【18禁版】この世の果て

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第一章 罪と罰

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『善とは何かーー人間において権力の感情と権力を欲する意志を高揚するすべてのもの。
悪とは何かーー弱さから生ずるすべてのもの。

                    ーーフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ』



「お願いします!どうか、資金を……!」

その妻は美しい女性だった。

ただ、ほつれた髪と地味な衣服が彼女本来の魅力を封印してしまっているようだった。

彼女は傍らの夫を一緒に、父に頭を下げていた。父は冷淡にその話を蹴った。

その結果、夫婦の工場は倒産した。多額の借金を残して。

私はそのつらい場面の目撃者であった。

当時の私はまだ学生であったが、後に父の跡を継ぐという訳で、修行のようなカタチで彼の秘書をしていた。

床に額を擦り付けて父に融資を頼んだ夫婦。

私は二人を立たせようとしたが、父がそれを遮った。

尚も父を振り切り私は二人を立たせようとしたが、二人はそれを拒んだ。

父が頷くまで、決して頭を上げる気はないという強い意志が感じられた。

私は叫んだ。

父に取っては彼らが望む金額はほんのはした金程度のものだった。一方、その金次第で路頭に迷いそうな一家がいる。


「あなたには……人間の心がないのですか!?」


私の訴えにも父は何も言わず、黙って玄関に向かった。その足に女が絡みついた。

その顔は涙でぐしょぐしょに濡れていた。

「もう……あなたしか……あなたしか頼る人が……!」

「馬鹿な女だ。黙って私の側にいればよかったものを……」

女の顔にさっと朱が差した。

その時、ぎりぎりと何か音がしていることに気がついた。

はっと下を向くと、彼女の夫が千切れんばかりに拳を握り締め、歯を食いしばっているのだった。

音はその歯軋りの音だったのだ。

次の瞬間には夫の姿は私の視界から消えていた。あっと思った時には父の体が床に吹っ飛んでいた。

「貴様……!貴様っ!!」

ああ、私はその時、鬼を見た。

肩を大きく震わせ、夫は仁王立ちをしていた。

その形相がすでに人間のものではなかった。

父はゆっくりと立ち上がり、唇の端についた赤いものを拭うと、ふと笑みを浮かべ、背中を向けた。

私はその修羅場の恐ろしさに思わず、立ちすくんでいた。気がつくと、カバンをきつくきつく握り締めていた。

「来い。海杜かいと。もうここには用はない」

その父の言葉が呪縛を解く呪文であったのか。私は身体の自由を取り戻し、慌てて二人の間を通り抜け、出口に向かった。

その時、ふと視界に入ってきたのは、襖から覗く、小さな視線だった。

その小さな少年の目が私を捉えていた。

私は軽い眩暈を感じて、その場に立ち尽くした。

出されたお茶から立ち上る湯気がただ白く天へと立ち上っていた。


そこで目が覚めた。


またいつもの夢だ。もう何度目だろうか。

軽く頭を振る。喉がヒリヒリとした。枕元の水差しを取り上げると、コップに注ぎ込んだ。

氷が溶けて、温くなった水でも喉を潤すことには支障はない。

水が喉を通る度、不思議に心が落ち着いていく。

水と一緒に不安さえも飲み込んでしまったように。

私は一気に水を飲み乾すと、長いため息をついた。そして、いつものように考える。


私はあの少年に囚われている。


あの少年は父と母の心中の後、妹と共に親戚のところに預けられたが、上手くいかずにたらいまわしにされた後、施設に送られたらしい。

もし、あの時父が資金の融資を断っていなければ……。

私は無力だった。

あの日の前から何度も父を諌めたが、私に父の決断を変えさせる力がなかったのだ。

あの日、私は何よりもすっかり恐れをなしてしまったのだ。

それはあの鬼のような男の形相にではなく、それでも冷徹に彼を笑い見下した父の姿だった。

私はそれ以来、父に逆らうことは決してなかった。

いや、私はそれ以前に父に反抗することなど皆無だった。

だから、私の初めての反抗はあの「叫び」だったのだ。だが、父はそれさえもあっさりと蹴った。

思い知らされた。私は無力だ。父に私は敵わない。この先、きっとどんなことがあっても。


「社長」

その澄んだ声に顔を上げると、秘書の咲沼英葵さきぬま えいきが心配そうに私を見下ろしていた。

「お顔の色が冴えませんね。どうかされましたか?」

いつ見てもはっとせずにいられないほど、作り物めいたように美しい顔立ち。

色素が薄いのか、透けるように白い肌にやや栗毛色かかった髪がよく似合っている。

だが、その瞳だけはくっきりと深い漆黒を湛えていた。

「いや……なんでもないよ」

私はなんとなく気恥ずかしくて目の前の書類を取った。

「最近、過密なスケジュールが続いていますからね。あまり無理はなさらないで下さい。あ、コーヒーお淹れしました。どう……ぞ……うわっ!」

そう言うと、彼はコーヒーカップを取り落とした。こげ茶色の染みが、香ばしい香りを絡ませながらデスクに広がる。

「すみません……。僕、おっちょこちょいで……」

彼はひどく狼狽しながら、慌ててデスクの上を拭いた。

「いや。気にしなくていいよ」

「でも……ああ……どうして僕ってこうなんだろう……。社長にご迷惑ばかりおかけして……」


彼は今年入社したばかりのニューフェイスで、以前まで私の秘書であった女性の寿退社を機に交代する形で私の元にやってきた。

彼自身が言う通り、少々おっちょこちょいな面もあるが、仕事では確実に手腕を発揮している。

「そう言えば、菊珂きくか、今日は君の妹の美麻みまちゃんと一緒にショッピングだって、はしゃいでいたよ」

彼は妹の話題が出ると、少し顔を緩ませた。

早くに両親を亡くしたらしく、二人きりで暮らしてきたということで、彼の妹の溺愛ぶりは見事なものだった。

「あ……。妹がいつもお世話になり、恐縮です……」

「いや。こちらこそだよ。あの子は甘やかされて育ったせいかな。

ちょっと協調性に欠けるところがあるから、ちゃんと友人を作れるか心配だったんだ。

美麻ちゃんがいてくれて本当によかったよ。感謝しなきゃならないのは、私の方さ」

すると、新米秘書はにっこり笑って頭をかいた。

「しかし……実に世の中は狭いね」

私は笑いながら書類に目を通した。






更科さらしな副社長。今度の件ですが……」

俺は見たくもない草臥れた感の男と向き合っていた。この男はこの社の常務である。

大体、俺はこの「副社長」という肩書きが嫌いだ。

反吐が出る程嫌っている。

それは、この「副社長」という肩書きが、あの男との競争に敗北した烙印だからだろう。

あの男とは、言うまでもなく雪花コーポレーション社長・雪花海杜ゆきはな かいとのことだ。

俺と雪花海杜は従兄弟同士で、ガキの頃から何かと比べられてきた。

幼少時代から学生時代。

神童と呼ばれたあいつに比べれば、俺は確かにたいしたことはない男だったに違いない。

だが、学校の成績と仕事の業績は必ずしも比例するものではない。

雪花コーポレーションの当時の社長だった海杜の父・幸造こうぞうは海杜と俺のどちらかを後継者とすると約束した。

俺は俄然張り切った。

もし、俺が実の息子である奴を出し抜いて社長に上れば、俺はまさに奴に勝ったことになる。

俺は大学で猛烈に経済学について学んだ。経営学、帝王学。あらゆるものを吸収した。

だが、結果はこの通り、俺はあの男への劣等感を強めただけだった。

俺は未だに納得できていなかった。

海杜は確かに仕事はできる。優秀な人材であることは間違いないだろう。

だが、あの男にもっとも欠けたもの。

それは野心だ。

これがなければ会社は大きくならない。

現状維持は保てても、成長は見込めない。

その点で、あの坊ちゃんのやり方には、株主だって不満があるに違いない。

あいつは何事につけても「優等生」なのだ。

あいつに欠けたものを俺は全て持っている。

なぜ叔父はそのことに目をつけなかったのだろうか。

海千山千を知り尽くした叔父ならば、絶対に海杜より俺を選んだはずだった。

やはり、所詮彼だって人の親。息子の海杜が可愛くなったただそれだけなのだろう。

ならば、俺がこの手で奪ってやる。

形勢逆転のチャンスは必ずある。

「う、うまくいくだろうか……?」

「はん。僕に万事任せておけばいいんですよ。常務」

「でも、あそこまでやる必要があるんでしょうかねぇ……」

それは盗聴器のことだ。

俺は彼に指示を出して、盗聴器を社長室に仕掛けたのだ。

悪趣味だと思うなら笑えばいい。軽蔑すればいい。

だが、俺は自分の野心の為なら手段は選ばない。それがポリシーなのだ。

「うまくいくんだろうか。もし見つかったら……」

俺は急に馬鹿馬鹿しくなった。

これが散々悪事を重ね、甘い汁を吸ってきた男のセリフだろうか。

いざとなったら、俺に全ての責任を押し付ける腹でいるのだろう。

まるで、狸と狐の化かしあいだな。

俺だってこんな男と組むのは正直、気が進まない。

この男がここまでのし上がってきたのは仕事上の実力じゃない。

単に世渡りが上手かった。ただ、それだけだ。

だが、この男自身には価値がないが、この男の人脈や会社内部の情報には価値がある。

駒としてキープして置くにはちょうどいい。だから、俺は今回の計画にこの男を抱き込んだ。

せいぜいあんたが俺を利用するように俺もあんたを利用してやる。

「ま。常務。これらの行動は全てこの会社の為なんだ。そのことはよく理解しておいてくれたまえよ?」

俺は怯えた目をした常務を諭すように言った。そう。これは全てこの社の為だ。

「あんなボンボンに何ができる」





久々に、明るいうちに帰宅できたことが嬉しかった。

こんな日はピアノを弾きたい。

私はピアノが好きだった。

この地位についてから、すっかり諦めてしまったけれど、私は本当はピアニストになるのが夢だった。

恐らく、あの女性の影響を受けているのだろう。

あの人が私にくれた感動。

あの瞬間をまた感じたくて、私はいつも鍵盤に触れるのかもしれない。

ピアノがある大広間に向かうと、私は不思議なことに気がついた。

微かに響くピアノの旋律。

どうやら、先客がいるようだった。

最初私は義母だろうかと思った。

彼女は元々、私のピアノ講師であった。

彼女が父の元に嫁いでからは、なぜか彼女はピアノを弾くことをやめてしまったけれど、

この家で私以外にピアノを弾く人間はいなかったから、自然と私はそう考えた。

だが、すぐに違うと気がついた。

この演者は明らかに義母とは違う。

テンポ、音の強弱、間の置き方。

それらが、かつて私が習った義母の技術とはまるで違っていた。

だが、私は同時にこの弾き方に覚えがあった。

あれは、遠い昔の……。

私がそう思いを巡らせながら、部屋に入った瞬間、懐かしい光景が一気に目の前に開けた。

私はその瞬間の衝撃を、一生忘れることが出来ないであろう。


そこには、一人の少女がいた。


年齢は恐らく、菊珂と同じくらいだろう。そうだ。彼女の友人に違いない。

なぜなら、彼女は菊珂と同じ制服を身につけていたから。

彼女は少し栗色かかったセミロングの髪を微かに揺らし、ただ一身に鍵盤に向かっていた。

少女の細い指が、縦横に鍵盤の上を駆けめぐる。それはあたかも、別の生き物のようであった。だが、私を打ったものは、それだけではなかった。


少女が奏でている曲は、あの曲であった。

少年であった私を捕らえた、あの曲であった。

しかも、あの日のあの女性と寸分も違うことのないテンポ、強さ。


間違いない。間違うはずがない。


なぜなら。

なぜなら、あの日のこの光景を、自分はずっと。

もう、ずっと長いこと。

探し求めていたのだから。


まさに、あの日の光景が目の前に蘇ったような感覚であった。

あの女性の横顔と、少女の横顔がシンクロする。

私は強い目眩を感じた。


気が付くと、目の前で少女が不審げな顔をしていた。

演奏は終わっていたらしい。

「あの……」

「ああ……申し訳ない……。君の演奏が……あまりに素晴らしかったものだから……」

私は咄嗟にそう言いつくろった。だが、内容に偽りはなかった。

すると、少女はさっと顔を赤らめると、俯いた。

「ありがとうございます……」

少女ははっとしたように顔を上げると、顔を赤らめたまま言った。

「あのう……すみませんでした。勝手に弾いてしまって……私、こんなに立派なグランドピアノ、初めて見たものですから……」

どうやら少女は、私が彼女がピアノを弾いていることを咎めにきたのだと勘違いしたらしい。

「いや……構わないよ。これは僕のものだから……」

「えっ?あなたの?」

「ああ。君には到底及ばないがね」

「あら、お兄様。今日はお早いのね」

私が緊張しているらしい彼女に更に声をかけようとした瞬間、奥から妹の菊珂が現れた。

腕には愛用のヴァイオリンケースを抱えている。

「お兄様?」

「ええ。美麻。まだ紹介していなかったわね。これが私の親愛なるお兄様の海杜よ」

菊珂が私の肩をぽんと叩いてウインクした。

すると、美麻と呼ばれた少女は恐縮したように慌てて私にお辞儀した。

「あ……。はじめまして……私は……咲沼美麻です。あの……菊珂ちゃんにはいつもお世話になっています。それと……兄も……」

そうだ。考えてみれば、彼女が秘書・咲沼英葵自慢の妹・美麻嬢なのだ。

「こちらこそだよ。君のお兄さんにはお世話になっている。それに、菊珂は君にお世話になっているようだね。ありがとう」

「そんな……」

「今日は、美麻と二重奏をしようと思ったんですの。美麻はあの通り、とてもピアノが上手なの。

コンクールで何度も優勝しているのよ。しかも、独学なんですって」

「菊珂ちゃん……」

どうやら、いまどき珍しい控えめな子らしい。彼女はまた顔を赤くすると、俯きながら菊珂の袖を引っ張った。

「いいじゃない。本当のことだし、とても素晴らしいことよ」

菊珂は自分のことのように誇らしげだった。

「ううん。私なんて……いつも菊珂ちゃんに助けてもらっています」

菊珂にこういう友人が出来たことは、とても良いことだと思う。

菊珂は優しい子なのだが、どうしても彼女の持つ暖かさというか思いやりは表に出ずらい。

その辺りは彼女のプライドの高さに起因しているのだろうが、

こうして菊珂の内面まで理解してくれる友人に巡り会えたという事実は、彼女にとっては一生の宝となるだろう。

会話が弾むにつれ、緊張気味だった美麻の表情も柔らぎ、私達はすっかり打ち解ける形となっていた。

私は思い切って、一番聞きたかったことをぶつけた。

「あの……妙なことを聞くようだが……」

少女は大きな目を私に向けた。

「君のお母さんや……親戚のお姉さんか誰か……ピアノをやっていたりはしていないかい?」

すると少女は小さく首を振りながら、

「いいえ。私の母は父の経営する町工場の事務員でしたから……。それに、親戚でもいないと思います」

と言った。

「お兄様?どうなさったの?」

「いや、なんでもないんだ」

黄昏に染まる部屋で、妹の怪訝な瞳が、いつまでも私を離さなかった。





私は父の部屋にいた。

父の許しもなくこの部屋に入るなど、平生の私には考えられないことであった。

だが、私はどうしてもその衝動を抑えることができなかった。

静かな興奮が私を包んでいた。


そう。

あの子は、咲沼美麻は、あの女性と何か関連があるのではないだろうか?


