【18禁版】この世の果て

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第三章 悲しき再会

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『愛ーーその手段においては両性の闘い、その根底においては両性の生命がけの憎悪

                     ーーフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ』





この世の果ての風景か……。

君があの日言った言葉の意味が、今の私には痛い程よくわかる。

なんて寂しい光景なんだ。

なんて……ここは……。







「歌を忘れたカナリアは……ただの黄色い鳥にすぎませんわねぇ?」


静かな午後の昼下がり。

二人の女が対峙していた。

一人は黒の着物に身を包んだ、凛とした美しい女だった。

一人は白の洋装の可憐な雰囲気を漂わせる、まだ女というには若すぎる美少女だった。

黒衣の女は続ける。


「では、ピアノが弾けなくなったピアニストは……ただの哀れな女にすぎませんわねぇ」


少女は答えない。

ただ、その細い肩を微かに震わせ、俯いたままだった。

黒衣の女は少女の答えを待たずに、再び言葉を紡いだ。


「いいかげん、お気づきなさいな。あの人が愛したのは……あなた自身ではなく、あなたのピアノだったのだということに……」


「いいえ……。いいえ。違います」


白い影がゆっくりと顔を上げた。

涙に濡れる美しい顔を上げた。


「あの人は……わたし自身を愛して下さっています」

「愚かなこと。その自信はどこから生まれるのでしょうねぇ?いいかげん、目をお覚ましなさいな。あなたは捨てられたのですよ?」

「いいえ……いいえ。あの人は……必ずわたしを選んで下さいます」

白い女の言葉を、黒衣の女は鼻で笑った。

「可哀想な人ね。あなたも……」

「可哀想なのは、あなたですわ。奥様」

黒衣の女の顔から笑みが消えた。

「可哀想?私が?……馬鹿な。私こそ、あの人の妻です」

「そんなもの、一体なんの意味があるというのですか?」

黒衣の女の動きが停止した。

「地位や名前や家や戸籍がなんになりましょう……。彼は……彼はあらゆることに縛られているんです。

あの人は苦しんでいるわ。私なら、彼を縛る鎖を解き放つことができる」

「おだまり……おだまり……」

「この家に縛られているのですね。……可哀想な人。あの人も……そして……あなたも……」

「おだまりなさい!!」

黒衣の女は思わず、自分の湯のみ茶碗を白い女に投げていた。

茶碗は少女の肩をかすめ、柱にぶつかり、砕けた。

「可哀想な人。でも、いつかあなたにもお分かりなる日が来ます。

そして、その時、後悔なさるんだわ。たとえ……どんなことがあっても、人の心は変わらないのですから」







「もうすぐ日本に帰国ね。美麻ちゃん」

声をかけると、美麻は嬉しそうににっこりと頷いた。

「日本が恋しい?」

「えっ……。はい。こちらでも沢山の優しい人たちに出会えて……嬉しかったですけど。やっぱり、日本がいいです……」

それは「彼」がいるから?

