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7日目 《バレンタインと契約満了》
しおりを挟む14日、バレンタイン。今日はオレの誕生日だった。
朝、いつもより早く目が覚めれば、熱はすっかり下がっていた。身体も軽くなった気がする。
オレは階下におりてキッチンへ向かう。
材料を確認すれば、製菓学校に通う姉がいるおかげで欲しいものは揃っていた。作り方は結構簡単だ。みんなが起きてくる前にササッと済ませてしまおう。
そう考えて、準備を始めて手際よく仕上げていく。毎年恒例だから、手順などはしっかり覚えている。キッチンには甘い香りが漂っていたが、気にしたら負けだ。どうせ、みんなの口にも入るものだ。文句は言われないのは毎度のことだ。
少し考えて、2人分をプレゼント用にラッピングした。残りは家族用ということで、皿に並べた。
使った器具の片付けまで全て終わったタイミングで、長兄が起きてきた。
「おはよう、葵。早いな。体調は?」
「おはよ。ありがとう、体調は大丈夫だよ」
「ん。今日はバレンタインか。恒例のトリュフだな。食べてもいいか?」
「いいけど、朝食まだでしょ」
俺の苦言は聞こえないものとしたらしい。ひとつ摘んで口の中に放った長兄が、美味い、と言うのを確認して改めてホッとする。余程のことがない限り失敗はしないけれど、やはり不安は残るものだ。
「ん? 今年は沢口くん以外にも渡すのか?」
「目ざといね……。うん、迷惑かけたし世話になったから悠晴に。それで、夜に車出してもらってもいい?」
「ああ、なるほど。構わないけど、夜なのか?」
「うん。渡すだけだから」
「わかった」
「ありがとう」
我が家は割と大家族の部類に入る。
両親に、兄弟はオレを含めて6人。長兄、次兄、3つ子である姉が2人と兄、それからオレが末っ子だ。6人目にしてやっと待望の母親に似た子供が産まれたとあって、父にはかなり溺愛されている自覚がある。
それだけの人数が毎日一緒に食事をとれるはずもなく。また、母の家事負担が大きすぎるから、事業を手がける父は、家庭のことに関して惜しみなく金を使う。家はたぶんデカい方だし、通いとは言え家政婦がいるというのも普通の家庭には珍しいと聞いた。
まあ、そんな訳で、朝食は特に決まった時間ではなく、各自それぞれに好きな時間に食べる。
「奏兄さん、今日はどうするの?」
「実は昨日ペニーレインに行ってきたんだ」
「え! わ、ホントだ!」
ペニーレインとは、地元にあるちょっと有名なパン屋である。県外からの客も多く、駐車場はいつもいっぱいで、店内も人でごった返している。
それが苦手で、オレは店に行くのは敬遠しがちなのだけれど。
「葵も好きだろう。一緒に食べよう」
「やった! じゃあオレ、コーヒー淹れる!」
「うん、頼むよ。葵」
「なに?」
「誕生日おめでとう」
「……ありがとう」
奏兄さんは、オレの頭をわしゃわしゃと撫でるというよりかき混ぜた。
「……後悔だけはするなよ」
「? ……うん」
言われた真意はよく分からなかったけど、とりあえず、頷いた。後悔するな、か。
もしかしたら、手遅れなのかもしれないけど。
奏兄さんと朝食を済ませて、沢口用にラッピングしたチョコを持って自室に戻る。
約束は10時。沢口はだいたい時間通りにチャイムを鳴らす。
スマホを確認すれば、悠晴からのラインメッセージがあった。誕生日を祝う言葉と、今日会いたい、という願い。
「会いたい……」
ぽつり、とその言葉だけを声に出していた。
オレだって会いたい。でも、それは悠晴には言ってはいけない言葉だった。
考えて考えて、それからやっと悠晴に返事を送る。
お祝いの言葉への感謝と、今日は家族で過ごすから会えない、という嘘を。
すぐに既読が付いたと思ったら、今度は電話の着信を知らせる電子音が響いた。メッセージを送った手前、出ない訳にはいかなかった。ひとつ吐息して心を落ち着けると、通話ボタンをタップした。
「……はい」
『葵……体調はどう?』
「ああ、熱は下がった」
『それなら良かった。……今日、どうしても会えない?』
「悪い。こんな日でもないと家族が揃わないんだよ。久しぶりなんだ、察してくれ」
これは嘘だった。うちの家族は夕食だけはそこそこの頻度で全員で食べる。父は仕事が忙しい時はさすがに不在になるけれど、大抵は一緒だ。ひとえに母を溺愛しているからだろう。
『……そうか』
「悠晴」
『うん、どうしたの?』
「あ、いや。なんでもない……」
『ねえ、葵』
「なに」
『ひまわりの花言葉って知ってる?』
「突然どうした?」
『知ってる?』
「たしか、『憧れ』と『あなただけを見つめる』だったか?」
ひまわりはオレにとって特別な花だった。『小日向葵』を並べ替えれば、その中には『向日葵』の花の名前が隠れている。子供の頃にそれを知ってから印象に残っている、好きな花のひとつだ。
『そっか。やっぱり知ってたね』
「それがどうかしたのか?」
『ううん、確認しただけ』
「……ふぅん?」
よく分からないけれど、相槌をうっておく。
そうして少し話して、時計を確認すれば沢口が来る時間が近付いていた。
「悠晴、悪い。ちょっと呼ばれたから切るぞ」
『そう……。残念だけど仕方ないね。また明日学校でね』
「……じゃあな」
決して、オレからは『また』という言葉を口にはしない。また会うつもりはなかった。会ってしまえば恋しくなる。そんなの、ツラいだけじゃないか。