私は父のコレクションのレコードの束を漁っていた。

父は大変クラシックに造形が深く、大量のレコードを所有していた。コンサートにもよく顔を出していた。

有能な演奏者のスポンサーなどもしていた。そんな父はよく私をコンサートへ連れていった。

あの女性に会ったのもそんなコンサートの一つであった。あの女性は有名な演奏家ではなかった。

実際、コンサートも私が行ったあれきりしか開いていないらしいし、レコードだって、父が資金を提供して作った1枚しかないのだ。

私が今探しているのはそのレコードであった。

あの女性の名前が知りたかった。

それが解れば、手がかりになるはずだ。

私はそう確信していた。

私は、あんなにも自分の心を惹いた女性の名前を知らなかった。

正確に言えば、忘却していた。

彼女が確かに自分に名乗ったのだが、そこだけ無声映画のように音がない。

あまりにも緊張しすぎて、耳が麻痺していたのか。

私はそのことを悔やんだ。

なぜなら、父はそれからすぐにあの女性の事を話題にすることを禁じたのだ。

なぜかはわからないが、彼女のことを切り出すと、父は烈火の如く怒った。

だから、その女性について尋ねることは不可能となった。

それから、16年。

あの女性のことは、忙しい毎日に追われながらも、色褪せることなく、私の頭の片隅に確実に残っていた。

あの女性のことは忘れよう。そう決意していた。

だが……。

今日あの少女、美麻に出会ったことで、その決意は崩れ去った。

あの少女が弾いたあの曲。

テンポ。

強弱。

表情。

全てがあの女性と同じだった。

赤の他人で、こんなことが起こるはずはない。

あの子は、あの女性に何か関わりがあるに違いない。

私は確信していた。

その時、私の手から数枚のレコードが滑り落ちた。

「しまっ……た」

私の目が床に散らばるレコードに釘付けになった。

そこでは、あの女性が笑いかけていた。

その横には「城崎美咲じょうざき みさきピアノアルバム」の文字が踊っていた。







「お見合い!?菊珂ちゃんが?」

わたしは思わず、声を上げていた。

それが、自分の声だなんて信じられないくらい大きな声だったので、わたしは慌てて周りを見渡したが、

誰もわたしのことなど気にも留めていないようだったで、わたしはほっとしてメロンソーダを一口。

いつもの昼下がりの喫茶店。

わたしはいつもの窓際の席で親友の雪花菊珂ちゃんとむかえ合わせに座り、メロンソーダを飲んでいた。

「そう。……ひどいと思わない?美麻。しかも、今時、政略結婚なんて信じられる?」

菊珂ちゃんは溜息混じりにそう言って、メロンソーダに差したストローを噛んだ。

豊かなウェーブのかかった黒髪をヘアバンドで留めている。

それは華やかで美しい顔立ちの彼女によく似合っていた。

「だって、まだ私たち高校生じゃない」

「でも、もうすぐ卒業でしょう?お父様は私の卒業と同時に結婚させようとしているのよ」

「でも、菊珂ちゃん、留学するんじゃないの?」

「ええ。そのつもりよ。女に学問は必要ないなんて時代遅れの化石みたいな父の言うことなんて、聞くもんですか。

それに何より、好きでもない相手と結婚させられるなんて、ごめんだわ」

そう言うと、菊珂ちゃんはグラスを指ではじいた。

「そうだよね……。結婚はやっぱり好きな人とじゃないと、嫌だよね」

わたしはちょっと俯いた。

「それに大体、私まだそういう気ないもの。外国に行って、もっといろんなこと勉強したいわ」

「えらいね。菊珂ちゃん……。ちゃんと自分の将来について考えていて……」

わたしがそう言って彼女を見つめると、菊珂ちゃんは軽くウインクして、

「よく言うわよ。学年トップはいつもあなたが持っていくじゃないの」

と言って今度はわたしのグラスをはじいた。

「そんな……」

「ねえ美麻、大学行くんでしょう?」

わたしはまた少しうつむくと、小さく首を振った。

「ううん……。私、高校卒業したら働こうと思って……」

わたしの言葉が相当意外だったらしく、菊珂ちゃんは声を上げた。

「どうして?もったいないわ。美麻の成績だったら、どこだって大丈夫って先生もおっしゃっていたじゃない」

わたしはゆっくりとストローをもてあそんだ。グラスの中で溶けかけた氷が音を立てた。

「お兄ちゃんも大学に行けって言ってくれてるんだけど……今の学費だってお兄ちゃんが貯めてくれたお金だし……

私、これ以上迷惑かけたくないの。だから……」

「美麻……」

少しの沈黙の後、菊珂ちゃんは話題を変えるように明るい声で言った。

「そう言えば、うちのお兄様も今度の土曜日、お見合いすることになってるのよ」

「えっ!?海杜さん、お見合いするの?」

「そ。お兄様は優等生ですもの。お父様のお言いつけは必ず従うわ。

ほんと、お兄様ったら、自分の結婚までお父様に左右されるつもりかしら。……美麻……どうしたの?」

菊珂はわたしの沈んだ表情に少し慌てて言った。

「えっ?ううん……。なんでもないの。気にしないで」

そう言ったものの、わたしはそのまま沈黙した。何か言おうとした菊珂ちゃんもうまい言葉が見つからなかったらしく、口を閉ざした。

喫茶店にはもう夕日が差し込んでいた。





翌日の放課後、菊珂は見合いの席にいた。

相手は九十九つくも財閥の御曹司で、いずるという青年だった。銀縁メガネの見るからに生真面目そうな青年だった。

「あの……」

可哀想なくらいに緊張しているのが、菊珂の目から見ても明らかだった。

「あの……本当に菊珂さん……綺麗だ……」

「えっ……?」

「あ、すみません……。僕、何言ってるんでしょうね」

そんなこと言われても、聞きたいのはこっちの方なのだが。

「ああ、そうだっ! この……この花、きっと菊珂さんに似合うと思って……」

出は、いきなり叫ぶように、何かを差し出そうとしたが、目の前に置かれた湯飲みに引っかけ、それをひっくり返してしまった。

「す、すみません。こ、これで拭いて下さい!! うわっ!!」

そう慌ててふきんを差し出したが、今度は彼自身がバランスを崩し、つんのめると、菊珂の方に倒れこんできた。そして、その拍子に彼は菊珂の胸に手を置いていた。菊珂は叫びそうな思いを、引っ叩きたい思いを必死に抑えて冷静に対応した。

