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03. 溺愛

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 遥香の眠りは浅い。
 そのせいなのか、それなのにと言うべきなのか。
 遥香の寝付きと寝起きも、すこぶる悪かった。
 電話で起こされたりなんかしたら、それこそ、何を話したのか覚えていない程度には。
 それを確実に知っているはずの静香が電話してきた時には、嫌がらせと思うしかないだろう。
 枕元に置いた携帯電話の着信に、遥香は寝ぼけながらも、なんとか通話ボタンを押すことに成功したのは、もはや奇跡ともいえる。

「…………もしもし?」
『おっはよー、遥香っ』

 なにやら妙にテンションの高い、聞き慣れた声。
 寝ぼけているというよりは、ほとんど眠っているような状態で。
 考える訳ではなく、思いをめぐらせて。

「…………静香?」

 ようやく、それだけ問うと。

『当ったりー』

 またしてもハイテンションな声が携帯の向こうで答える。

『あのね、遥香。諒也いる?』
「……諒也?」
『そう』
「ちょっと、待って……」

 言いながら、遥香はベッドから下りる。
 静香に言われたことを理解出来ていないけれど、身体が反射だけで動いているような状態なのだろう。
 遥香が使っているゲストルームのドアを開け、その正面にある諒也の部屋のドアを、けれどノックもしないで開ける。
 そして、ベッドの中でまだ眠っている諒也を見て、何を思ったのか、遥香はその隣にモゾモゾと潜り込んだ。
 これにはさすがに、寝ていた諒也も飛び起きる。

「……って、なに!? 遥香!? こんな所で何やってんのっ!?」

 慌てて上半身を起こした諒也に、遥香は携帯電話を押し付ける。もちろん、先ほどから通話状態のままである。

「……電話。静香から」

 いっそ清々しいほど単純明快な言葉だけ告げて、遥香はすでに寝の体勢だ。

「静香さんから? 俺に?」
「…………ん」

 分かっているのか、いないのか。曖昧に生返事をした遥香は、諒也の隣で気持ち良さそうに瞳を閉じている。
 小さく吐息して、諒也は遥香から受け取った携帯を耳にあてる。

「もしもし、静香さん?」
『あ、諒也? おはよー』

 元気すぎるほど元気な静香の声に、諒也は軽い目眩を覚えた。

『あのね、今ね、諒也の家の前にいるの』
「はい?」
『開けて』

 先の言葉を証明するように、静香が言ったのとほぼ同時に、チャイムがピンポンと鳴らされる。

「…………」

 咄嗟には言葉が出なかった。まるで怪談の『メリーさん』のような電話ではある。
 だが。これは、お願いではない。きっと、命令。

『遥香も一緒にお出迎え、お願いね』
「ちょっ……、遥香は寝てる……って、静香さんっ!」

 静香は一方的に言うだけ言って、諒也の返事など待たずに通話はプツリと切れてしまう。

「ああ、くそっ」

 通話がオフになった遥香の携帯を枕元に放り投げる。
 そのまま遥香の方へ顔を寄せ、そっと呼びかけた。

「……遥香? 起きてる?」

 諒也の声に、遥香は小さく身じろぎをしただけだった。
 寝てる。絶対。
 そう、思ったけれど。

「悪い、遥香。俺、静香さんに逆らう勇気ないわ」

 聞こえていないだろうけれど、謝って。
 諒也は、遥香の布団を剥がし、その細い肩と両膝の裏に腕を差し込んで、そのまま掬い上げるように抱き上げた。
 器用にドアを開けて階段を降りて、玄関へは向かわずにリビングへと足を進める。
 ソファにゆっくりと遥香を寝かせてから、慌ただしく毛布を用意して、遥香に掛けてやる。
 遥香の寝顔を確認して、諒也はやっと玄関へと向かった。
 ドアチェーンを外してカギを開けると、ドアの向こうでは静香が待ち構えていた。