そう問いかけようとして、澤原柚生は慌てて飲み込んだ。

なぜなら……。

「明日、いよいよ美麻ちゃんが帰国するのね?会えるのが楽しみだわ」

先日の電話の相手・ひまわり園の園長を務める美作弥生は、柚生の同級生だった。

同時に「彼」もまた二人の同級生なのだが。世の中とは、本当に狭い。

「それで……美麻ちゃんに話したの?」

弥生の声が、心なしか低く感じられる。

「いいえ……。言わなくちゃとは思ってるんだけど……」

「気持ちはわかるわ。でも……早く伝えないと……美麻ちゃんが、彼に会って悲しい思いをする前に……」

柚生は思わず胸が締め付けられるような思いがして、少し声のトーンが下がった。

「わかってるわよ……」

「でも、確かに伝えにくいわよね。海杜君が結婚したなんて……」

そうだ。雪花海杜は、美麻がずっと憧れ続けてきた人物。

いや、それだけではない。美麻にとって海杜は心の支えだったのだ。

彼がいたから、この異国の地でも一生懸命頑張れた。美麻自身の口から何度も聞かされた。

彼のおかげで自分は夢を叶えることができた。だから、私は彼の為に頑張るのだと。

柚生はいつも海杜を引き合いに出しては、赤くなる美麻をからかったものだった。

そんな海杜が結婚したと知ったら、美麻はどれだけのショックを受けるのだろうか。

美麻の悲しみを思うと、柚生は海杜に文句のひとつでも言ってやらないと気がすまない。

どうして美麻を選ばなかったのか。こんなにいい娘を選ばないなんて、まったく理解に苦しむと。

でも、同時に柚生は心のどこかで美麻と海杜が結ばれることはないだろうとも考えていた。

海杜は普通の人間ではない。

二千人の社員の頂点に君臨する地位に座る男なのだ。

いくら新進気鋭で将来有望とは言え、ただのピアニストである美麻とは住む世界が違う。

美麻は愛してはならない人間を愛したのだ。

「あっ!!陸が見えてきました!!日本に帰ってきたんですね!?私……!!」

無邪気にはしゃぐ美麻を見つめながら、柚生は小さくため息をついた。





「新人ピアニストの密着取材~?」

アタシは思わず声を上げていた。

アタシ的に普段の十五倍(当社比)って感じのボリュームのつもり……だったんだけど、

いつも通り騒がしい編集部では、これくらいの大声を出したって、だ~れもこっちなんかに気を留めちゃくれない。

わかっちゃいるけど、少し寂しくなる。

実際、目の前の編集長でさえ、こっちをちらっと一瞥しただけだった。

アタシは伊山凛いやま りん

一応……肩書きはフリーのルポライター。

今はここ、女性向けの月刊誌「ChaCha」で書かせてもらっている……。

よく言えば、寄稿。悪く言えば……載せてもらってるって感じ?

もともとは新聞社でバリバリの事件記者を目指してたんだけど……なかなか世の中上手くいかないみたいで。とほほ。

「不服か?伊山」

編集長はでかい黒ぶちのめがねをちょっと上げると、資料に目を落とした。

こういう女性誌の編集長って、すごいお洒落で有閑マダムみたいな人がやるもんだと思ってたけど、

ここの編集長ってば、確かに女性だけど、化粧っけはないし、

格好だっていつも男みたいなかっきりしたスーツだし……イメージ狂う……。

ま、編集長……化粧っけのない人だけど、結構美人だとは思うんだけどね。

なんて心の中でよいしょしてもしかたないっか。

「ふ、不服も不服ですよ。アタシ、これでも事件記者志望なんですから。

そんな新人ピアニストの密着取材なんて、アタシの領域なんかじゃないですもん」

「取材対象は去年、全日本ピアノコンクールで彗星のように現れ、

全国のプロ候補生たちを抑えて優勝をかっさらった天才少女・咲沼美麻だ。

でなこの子のプロフィールだが……」

「ちょっと編集長!!アタシの話聞いて下さいよ!!」

編集長はアタシの方を見向きもしない。

その一本に結んだ飾り気のない黒髪をこっちに引っ張り上げたい衝動を抑えるのに一苦労だった。

「驚きなことに、この子、誰の手ほどきも受けずに独学でここまでやってきたってんだよ。

恐れ入ったね。普通だったら、この子にはコンクールに出場する資格さえなかったらしいんだが……

なんか推薦人が現れてこの子をコンクールに送り込んだんだと。

まさにこの少女は現代のシンデレラって訳だな。

しかも、自分の実力だけでのし上った……。

こういうのに今の女性読者は弱いんだ。

この子を密着取材して、スターに祭り上げて売り出せば、確実にウチの部数は伸びる」

「だ~か~ら!!編集長!!アタシは!!」

「ほほ~。では、先々月と先月の原稿料前借分……今ここできっちりと耳揃えて払えるって訳だな?伊山」

グサっ!!痛い……痛すぎる……。

「…………」

「どうなんだ?伊山。払えるのか?」

おっ……鬼~~~~~~っ!!