当の自分よりも狼狽し、取り乱してしまったのが向こうだったからだった。叫びたいのは、胸を掴まれたこっちの方のはずなのに。

「すみません! すみません! 僕、ああっ……どうしよう……」

彼は可哀想な程に狼狽し、何度も何度も頭を下げた。そうして、ようやく差し出したのは、白い百合の花だった。

「あの……これ、この花……きっとあなたに似合うと思って選んだんです。う、受け取って下さい。そして……あの……」

「そして……?」

「あの……ぼ、ぼ、ぼ……僕と結婚して下さい!!」





「おかえりなさい。海杜さん」

帰宅すると、いつものように母が玄関まで出迎えに来ていた。

母と言っても彼女は実の母親ではない。

なにせ、彼女と私は5歳しか違わないのだから。

雪花里香さとか。彼女は父の後妻である。

元々は私の家庭教師兼、ピアノ教師だった。そうしてここに通ううちに、父に見初められ、後妻に入ったというところである。

昔は清楚な感じで控えめな雰囲気の綺麗な女性だったが、洋装から和装に変えてから、大人の色気のようなものを漂わせる女性になったと思う。

ふと、足元に暖かい感触を感じた。

「おかえりなさい。海杜お兄ちゃん!!」

見ると、紅葉のように小さくて可愛らしい手が、私の身体に巻きついていた。

夕貴ゆうき。ただいま」

「夕貴、今日はお兄ちゃんが早く帰るって聞いて、ずっと待っていたんだよ」

「そうか。それはありがとう」

私がそう言って夕貴の頭を撫でると、彼は嬉しそうににっこりと微笑んだ。

「早く、早く。今日は夕貴の隣でご飯だよ」

そう言って、彼はぽんぽんと自分の隣の椅子を示した。

私は苦笑しながら、その指定席に座った。

まもなく始まった夕食。

料理の得意な里香の自慢の料理が並ぶ。

数名の使用人を従えててきぱきと指示をする里香は、既にこの家のりっぱな女主人の風格を漂わせるようになっていた。

私の家庭教師だった頃の内気な女性のイメージは完全に影を潜めていた。

「父は?」

「ああ……旦那様はM工業の重役の方とお約束があって、今夜は遅いそうですわ」

父は大抵、こうして夕食を外で済ませて来る為、同じ食卓を囲むことは、年に数える程であった。

私も社長の椅子に座ってから、付き合いの外食は増えていたが、あまり好きではなかったので、なるべく家で取るようにしていた。

だが……。

なぜだか、最近落ち着けるはずの家での食卓も、居心地の悪さを感じるようになっていた。

それは、なぜなのか……。

「海杜さん、どうされたの?食欲がないのかしら?」

少し小首を傾げ、義母が問う。

その目に、微かに「女」の香りを感じ、私は思わず目を反らした。

私は時折、義母の目に何か違和感を感じるようになっていた。

私を見るその美しい瞳の奥に、何か、別の意味が含まれているようでならなかった。

気のせいといえばそれまでだろう。だが……。

正直、私には判断が着かなかった。

ただ、自分を見る義母の目にある種の変化が現れている。

それだけは確かに感じられる。

その正体は何なのか。

その断片は、鼻先に見え隠れしている。

だが、見たくなかった。

知りたくなかった。

知ったら、後戻り出来なくなる。

違っていてくれ。

今は、自分のこの予感が、外れていてくれることを願うことしかできない。


「お兄様、明日ですわね」

「ん?」

「お見合いですわ」

「そうだね」

私はあえて、そっけなく答えた。

菊珂は呆れたように、目を見開いた。

その目には、父の言いなりになる僕への非難がひしひしと感じられる。

「まあ、余裕のあること。ご自分の一生が左右されるかもしれない大事なイベントの前日だというのに」

私は苦笑した。

「お兄様はそれでよろしいの?私は嫌ですわ。何から何まで父に指図されるなんて」

「ああ。そうだね」

私は父の意向のままに、流されている。

その通りだろう。

いや、あえてそうしているのだ。

それ以外、私に何ができるのだろう。

私に与えられた地位。

これを守る以外に私に何が。

私は父から、私という存在は、決して私一人の身体ではないことを、嫌という程に叩き込まれてきた。

私は……

私は君が羨ましくなる。

「お兄様?」

「え?」

「どうなさったの……?私……言い過ぎましたかしら。ごめんなさい……」

不甲斐ない私をいつも彼女は叱咤してくれる。それは、きっと大事なことなのだろう。

「いや、いいんだ。全て、君の言う通りだよ。菊珂」

「海杜お兄ちゃん。菊珂おねえちゃん。喧嘩はダメだよ!!」

「夕貴……」

「ごめん。夕貴。喧嘩じゃないんだよ」

「本当に?本当に?僕、嫌だからね。大好きな海杜お兄ちゃんと菊珂お姉ちゃんが喧嘩するのは」

「ああ、わかっているよ。夕貴。ありがとう」





夕食の後、私は喉が渇いた為、キッチンに向かった。

コップに水を注ぐ為、蛇口をひねった瞬間、背中に暖かな感触を感じた。

「えっ……?」

「羨ましいですわ。そのお見合いのお相手が……」

「里香さん……?」

驚くべきことに、里香は私の背中から抱き締めていた。

「だってそうでしょう?その方は、誰にも咎められることなく、あなたに愛を囁くことができるのですから」

私は思わず彼女を引き剥がした。

心臓が早鐘のように打つ。

シンクでは出しっぱなしの水道が音を立てていた。

「里香さん……。冗談は……やめて下さい」

「冗談?」

彼女はこちらが胸を締め付けられるような悲しみに満ちた表情になった。

「あなたは冷たい人ね。いいえ。優しすぎるんだわ。どちらにしても罪深い方。

だってそうでしょう?あなたは私の気持ちに気がついてもこうして知らない振りを通している」

「そんな……。僕は……何も知りません。わかりません」

「そう?なら、わからせてあげるわ。私がどんな思いでここにいるのかを」

その瞬間、私は彼女に唇を奪われていた。

痛いくらいのキスだった。

「んっ……」

息ができない程のキスだった。

何度も何度も彼女は私に口付けた。

私の身体は凍りついたように動きを停止していた。

私はただ彼女に圧倒され、翻弄され、立っているのがやっとだった。

彼女の舌が進入してくるのを拒むすべさえ忘れてた。

ほろ苦いルージュの味が舌を刺した。

「どうしたの?海杜お兄ちゃん。ママ」

響いたのは、夕貴のあどけない声だった。

その瞬間、里香は私の身体を引き剥がした。

里香は女の顔から母親の顔に戻ると、優しく夕貴に言った。

「夕貴。もう遅いわ。おやすみなさい」

「うん。わかった!!」

そう言うと、夕貴はパタパタと台所を出て行った。

思わず、身体から力が抜けるのを感じた。

「部屋に……戻ります……」

私は逃げるように台所を後にした。そんな私の背中に甘い声がかかった。

「うふふ……。おやすみなさい。海杜さん……」





「馬子にも衣装。そう言いたいんでしょ」

そう言うと、あたしは鏡の中でぼんやりと自分を見つめる視線に毒付いた。

「そんなことないですよ~。す~ごく素敵です。思わず、見とれちゃいました~」

まさか本当に見とれていたのか、その視線の主(まだあどけない感じの女性だ)は調子の外れたアクセントで答えた。

「やめてよ。なんか、気持ち悪いから。は~。こういうの、性に合わないのよね~。全く、だまし討ちだわ。これじゃ」

「ぴゃ~。先輩にとっては天下の羽鳥はどり本部長もだまし討ち呼ばわりなんですね~」

あたしの名は羽鳥未央みお

一応、こいつが言うところの「天下」の警視庁本部長の一人娘で、代々警察官僚という家系の中に生まれた。

でもあたしは自分がデスクワークなんて向くはずないから、父の反対を押し切って現場を望み、警視庁捜査一課で刑事をやっている。

女らしくない。言われ慣れている。上等だ。

大体、あたしは化粧が嫌いだ。

あんな粉とか紅とか指してどうなるか。しかも、落とすのがめんどくさい。

髪も今日はこんな事態な為、綺麗に結い上げているが、普段は無造作にゴムで一本のポニーテールにしている。

服装もラフなものが多い。色気がなくて結構。それがあたしのスタイルなのだから。

あたしの辞書には「色恋沙汰」という文字はないらしい。

「大体、お見合いなんて、なんでアタシがやんなきゃならない訳?アタシ、まだ結婚する気なんてサラサラないわよ」

「まあまあ。抑えて下さいよ。先輩、すんごく綺麗ですよ~。いつもラフなスタイルしか見たことないから、着物姿って新鮮~」

そう言って夢見る乙女のように目を輝かせるのは、あたしの部下で同じく捜査一課巡査部長の真幸苗子まゆき なえこ

本当に夢見がちなところがあって、可愛いものが大好き。

見た目も下手したら女子中学生に間違われるくらい幼い為、捜査中に何度も補導されたという笑えない経験がある。

ふわふわの綿飴みたいな髪を両サイドで留めている為、あだ名は「コアラ」である。

本人はこのニックネームを気に入っているらしい。

「ありがと。あんたに言われても嬉しくないけど、とりあえず礼言っておくわ」

「なんですか~。それ!プンプン」

「しかし、なんでよりにもよってあんたが立会い人なのよ」

「それは~やっぱり、羽鳥先輩の有能な部下だからじゃないですか~?」

「有能なねえ~。あんたみたいのが警視庁捜査一課にいるってこと事態が謎だわ。

だいたい、デカ長さんが熱出したから、その代打でしょう?もっといい人材いなかったのかしら」

そう言うと、あたしは扇子を開いてバサバサと扇いだ。

「も~!先輩!そんなこと言っちゃイヤですよ~。は~い。真幸苗子、先輩のお見合い大作戦の為にがんばります~!☆」

そう言って苗子は敬礼をした。

「あ~。頭痛くなってきた」

まるで自分がお見合いに行くかのようにはしゃぐ部下を尻目に、あたしは大きな溜息をついた。





「本日はお日柄もよく……」

朗々とした立会人の声が響く。

向かいに座るのは、きちんと晴れ着を着込んだ目元のきりりとした美しい女性だった。

結い上げた髪が粋な感じで、好感が持てる。

「羽鳥未央です」

彼女はそういうと、ゆっくりとお辞儀した。

「雪花海杜です」

私も名乗って頭を下げた。

「未央さんのご職業を伺ってもよろしいですか」

私が口を開くと、彼女は神妙に唇を動かした。

「警視庁につめております」

「ほお。やはり、お父様と同じ道を?」

「ええ。まあ、父はずっと事務一本でしたが、私は現場に出て捜査する側におりますわ」

「先輩、すんご~くかっくいいんですよ~!こないだも、数人の男相手に大立ち回りして!綺麗に決まりましたよね~。一本背負い!!」

傍らのコアラみたいな髪をした女性がそう声を上げると、彼女はその膝をつねった。

「いった~い!何するんですか~!ちゃんと褒めてるのに~!!」

何はともあれ、コアラのような彼女のおかげで固かった雰囲気が和んだ。

「すみません!遅れました!!」

少し上ずった声がしたかと思うと、さっと障子が割れて一人の青年が顔を出した。

秘書の咲沼英葵である。

「ああ……。もう始まってしまっていましたか。申し訳ありません」

彼はしゅんとして、静かに私の隣に正座した。

その英葵の顔をコアラがじっと見つめていたかと思うと、突然大声を上げた。

「あ~!英葵!?もしかして、咲沼英葵じゃない?」

「えっ……?」

いきなり声をかけられた英葵は、怪訝そうにコアラを見た。

「私よ!私!苗子。小学生の頃、隣に住んでた苗子!」

「苗子……?」

「そう!苗子!」

彼の顔にさっと影が差した。

「ああ……。苗子……」

「懐かしいね~!英葵!まさか、こんなところで会えると思ってなかったよ!」

コアラがそうはしゃぐと、立会人が咳払いをした。

「さて、そろそろ若いお二人だけの時間をいうのもいかがでしょうね」





「あ~あ。やっぱ、外は落ち着くわ~。ああいう席って苦手なのよ」

そう言うと、あたしは晴れ着の袖をばさばささせた。

「幻滅した?ふふふ」

あたしは、傍らのお見合い相手の顔を覗き込んだ。

男性のルックスに興味がないあたしでも、ちょっとどきっとさせられた。

彼が掛け値なしの美形であることは間違いない。

「いいえ。私もああいう席は得意じゃないんです。息が詰まるというか……」

「あら~。珍しいのね。あなたみたいな地位の人が」

「こういうのは生まれついた性分でしょうから、地位は関係ないですよ」

そう彼は屈託なく笑った。

彼は穢れを知らない。

簡単に言えば、育ちがよいのだろう。

ちょっとしたしぐさにそれが現れている。

あたしより年上なはずなのに、ずっと年下の少年のように感じられる。

それでいて、不思議な包容力も感じられる。

今まで出会ったことのないタイプの男だ。

「まあね。は~。あなたは話がわかりそうね。だから、この場ではっきりさせておくわ。

私、結婚する気はないの。あ、誤解しないでね。あなたが気に入らない訳じゃないの。

あたしにはね。まだ警官としてやらなきゃならないことが沢山あるの。

だから、まだ呑気にお嫁さんなんかしてられないってこと。だから……」

彼はにっこりと言った。

その柔らかで暖かい微笑みに、ちょっと心が揺らいだ。

なんだか、全て見透かされている。

その澄んだ瞳に。

「だから、破談にしたいんですね?」

「え、ええ」

「構いませんよ。私も同じ気持ちですから。私も誤解されたくないんですが、あなたが嫌いな訳ではありません。

あなたは十分すぎるくらいに美しいし、聡明だ。あなたとの結婚は私にとってプラスになることはあってもマイナスになることはないでしょう。

でも、私はどうやら、あなたには現場で働いて輝いて欲しいと望んでいるようなんですよ」

嬉しいこと言ってくれるじゃない。

あたしは決心が揺らぐ前に決着の言葉を放った。

「ありがと。これで交渉成立だわね」

「ええ」

「交渉成立で破談っていうのもおかしなものだけど。うふふ……」





「ほんと、久しぶりだね!えっと……小学六年以来だから、もう十年ぶり?」

苗子はあの頃と変わらない無邪気な笑顔で、弾むように言った。僕はその笑顔に申し訳ないくらいそっけない義務上の笑顔を返した。

「ああ……そうだね」

「英葵、同窓会にも来てくれないんだもん。みんな、心配してたんだよ」

「あの頃は……あまりいい思い出がないから」

「そう?あたしは楽しい思い出ばっかりだよ!英葵もいたし、美麻ちゃんもいたし。あ、美麻ちゃん、元気?」

「ああ。元気にやってるよ」

「いきなり英葵が引っ越しちゃって、あたし、すごく寂しかったよ」

それはそうだ。

あの時、僕の両親が……。

「でも、ほんと、びっくりしたし、ほっとしたよ。英葵があんな大きな会社に入って、社長秘書なんかしてるってわかって……

ねえ。英葵。今度、ゆっくり食事でもしない?美麻ちゃんも一緒にね?」

明るくはしゃぐ苗子に僕は対照的に冷めた口調で言った。

「ああ。そうだね。今度連絡するよ」





「どうしたの?美麻」

「えっ?」

突然響いた親友の声にわたしは慌てて顔をあげた。

「なんか、気になることでもあるの?」

「え……あ……」

わたしは咄嗟にうまい言い訳が見つからなくて、慌てて目の前のハンバーガーに齧り付いた。

「もしかして……お兄様のお見合いが気になるの?」

「!?」

私はいきなり核心を突かれたので思いっきり咽てしまった。

「きゃっ!ちょっと大丈夫?美麻!?」

「う……うん……」

「まさか……美麻……本当にお兄様のこと……」

「や……やだ!そんなことないよ!菊珂ちゃん。誤解だよ……」

そうは言いながら、わたしの脳裏からは彼の姿が離れない。

菊珂ちゃんの家で偶然、彼に出会った日。

その時、過ごした彼はあんな大会社の社長さんだっていうのに、ぜんぜん飾り気がなくて、優しい人だった。

あの後、少し照れながらピアノを弾いてくれた彼の顔がすごく綺麗で、思わずみとれちゃったっけ。

彼のことを考えると、不思議と顔がほころんでしまう。

心が暖かくなって、すごく優しい気持ちになる。

これは一体なんなんだろう。

ずっとその正体が掴めなかった。

正直、お見合いの話を聞いた時、目の前が真っ暗になったような感覚に襲われた。

あの人が別のひとのものになってしまう。

それがどうしようもなく悲しくて、泣き出してしまいそうだった。

その時、ようやく「ああ、わたし、彼が好きなんだわ」って自覚した。

そしてすぐにまた暗い気持ちになった。

あの人がわたしみたいな子供を相手にする訳がない。

この恋は決して叶わないんだ。

そう思ったら、泣けて泣けて仕方がなくて、一晩中泣いていた。

そして、今日。

ようやくすべて吹っ切って、忘れようって決意したのに。

待ち合わせ場所で菊珂ちゃんに会ったら、あっさりとその決意が崩れてしまった。

また、彼の優しい顔とお見合いの言葉が渦巻いて、わたしの頭の上に真っ黒な雨雲みたいに覆いかぶさってきた。

それでもなんでもない風を装っていたけど……やっぱり菊珂ちゃんに今日のわたしは不自然に写ったんだね。


「美麻……」

はっと我に返ると、菊珂ちゃんの深刻な顔にぶつかった。

あっと思ったら、私の頬に涙が流れていた。

「あ……わたし……」

菊珂ちゃんが、優しい目でわたしを見ていた。

わたしはその目を見たら、また胸が詰まった。あの人に似たその綺麗な目……。

とめどなく、暖かい液体が頬を伝い続ける。

優しく菊珂ちゃんはわたしを抱き締めた。

わたしはその時、ずっと忘れていたぬくもりを感じた。


オカアサン……。


わたしはとうとう大声で泣き出していた。

菊珂ちゃんはその間中、優しくわたしを抱き締めていた。


「落ち着いた?」

「うん」

ハンバーガーショップを出ると、外はもう真っ暗だった。

「ほんと、灯台もと暗しね。こんなにいい子が近くにいるのに。お兄様ったらお見合いするなんて!」

そう言って、菊珂ちゃんはウインクした。

よく学校で菊珂ちゃんは冷たい人って噂が立っているけど、それは嘘だ。

確かに彼女は少々きつめな面がないでもない。

頭の回転が速く、弁も立つ。自分の意見をはっきりと主張し、リーダーシップの取れる人だ。

それが一部の人には煙たく感じられるのだろう。


でも彼女の意見はいつも正しいところを差している。

それに、本来の彼女は優しくて包容力に富んだ人だ。

近くでその心の中に触れてみると、とても繊細で思いやりのある人なのだ。

わたしはそんな彼女を尊敬している。

「よ~し!決めた。私、何が何でもこのお見合いぶち壊してやるわ!」

「ええっ!?」

「だって、考えてもみてよ。世間知らずでわがままなどこぞのお嬢様をお姉さまなんて呼ぶの、私、まっぴらごめんよ!

その点、美麻だったら安心してお兄様を預けられるわ」

「で、でも……」

「いいの。任せておいて!」

「き、菊珂ちゃん~」

わたしが元気で明るい菊珂ちゃんを見たのは、それが最後だった。





ちょっと、遅くなったかもしれない。

菊珂は慌てて路地を曲がった。

この辺りは少し、人通りが少ない。

いつもは美麻と一緒に帰るのだが、美麻は夕食の買出しの為、駅前のスーパーに行くと言い、さっきの曲がり角で別れた。

季節は夏の終わりに差し掛かっていた為、少し肌寒い。

さっきの美麻の涙に濡れた顔を思い出す。

正直、はっとするくらい綺麗だった。

美麻は同性の菊珂から見ても、恐ろしいくらいの美少女なのだ。

特にさっきの涙に濡れた顔はきらきらと輝いて、まるで女神のような神々しさだった。

だが、彼女は自分の魅力にまだ気がついていない。

彼女は季節外れの転校生だった。紹介の時、かわいそうなくらいに緊張し、小刻みに震えているのがよくわかった。

彼女は話しべただった。最初、転校生ということで、物珍しそうに集まったクラスメイト達は、すぐに潮を引くように去っていった。

ぽつんと取り残された彼女がなんとなく気になって菊珂は、声をかけてみた。

「ねえ。もうお昼よ。学食に行かないの?」

「場所……わかりませんから……」

それが二人がはじめて交わした会話だった。

打ち解けると、菊珂はすぐに、彼女の放つ魅力が大変なものだということに気がついた。


万事控えめで、自分の意見を主張することはなかったけど、彼女の聡明さは素晴らしいものだった。

彼女の転校後、初めて行われたテストで、菊珂は彼女の実力を知った。

順位の一番上に誇らしげに掲げられた名前は紛れもなく美麻のものだった。

それ以来、一番は彼女の指定席となった。

だが、彼女は控えめで、決して自分の才能をひけらかすことがなかった。

菊珂はそんな彼女を尊敬していた。

懐かしい思い出に浸っていた瞬間、突然菊珂は後ろから羽交い絞めにされた。

何が起こったのか理解するのに時間がかかった。

あっと声を上げた時には、彼女の身体は知らない男に組み敷かれていた。

「な!何をなさる気ですの!?」

菊珂は背中の激痛に顔をしかめながら、叫んだ。

男はそんな彼女とは対照的に嫌な笑みを浮かべ、菊珂を見下ろした。

「そんなこと、俺の口から言わせる気かい?お嬢さん」

その瞬間、さっと血の気が引いた。


そんな……!!


菊珂は絶望で目の前が暗くなった。

女の力と男の力では歴然とした差がある。

だいたい、彼女の足は男の下敷きにされて、一ミリも動かすことができなかった。


「いや!」


生まれて初めて、体中が粟立つような思いがした。


菊珂は恐怖で声も失った。


耳元で激しい音がした。

それが自分のブラウスの破れた音だと認識した時には、すでに意識が失われかけていた。


嫌よ……。


こんなの……。


イヤ……!