「遅いっ」

 怒っているというより、少し拗ねたような表情で。
 その静香の後ろには、困ったように微笑む知則が立っている。

「……無茶言わないでよ、静香さん」

 二人を招き入れながら、諒也はぼやくように呟いた。

「遥香は?」
「寝てます。一応、リビングに移動させたけど……」
「あ、ほんと?」

 静香は、ぱっと表情を明るくすると、リビングの方へ走っていってしまう。
 諒也はそれを、何も言えずにただ見送った。

「……悪いね、諒也くん」

 申し訳なさそうな表情で、知則が詫びてくるから。

「いや……。もう慣れました」

 苦笑で、返した。

「今日から、ご近所なんですよね」

 知則を招き入れてドアを閉め、施錠しながら諒也が話を振った。

「あ。うん、そう。よろしくお願いします」

 穏やかに笑って、知則が言う。

「や、こちらこそ。よろしくお願いします」

 お互いに軽く頭を下げ合って、顔を見合わせて笑った。
 そうして、諒也は知則を促してリビングへ向かう。
 静香は、遥香が寝ているソファのそばにしゃがみ込んでいた。

「遥香ぁ。起きてよぅ」

 駄々をこねる、子供のように。
 静香が、遥香に掛けられた毛布の端を軽く引っ張る。

「静香さん、無理です。今、何時だと思ってんの」
「え。4時」
「……遥香の寝起きの悪さは、静香さんも知ってるでしょ」

 苦笑して、吐息しながら諒也が言う。
 遥香の寝起きの悪さも、筋金入り。
 精神的でも、肉体的でも。その、疲労の度合いが増した分に比例して、寝起きも更に悪くなる。
 そういう事情からしても、今の遥香の状態があまりよろしくない事は、容易に想像がつく。
 昨日は、睡眠時間が少なかった上に、極度の緊張状態が数時間も続いたのだ。
 疲れていない方がおかしい。

「姉弟そろって、同じ事やらないでくださいよ」
「え、姉弟そろって……って」
「昨日は、遥香が」
「うわ」

 驚いて瞠目する静香と知則に、諒也は軽く肩を竦めて見せた。

「まあ、それは別に良いんだけど。ってか、一階の和室に布団敷くから。二人とも寝たら? 静香さん、酔ってるでしょ」

 いつもとは明らかに違う静香の様子に。顔には出ていないけれど、相当酔っているのだろうと見当を付けたのだ。
 諒也の言葉に、静香は笑うだけで答えないけれど。知則の困ったような微笑に、全ての答えは出ていた。

「静香?」

 諒也の提案に。どうする、と問うように知則が名前を呼ぶ。

「いい。ここにいる」

 ゆるく、首を振って。静香は遥香の寝顔を見つめた。

「今は、遥香の姉でいさせてよ」
「って、酔っぱらいのくせに」

 諒也の切り返しに、静香は苦笑する。
 遥香を起こすつもりが、あるのか無いのか。
 遥香のそばにいるけれど。でも、決して触れないように。
 その様子に小さく吐息して、諒也はキッチンに立った。冷蔵庫を開けると、ペットボトルから烏龍茶を人数分のグラスに注いで、リビングに戻る。

「はい。烏龍茶しかないけど」

 言いながら、静香と知則に、それぞれグラスを手渡す。

「あ。ありがとー」
「ありがとう」
「いえいえ。で? 何時まで飲んでたのさ?」

 知則にクッションを進呈して、諒也はラグの上に直接座る。
 諒也の質問に。静香は、遥香と良く似た綺麗な顔に嬉しそうな笑みを浮かべる。

「あのね。二次会、ワインバーだったの」

 その言葉で、諒也は静香の表情の意味を理解する。
 確か、遥香が前に言っていた。

「……静香さん、ワイン好きだもんね」
「うん。でも、そんなに飲んでないよ?」
「よく言う……」

 静香の自己申告にクレームをつけたのは、知則だった。

「一人でワイン五~六本も平気で空けて、居酒屋でもカラオケでも、ジュースみたいな感覚でカクテル飲みまくってたくせに」
「だって、遥香がいたら止められるから。たまには、好きなだけ飲んでみたいんだけどなぁ……」
「遥香くんが止めるのは、静香の身体を心配してるからだろ?」
「うん。そうなんだけどね。でも、いつも、まだまだこれからって時に止められちゃうんだもん」
「……毎日毎日、一人でワイン一本空けてれば充分だろ」
「…………」