「はい!!伊山凛、謹んでこの密着取材、拝命させて頂きます!!」








「うわああ……」

ドアを開けた瞬間、わたしは思わず声を上げていた。

こんな大きいパーティ……はじめて。

周りを見回すと、あちこちにテレビとかでよく見る顔があって、一気に血の気が引くのを感じる。

ステージの上には、すでに沢山の有名な音楽家の人たちが整列していた。

わたしは後ろから柚生さんに促されて、慌てて壇上に上がった。

まさか、憧れだった人たちと同じステージに立てるなんて。

嫌だな……。膝が笑ってる。

ライトが眩しい。視線が痛い。

みんな、きっと場違いなわたしを笑っているんだろう。

ふと客席から視線を映した私の目に留まった文字。


「―――主催:雪花コーポレーション」


海杜さんの会社だ。

懐かしいな。海杜さん。

たった一年だけど……すごくすごく長く感じられる。

来てるのかな?

どこ……?

どこにいるの?

海杜さん。







髪が伸びたのか。

少し、背も高くなった。それは、ヒールのせいだろうか。

とにかく……あの頃よりも、ずっと綺麗になった。

たった一年の間にも、時は確実に美麻を一人の少女から女性へと変化させていた。


私は主賓と書かれた大袈裟な花を胸に付け、遠くのステージに視線を送り、美麻を見守っていた。

他の著名なピアニストを退ける程の魅力で、美麻は眩しくステージに君臨していた。

おどおどとした雰囲気は影を潜め、そこには一人のピアニストとしての自信に満ちた姿があった。

長い髪をアップにしているせいか、少し濃いシャドウのせいか、だいぶ大人びた印象だった。

そして、何よりも驚いたのは衣装だった。

ノースリーブな上、背中と胸元が大きく開き、繊細な白い肌が露になっており、ドレスの黒色と好対照をなしていた。

これでは、上半身はほとんど半裸といっても差し支えない。

スカートは足首までとかなり長いが、大きくスリットが入り、美麻の形のよい足が見え隠れしていた。

美麻はピアニストとしても、女性としても確実に成長を遂げていた。

「見惚れてる?海杜君」

私はいきなり声をかけられて、心臓が飛び出さんばかりに驚いた。

振り返ると、澤原柚生がチャシャ猫のような笑みを浮かべて立っていた。

私は咳払いをひとつすると、感じたままのことを言った。

「随分……大胆な衣装だと思ったものだから」

「そりゃそうよ。美麻ちゃんは売り出し中のピアニストよ。インパクトは大事にしなきゃ。

それに、あれだけ綺麗な子だからね。普通の格好じゃ、勿体ないでしょう?