菊珂は必死の思いで両腕を動かした。それは、重しを乗せられたように動かしにくい。

だが、彼女の服を脱がせることに夢中なのか、男の戒めは完璧なものではなかった。

「くっ……」

彼女は力を振り絞って、腕をどかしにかかった。

その時、菊珂の手に……。






「お疲れ様でした。社長」

夜の街を車は静かに走り抜ける。

私は車窓風景から、運転席の秘書の方を向いた。すれ違う対向車や街のネオンに反射し、彼の美しい顔が時々浮かび上がる。

「そんなに疲れなくて済んだよ。話のわかる女性で」

「それはよかったですね」

「そういえば、君も意外な再会だったようだね。あのコアラみたいな女性と」

「ああ……そうですね」

あまり浮かない返事だったので、これ以上追求するのはやめた。

その時、胸ポケットの携帯のバイブレーションが響いた。

「はい。私ですが」

私が携帯を耳に当てると、微かな吐息が聞こえた。

震えているようだった。

「菊珂か……?」

私は叫ぶように問うていた。

それに答えた彼女の声を私は一生忘れないであろう。

「助けて……お兄様……」

「どうしたんだ!?菊珂!?」

ただならぬ様子の声に私は思わず、携帯を握り締めた。

運転席の秘書が怪訝そうに私を見た。

その時、ゆっくりと吐息混じりにその衝撃の一言は繰り出された。

「私……人を殺してしまった……」






目の前には、見知らぬ男がうつぶせに倒れていた。

私はただ、呆けたように男の遺体を見下ろしていた。

ここはとある埠頭の倉庫群。

幸いなことに、人の影はない。

遠くで汽笛の音がした。

「菊珂……」

「お……お兄様ぁああ……」

菊珂は乱れた髪を振り乱して、私の胸でただ啼いていた。

「菊珂……警察に行こう」

私の言葉に反応するように、腕の中の菊珂はびくりと身体を振るわせた。

「君は若い……だから……いくらでもやり直しがきく。警察に行って、正直に全てを話すんだ」

菊珂はうつろな目を上げた。

そして、私の言葉に同意するように、小さく頷いた。

「菊珂……」

私は妹を強く抱き締めた。これから彼女が味わうであろう体験は、この年齢の彼女にはあまりに重いことだろう。

だか、彼女は明らかに正当防衛なのである。彼女はまだ未成年であるし、情状酌量も十分にあるだろう。

何より、我々家族が一体となって彼女をサポートすればよいではないか……。

「菊珂……大丈夫だ。心配ない……」

「お兄様……」

「駄目です……社長……」

突然響いた声に顔を上げると、今まで放心したように遺体を見下ろしていた咲沼英葵だった。

「駄目ですよ。社長」

「咲沼君……?」

「考えてみて下さい。あなたは雪花コーポレーションの社長なんですよ?そして、菊珂さんはその実の妹さんだ。

そう。雪花財閥の令嬢なんです。そんな彼女が殺人を犯した。一体、世間はどう思うのでしょうね……」

『殺人』という言葉に菊珂はびくりと身体を震わせた。

「咲沼君……しかし、これは事故なんだ!!菊珂は正当防衛なんだよ。一体彼女に何の咎があるというんだ!!」

「社長。あなたは何もおわかりになっていない。この世の中が一体どんなものなのかを。

いくら彼女が正当防衛だからと言って、こうして事件が起きたという事実自体が問題なんですよ」

「えっ……?」

「いいですか?あなたは、そして菊珂さんは一人の身体ではないのです」

「えっ……?」

「お忘れになったのですか?あなたは雪花コーポレーションの社長なんですよ。あなたには、2000人の社員の命運もかかっているんですよ」

「!!」

「今度のスキャンダルが明るみに出たら、雪花コーポレーションは間違いなくお仕舞いです。

あなた一人の決断で、多くの社員が路頭に迷うかもしれないんだ」

「お、お兄様……」

私は強く菊珂の手を握り締めた。

それは、私自身の怯えを隠す為の行為だったのかもしれない。


「社長。いつでも正義が正しいとは限らないのですよ」


「あっ……」

「菊珂さんだって、いくら正当防衛だとしても、裁判にかけられ、法廷に立たされることになるんですよ?」

腕の中の菊珂の震えが大きくなっていく。

背中に嫌な汗が流れた。

「当然、テレビでは連日報道される。いくら未成年者だからと顔や氏名が伏せられるとしても、そんなのは周りの人間にはすぐにわかってしまう。

まして、あなたが雪花コーポレーションの令嬢だとわかったら?マスコミが放っておきません。

一体、どんな風にあなたの人格は歪められ、貶められて書かれることでしょう……。

ただひとつ言えることがあるとすれば……菊珂さんはもう元の生活には戻れない」

「あっ……ああ……」

「菊珂……」

「あなたは、妹さんをそんな目にあわせて平気なのですか?」

「いやあっ!!」

菊珂はそう叫ぶと、ずるずるとその場に崩れ落ちた。

彼女はそのまま気を失っていた。

私はそんな菊珂を支えながら、ある言葉を吐き出していた。



「一体……どうすれば……」


「簡単ですよ。全て、なかったことにしてしまえばいい」

「えっ……?」

「そう。無に帰せばいいんです」

「そんなことが……」

できるのか?

私はその時……。

「ええ」

「それは……」

私はその時、天上への扉を自ら塞いでしまったのかもしれない。

この美しい青年の言葉によって。





私は気を失った菊珂を車に寝かせると、埠頭の現場に戻った。

そこに咲沼英葵の姿はなかった。

一体、どこへ行ったのだ?

私は遺体と二人きりにされ、身体の芯が冷えるのを感じた。

「社長」

背後から響いた聞きなれた声に振り向くと、英葵が立っていた。

彼は背広を脱ぎ、腕まくりをした状態で何かを両手に持っていた。

「ここが埠頭の倉庫群で助かりました。重しになりそうなものには苦労しない……」

どうやら、彼が抱えてきたのはコンクリートのブロック片のようだった。

「どうする気なんだ」

「決まっているでしょう?この湾に沈めるんですよ」

そう言うと、彼は男の足首に縄を巻きつけた。

「社長。そっち……持って下さい」

「あ、ああ……」

この件でのイニシアチィブは完全に咲沼英葵にあった。

私は彼の指示通り、見知らぬ遺体の足を押さえた。

既に硬直が始まっているのか、遺体は人間とは思えない程に硬い。

私の額に冷たい汗が滲んだ。

ふと見ると、英葵もまた微かに震えているのであった。

手が震える為、上手くブロックをくくりつけることができないらしい。

私はそんな彼に代わって紐を縛った。

やがて、あちこちに錘を結わえられた遺体が完成した。

私と英葵は声もなく、その遺体を見下ろしていた。

「そろそろ始末しましょう」

この夜の海のように暗く冷たい目が、私を促していた。

重い塊と化した男の身体を持ち上げ、勢いよく放り投げた。

派手に水しぶきがあがり、私は思わず顔を伏せた。

ゴボゴボと不快な音を立てて、男は闇に消えていった。

私と英葵は、闇に溶けていく男をただ黙って見下ろしていた。

これで、菊珂の罪は消えるのか?

無になるのか?

これが正しいやり方なのか?

私の中で様々な思いが巡る。

だが、運命の輪は回り始めた。

もう、後戻りはできない。

今はただ、この決断が正しかったことを祈るだけだ。

「長居は危険です。行きましょう。社長」

いつになく冷静な秘書の声に促され、私はゆっくりと歩き出した。





「まあ、どうしたんです?海杜さん」

気を失った菊花を抱きかかえ、自宅に戻ると、義母・里香が声を上げた。

「心配ありません。貧血らしいです」

私はそう言うと、菊珂の部屋のある二階へと急いだ。

里香の不安げなそれでいて不審げな視線を背中に感じながら、私は階段を駆け上がった。

菊珂をベットに寝かせると、急に眩暈に襲われた。

そして、フラッシュバックする光景。

私は死体を……。

どうしようもない思いに、頭を掻き毟りたい衝動に駆られたが、その瞬間、明日は大事な商談を抱えていたことを思い出した。

そして、今夜中に目を通しておかなければならない書類の存在……。

「なんてことだ……」

私はうっかりその書類を社のデスクに置き忘れていた。

お見合いのことを意識していたせいだろうか。

社に戻らなければ……。

私は慌てて部屋を飛び出した。





玄関の扉を開けると、なぜか英葵の車があった。

彼はハンドルに持たれた状態で項垂れていた。

さすがに今夜のことは堪えたのだろう。

私だってこれが夢だったらと思う。

私が窓ガラスを軽く叩くと、彼はゆっりと顔を上げた。





「こんな事態でも、会社のことが頭から離れない……」

私はぽつんと誰に聞かせるともなく呟いた。

「それは……あなたが責任感が強い方だからですよ」

英葵は少し優しい口調で答えた。

「いや……」

私が言いたかったのはそういうことではない。

私という人間は、ここまで仕事に埋め尽くされているということだ。

いつもの疑問が頭をもたげる。

私は一体なんなのだ?

私の役割は……?

私という人間の存在は……。

その時、車が停車した。

「着きました。社長」






「着きましたよ。社長。その書類……僕がお持ちしましょうか」

「いや、いいんだ。君も……今夜は疲れただろう。僕が行く」

私は咲沼英葵にそう言うと、深夜のオフィス街に踏み出した。





深夜の会社から帰宅することは多かったが、出社というのは初めての経験だった。

私はIDカードを社員通用口に差し込んだ。

中に入ると、警備員の紺野こんのが目を丸くした。

「どうされたんですか。社長」

「いや……忘れ物をしてしまいましてね」

私は苦笑して答えた。

そして、次の瞬間背筋が冷えた。

私はもう笑顔を返すことができるのだ。


ほんの数時間前に、罪を犯したというのに。


「そうですか。社長らしくないですねぇ。今日はお見合いだったそうじゃないですか。

あんまり綺麗な人だったんで、のぼせてしまったんじゃないですか?」

そう言うと、彼は屈託なく笑った。

彼は私が高校生時代に父の秘書をしていた時からの警備員で、私と仲がよい男だった。

いつも父の後ろで緊張していた私を何かと気遣い、優しくしてくれた人だった。

父からは感じられない、不思議な安らぎを感じさせてくれる人だった。

私とは十歳程しか違わないのに、私は彼を父のように感じているのかもしれない。

「ええ。とても綺麗な方でしたよ」

「それはそれは……お決めになるんですか」

「いや……。破談になりそうです」

「ええっ?なんでまた……」

「振られてしまったんです」

「へぇ……。まさか」

彼は心底意外だという声を上げた。

「本当ですよ。まあ、彼女は僕にはもったいないくらいの女性でしたのでね。僕の方が恐れおおくて逃げ出したいくらいだったんで、ちょうどよかったです」

「ははは。そいつはいいや……おっと……失言でしたな」

私はそう笑う彼の優しい声に送り出されるように、最上階へ向かった。





わたしが夕食の片付けをしていると、玄関が開いてお兄ちゃんが顔を出した。

「あ、おかえりなさい。お兄ちゃん。今日は遅かったのね。夕ご飯食べる?今日はシチューだけど」

わたしがそう問いかけると、お兄ちゃんは少し強張ったような笑みを浮かべて、

「ああ。すまない。すぐに行かないとならないんだ」

と答えた。

「忙しいんだね。……無理しないでね」

「わかってるよ。僕が倒れたりしたら、誰が美麻の面倒をみるんだい?」

お兄ちゃんは優しい目でそう言った。わたしはこういう時のお兄ちゃんの目が一番好き。

小さな頃から変わらずに私を見守ってくれている、あったかくてやさしいお兄ちゃんの眼差し。

わたしはこの眼差しにどれだけ助けられたんだろう。今度は私が恩返ししなくっちゃ。

そして、お兄ちゃんには早くいい人を見つけてもらって、幸せになってもらうんだ。

その分、わたしは早くひとり立ちしなくちゃね。もう、迷惑かけないから。

お兄ちゃんも安心して、誰かと恋しちゃっていいんだよ。

でも、その前にわたしが……。

「美麻。なんだか、嬉しそうだね」

「えっ……?そう?」

「ああ。何かいいことでもあったのかい」

お兄ちゃんには何でもお見通し……。

敵わないな。

わたしは観念したように、この間、海杜さんに会ったことを話すことにした。

「海杜さんって……本当に優しい人でね」

海杜さんのことを話すと自然と笑みがこぼれてしまう。

なんだか暖かい気持ちになる。

わたし……本当に海杜さんのことが好きなんだ。

たとえ、彼が誰か他の人とお見合いして結婚して、わたしの手の届かない存在になってしまっても。

「私……海杜さんのこと……好きだわ」

「やめなさい!!」

「えっ……?」

わたしは今まで聞いたことのない、お兄ちゃんの叱責のような声を聞いて、びくっと身体が硬直した。

「あっ……すまない……大声を出して……」

更にびっくりしたのは、声を出した方のお兄ちゃんの方がひどく狼狽していたことだった。

「お兄ちゃん……?」

お兄ちゃんはわたしの問いかけに答えずに、急に無表情になって

「今日は会社に泊まりこみになる」

とだけ言って、玄関を飛び出した。

一体、どうしたんだろう?

お兄ちゃん……。





深夜にも関わらず、社内は明るい。

恐らく、警備員の彼が気を利かせてくれているのだろう。

私はエレベーターから降りると、足早に社長室に向かった。

いつも目にしている風景のはずだが、初めてやってきた場所のように、そこは親しみを感じさせなかった。

私はドアノブをひねると、この社での私の居場所に踏み入った。





電灯をつけると、昼間のままの風景が広がっていた。

私は目的の書類を捜した。

確か、デスクの上に……。

だが、デスクの上には何もなく、ただ黒光りする木目を見せているだけだった。

勘違いだったか?

私はデスクの中や棚の中も丹念に調べた。

だが、目的の書類は見つからなかった。

どういうことだろう。

社に置き忘れたという概念が、そもそも私の思い違いだったのか。

私が諦めて顔をあげた瞬間、探していた茶封筒がふいに目の前に現れた。

私がそれを手にしようとした瞬間、それは視界から消えた。

「えっ……?」

私が慌てて振り返ると、茶封筒を携えた秘書が立っていた。

「咲沼君……?どうして」

私は書類を捜すのに夢中で、部屋に入ってきた彼の気配に気がつかなかったらしい。

「実は退社の時、社長がこれをお忘れなのに気が付いて、預かっていました」

じゃあ、どうして?

私は微かな怒りを感じた。

普段なら笑って済ませているであろう状況だったが、

こんな重大な事態にからかわれたという思いが、不快感を増徴させていた。

「咲沼君」

「すみませんでした。社長。でも、これには訳があるんです。許して下さい」

「えっ……?」


理由?

一体、どんな理由があるというのだ?

「だって、ここくらいおあつらえ向きな場所もないでしょう?」

「おあつらえ向き……?」

私がそう鸚鵡返しに尋ねた瞬間。


「あなたは、この世の果ての風景を見たことがありますか?」


「えっ?」


「僕はあるんですよ。あの寒々とした恐ろしい光景を……今でも夢でうなされるんです」

「さ、咲沼君?」

突然始まった不思議な話。

私は最初、彼が冗談を言っているのだと思った。

たぶん、私は怪訝な顔をしたと思う。

彼はそんな私に構わずに続ける。

「あなたにも、その風景を見せてあげようと思うんですよ。だってそうでしょう?

