その男、有能につき……

大和撫子

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第百七話

まほろば・中編

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 シーンと静まり返った部屋。時刻は午前八時を過ぎたところだ。曇り空に霧が立ちこめ、窓から見る外の景色はほんやりしたミルク色に覆われている。そこにあるのは庭園に続く道、遠くには森や山が見える筈なのに、今はその全てが曖昧だ。何だか俺の記憶と似てる。そこにある筈の記憶が、すっぽりと濃霧に覆われたみたいに隠れているんだ。隠されている、という表現の方がしっくりくるかな。

 明日が戴冠式だとかで、王太子殿下もダニエル始め側近たちも今日は予行練習で一日中不在だ。それは本番の明日の深夜まで続く。式典自体は明日の昼頃には終わるらしいけど、その後も王族たちは色々とあるそうだ。それはそうだろう。その為、この部屋に訪れる者は誰も居ない。

 食事の時間になると、応接用のテーブルに食事や飲み物が音もなく出現し、食事が済めば自動的に空の食器は消える。着替えは朝、机の上に置かれている。着替えたら、着ていた服はベッドの上に置いておけば良いんだとか。すると自動的に服もシーツや枕カバーなどは消え、代わりに新しいシーツや枕カバーに交換される。自動魔法というらしい。誰にも顔を合わせなくても済むから、非常に便利だ。俺にとっても、ダニエルにとっても。

 自動魔法について、心なしか嬉しそうに説明するダニエルに戴冠式後もそのままで良いと申し出てみたんだ。でも、そういう訳にはいかないらしい。『王太子殿下の大切な御方に、とんでもない事でございます』だってさ。大切な御方、て『愛人』て事だろうな。立ち振る舞いは丁寧だったけど、台詞は何だか棒読みだった。恐らく、あれはわざとだろう。俺の専属侍従なんて嫌なこった、て言う意思表示だ。それには敢えて気付かないようにしている。だって別に話し合う必要もないし、第一ここにずっといる訳じゃないし……ん? ずっとここにいる訳じゃない? そう、あくまでも一時的に……て。あれ? ここ放りだされたら住所不定無職で野垂れ死に……の筈だよなぁ。

 あれ? 何で俺、本は他にいるべき場所がある……なんて思ったんだろう。『異世界転移したら王太子殿下に拾われて超ラッキー……と思ったらすぐに住所不定無職になりました』ってラノベのタイトルがつきそうな状態なのに。しかしタイトルからして痛々しくて面白くなさそうだなぁ。

 まぁ、大体において元々の俺自体が典型的な名前のないモブキャラだし。『ムササビの五能』ってのは、まさに俺の為の言葉というか。何せ、容姿才能と完璧と言えるほどに優れた弟を持つ身としては、あからさまに馬鹿にされたり、存在そのものを無視されたりそれどころか存在そのものが無い事にされたりする事は結構あったし。生きる事に希望を持てなくてしんどい事もあったけど、それでも生きる事を諦めたりしなかった。だから案外打たれ強いんだ、雑草みたいに。万が一王太子殿下に飽きられたらその時にどうするか考えたらいいや。

 そう考えると、今のこの環境って夢みたいな奇跡のラッキー体験だよな。だってさぁ、アマチュアで趣味の小説を書き綴る事で大貴族様のような生活をさせて貰えるなんてさ。しかも、肉体関係も皆無で! うん、これは所謂『まほろば』の環境にいる訳だ。王太子殿下が飽きてお役御免にまるまで、精一杯物語を書き続けるぞ!

 さて、王太子殿下は人魚姫の幸せな結末の話が読みたい、て指示があったな。一万から三万文字以内の短編で、と。机に向かってパソコンを立ち上げる。前回はマッチ売りの少女の幸せな結末が読みたい、て指示だったし、もしかしたら王太子殿下は童話がお好きなのかな。

 ……だけどやっぱり何だか変だ。俺、本来はもっとマイナス思考で気弱だった……ような気がする。普通ならパニックに陥って右往左往していてもおかしくな筈なのに、開き直っているというか。

 それに、当たり前のようにかけているこのペンダントだよ。雫型の宝石(?)と盾の形のシルバーアクセサリー。見ていると何だか不思議と落ち着くというか。

 ……ま、いっか。なるようになるさ、きっと。多分……
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