でもね。着せるまでが大変だったのよ。肌を見せるのが、恥ずかしいからって。今時珍しい古風な子ねぇ。ほとほと感心したわ」

私は美麻の内面があの当時のままなことがわかり、少し嬉しかった。

だが、やはり感じたことは口をつく。

「しかし……。あまりにも……大胆すぎじゃないだろうか」

私にとっては、美麻の肌があまり多くの人間の眼前に晒されるということは、

あまり気分のよいことではなかった。そんなこと、言える義理ではないのだが。

「あらあら……ここにも化石みたいな人がいたのね」

そう言って柚生はやれやれと首を振った。だが、すぐに真顔になると、

「それとも……海杜君。君、美麻ちゃんのこと……」

と続けた。私は核心を突かれ、一瞬声を失った。

「……いえ」

「海杜君、忘れないでね。あなたはもうあの頃のあなたじゃないのよ?」

彼女の言葉はナイフのように、私の胸に深く突き刺ささり、抉った。

そうだ。私には既に家庭がある。他でもない、自分で選んだ道だ。

そして、美麻には輝かしいピアニストとしての未来が広がっている。

私と美麻の道は、はっきりと分かれてしまったのだ。他ならぬ、私の決意で。

美麻の為には、それが正しい判断だと思われた。美麻には未来がある。

私のような罪深い男とは関わらない方がよいのだ。

本当は、二度と会わない方がよいのかもしれない。

だが、私の地位からはそれは難しい相談だった。

雪花コーポレーションは、父の代からこうした音楽家のバックアップを常としており、

私自身も音楽好きだったので、こうした活動をやめる気はなかった。

それに、やはり私は美麻との糸が永遠に切れてしまうのは、耐えられなかったのだ。

ただ、こうして遠くから見守るだけでもいい。

私は美麻を自分の瞳に映していたかった。

今の私にとっては、美麻との思い出だけが輝いたものだった。

美麻が載る雑誌を目にする度、私の中に暖かいものが流れ込む。

莢華と結婚し、私が妻を得た現在も、英葵と恭平から受ける恥辱の日々は続いていた。

毎晩絶望を感じながらも、自分がまだこうしてここに生きているのは、美麻の存在があるからかもしれない。

「わかってる……。わかっているよ」







まずアタシは、咲沼美麻が留学から帰国後初めて参加する音楽関連のパーティの取材を命じられた。

カメラマンはなし。つまり、アタシはカメラマン兼記者って訳ね。

く~っ!!いつか、カメラマンをはべらすような記者になってやるっ!!