あの悪夢はすべて……あなたがた一族のせいなんだから……」

「えっ……?」

「ねえ……社長?」

そう言って、彼は美しい笑みを見せた。

息を呑むくらい美しい笑み。

私は思わずその瞳に吸い込まれそうな感覚に襲われた。

次の瞬間、彼は私の視界から消えていた。

「んっ……?」

後頭部に圧迫を感じると同時に、息ができなくなった。

何が起こったのか理解できなかった。

そして、その「何か」を理解した瞬間、私の思考回路は停止した。


私の唇を塞いでいたのは、他ならぬ咲沼英葵の唇だったのだ。


次の瞬間、私は彼の身体を突き飛ばしていた。

彼の華奢な身体は、派手にソファに転がった。

「な……何の真似だ……」

私は思わず、デスクに腰を下ろしていた。

正確に言えば、落としていた。

ショックで身体が微かに震えていた。

彼はソファに突っ伏したまま、微動だにしなかった。

それがあまりに長い間だったので、私は不安になった。

どこか打ち所が悪かったのではないのか。

私は先ほどの菊珂の例を思い出し、ぞっとした。

やがて、小さなすすり泣きのようなものが聞こえてきた。

私は安堵の息を吐いた。

生きている。

生きていた。

だが、その安堵の時はほんの一瞬のことだった。

次の瞬間には、私の背筋は凍りついていた。

なぜなら、私は気がついたのである。

小さなすすり泣き。


実はそれが、咲沼英葵の笑い声だと言う事に。


やがてその笑い声は大きくなり、部屋中に響き渡っていた。

深夜のオフィスに、狂ったような笑い声が響く。

「さ、咲沼君……?」

「くくくっ……」

ゆっくりと顔を上げた彼の顔はいつもの温和な秘書の顔ではなかった。

その顔に浮かんでいたのは、悪魔的な、ぞっとする程に美しい笑みだった。

「覚えていませんか?僕のこと」

「えっ……?」

彼はまた小さく笑った。それはやや自嘲的な笑みだった。

「ふふっ……あなたは覚えていては下さらなかったようですね。僕のことを」

「えっ……?」

「毎日毎日こうして顔をつき合わせていたというのに……。気づいてももらえなかった。

僕は忘れたくても忘れることなんてできなかったのに……。あなたのその端正な顔だけは」

「ど、どういうことなんだ……?」

彼は困惑する私にため息を一つつくと、

「やれやれ。うまくないですね。一から説明しないとならないようだ」

と首を振った。

「説明……?」

いつき板金工場……」

「えっ……?」

それは……。

「おや。その顔は聞き覚えがあるようですね。この名前に。よかったです。本当に綺麗さっぱり忘れられていたら……説明が面倒ですから」

彼はそう言うと、また微笑んだ。

それは妖婦のような妖艶な笑みだった。

それよりも、私の胸を打っていたのは、その「樹板金工場」という単語の響きだった。

なぜなら、その工場は。


あの夢の光景そのものだったから。


「なぜ……?」

私の口からこぼれたその疑問詞には様々な意味が込められていた。


なぜ、君がこの工場の名前を知っているんだ?

なぜ、今、君がこの場でその名前を口にする必要があるのだ?

なぜ、君がこの工場について私に説明することなどあるんだ?

なぜ……。

なぜ……?


彼は笑った。

まるで、その理由に思いあたることができない愚かな私を嘲るように。

そして、彼の形のよい唇が開かれた。

「教えてあげましょうか?」


「僕はその工場の経営者の息子なんですよ」


私は声にならない叫びを上げた。


嘘だ。


だが、彼の証言を裏付けるかのように。

目の前の青年の姿が、夢の中の少年の影に重なる。


私を夢の中で攻め続けた。

その美しい瞳が。


そんな馬鹿な。


私は壊れたおもちゃのように、ゆるゆると首を振った。

彼はまるで小さい子供に言い含めるように、ゆっくりと言った。

「そう。僕は、あなた方一族によって工場を倒産させられた、あの小さな町工場の社長の息子なんです」

次の瞬間襲ったのは、強烈な眩暈と吐き気。

「やっと、思い出して下さったようですね」

彼はデスクに這い蹲る私を見下ろしながら言った。


忘れたことはなかった。

ただ、この現実に思い当たらなかった。

だが、それは彼にしてみれば同じことだろう。


「なぜ……?」

また私の口からその一言がこぼれた。







僕は社会人となって、あの男と再会した。

憎むべき男。

雪花海杜と。

もちろん、偶然なんかじゃありません。

僕は狙っていたんだ。ずっと……。そうあの日から。

秘書就任の時、僕の顔を見ても彼は何も思い出さなかった。

こうして毎日顔を合わせてもだ。

それだけ彼にとってあの出来事は些細なことに過ぎなかったのだろう。

まあ、いいさ。それならば、思い出させてやるだけだ。

僕はそう思って機会を伺っていた。

チャンスは意外なカタチで転がり込んできた。

それは、あの男の妹が犯した大罪。

見ず知らずの男の骸を目にして、僕はさすがに言葉を失った。

だが、同時にこれは神(死神かもしれないが)が僕に与えてくれた最大のチャンスだと思った。

馬鹿正直なくらい真っ直ぐな彼は、泣きじゃくる菊珂に自首を勧めた。

その真っ直ぐで真摯な態度を、ぜひ僕の両親に発揮して欲しかったものだが。

僕は彼に異を唱えた。

思えば、僕が秘書として彼に意見したのはこのことが初めてだった気がする。

僕は彼と彼の妹にできるだけダメージを与えるような内容で、ことの隠蔽を勧めた。

青褪めたあの男の顔は今でもはっきりと思い出せる。滑稽なその顔を。

ねえ、母さん。あなたも面白いと思ったでしょう?

でも、これくらいじゃ駄目だ。僕達が受けた屈辱と痛みはこんなもので代えられるものじゃない。

だから、僕は決めたんです。

あの男を徹底的にめちゃくちゃにしてやろうと。

精神的にも肉体的にもね。


よい考えでしょう?父さん。


手始めに、まずはあの男の身体を壊してやることにしました。

ああ、誤解しないで下さい。母さん。

僕は彼に快楽なんて与えてやるつもりはない。

ただ僕が与えてやるのは、屈辱と恥辱と絶望。


だけど、まだですよ。まだ。

僕の考えた復讐はこんなものじゃない。

え?他に何をする気かって?

駄目。

それは内緒。

ふふふ。そんな顔しないで下さい。

追々わかりますよ。

楽しみにしていて下さい。


親愛なる父さん、母さん。

やっと……時は熟しましたよ。

どうか見守っていて下さい。

雪花一族の凋落を。





「んっ……んっ……」

平生から変わり果てた秘書の乱暴な口付け。

その殺意さえ感じさせる程に濃密な口付けに、私は息さえできなかった。

やっと許された唇からは、細い唾液の糸が引いていた。

「あなたが憎い……。僕から、そして美麻から両親を奪ったあなた方一族が」

「うあっ!?」

私は思わず、叫んでいた。

彼が私の首筋に噛み付いていたから。

彼は私の首筋を離すと、言った。そのカタチのよい唇は私の血で彩られていた。

「あの額は、あなた方にとってはほんのはした金だったはずだ。その金で、父と母は首を括ったんだ」

「うあっ……あっ!!」

「父と母が天井から、ゆらゆらと……」

「やめろっ!!やめてくれっ!!」

私は机に這いつくばったまま、両耳を塞いだ。

だが、英葵の言葉は呪文のように私の鼓膜の髄まで届く。

「そうだ。全部あなた方一族のせいだ」

彼は背中から私に抱きつくと、私から背広を奪った。その拍子に私の身体は仰向けにされた。

英葵の狂気に満ちた美しい顔が、私の真上にあった。

「あなたは……あの男と同罪なんだ」

彼は私の首筋に手をかけた。

「うっ……」

「いや……あなたはあの男以上の罪人かもしれない」

彼は私の首筋に優しく愛撫した。言葉とは裏腹な優しいキス。

「ここに痕は付けないでおいてあげますよ。その代わり……」

英葵は私の胸をシャツの上からまさぐった。

「ここにはいっぱい付けてあげますから……。あなたの罪の刻印を」

そう言うと、英葵はゆっくりと私のタイを引き抜いた。そして、それをゆっくりと床に落とした。

「うっあっ……」

「全ては……あなたのせいですよ。社長」

ふと、彼は寂しげな顔になった。嵐のようだった行為が、ふいに停止した。

彼は、噛み締めるように言った。

「僕はあの時、あなたに……賭けていたのに」

「賭けて……いた……?」

「そう。あの時、あなたはあの男に言った」


「あなたには人間の心がないのですか!?」


「あっ……」

「僕はあの言葉に賭けた。信じたんだ。あの言葉を発したあなたが……きっと、事態を変えてくれるだろうと……。だが、あなたは」


そうだ。

私は。

私は逃げた。

追いすがる夫婦の顔も見ずに逃げた。

私はあの時、どんなことをしても父を諌めるべきだったのに。

私もあの瞬間。

父と同じように堕ちたのだ。


「あなたのせいだ……!!」

彼がそう叫ぶように言うのと同時に、私は自分のワイシャツが破られる音を聞いた。

同時に私はデスクに叩きつけられた。衝撃で一瞬息が止まる。

露になった私の肌を弄ぶように英葵の細い指が滑っていく。

やがてその刺激はどんどん加速し、私の脳天に響いていく。

「どうして……こんなことを……」

彼は私の胸の突起を舐め上げながら、答えた。

「簡単ですよ。あなたをこうしてめちゃくちゃにしてしまいたかった」

そう言うと、彼は顔を上げた。

「もっとも屈辱的な方法で」

その瞬間、彼の爪が私の肌に食い込んだ。

「うあっ!?」

「さあ、どんな気分です?」

彼は一層強く爪を立てた。一方の指は優しく私の身体を撫でまわる。

それはまるで別の生き物のように、素早く、そして力強く私の身体を刺激していく。

「あっ……ああっ……」

私は思わず身体を仰け反らせた。その隙を英葵は見逃さずに、弓なりになった私の身体を愛撫していく。

「自分の部下に身体を征服される感想は」

彼の指はやがて、下へと動きを進めていく。

「あっ……いやっ……あっ……」

「ねえ。社長」

「あっ……。うっうっ……」

私は最後の理性で、彼の頬を打った。

英葵は動きを止めた。

私は肩で息をしながら、彼から身体を離した。

「拒めますか?僕を」

「えっ……」

「『あのこと』があるのに」

「あっ!!」

それは……菊珂の件!!

「僕はあの件の加害者でもありますが、同時に目撃者でもあるんですよ」

だが……。

「だが……そんなことしたら……」

君まで罪に……。

「それがどうしたと言うんです?」

「!?」

「僕はそんなことなんとも思いませんよ」

彼は私を見下すように見下ろした。

「あなた方一族を貶める為だったら、僕は自分が獄につながれようが、死刑になろうが関係ないんですよ」

この細い腕のどこにそんな力があるのか。

私は抵抗も許されずに彼に身体を征服された。

「ああっ……うっ……」

抵抗……?

できるはずがないのだ。

そもそも、これが裁きならば、私に拒む権利など微塵も残ってはいない。

初めから、勝負は着いている。


私がこの青年の両親を殺した。

私がこの青年の人生を狂わせた。

私がこの青年を夜叉に変えた。


全ての事実が私を攻め立てる。

この地獄のような刻……。

それでこの罪が赦されるのならば……。

「この犯罪の告白……それは、最後の手段だ」

英葵は私の身体をその細い指でなぞりながら、ぽつりと言った。

「忘れないで下さい。僕がこの計画に己の命さえ、賭けているということを……。そう。これはまだ序章にすぎないんだ……」

序章……?

これ以上、一体……。

「あなた方一族を破滅させる為なら、僕は喜んでこの命を捧げてやる」

そう言うと、彼は微笑んだ。刹那的に美しい笑みだった。

「悪魔にでも……死神にでもね」

英葵の美しい笑みを見つめたまま、私は気を失った。





既に夜は、その闇を白々とした朝に明け渡そうとしていた。

彼は僕の中で喘ぎ続けている。

僕は彼の肌に痕を刻んでいく。

そう。これは彼の罪の刻印だ。

荒い呼吸で上下する彼の胸は、刻印でいっぱいになった。

そうだ。

これが、あなたが犯した罪の代償だ。

僕は行為を一層激しくした。

一層大きくなる彼の吐息。


「すまなかっ……た……」

僕は思わず、動きを停止していた。

見ると、彼は意識を失っていた。

その痛々しい程に青褪めた顔に、僕の中で何かが疼く。

だが。

これくらいで許してはいけない。


そうでしょう?

お父さん、お母さん。


「あなたの全てを僕が壊してやる……」





「本当に助かるわ。美麻ちゃん達が手伝いに来てくれて」

そう言って、いつも園長先生は笑顔で私達を労ってくれる。

ここは「ひまわり園」。身寄りのない子供達が暮らす養護施設。

そして……ここはわたしの第二のふるさとでもある。

わたしと英葵お兄ちゃんの。

わたしはここにほんの少しでも恩返しがしたくて、毎週手伝いに来ているのだ。

「美麻ちゃん。本当にピアノが上手いね」

そう言って笑いかけてくれるのが、一緒にボランティアに来ている槌谷玉つちや ひかる先輩。

わたしの高校の先輩で、生徒会長とサッカー部のキャプテンを務めていた人。

今は有名な名門大学に通いながらサッカーを続けているらしい。

とても優しくて、いつもわたしはこの人に助けられてばかり。

「ほんと。美麻ちゃんのピアノは大人気よ。上手いわよねぇ。本当に独学なの?」

「はい……。うちには……ピアノを習えるようなお金ありませんでしたから」

そう。わたしが少し人に誇れることがあるとすれば……このピアノだろう。

それに、このおかげで海杜さんとも知り合えたのだ。

「美麻ちゃん。重いだろう?持ってあげるよ」

「あっ……。ありがとうございます」

優しい笑顔……。

嫌だな。

どうしても意識してしまう。三日前のこと。

「美麻ちゃん。僕、君のこと好きなんだ」

真っ直ぐに向けられた瞳。

その奥の宿る真剣な思い。

正直、嬉しかった。

わたしのようななんの取り得もない子を好きになってくれる人がいたなんて……。

それだけで嬉しかった。

でも……。

どうしても浮かんでしまうのは海杜さんの優しい笑顔……。

ごめんなさい……先輩。

私……。

「美麻ちゃん……?どうしたんだい?」

嫌だ……気が付いたら、またわたし……どしゃぶり涙になってる……。

「ごめんなさい……ごめんなさい……先輩」

「美麻ちゃん。どうしたんだい?ほら。ハンカチ……」

「ごめんなさい……私……私……好きな人がいるんです」

「えっ……?」

「ごめんなさい……」

先輩は少し意外そうな顔をしたけど、すぐに笑顔になって言ってくれた。

「いやだな。君が謝ることなんてないじゃないか」

「えっ……」

「美麻ちゃん、何も僕に謝る必要なんてないよ。素敵なことじゃないか。

その相手が僕じゃないということだけが悔やまれるけどね。ははは」

先輩はこんなに優しいのに。

そして、わたしのこの恋は絶対に叶わないのに。

どうして、わたしはこんなにも海杜さんのことが好きなんだろう。

悲しい結末がわかっているのに。

怖いよ。わたし……すごく怖い。

ねえ。どうしたらいいの?お兄ちゃん。





正直、あの瞬間の驚きは……言葉で言い表せるようなものではないだろう。

発端は深夜残業。

副社長ともあろうこの俺が、何が悲しくて部下のやらかしたポカの後始末をしなきゃならない。

俺は毒つきながらも、ディスプレイに向かっていた。

きっかけは、今から六時間前。

俺直属のセクションが思いきり単純なミスを犯したことからだった。

入社二ヶ月の新米のミスだった。

正直、その新米の横面を張り倒したい衝動に駆られたが、今はその新米に感謝しなければならないだろう。

なぜなら、この深夜残業が俺の形勢逆転のジョーカーとなったのだから。

俺は缶ビール片手に(こうでもしなければやってられない)書類とディスプレイを交互に睨んでいた。

その時、妙な電子音が響いた。

「あん?」

俺は不審に思ってあたりを見回したが、すぐに思い当たった。

どうやら、盗聴器が作動したらしい。

この盗聴器は、なんらかの音を察知したら自動的にスイッチが入るタイプだった。

俺は不思議に思った。

一体こんな時間に誰が社長室に?