 呆れたように静香を窘める知則の言葉に、諒也は絶句する。酒豪だとは聞いていたけれど。
 諒也が一緒にいる時は、そこまでは飲まない。ということは、彼女にとっては、飲んだうちには入らないということか。
 それでは、遥香が心配するのも無理はないだろう。

「けどね。私の身体を心配して怒ってくれる遥香ってね、めちゃめちゃ可愛いのよ」

 そう言って破願する静香は。
 姉バカ。
 そんな言葉があるのかどうかは知らないけれど。
 不意に諒也の頭に浮かんだその言葉が一番合いそうなくらいには、弟が可愛くて仕方がないのだった。


 明るくなって、遥香が目覚めた時。
 眠りにつく前とは、周囲の状況が明らかに変わっていた。ぼんやりと、まだ回らない頭で天井を見つめて、ただ、違和感を覚える。

「…………?」

 小さく身じろぎして視線を巡らせると、諒也の姿が視界に入る。
 床に直接座っていた諒也は、遥香の視線に気付いたのか、遥香の方を見て微笑を浮かべる。

「起きた?」
「…………」

 ゆっくりと吐息することで答え、視線には疑問を乗せる。
 どうして、リビングのソファなんかで目が覚めたのか。

「覚えてない?」
「?」
「静香さんと知則さん、来てるよ」
「…………え?」

 本当に覚えていないらしい遥香の反応に、諒也は苦笑する。

「明け方、遥香の携帯に電話あって、遥香が出たんだけど?」
「……ええ!?」

 思わず、上半身を起こして諒也の顔を見つめてしまう。

「ウチの前にいるからって、遥香に会いに。さっきまで起きてたんだけど、二人とも寝てないから、さすがにダウン。隣の和室で寝てるけど、まだ起こすなよ」

 寝起きのせいか、驚いたせいか。遥香は、すぐには言葉が出てこなかった。

「……何時?」
「ん? 八時」

 壁に掛けられた時計を見ながら答える諒也に。

「や、今の時間じゃなくて……」
「うーん、六時頃だったかな?」

 諒也が思い出すように告げた時間は、たぶん、静香と知則がダウンした時間。
 そうじゃなくて。
 遥香が聞きたいのは。

「や、あの。明け方って言ったよね? 二人が来たのって……何時頃?」
「……四時頃」

 ほんの少し、トーンを落として告げられた声。
 遥香は、項垂れて額に手をあてる。

「……ごめん」
「なんで遥香が謝るかなぁ」

 なんでもない事のように、諒也は笑うけれど。

「だって、それから寝てないだろ?」

 四時に起こされて、新婚の市村夫妻の相手をして、布団を用意して寝かせて。
 遥香をリビングまで連れてきたのは、考える必要もなく、諒也だということは分かる。
 彼の性格から、遥香をこのままにして部屋に戻ることもありえない。二階に上がるなら間違いなく、遥香も連れていく。
 だけど、遥香はソファで寝ていたし、遥香が起きたことに、諒也はすぐに気が付いた。
 数回に渡る移動は、眠りの浅い遥香の安眠を妨げることになると考慮したのだろうか。
 そういったあれこれを考えても、諒也はきっと明け方から寝ていないと思われる。
 その遥香の予想を肯定するように。
 諒也はただ、微笑んで肩を竦めて見せる。

「……一気に目ぇ覚めた……」

 よりによって、二日連続で。
 姉弟そろって、同じようなことをして、同じような時間に起こしたことになる。

「ごめん。ホントごめん。静香の分も謝っておく」

 ソファからおりて、床にへたり込むように座って。
 寝起きの掠れた声で、諒也に詫びる。

「今日は邪魔しないから。静香もちゃんと連れて帰るから、今夜はしっかり睡眠とってくれ……」

 二日間で大幅に削られたであろう諒也の睡眠時間を確保するために協力を惜しまないつもりだった遥香に、諒也は微笑んで見せて、髪をくしゃりと撫でてやる。

「大丈夫。ちゃんと寝てるから。気にすんなよ」
「でも……」

 少しだけ上にある諒也の顔を、窺うようにそっと見上げる。

「いいんだよ。嫌なら、ここまでしない。俺が好きでやってるんだから、遥香は気にしなくていいんだ」
「…………」

 そう言われても納得できない顔をしている遥香と。諒也は覗き込むようにして視線を合わせて、もう一度、微笑んで。

「な?」

 心配しなくてもいいのだと、念を押すような。
 甘えてもいいのだと、唆すような。
 そんな、諒也の態度に。
 何か腑に落ちないものを感じながらも、遥香は頷くしかなかった。