それにしても……取材対象の子……綺麗だなあ……。

きっとあれは特注のブランドもののドレスなんだろうなぁ。

そんなに身長は高くないけど、引っ込むとこは引っ込んで、出るとこは出てる……理想的なプロポーションに、あの顔立ち。

濃い目の化粧がモデルさんみたいですごくよく似合っている。

それに引き換え、アタシはパーティだっていうからとっておきの一張羅を着てきたんだけど……。

これだけ差をつけられると、同じ女だって事実がいやになってくる……。

いくら独学でピアノやったんだっていったって……あの子だってどっかいいとこの子女に違いないんだもんな~。

世の中不公平だいっ!!む~ん。







咲沼美麻はあいさつ回りをさせられた。

美麻は売り出し中のピアニスト。

何よりも顔を売ることが大切だった。

だが、美麻は正直、あまりこういうのは得意ではない。

柚生がいなかったら、こうして上手くできたかどうか、わからなかった。

「あら。咲沼さん。お久しぶりね」

美麻が、聞き覚えのある華やかな声に振り返ると、そこには白いドレスに身を包んだ、綾小路莢華が立っていた。

「遅れてごめんなさい。主人と二人で出席する予定でしたのに。彼の代理で、別の会合に出ていたものですから」

「主人……?」

事態が飲み込めず、きょとんとした美麻に莢華は、勝ち誇ったような笑みを向けると、答えた。

柚生は慌てて間に入ろうとしたが、遅かった。

「あら。御案内……届いてませんでしたかしら?私と海杜お兄様いえ。海杜さん、結婚しましたのよ?半年前に」

「えっ……」

美麻は一瞬、自分が悪い夢でも見ているのではないかと錯覚した。

だが、目の前の莢華の微笑みは、どう考えても現実のものだった。

柚生は唇を噛んだ。

「あの……おめでとう……ございます。すみません……私、何も……知らなくて」

「いいのよ。咲沼さん。あなたは海外でお忙しかったんですから。ご活躍のようですわね。同級生として、鼻が高いわ。うふふ」

「い……いえ……」

「どうされましたの?お顔の色が冴えませんわね?お加減でもよくないのかしら?」

「いいえ……。あの……本当に……おめでとうございます!!」

美麻はそう言うと、足早に莢華の前から走り去った。

「美麻ちゃん!!」

柚生は慌てて彼女の後を追った。

背後からは、勝ち誇ったように笑う莢華の笑い声が響いていた。







美麻は、ある会社の重役達の輪に入っていた。

彼らは美麻の容姿を褒めちぎり、時折、美麻の剥き出しの肩や背中に触れた。

だが、今の美麻にはそんな行為を咎めるような余裕がなかった。

綾小路莢華から聞かされた事実が、美麻の精神を支配していた。

柚生もまた有名なピアニストということで、別の輪に呼ばれ、美麻とは別行動だった。

美麻にとっては、それが災いした。

飲めないアルコールを勧められ、感覚が麻痺したようにそれを流し込む。

見た目とは裏腹な飲みっぷりを披露する美麻の姿に彼らはやんやと歓声を上げた。







「いや、実にいい飲みっぷりですな。お嬢さん」

どこか遠いところからでも響くような声。

目の前がゆっくりと歪んでいく。

鼻の奥がつんとする。

嫌だな。最近泣いたことなんてなかったのに。

頭が痛い。

なんだか、身体がふわふわする。

ヤダな……。

なんだか、くらくらする。

飲めないお酒なんて……飲んだせいかな。

どうしよう……立っていられない……。

「どうしたんです?咲沼さん」

「お顔の色が冴えませんよ?」

人々の声が不思議なエコーごしに聞こえる。

大丈夫。

そう、笑いかけたつもりだけど、うまくできたか自信がない。

もう……限界。どこかで休まないと……。

「あの……すみません……私……」

足元が崩れるような感覚。

遠くから聞こえる悲鳴。

足元で弾けるグラス。

わたし、どうしていつもこうなんだろう。

いつも大事な時に限って……。

暖かい感触。

次の瞬間、鼓膜に伝わる、懐かしい声。

「どこか、休ませるところはありませんか」

まさか、そんなはずはないよね?

きっと、幻聴。

優しく頬に触れる暖かくて大きな手の感触を感じながら、わたしは意識を失った。








「どこか、休ませるところはありませんか」

私は美麻の身体を抱き留め、声を上げた。

慌ててボーイが駆け寄り、「医務室が」と言って私を案内した。

他のボーイが「どなたか、お医者様はいらっしゃいませんか」と声かけをしている。

美麻の頬に触れるが、反応がない。

意識を失っているようだった。

微かに甘い香りが鼻をついた。

どうやら、アルコールを……しかも相当な量を飲んだらしい。

急性アルコール中毒などでなければいいが。

私は美麻の身体を抱き上げ、ボーイの案内に従った。

ふと、背中に視線を感じて振り返ると、莢華がきつくハンカチを握り締めて立っていた。

私は見ないふりをして(卑怯だと思う)会場を後にした。







ヤバイ……かなりいい男……。


アタシはいきなり現れた貴公子にしばし瞳を奪われた。

しかも、軽々と美麻嬢をお姫様抱っこ……。


ヤバイ……絵になる……。


アタシはこっそりとシャッターを押した。

ファインダー越しに覗くと、本当に一枚の絵画みたいな高貴さ。

でも、あの人……確実にアタシより年上だよね。

アタシ……年下専門だから……って場合じゃないっ!!