海杜は見合いがあるとかいうふざけた理由でとっくの昔に帰宅したし、警備員だってほんの一時間前に見回っていったばかりだった。

俺の疑問に答えるように、盗聴器からは聞きなれた声が響いた。

「おかしいな……。確かにデスクの上に置いたはずだったんだが……」

海杜だった。

あの馬鹿、どうやら何か忘れ物をしたらしい。

がさがさと物を探すような音が不快に盗聴器から響く。

俺が呆れてスイッチを切ろうとした瞬間、

「えっ……?」

という海杜のなんとも間の抜けた声が響いた。

「咲沼君……?どうして」

咲沼……あの秘書の男か。女みたいな顔をした妙に色気のある青年。

「実は退社の時、社長がこれをお忘れなのに気が付いて、預かっていました」

俺は口笛を吹きたい気分だった。

秘書が社長を出し抜くとは。

なかなかやるじゃねぇか。坊や。

「咲沼君」

静かだがやや憂いの篭った海杜の声で、俺は奴が珍しく怒っていることを察知した。

「すみませんでした。社長。でも、これには訳があるんです。許して下さい」

理由とはなんだ?

俺はイヤホンを引き寄せた。

「だって、ここくらいおあつらえ向きな場所もないでしょう?」

「おあつらえ向き……?」

その瞬間、どたばたと耳障りな音が響いた。

なんだ……?

こりゃあ……。

これではまるで……。

「な……何の真似だ……」

荒い息の海杜の声が響く。

「さ、咲沼君……?」

やがてその笑い声は大きくなり、部屋中に響き渡っていた。

次の瞬間、俺は心底驚いた。

咲沼の正体。

脅迫というカタチで繰り出された海杜へのあの行為。

それは陵辱以外のなにものでもなかった。

そして、何よりも見物(聞き物か?)だったのは、海杜の喘ぎ声だった。

「こいつは……」

いつも済ました顔で、優等生然していた男の醜態。

これが醜態以外のなんだというのだ?

俺は録音ボタンに指をかけた。

咲沼の囁きと、同時に次第に大きくなる海杜の吐息と喘ぎ声。

ガキの頃から見知っていたあの男の。

ガキの頃から憎んでいたあの男の。

淫らな醜態が確かにそこにあった。

俺は海杜の啼き声を肴に一人乾杯した。

そして、その声に言い知れぬ胸の高鳴りを覚える自分に。

海杜の整った顔立ちが苦痛と快楽に歪むのが浮かぶ度に、頬が弛緩することを禁じえなかった。

それにしても、「あのこと」とはなんだ?

それを俺は知らねばならない。


そして……。





菊珂ちゃんはその日、欠席だった。

どうしたんだろう……。菊珂ちゃん。皆勤賞狙いだって笑っていたのに……。

風邪でもひいたのかな?

私は放課後の音楽室でピアノを弾いていた。

家にはピアノがなくて、学校でしか弾けないから、私は決まって放課後ピアノを弾きにここに来ていた。

「あら。咲沼さん。今日はお一人?」

その少し甲高い声に顔を上げると、クラスメイトの綾小路莢華あやのこうじ さやかさんが立っていた。

「珍しいこと。本当によく飽きないって感心するくらい、いつも雪花さんと一緒にいらっしゃるのに」

綾小路さんは菊珂ちゃんの従姉妹らしいけど、正直あまり仲はよくないみたいで、何かと二人はぶつかってばかり。

わたしも本当のことを言うと、あまり彼女が得意ではない。

ショートカットがよく似合っていて、とても綺麗な人だけど、どこか険があるような感じで馴染めなかった。

「あの……私に何か……」

すると、彼女はちょっと私を見下ろすようにして言った。

「ねえ、このピアノ空けて下さらない?私、練習がしたいの」

「練習?」

わたしがそう問いかけると、綾小路さんは得意そうに言った。

「そう。本当は家で弾きたいんですけど、今日は父にお客様がいらっしゃるらしくて……」

「そうなんですか……。でも、どうしてそんなに急いで?何かあるんですか?」

「三週間後にコンクールがありますの。全日本のね」

「あっ……」

私もそのコンクールのことは知っていた。

そのコンクールに優勝すれば、海外留学の資金がもらえる。

そして、確実にプロへの道が開ける。

それは、小さい頃からの、わたしの……憧れのコンクール。

だって、このコンクールに優勝できれば、大好きなピアノを職業にできるかもしれないんだもの。

「ね?よろしいかしら?」

「は、はい……」

わたしは慌てて彼女にピアノを譲った。彼女は華やかな笑顔で「ありがとう」と言ってピアノ椅子に腰掛けた。

そして、少し鍵盤を撫でるようにして呟いた。

「やっぱり駄目ね。安物は」

「は、はあ……」

わたしにはピアノの安い高いなんてわからない。どこが違うんだろう。こんなに立派なピアノなのに……。

「やっぱり、海杜お兄様のピアノが一番ね」

「えっ……?海杜さん?」

わたしはいきなり海杜さんの名前が出たので、思わず聞き返してしまっていた。

「あら、咲沼さん、海杜お兄様をご存知なの?」

「えっ……。ええ」

「そう。菊珂から紹介されたのかしら?」

彼女はちょっと怪訝な顔をしたけど、すぐにいつもの自信に満ちた笑顔で答えた。

そうか。菊珂ちゃんの従姉妹ということは、海杜さんにとっても彼女は従姉妹なのだ。

「まあ、いいわ。私のピアノは海杜お兄様の直伝ですの。小さな頃から教えてもらっていたの。

海杜お兄様はとてもピアノがお上手な方ですから。結構、アマチュアの世界では有名なのよ。

本当にプロにおなりにならないなんて、もったいないことですわ。うふふ」

「そうですね。とてもお上手でした」

そう言うと、綾小路さんはにっこりと微笑んで、

「そうでしょう?本当に素晴らしいのよ」

と胸を張った。それがまるで自分のことみたいだったから、わたしは少し寂しくなった。

わたしが知らない海杜さんを、莢華さんはいっぱい知っているんだろう。

「そうそう。海杜お兄様は昔、このコンクールで優勝されていますのよ」

「えっ!?」

「でも、会社をお継ぎになるからと、留学は辞退されたんですわ。おかわいそうなお兄様」

「そうだったんですか……」

そうね。海杜さんくらいピアノが上手だったら……あのコンクールでも優勝できるわよね。やっぱり、すごい人なんだわ。海杜さん。

わたしはますます海杜さんが遠い人に思われてきて、悲しくなった。

「さ。咲沼さん。私、集中して練習したいのよ。出て行ってもらえますかしら?」

そんな莢華さんの声に押されるように、私は音楽室を後にした。





雪花菊珂はベットに潜って怯えていた。

昨晩の悪夢から菊珂は一滴の水さえ口にせず、ただベットに潜って震えていた。


うまく処分したから何も気に病む必要はない。

あれは君のせいじゃない。だから。

早く忘れるんだ。


兄はそう優しく微笑んでくれたが、そんなこと、許されていいはずがない。

頭ではわかっている。

だが、同時に「うまい処分」が菊珂には正しい道であるようにも感じられていた。

菊珂はそんな自分が信じられなかった。

自分は人を殺めてしまったのだ。それなのに……。

自分はいつだって誇り高く生きてきた。そういう自負は間違いなくある。

昔から、曲がったことは大嫌いだった。

彼女は、姑息な手段や汚い手を使って自分の過失を隠蔽してきた者たちを菊珂は何人も見てきた。そして、そういう人々を軽蔑してきた。

自分だけはそんな人間にはならない。なりたくない。

そう思って彼女は自分の誇りに賭け、自分が正しいと信じた道を選んできたはずだった。

だけど、今は……。

真実を話すべきなのはわかっている。でも、怖い。

今の全てを失うのが、溜まらなく怖い。

みんな、自分が人殺しだとわかったら、どんな目で見るのだろう。

ふと、優しく笑う親友の顔が浮かんだ。

そうだ。

きっと美麻だって、自分が殺人犯だとわかったら、離れてしまうだろう。

そんなの嫌……。

そんなの怖い……。

「ううっ……誰か……助けて……」





咲沼英葵との秘事。

生き地獄のようなその時間。

快楽と苦痛が交互に波のように襲う。

そんな途切れ途切れの意識の中で、私は実に意外なものを見た。

どうして、君が泣いているんだ?





「ねえ。パパ~。まだお船、動かないの?」

まだ幼稚園くらいの少女が、ヨットの上をちょこちょこと走り回っている。

その傍らの運転席では、その子の父親が必死にエンジンと格闘していた。

ここはF埠頭。

昨夜、あの事件が起きた現場である。

今は昨日の出来事夢であったかのように、晴天の明るい日差しに包まれていた。

「うん~。おかしいなあ……エンジンがかからない……」

「パパ~」

「わかったわかった。しかし、どうしちまったんだ?こりゃ……」

そう言うと、男性はスクリューの辺りに絡む紐のようなものを見つけた。

「あん?なんだこりゃ……。はは~ん。これのせいか……」

男性はその紐を苦労して掴むと、引っ張った。

「なんだ……?ずいぶん重いなこりゃ……。一体なんだ……?粗大ごみでも不法投棄か?まったく、海はゴミ捨て場じゃないんだぞ」

海をこよなく愛する彼は、憤慨しながらその紐をひっぱり続けた。

「くっ……。もう少し……もう少しだな……。うおおっ!!」

男性は気合を込めると、一気に紐を引っ張りあげた。

「はあ……はあ……。なんだこりゃ……」

男性は「それ」を船上に引き上げると、絡みつく海草を掻き分け、その正体を探った。

「なんだ……これは……って……うわああああっ!?」

男性はいきなり声を上げると、その場にしりもちをついた。

「パパ~。これ、なあに?」

「見るな!!見るんじゃない!!」

慌てて男性は娘の目を覆った。

「それ」は紛れもなく死体であった。

頭に裂傷を負った、まだ若い男の死体であった。







まぶたに感じる差すような白い瞬きで、私は覚醒した。

朝だ。

「お目覚めになりましたか。社長」

私の身体は無意識に震えた。

聞きなれた穏やかな声。

恐る恐る顔を上げると、そこにはいつも通り、口元に穏やかな笑みを浮かべた咲沼英葵がいた。

既に彼はきちんと身づくろいを整え、立っていた。

「着替えです。社長」

「えっ……?」

「昨夜と同じ服装だと、社員がいぶかしむでしょう?」

「あ……ああ」

「安心して下さい。社長」

そう言うと、彼は私の耳元で囁くように言った。


「見える部分には痕は残していませんから」


私はその瞬間、身体が一気に火照るのを感じた。

青年秘書は涼しい顔で私を見下ろすと、

「社長。今日のスケジュールをお伝えします」

といつも通りの口調で言った。





「F埠頭にて男性の死体発見。どうやら、他殺体の模様。捜査員は至急現場に向かわれたし。繰り返します。F埠頭にて男性の死体発見」

聞きなれたなじみの婦警のアナウンスが、無線から響く。

あたしと苗子は別件で聞き込み中だったが、この無線を受けて至急現場へと目的地を変更した。

「先輩~。殺人ですかねぇ……」

このうららかな天気と同じようにのんきな相棒の声の目を覚ますように、あたしは大声で答えた。

「まだはっきりしないわね。頭部に裂傷って言っても、事故で海に落ちた時でもできるから……取りあえず、飛ばすわよ。しっかりつかまってなさい!!」


現場に着くと、既に辺りは人だかりになっていた。

人ごみを掻き分け、やっとの思いで「KEEPOUT」のロープを潜り抜けると、見慣れた白衣の男にぶつかった。

「やあ。未央君。早いね」

彼は現場に似つかわしくない爽やかな笑みで言った。いくら言ってもあたしをファーストネームで呼ぶのをやめてくれない。

「そっちこそ。捜査員より早い到着って辺りがさすがね」

「僕は仕事に情熱を燃やしているからねぇ」

この白衣の男は熊倉比呂士くまくら ひろし。この管轄の監察医である。

紳士的で、物腰が柔らかい感じのインテリといった風情だが、三度の飯より解剖が好きという変態監察医だ。

普段は某大学の法医学教室で教鞭を執っているらしい。

「で?あんたの愛しの遺体はどこ?」

「なんかひっかかる言い方だねぇ……。君は妙な誤解というか偏見を僕に持っているようだが……別に僕は死体愛好者じゃないよ?」

そう言うと、彼は青いビニールシートを剥いだ。

そこから現れたのは、頭に裂傷を負った若い男の死体だった。男の遺体は海を漂っていた影響か、膨張し、ぶよぶよになっていた。

「死んでから海に投げ込まれたところだね。ひどいことをするなあ。まったく」

「ほんと……これは惨いわねぇ……。で、この頭の傷はどうかしら。これが直接の死因で間違いない?なんだか深そうだけど」

「いい質問だねぇ。未央君」

「あ、よかったですね~。先輩。褒められましたよ」

傍らでいきなりぴょこんと苗子が顔を出した。

「うるさいわね!!あんたに言われたらおしまいよ。で?どうなのよ」

「ああ。この傷は生活反応があるね。どうやら死因はこの傷のようだ。だが、気になることがあるんだ」

「気になることですか~?」

現場に似つかわしくない、苗子のぶったるんだ声があたしの感情を刺激した。

「もったいぶらないで言ってちょうだい。これは他殺?事故?」

すると、眼鏡の監察医はにんまりと笑って答えた。

「賭けてもいいね。これは殺人だ」

「そ、ありがと。お聞きの通りよ。みんな。これからは変死扱いから殺人事件に方向転換するわ。気合入れて頼むわよ!!」





「あのう……。菊珂ちゃんは……」

その日の夕刻。

雪花邸の玄関ホールでは、咲沼美麻と雪花里香が対峙していた。

「ごめんなさいね。せっかく来て頂いたのに……菊珂さん、加減がすぐれないらしくて……伏せているんですの」

「わかりました……。これ……今日の分の授業のノートのコピーです。あと……これ、クッキー作ったので……渡してあげてもらえませんか?」

「ええ。ありがとう。菊珂さんも喜ぶと思いますわ」

里香は笑顔で答えた。

「では……」

美麻は小さくお辞儀をすると、背を向けた。その時、さっとドアが開き、海杜が入ってきた。

「あれ。美麻ちゃんじゃないか」

「海杜さん。こんばんは」

「あら。海杜さん。美麻さんのこともご存知でしたの?」

「ええ。この間、家に遊びに来てくれた時に……。ね」

「はい」

微笑み合う二人を目にした里香の胸にさっと何かが差した。

それは嫉妬?

