風吹は思わず飛び起きた。由乃は便箋を手にしたまま、食い入るようにそれを見つめている。
「えっ? どうしたの由乃ちゃん」
「これ! お姉ちゃん宛に画家の文無さんから手紙が来てるんですけど! 成瀬 文無って確か、小説家の森 紫鶴先生に専属で絵を提供している日本画家ですよ! 私、森先生の小説凄い好きで、いつも鼓梅ちゃんから借りて読むぐらいで……!」
鼓梅とは、由乃の同級生の少女で地主の娘だ。裕福な家に育っているので、比較的好きな書物も揃えられるらしい。由乃はよくそれを借りて読んでいたのだが、その中でも特に森 紫鶴のものは好んで読んでいた。
「森 紫鶴? あー、聞いたことがあるな……『証人』だっけ? 小説はあんまり読まないからわからないけど……」
風吹は森氏の小説表題を口にした。『証人』は彼の代表作で、世界を二分する敵対勢力がせめぎ合う有名な仮想の歴史小説シリーズ第一作目である。
「そう! そうです! 『証人』の表紙や挿絵を描いたのも文無さんですよ!?」
由乃は興奮してその手紙を握り締める。最早それが姉当てに届いた手紙だという概念は無くなっていた。
「ええ……なんでそんな凄い人が、お姉ちゃんに手紙を……? お姉ちゃん、フアンレターでも書いたのかな……?」
「……旦那って、本読むの? なんだか普段から辞典しか読んでない印象があるんだけど……」
「お姉ちゃんは私以上の本の虫ですよ。私が生まれた時にはもう家にある数少ない本は手垢が付くほど読み込まれて、最終的に辞典が一番面白かったと狂気じみたことを言っていました」
「うわぁ……」
風吹は奈落の意外な側面を知って、驚愕の表情を見せた。言われてみればあの語彙力は、辞典を諳んじてると言われても不思議ではない。
その時、入口の引き戸が音を立てて開いた。
「ああ、由乃。来ていたか。風吹、ご苦労だったな」
聞き馴染んだいつもの口調が聞こえて由乃と風吹がそちらに目を向けると、件の人物…極楽堂鉱石薬店の女主にて由乃の姉 極楽院 奈落と、見覚えのない和服の妙齢女性が共に立っていた。
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