アタシは慌てて二人を追いかけたっ……けど、時、既に遅し……。

医務室のドアは無情にも10メートル先で閉じられた。

あ~あ。やっちゃった……。

でも、こんなとこまで取材してもしかたがないっか……。

なんか記者になってから、取材対象のことならなんでもかんでもプライベートとか

関係なしに書かなきゃって気負ってる自分に気がついて嫌になる。

アタシはちゃんと節度を弁えた記者になる。

そういうポリシーのもとに記者になったんだってこと……忘れたくないもんね……。

アタシはそう自分に言い聞かせると、会場に戻ることにした。







優しく医務室のベットに美麻を横たえると、美麻は少し、眉をひそめて小さく吐息を漏らした。

苦しいらしい。

医師はまだだろうか。

ふと、ボーイを見ると彼が顔を赤らめて俯いているのに気が付いた。

慌てて美麻に目を戻すと、彼女のドレスのスリットがめくれ上がり、白い太腿が露になっていた。

私は慌てて裾を戻すと、毛布をかけた。ボーイは、そっと部屋を出て行った。

私にもできることはない。

意識を失っているとは言え、妻以外の女性と同じ空間にいるということは、今の私には許されないことだ。

それに、実際、莢華のことも気にかかった。

今の私は、彼女の夫という地位にも縛られているのだ。

私はそっと立ち上がった。

「いかないで……」

私は思わず、振り返っていた。

だが、美麻は依然、意識を失ったままだった。

夢でも見ているのだろうか。

やがて、美麻のまぶたから涙が溢れ出してきた。

「行かないで……。行かないで……」

美麻は子供のようにしゃくりあげて泣き出した。

「うっ……嫌だ。行かないで……いなくならないで。海杜さん……」

私は自分の名が呼ばれた瞬間、思わず、あても無く泳ぐように差し出された手を握っていた。

「美麻。ここにいるよ。僕はここにいる」

すると、美麻は理解したのか、にっこりと微笑んだ。

この瞬間、私は莢華との結婚を初めてはっきりと後悔した。

そして、確信した。


私は美麻を愛している。


心を偽ることには慣れてきたはずだった。

だから、きっと自分は莢華を妻としてやっていける。

そう思い込んでいた。だが、美麻はこんなにも私の深いところまで食い込んでしたのだ。

「美麻……」

今頃気が付くなんて……私は馬鹿だ。

いったい、どうしたらいい?

こんなに君が、愛しいのに。

だが、同時に私はこの子を愛する資格など微塵も持ち合わせてはいない。

あの日、私が見捨てた夫妻の顔が過ぎる。

私は彼女の手をそっと毛布の中にしまった。

ちょうど、その瞬間ドアが開き、まだ若いの感じのインテリ風の男性が入ってきた。

彼は医師だと名乗り、名刺を差し出してきた。

名刺にはW大学の医学部の名が刻まれていた。

「やあ、どうも。私は熊倉と言います。熊倉比呂士。おや、こちらが患者さんですか?

随分、綺麗な方ですね。っとあれ?こちら……ピアニストの咲沼美麻さんじゃないですか。

光栄だなあ。私、ファンなんですよ。あ~。でも、残念だなあ。

気を失っているから、サインがもらえない……」

彼はそう一気にしゃべり倒すと、美麻の脈を取った。

「軽い貧血でしょうねえ。うん、アルコールはかなりやられたようだけど……中毒の症状ではないですね。

しかし、私、生きてる患者さんを診るのは、本当に久しぶりですよ」

「は?」

「いえ。なんでもないです。では、診察しますので……よろしいですかね?」

私はそれを期に、医務室を後にした。







目覚めると、ひどく頭が痛んだ。

わたし、いったいどうしたんだろう?