「…………ん」
「よし」

 ぎこちなくだけれど頷いた遥香の反応に満足したように。諒也は子供にするみたいに、遥香の頭を掻き回すように撫でる。
 そして、思い出したように。

「あ。そういえば」
「え?」
「静香さんたち、新婚旅行は遥香が夏休みに入ってからなんだって?」
「あ、うん」

 以前から静香に聞かされていた事なので、遥香はすんなりと頷く。
 けれど。

「で、その間、遥香は俺のウチで合宿って事になってるんだって?」
「ええっ!?」

 続けられた言葉は、初耳だった。
 驚いて、思わず声を出して聞き返してしまう。

「あ、やっぱり聞いてなかったんだ?」
「……聞いてない」
「俺もさっき聞かされたんだけど。遥香は何も言ってなかったから、おかしいなとは思ったんだけどね」
「先にオレに言えよ、静香……」

 隣の部屋で寝ているはずの静香に、思わずぼやく。
 物事には、まず順序というものがあるだろう。
 どうして、弟である遥香の方が諒也に聞かされるのか。
 とはいえ。
 静香が故意に遥香に伝えなかった訳ではないことは、分かり切っている。
 静香に確認すれば、言わなかったっけ、とか言われるに違いない。普段はしっかりしている割に、こういううっかりミスをしでかすのだ。
 遥香も諒也も、そんな静香にはもう慣れたけれど。
 それでも。やっぱり、ため息をつかずにはいられない。
 疲れたように、大きく吐息する遥香に。

「ま、静香さんだから。仕方ないだろ」

 諒也が、優しいのか辛辣しんらつなのか分からない言葉をかける。

「……まあね」

 遥香は諒也を見上げ、諦めたような苦笑を浮かべた。
 ちょうど、その時。

「遥香くん、諒也くん、おはよう」

 起きてきたらしい知則が、二人に微笑みかける。

「おはよ……って、知則さん、なんで起きてんの?」

 反射的に挨拶を返しながら、遥香は呆然としたように知則を見上げていた。

「なんでって……」

 言われた知則の方が当惑する。
 なんで、と言われても。知則の表情が語っているから、遥香は聞き方を変えた。

「だって、さっき寝たばっかりだって聞いたよ?」

 ほんの二時間程前に寝たばかりなのだと、諒也が言っていたではないか。

「ああ。うん、そう。でも、なんだか目が冴えちゃってね」

 そうしたら、声が聞こえてきたから。だから起きてきたのだ、と。
 知則が苦笑しながら言う。

「昼間、眠くなるよ?」
「やっぱり、そうかな? でも、昨日の一番大変だった部分は静香が引き受けてくれたからね。俺が疲れたなんて、言ってられないよ」
「……にしても、タフですよね」
「静香がね」

 穏やかに笑みながら、知則は諒也の隣に腰をおろす。

「あ、そだ。知則さん。新婚旅行の最中、オレがこっちに泊まるっていうの、オレ聞いてないんだけど」

 遥香が抗議するように言うと、知則は困ったように微笑んだ。

「ちゃんと伝えたっていうのは、じゃあ、静香の勘違いか。……うん、まあ、そういう訳なんだけど」

 言いながら、知則は遥香の方へ身体ごと向きを変える。

「夏休みとはいえ……いや、夏休みだからこそ、かな? 二週間も遥香くんを家で一人にしておけないっていう事になってね。それなら、諒也くんが近くにいるじゃないかという訳で、お願いするのが一番いいんじゃないかと結論が出たんだよ」
「って、オレ女の子じゃないんだから」