「悠晴……」
目を閉じて、そっと名前を呼んでみる。
たった数日で馴染んだ響き。たった数日で、心の中のほとんどを占めるようになった人の名前。
小さく吐息して立ち上がり、オレは沢口を迎える準備を始めた。
オレはコーヒー派だけど、沢口はどちらかと言えば紅茶が好きだ。新しく仕入れた茶葉を用意して砂時計と一緒にトレーに置く。自分の分のコーヒーをドリップし始めたところでチャイムが鳴った。
通いの家政婦である園田さんが対応していたけれど、オレの視線に気付いて頷いてくれる。オレは玄関のドアを開けて沢口を迎え入れるために門へと向かった。
「久しぶり、かな?」
「そうだな。心配かけてすまない」
「ほんとだよ」
くすくすと笑いながら沢口が言うから、少しホッとする。
先に部屋に行ってもらって、オレは飲み物と貰い物のお菓子をトレーに乗せると自室に向かった。
「お待たせ」
「いつもそんなに気を遣わなくていいのに」
「オレが好きでやってるんだよ」
「ふふ、ありがとう」
フローリングにラグを敷いてコタツというオレの部屋で、沢口は真面目な顔で話題を切り出した。
「先に報告するね。1年の渡辺っていう、例のストーカー」
「……ああ」
「小日向は、子供の頃には分からなかったけど大人になってから発覚する発達障害って聞いた事ある?」
「なんとなく……」
「なんか、それの疑いがあるとかで。今、学校は休学扱いで入院してる」
「そうなのか?」
「いずれ自主退学ってことになるだろうって。それで、小日向へのストーカー行為ももしかしたら無罪放免って形になるかも……」
「それは別にいい。悠晴に対する暴力行為は?」
「そっちも怪しいかな。桐生が被害届でも出せば警察が動くんだろうけど、診断書もないし、今のところそんな様子はないみたい」
「……そうか」
はぁ、とため息をつく。
渡辺とは会話が噛み合わなかった事も含めて、なんとなく納得する。
「それより小日向。その桐生とはどうなってるの?」
紅茶を飲みながら沢口が聞いてくるから、オレはビクリと震えてしまった。
「一昨日の電話、明らかにおかしかったでしょ。アレもしかして、桐生に通話切られた?」
「……なんで」
「小日向もおかしかったけど、切り方が不自然だった」
オレの唯一とも言える友人は、とても察しが良かった。
はぁ、と盛大にため息をついて。隠すことはできないだろうと覚悟を決めて大まかな流れを説明した。
恋人契約の事は話してあるし、渡辺の事も知っている沢口だから言える。
悠晴の家に泊まることになった辺りから、ざっと話し終わると。
「なにそれレイプじゃん」
第一声がそれだった。
「違う。オレも拒まなかった。合意と言えば合意だ」
「しかも小日向を捕まえてセフレとか何事? ていうか、それ桐生がセフレって言ったの?」
「え? いや、そうではないけど。好きな人がいるって聞いた」
オレの返答に、沢口は、うぅーん、と唸っている。何か変なことを言っただろうか?
「あのね、小日向。その恋人契約の話を聞いた時のこと覚えてる?」
「あー、メモ機能でやり取りしたやつか?」
「そう。その時に桐生が来て途中になっちゃったんだけどさ。桐生の好きな人って、たぶん小日向のことだと思うんだ」
「…………え?」
「見てると分かるんだよねー。桐生が、誰のことを目で追ってるか」
「でも……」
「おれは桐生のファンだけど、好きではないよ。その方が冷静に見られることも、あるんじゃないかなぁ」
お茶請けにと用意したお菓子を口に運び、パクリと齧った沢口が、含みのある笑いを浮かべた。
「契約は今日までなんでしょ?」
「そう、だけど……」
「じゃあ、今日のうちに話すか、そうだな、手紙でもいいんじゃない? 素直になってみなよ」
「手紙……」
「小日向のことだから、明日から桐生のことを徹底的に避けるつもりでしょ」
「………………」
「まあ、そうだと思ったけどね。最後にするにしても、ちゃんと本音を伝えるべきだと思うよ」
「……わかった」
それから2人でチョコレートを交換して、誕生日プレゼントはリクエストを考えておいて、と釘を刺された。バタバタしていたおかげで用意できなかったらしい。
昼食は、オレの体調を考慮した結果、誕生日のホームパーティーが中止になった関係でかなり豪華で、沢口に驚かれて思わず笑ってしまった。そうして、数日会っていなかったオレたちは他愛もない会話を交わし、沢口は暗くなる前にと帰って行った。
沢口を見送って部屋に戻ったオレは、沢口の助言に従って悠晴に手紙を書いてみることにした。
姉のうちのどちらかがレターセットくらいは持っているだろうと聞いてみれば、割とシンプルなものが出てきて安心した。
シンプルな便箋には、シンプルな言葉を書き連ねてたたみ、封筒に入れた。
家族で夕食を食べた後に長兄に車を出してもらって悠晴のマンションに向かった。
ラッピングしたトリュフチョコの箱に手紙を添えて袋に入れ、悠晴の部屋番号の郵便受けに入れてその場を去る。
自宅に戻り、長兄にお礼を言って自室へ入ってから悠晴にラインでメッセージを送った。
『郵便受け見て』
『これで本当に契約満了』
そう送れば、すぐに既読がついて。数分後には着信があったけれど通話には出なかった。
出たら、話したら、今度こそ決心が鈍る。
オレはスマホの電源を切り、気持ちを切り替えるべく風呂に入って、そのまま寝てしまった。
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