「あら、美麻ちゃん。まだダメよ。起きたら。ちょっと熱もあるらしいって話だから。

もう~。心配したのよ?無茶、しないでね?」

柚生さんが、心配そうに私をベットに押し戻した。

そうだ。わたし、酔っ払って倒れたんだったっけ。

何やってるんだろう……。

「すみません……」

「それに……海杜君、心配してたわよ」

「えっ……?」

「やだ。覚えてないの?ここまであなたを運んでくれたの、海杜君よ」

「あっ……」

あれは、幻聴でも幻覚でもなかったんだ。

優しいぬくもり。

あれは……海杜さんだったんだ。

どうしよう……。胸が痛い。

身体が熱い。

また、泣き出してしまいそう。

海杜さん、綾小路さんと……。

「美麻ちゃん。つらいけど、わかってるわね?」

「……はい」

もう、海杜さんは本当にわたしの手の届かない人になってしまったんだ。

ふと顔を伏せた瞬間、ドアが開いて、同時に懐かしい声が響いた。

「美麻!!」

「き、菊珂ちゃん……」

それは、紛れもなく、菊珂ちゃんだった。

留学の間、毎日のように電話をしていたけれど、こうして目の前に現れると、やっぱり感慨深い。

「倒れたって聞いたから、びっくりしてしまって……お迎えに行けなくて、ごめんなさいね?」

菊珂ちゃんは、すっかり大人っぽくなって、ますます綺麗になっていた。

お兄ちゃんとも順調らしくて、本当によかった。

菊珂ちゃんは、わたしを抱き締めた。

「美麻、会いたかったわ。あなたがいなくて、本当に寂しかったのよ」

「私も嬉しい……菊珂ちゃんに会えて……」

わたしは菊珂ちゃんをきつく抱き締めた。

わたしの目からはまた自然と涙が溢れていた。今度はうれし泣きだったけれど。

わたしは、そっと菊珂ちゃんの身体を離すと、言った。

「海杜さん……結婚したんだね?」

「……美麻!!どうしてそれを……」

「昨日、莢華さんから……聞いたの」

すると、菊珂ちゃんは苦虫を噛んだ様な顔をした。

「莢華が……そう。ごめんなさい……あなたに知らせなくて……

私、美麻が悲しい思いをするって思うと、どうしても伝えられなかったの。

せめて、留学の間だけでも……知らないままでいて欲しかったの」

「ありがとう。菊珂ちゃん。私、平気よ。言ったでしょう?私、わかってるって」

「美麻……」

「大丈夫、私、平気だから……」







「美麻ちゃん!!本当に美麻ちゃんかい!?」

昼間のサッカースタジアムで、槌谷玉は美麻と再会を果たした。

玉は現在、プロのサッカープレイヤーとして活躍していた。

「槌谷先輩、すごいですね。プロになる夢……叶えたんですね!!」

「ああ。君のおかげだよ。君が外国でがんばっているなら、僕も頑張らないと……そう思ったんだよ」

玉にとっては、何より、美しく成長した美麻の姿が眩しく心に刺さる。

一年前、美麻に告白しながら報われなかった想い。

その想いは玉の中で変わらずにくすぶり続けていた。

だが、玉は同時に美麻が自分以外の誰かに向けているという想いをそっと応援しようという想いもまた持っていた。

だが、美麻の帰国の前日、玉は久しぶりに園長と再会した。

玉はプロのサッカー選手になった今も「ひまわり園」を時々訪れ、

園の子供たちとサッカーをしたり、多額の寄付を行ったりしていた。

「槌谷君。美麻ちゃんの……支えになってあげて欲しいの」

弥生は、玉に向き合った。

その真剣な眼差しに、玉は少し怯みながらもその目を真剣に見返した。

「支え……ですか?」

「そう。美麻ちゃんは、今、とても苦しい思いをしているわ」

「苦しい思い……?どうしてですか?今、彼女はあんなにも輝いているのに」

玉は読み慣れない音楽雑誌の表紙を飾る美麻の笑顔を思い出し、ふと声を上げた。

「あの子……苦しい恋をしているのよ」

「えっ……」

玉には、すぐに思い当たった。

一年前の告白。あの時、美麻が好きな人がいると言った相手。

叶わぬと言っていた相手……。

彼女が涙を流した訳。

「その相手って……誰なんですか」

「それは……言えないわ。でも……決してあの子の思いが報われない……それは事実よ」

「それは……その相手が既に結婚しているとか……そういう意味ですか?」

「そうね。そう取ってもらって差し支えないわ」

今、改めて玉は思い当たる。こうして久方ぶりに再会した美麻の様子の変化に。

確かに楽しそうに笑っているが、その瞳の奥には言い知れぬ闇を抱えていること。

それは、こうした事情を背景としているのだろう。

いったい、誰に美麻は苦しい恋をしているというのだろうか。

「美麻ちゃん……」

玉は美麻に聞こえないように小さく呟いた。

「僕じゃ……ダメなんだろうか」
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