馬鹿な。どうして私がこんな小娘に嫉妬など。

里香は笑い出したい気分だったが、なぜか胸のわだかまりは消えなかった。

それを大人の配慮という仮面で隠し、彼女は優しい笑みで言った。

「そうだわ。美麻さん。あなた、晩御飯まだでしょう?うちで召し上がっていらっしゃいな」

「えっ……?」

少女の顔にさっと赤みが差した。

「そうだ。そうしてくれないか。菊珂ももしかしたら、君となら一緒に食事をしたいに違いない」

海杜の賛成に、少女の顔が更にほんのりと紅く染まった。

里香の胸にまた黒い何かが渦巻いた。


結局、菊珂は降りては来なかった。

夕餉は海杜と夕貴、里香、そして美麻の四人で取ることとなった。

美麻はとても恐縮した様子だったが、夕貴ともすぐに打ち解け、二人は仲良く並んで席に着いた。そんな様子を海杜が優しい眼差しで見つめていた。

美麻は、里香の目からみても美しい少女だった。

化粧気もなく、特に本人も意識はしていないのだろうが、全身から不思議な色気のようなものが立ち上る。

そんな美麻の気取らない美しさが、確実に里香の感情を逆撫でしていた。

それを加速させたのが、美麻に向けられる海杜の優しい眼差しなのは言うまでもない。


「本当に美味しかったです。ご馳走様でした」

美麻はそう言うと、立ち上がり食器を片付け始めた。

「あら、いいのよ。美麻さん。どうぞ、そのままにしてらして」

「でも……」

「いいのよ。あなたはお客様なのだから」

里香がわざわざ「お客様」と強調したのは、まるで家族のようにこの家の雰囲気に溶け込んでいる美麻へのささやかな警句であった。

だが、美麻はその言葉の裏に潜んだものには気づかないようで、ただ恐縮したように小さく頭を下げただけだった。

「私……菊珂ちゃんが心配で……。もう一度……菊珂ちゃんのお部屋を伺ってもいいですか?」

「もちろんだよ。心配かけて……すまないね」

「そんな……いいんです。私……菊珂ちゃんにはいつも助けてもらっていましたから……。それに……」

「それに?」
美麻は顔を上げ、真っ直ぐ海杜を見つめながら言った。

「私……菊珂ちゃんのこと、好きですから」

そう屈託なく笑える美麻の純真さは、確実に里香の胸を掻き乱していた。






「菊珂ちゃん。菊珂ちゃん」

わたしはノックを繰り返したけど、反応がない。

どうしたんだろう?

「やっぱり……駄目かい?」

「はい……。応答がないんです。一体……どうしたんだろう。菊珂ちゃん」

私がそう言うと、海杜さんはすごく悲しそうな目で菊珂ちゃんの部屋のドアを見た。

その目は、なんだかこちらの胸まで締め付けられそうなくらい悲しい目で、私はどうしていいのかわからなくなった。

でも、それはほんの一瞬のことで、彼は笑顔になると、

「下に行こう」

とわたしを促した。

下のホールに行くと、いつかのピアノが月明かりを浴びて佇んでいた。

やっぱり、綺麗なピアノ。

わたしは思わず、ピアノに駆け寄っていた。

「弾いてくれないか?美麻ちゃん」

「えっ……」

わたしは思わず、海杜さんの顔を見返していた。

「君のピアノが聞きたいんだ」

「あの……」

「さあ……」

「は、はい」

わたしは嬉しくなってピアノを開けた。海杜さんにそんなこと言ってもらえるなんて。

わたしが演奏を始めると、海杜さんはなぜか懐かしそうな顔をした。

まるで、過去の何かを辿るような。一体……なぜ?

でも、わたしはそんなことどうでもよかった。

彼の暖かい眼差しが、私に一心に向けられている。

それだけで、身体中が熱くなるような。幸せな気持ちになる。

ああ、ずっとこの時が続けばいいのに。

演奏を終えると、彼は惜しみない拍手を送ってくれた。

わたしは本当に嬉しくなって、何度も何度も頭を下げていた。

「あの……海杜さん……莢華さんにピアノ教えているんですか?」

わたしがその質問をすると彼はなぜか寂しそうに、

「ああ」

とだけ答えた。

「あの……莢華さん……コンクールに出場されるんですよね。すごいですね。

あのコンクールは、日本中でも選ばれた人しか出場できないって……

それに……海杜さんも昔……優勝されたんでしょう?本当に……すごいです!!」

私は興奮していて、自分でもびっくりするくらい饒舌になっていた。

だが、対照的に彼はますます寂しそうに笑った。

どうして?

わたしがその理由を問いかけようとした瞬間、彼は思いついたように声を上げた。

「そうだ。君も出てみないかい?美麻ちゃん」

「えっ……?」

わたしは一瞬、何を言われたのかわからなくて、ただ声を上げた。

「君もコンクールに出るといい」

「えっ!?でも……私……」

わたしは別に日本中から選ばれたピアニストではないし、何よりわたしなんか、何の後ろ盾もないのに。

「何も心配いらない。あのコンクールには一般枠もあってね。

主催者の行うオーディションに合格すれば出場資格がもらえるんだ。推薦人には僕がなろう」

「えっ!?」

「君なら、大丈夫だよ。君なら、きっと優勝をつかめる」

わたしがコンクールに!?

わたしは海杜さんの自信に満ちた綺麗な瞳をただ見つめていた。

不思議なことに彼のその眼差しを見つめていると、勇気が沸いて来る。


わたし、やります。

海杜さん。あなたのために。





「で。あんたが気になることって……何よ」

あたしは、そのセリフをウキウキと遺体の検死に当たる変態監察医の背中に投げた。

彼は、あたしの質問を邪魔くさそうに応えた。

「ああ、それはね。つまり……」

「あ~っ!!先輩!!この遺体、何か握ってますよ!!」

「えっ?」

「おや~?これはなんだろうねぇ……」

見ると、それは黒光りするボールペンだった。金文字で何か彫られている。

「え~貸して下さい!!ん~?何々……コーポレーション?読みにくいなあ……。

この海に漂っている間に……こすれてしまったようですね~。はい~!!これは鑑識さん行き~」

そう言うと、苗子はそれを証拠品袋に投入した。

「えへへ~。なんかすごい発見じゃないですか?先輩!!」

「ボールペンねえ……。ボールペンなんて、誰だって持ってるじゃないの」

「ぷ~っ」

「まあまあ、羽鳥君。捜査なんてのはね。実際何が役に立つかわらないものなんだよ~」

「は~。そんなものかしらねぇ。苗子が見つけたってだけで、もう証拠としての価値ががた落ちだと思うけどね」

あたしは後にこの発言を訂正することになる。

なぜなら、苗子の発見したボールペンは、恐ろしい意味を持っていたのだから。





ノックの音で菊珂は目覚めた。

カーテンを閉め切った暗い部屋。いつもだったらとても耐えられない光景。

だが、菊珂は今の自分にはこの風景が一番似合いだと思っていた。

なにせ自分は人殺しなのだから。

もう一度ノックが響いた。

「どなた?」

「咲沼です」

「えっ……?」

自分の咎を知る、家族以外の人物……。

菊珂は咄嗟に警戒した。ドアを開けるのを少し躊躇した後、鍵を開けた。

「菊珂さん……お加減はいかがですか?」

ドアから現れたのは、声の通り、花束を抱えた咲沼英葵だった。

「お見舞いに来たんです。ご迷惑でしたか」

そうすまなそうに言うと、英葵は携えてきた白い薔薇の花束を菊珂に差し出した。

薔薇から立ち上る、柔らかで甘酸っぱい香り。

それは菊珂の荒んだ心に優しく染み渡った。

「ありがとう……」

菊珂はその花束を抱き締めると、英葵を部屋にいざなった。

「カーテン、開けましょう」

そう言うと、英葵は固く閉ざされた窓辺に手をかけた。

「駄目……」

「えっ……?」

「駄目ですわ……」

そう言うと、菊珂は咲沼のカーテンにかかる手を止めた。

「怖いんです……太陽の光が。今、あの明るい日差しを浴びたら、きっと、きっと私の罪も明るみにされてしまう」

それはイコール菊珂が全てを失うことを意味するのだ。

自分だけではない。他ならぬ咲沼が指摘したように兄も父も家族が今の生活と地位を失うことさえも……。

「みんな……みんな……暴かれて……嫌っ……。そんなの……」

菊珂は薔薇の花束を放り投げ、ベットに突っ伏した。

「嫌よっ!!嫌っ!!いやああっ!!」

その時、鋭い音が響き、菊珂の背後から白い光が差し込んだ。咲沼がカーテンを開けたのだ。

「あっ……」

「こっちを見てください。菊珂さん」

「嫌っ!!できないわ!!嫌っ!!」

「菊珂さん!!」

「ねえ、どうしてそんな意地悪なさるの?私、もう日の光なんて浴びることが許されない身なのよ!!私は穢れた犯罪者なんだわ!!」

「見るんだ!!」

「いやっ!!離して!!」

菊珂は英葵の腕の中で暴れた。英葵は何度も胸を打たれ、小さく呻いた。だが、彼は菊珂の腕を離さなかった。

「私なんて……私なんて!!もう!!」

その瞬間、菊珂は頬に鋭い痛みを感じた。菊珂は熱くなった頬に手をやった。

「えっ……」
「違う!!あなたは穢れた犯罪者なんかじゃない」

顔を上げると、英葵の真摯な顔にぶつかった。菊珂は思わず息を呑んだ。

あまりに彼の顔が。

光を背に受けた彼の顔が、美しすぎて。

「あなたは聡明だし、素晴らしい女性だ。あんな男のせいであなたの人生を捨てるなんてこと、僕には耐えられない!!」

「えっ……?」

「あなたはこの光の中を堂々と歩いていいんです。あなたはあらゆる意味で潔白だ。

それに、もしあなたが今後この件で苦しむことがあったとしても……」

目の前では、英葵の瞳が揺れていた。

吸い込まれそうな程に美しい瞳。

菊珂はまるで暗示にでも掛けられたかのように、その手を下した。

「僕があなたを守ります」

「さ、咲沼さん……」

「僕があなたを守ります。この命に代えても。だから……どうかもう苦しまないで下さい」

そう言うと、英葵は菊珂を優しく抱き締めた。

菊珂も泣きじゃくりながら英葵の胸に顔を埋めた。

菊珂は、今まで感じたことのない安らぎが胸に広がるのを感じた。

それは言い様もなく心地よい感覚だった。

菊珂にはその感覚がなんなのか、まだはっきりと理解できていなかった。

ただ、この青年の胸が心地よい場所であるということだけしか。

だが、その青年の瞳に、何か得体の知れない暗い影が宿っていることに菊珂は気が付かなかった。





翌日、早速私は美麻を連れてコンクールの一般オーディションに向かった。

これは私の贖罪の気持ちからの行為だった。

美麻の両親への……。

そして、何より美麻の類稀なる才能を開花させたい。そんな思いもあった。

美麻は最初、可哀想なくらいに緊張し、小刻みに震えていたが、いざピアノを前にするとあの戦慄する程に素晴らしい調べを会場に響かせた。

審査員達が息を呑むのが、遠くの席からでもわかった。

オーディションの終了後、控え室で休憩していると、

「海杜君!!」

と背後から声をかけられた。

著名な女流ピアニスト、澤原柚生さわはら ゆずきだった。

彼女は私のピアノ仲間で、今回の審査員の一員でもあった。

「どこから連れてきたの?あのコ」

「驚きましたか?」

私は得意気に彼女を見下ろした。彼女は心底驚いているらしく、大きな眼をますます大きくして答えた。

「驚いたも何も……声も出なかったわ」

それは私も同じだ。ただし、私の場合と彼女の場合では驚いたポイントに違いがあるが。

彼女は控え室でピアノを引き続ける美麻を見つめながら言った。

「あのコ、天才よ」





「で?さっき、あなたが言ってた気になることって何なのよ」

あたしは、苗子がいないことを見計らって(なんであたしがわざわざそんなことに気を使わないとならないんだかわからないだけど)監察医に尋ねた。

「ああ、あれね。あれは……」

「先輩~!!大変なことがわかっちゃいましたよ~!!」

ドアが勢いよく開いて、やっぱり苗子が立っていた。

「苗子~。毎度毎度、絶妙なタイミングね。あんた、なんかあたしにこの変態監察医と話させたくない訳でもあるの?」

「変態とは、聞き捨てならないなあ……」

そう言って監察医は憤慨しながら腕を組んだ。もちろん、ポーズである。

「誤解ですよ~!!それより、ほんとに大変なんですよ~!!」

「あたしがまどろっこしいの嫌いなの、知ってるでしょ?はい。さっさと話す」

あたしは苗子に自分のお茶を差し出した。すると、息を切らした苗子は肩で息をしながら、そのお茶をひったくるようにして飲んだ。

「ぷは~っ!!あのですね~。あの、ボールペン。雪花コーポレーションの創立三十周年記念に配布された限定品だそうです!!」

「雪花コーポレーション……?」

「そうです!!羽鳥先輩のお見合い相手の社長さんの会社ですよ~!!」

あたしは慌てて苗子の口を押さえようとしたが、時、すでに遅し……。

このおしゃべり!!