 改めて知則の口から説明される内容が過保護すぎて、思わず呆れたように遥香が言うけれど。

「いや、心配だろう」
「うん。実は俺、頼まれなくてもウチに泊めるつもりだったし」
「…………」

 二人から速攻で反論が入る。
 いや、過保護すぎでしょ……と。
 もはや何度思ったか分からないことを、遥香は今日も二人にひしひしと感じている。
 女性ではないのだから、という遥香の主張ももっともなのかもしれないけれど、自身の美貌に無自覚で無頓着な遥香を、諒也たちが心配するのも道理であって。
 ただし、周囲のそんな思いを、遥香は半分も理解してはいないのだけれども。

「分かりました……。こっちに泊まりに来るよ」

 二人がかりでの視線の圧力に、諦めたように吐息しながら遥香が降参する。

「よし」

 満足そうに頷いたのは諒也だった。

「夏休みといえば、そろそろ試験始まる?」

 そして、不意に投げ掛けられた何の脈絡もない知則の問いに、遥香と諒也は同時に知則の方を振り返る。

「うわっ。ヤなコト言わないでよ」
「いや、来月です」
「あ、そうか」
「なに? 家庭教師の件?」

 遥香の言葉に、知則は少し困ったような微妙な表情を見せる。

「その家庭教師って言い方、いい加減やめようよ。そもそも俺、教免持ってないんだから」

 照れと困惑が入り交じったような表情で、知則が言う。
 教免を持っていないどころか、教育学部でもなかった知則は、遥香が友人の弟だったという、ただそれだけで。本当に、純粋な厚意で勉強を教えてくれているのだ。
 月謝などもない、いわばボランティアである。
 報酬と呼べるものがあるとすれば、それは篠宮家で出される夕食くらいなものだった。
 それでも。

「そうは言っても、オレは勉強を見てもらってる立場だしさぁ」
「じゃあ、勉強会? 俺も、遥香のついでに時々見てもらってるし」

 諒也は試験期間の直前に限って、時々知則に見てもらうことがある。というよりは、遥香が緒方家に遊びに来ていて、知則にこちらまで上がって来てもらい、そのまま勉強が始まるという状況なのだけれど。

「うーん……、まあ、そうかな……。じゃなくて」

 知則は小さくコホンと咳払いをして。

「そうじゃなくて。内容の方なんだけどね。そろそろ、俺に教えられるのにも限界があるかな、と」

 知則の言葉に、遥香はきょとんと彼を見上げる。どういうことだろう。

「俺も優等生だった訳じゃないし、勉強のレベル的な話。高校の内容となってくると現役離れて長いし、『教える』って状態は、そろそろ無理かもな、と……。実は、夏から残業も増える予定だしね」

 本当に申し訳なさそうに言う知則に、遥香の方が恐縮してしまう。
 そもそも、知則の本職は、普通のサラリーマンなのである。
 冬の終わり頃から徐々に、時間を取るのが難しくなってきていることも事実だった。

「や、大丈夫だよ。もともと、ワガママ言ってるのはオレの方なんだし。えーと、諒也の方が成績は良いから、諒也に聞くし」
「……オイ」
「それでも分からなかったりした時は、聞きに行ってもいい?」
「それで、俺が答えられるかどうかは不明だけどね。それでもいいなら、喜んで」

 まるで駄々をこねる子供のように言い募る遥香に、知則は穏やかに微笑んで了承する。

「……ありがとう」

 遥香はふわりと微笑んで、ふと気が付いた。
 胸が、思ったほど痛くない。
 昨日気付いたと同時に失った恋。その相手を目の前にして、心が全く痛まない訳ではないけれど。まだ少し、重いけれど。
 それでも、笑える。
 平気じゃないけど、ちゃんと笑って、知則と話ができる。
 これはきっと、昨日、泣いたおかげ。
 涙には、自浄作用があるらしい。泣いたことで、心が軽くなったのだろうか。
 不意に、諒也が気遣わしげな視線を投げてくるのに気が付いた。
 遥香の気持ちを知っている諒也が、大丈夫か、と視線で問いかけてくる。
 遥香は、優しさに包まれているような、あたたかい気持ちになって。
 ふわりと微笑んだ。
 大丈夫、と小さく頷いて見せる。
 これは、きっと。
 全部、諒也のおかげ。
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