あたしは思いっきり苗子を睨み付けた。苗子は「先輩~。怖いですう~」と身構えた。

「へえ~。未央君、お見合いなんてしていたのか」

どうでもいいけど、その天然記念物でも見るような目はやめて欲しい……。

「で。結果は?」

「それが、破談しちゃったらしいですよ~。うふふ」

なんでそんなに嬉しそうなのよ……。

「そうか~。君はいつも警官として悪人達を粉砕しているけど……お見合いも見事撃破か。さすがだねえ……」

「そういう意味解らない感心はやめてくれる?」

「でも、先輩~。なんかもったいないですよ~。雪花コーポレーションの社長さん、すっごいかっくいい人だったじゃないですか~。

俳優さんでもあんなに素敵な人いませんよ~。それに、すごく優しそうな人だったし~」

「へえ~。おや?未央君。君……なんかちょっと惜しいことしたって顔に書いてあるぞ?」

「はっ!?な、何言ってるの……?冗談じゃないわ。あたしはまだ結婚なんて……」

「先輩~。赤くなるなんて、なんか変~。怪しいです~」

「こら~っ!!あんた達、いいかげんにしなさ~い!!」





その日の朝。

僕は珍しい人物に呼び出された。

「よお。確か……咲沼だったか……?」

相手はこの社の副社長・更科恭平だった。

いつも抜け目のない瞳をした、どこか得体の知れない男。

「私に何か……御用でしょうか」

ここは副社長室。

社内でも僕の知らないテリトリーだった。

「そう固くなるなよ、別にとって食おうって訳じゃない」

そう言うと、更科は笑った。そして、僕に椅子を勧めた。

「用件をお願いします。これから社長は会議でして。私もそれに出席しなければなりませんので」

「ああ。わかってる。しかし、社長もご熱心なことだな」

「新しいプロジェクトの発足に関してですから……」

僕は彼の用件がわかった気がした。

社長が直々に立ち上げた今回のプロジェクト……その偵察か。

更科は、僕ならば落とせると踏んだか。

僕も随分甘く見られたものだ。

僕は思わず口元が歪むのを感じた。

当然、僕は口を割る気などさらさらない。

いくら憎むべき相手であっても、僕は彼の秘書なのだから。

「残念ながら……僕は今回のプロジェクトに関しては……何も知らないのです」

僕はせいぜい申し訳なさ気に装って、頭を下げた。

「咲沼。お前、何か勘違いしていないか?」

僕が少し狼狽して顔を上げると、真顔の更科にぶつかった。

「えっ?」

「誰も、そんなことお前に聞こうなんて思ってないぜ?そんな些細なことなんてな」

じゃあ、一体何を彼は求めているんだ?

僕はなぜか彼の眼差しに危険なものを感じて、立ち上がった。

「時間です……。失礼します」

そう頭を下げ、ドアに向かって歩き出した瞬間、僕の身体はドアに叩きつけられていた。

一瞬、衝撃で目の前が真っ白になった。次の瞬間、いきなり背中から羽交い絞めにされていた。

「な、何をなさるんですか?」

そう問いかけるのと同時に首筋にぞろりとした嫌な感触を感じた。

「うっ……」

抵抗しようと伸ばした手の自由はあっさりと封じられた。僕の手は弄ばれるように彼の大きな手に包み込まれていた。

「やめっ……んっ!!」

声を上げた瞬間、僕は唇の自由さえ失っていた。

「んっ……あっ……」

抵抗する間もなく、強引に差し込まれた更科の舌は、咥内を駆け巡る。

同時に、更科の指は僕のタイを引き抜いていた。

「んっ……んっ!!」

酸欠寸前で、僕の唇はようやく解放された。

「はあっ……いったい……何を……」

「何を……?ふふっ。決まってるだろう?お前が昨日海杜にしたことと同じことだよ」

「!?」

僕はさすがに言葉を失っていた。

「あいつだけがやられる立場だったら、不公平だろう?世の中は平等じゃなくちゃな」

「どうして……あなたが……」

「それはこっちが聞きたいくらいだな」

「えっ……?」
「しかし、恐れ入ったぜ。お前がこの社に復讐の為に乗り込んできていたとはな。

あっぱれだ。海杜に屈辱を与えて……復讐を成し遂げるつもりだったのか?坊や」

どうしてそのことを!?

僕に発言を許さないかのように、更科の行為を激しさを増した。

「うあっ……あっ……!?」

僕はようやく意味のある声を出すことができた。

「それは……ご想像にお任せしますよ」

「はん。お前もなかなかなタマだな。気に入ったぜ?」

「それは光栄なことですが……。ありがた迷惑と言うものですね」

僕は肩で呼吸をしながら、言った。

「怖い目だな。お前……そういう目をすることあるんだな」

なぜか僕は笑みが零れるのを禁じえなかった。

それはこの男への精一杯の抵抗なのかもしれなかった。

「で、お前に聞きたいことがある」

更科は真っ直ぐに僕を見つめた。

その射る様な視線で。

「『あのこと』ってなんだ?」


僕は高鳴る不安を隠しながら嗤った。

「それも……ご想像にお任せしますよ」


「そうか……だが、俺は想像とか言うのが苦手でね。何事もはっきりさせないと気がすまない性分なんだ」

その瞬間、更科は僕の首筋に噛み付いていた。

「うわっ!!痛いっ!!」

伸び上がった僕の身体を彼は一層強く抱き締めた。

鋭い痛みに眩暈が走る。

皮膚が破れるような嫌な音が響き、首筋から生暖かいものが流れ出す。

次に僕の耳に届いたのは、ボタンの弾ける音だった。

まるで飛び散ったガラスの破片のように四方に消えるそれを見つめながら、僕はなぜか笑っていた。

僕の腕から背広とシャツが同時に引き抜かれ、床に落ちた。

僕は既に抵抗する気力を失っていた。

好きにすればいい。

ただし……「あのこと」だけは絶対に守ってみせる。

「答えろよ。『あのこと』とはなんだ?」

冗談じゃない。

それは僕の切り札。

誰が他人に漏らすものか。

「顔に似合わず、強情だな。いいぜ。どうしても嫌だっていうなら。答えるまでこうするだけさ」

いきなり後ろから押し込められ、僕は思わず声を上げていた。

「ああっ!!」

僕は何度もドアに押し付けられた。その度に更科は深く自分に入り込んでくる。

苦痛と快感が嫌な音と同時に交互に押し寄せる。

更科を受け入れたところから赤い血が流れ出し、精液と混じって挿入の痛みを和らげた。

いつしか、僕の中では苦痛さえも快楽に変換されていく。

密着する肌が汗と精液という潤滑油を得て、一層吸い付いていく。

更科の指は、なぞるように僕の身体を滑り、やがて胸の突起を刺激しはじめる。

もうその頃には僕の中のあらゆるものが弾け飛んでいた。

ただ僕は流れる汗も唾液も涙も血も止めることなく、ただ快楽に呑まれていた。

僕の鼓膜に届くのは自分のものとは思えないような啼き声と更科の笑い声。

僕の網膜に映るのは濡れていく自分の身体とこげ茶色の重厚な扉だけだった。

突き上げられる度にドアが近くなっては遠くなる。

救いのドアが開くことはなかった。

僕の存在など、このまま、ぺしゃんこに押しつぶされて無になってしまえばいい。

僕は遠のく意識の中でそんなことを考えた。






丸の内にオフィスを構える雪花コーポレーションは、馬場先門を挟んで皇居の向え側に位置しており、警視庁からも程近い、全面ガラス張りの高層ビルディングで明るい雰囲気だった。

「ほえ~。もしかしたら、先輩ここの社長夫人になっていたかもしれないんですよね~。ひょえ~っ!!」

「もうその話はやめなさいって!!」

そうは言っても、なぜかあたしの胸は高鳴っていた。

丸いカタチに彩られたエントランスを抜けると、正面には受付が見える。

可憐な笑顔を浮かべた受付嬢のもとへ向かう。

あたしは一体、誰を探しているというのだろう。

何を期待しているというのだろう。

あたしは軽く頭を振った。

しっかりしなさい。

今は捜査中。

その時、廊下の奥が少し騒がしくなった。見ると、誰もがその人物に頭を下げている。

私の視線は、思わず廊下の向こうから歩いてくる人物に釘付けになる。

雪花海杜。

彼はあの日と変わるところなく、少年のような爽やかさと、対象的な大人の貫禄を持って歩いてくる。

彼は場違いな雰囲気のあたし達にすぐに気が付いたのか、さっと右手を上げた。

あたしはなんだか不思議と心が浮き立つのを感じた。

「やあ。今日はどうされたんですか。未央さん」

彼は優しい微笑みであたし達を迎えた。

「今日は一段と凛々しいですね」

「これがあたしの本来のスタイルなの。よろしく」

あたしは照れ隠しに少し気取って答えた。傍らで苗子がニヤついているのが気になる。

「さっきの質問に答えるわね。あなた直々にってのには恐縮な用件なんだけど。

ここで会えたのも何かの縁でしょうし。あなたに聞いた方がきっと手っ取り早いだろうから……。

今、お時間は平気かしら?」
「時間は気にしないで下さって結構ですよ。警察に協力するのは、市民の義務ですからね。

それに何より、僕にはこの間のお見合いであなたに借りがありますから」

そう言って彼はいたずらっぽく笑った。こういう時の彼は本当に少年のように屈託がない。

嫌だな。心臓の動悸が早くなる。

「やだ。それはお互い様よ」

あたしはそのことを悟られないように、大袈裟に笑った。

彼はあたし達をロビーのテラスにいざなった。

さっき受け付けにいた女子社員がコーヒーを運んできた。あたしは彼女が去るのを見計らって切り出した。

「実はこの先の埠頭で死体が上がったのよ」

「死体が?」

「そう。まだ若い男の死体がね。それで……その男がこんなものを握っていたものだから」

あたしは透明なビニール袋に入った例のボールペンを取り出した。

「これに見覚えは?」

「ああ……。これはわが社の創業三十周年記念に作らせたものですね」

彼は即答した。

「そう。で、このボールペンの持ち主だけど……」

「それをお調べになるのは相当大変な作業だと思いますよ」

その涼しげな声に振り返ると、あのお見合いの席にもいた青年・咲沼秘書が立っていた。





「英葵~!!」

予想通り、コアラのような頭の女性は英葵の姿を見つけると、嬉しそうに手を振った。

彼は彼女に手を振り返すと、私の隣に腰を下した。

「咲沼さんだったかしら。このボールペンの持ち主を見つけるのが大変って、どういうことかしら?」

未央は刑事の目で彼を見据えた。英葵は涼しい顔で答える。

「そのボールペンはもうご存知でしょうが、当社の創業三十周年記念に特注で制作されたものに間違いありません。

ただ、このボールペンは社員全員に配られたものなんですよ。

社員の中には家族にプレゼントしたいというものもおりましてね。

余分に持ち帰った者もいるくらいでして……。

当社の社員だけでも2000人、さらにその家族もと言いますと……これは大変な作業でしょうねぇ」

「ええっ……。そんな~!!」

コアラは真っ先に声を上げた。

「じゃあ、英葵も持ってる訳?」

「ええ。もちろん。僕も社員の一人に違いないですからね」

「見せて見せて~!!」

コアラは駄々っ子のように英葵にせがんだ。

「ちなみに、僕のはここにありますよ」

英葵は笑顔で手元のファイルからボールペンを取り出した。

「書きやすいので重宝しています」

「じゃあ、社長さんのは?」

コアラはにこにこと私に顔を近づけた。

「私のももちろんありますよ」

そう言って胸の内ポケットに手をやった瞬間、私は血の気が引いた。

いつも確かにここに差しておいたはずなのに。

やはり、それは……。

その袋に入っているのは……。

「私のは……」

私は凍りついたように動きを停止していた。

未央とコアラの視線が突き刺さる。冷たい汗が私の身体を伝った。

その瞬間、私のひざに鋭い痛みが走った。

テーブルの下のひざを見ると、そこにはあのボールペンが突き刺さっていた。

英葵が少し顎を引いた。私はそれを受け取り、探すような仕草をして胸ポケットから取り出して見せた。

「私のは……ここにあります」

「ちょっと拝見。ははーん。なるほど。全く同じものですね」

未央はそう言って眉間に皺を寄せた。

「こんなことになるんでしたら……シリアルナンバーでもつけておくんでしたね」

私はそう言って笑ったが、嫌な汗が背中に流れた。

「指紋などは残っていなかったのですか?」

傍らの秘書は笑顔で未央に尋ねた。だが、答えたのはコアラの方だった。

「それがね。海中に漂っているうちに消えてしまったみたいなんだよ~」

「そうですか。それは残念でしたね」

「英葵~。わたしにまでそんな敬語使うのやめてよ~」

「苗子。ここは会社なんだ。時と場所を弁えてくれ」

少し強い口調だった。コアラは首をすくめた。私も思わず彼を見返していた。彼は何事もなかったかのように微笑んでいた。

「それでは、そろそろ社長を解放して頂いても構いませんでしょうか。スケジュールが立て込んでおりましてね」

「ええ。ご協力ありがとうございました。また、何かあったらお邪魔するかもしれませんが」

「いつでもどうぞ」

「ね。英葵~!!今度、絶対飲みに行こうね?」

「ああ。今度連絡するから」

私と英葵は立ち上がった。

「では、お二人とも頑張って下さいね」

英葵はそう言って微笑んだ。

息を呑む程に美しいその微笑みは、まるで私には悪魔の微笑に見えた。





「やれやれ……危ないところでしたね」

そう言うと、咲沼英葵は私のタイに手をかけた。ここは社長室。

この社での私の居場所。

だが、今やここは、ただの拷問の密室と化していた。

「よく……予備のボールペンがあったね……」

私の質問に答えず、英葵は私の首筋を舐め上げた。私は思わず、身体をひねったが英葵がタイを引っ張り、私を引き寄せた。

英葵の端正な顔が、ぼやけるほど近くにあった。

「実は僕も美麻に一本あげようと思いましてね、余分に貰っていたんです。まさか、こんなことで役立つとは思っていませんでしたが」

そう言うと、英葵は目を細め、一層私の首筋に愛撫した。

「首はやめてくれ……。見える場所にはしない……約束だったんじゃないのか?」

英葵は私の懇願に答えず、一層強く私の首筋を吸い上げた。

「うっあっ……」

「とにかく。指紋が消えていたのは好都合でしたね。神は僕らに味方して下さっているようだ。いや……悪魔かな?」

「悪魔は……君自身だろう……?」

英葵のしなやかな指が私の身体を滑る。

「うっ……」

「もう感じてる……」

可笑しそうに言うと、英葵は更に私を刺激した。

「うあっ……」

英葵は微笑んだ。まさに悪魔的に美しい笑みで。

「さあ、今日は、どうしてやろうか?」





行為の後、英葵はスケジュールのセッティングの為、部屋を後にしていた。

私は首の痕をさすりながら、ファイルに目を通していた。その時、ノックの音が響いた。

「どうぞ」

私の声と同時にドアが開いた。

「よお。社長」

顔を上げると、更科恭平が立っていた。





「さっき、刑事が来ていたらしいな」

私ははっとして恭平を見つめた。彼は一本にまとめた長髪を払うと、続ける。

「なんでも、その片割れは、お前のお見合い相手だったって女らしいじゃないか」

私は答えなかった。

「たいした、いい女だったようだな。拝めなくて残念だった」

なんだか未央のことが汚されたような気がして、気分が悪くなった。

「用件はそんなくだらない会話がしたいということなのかい?悪いが帰ってもらえないか。見ての通り、立て込んでいるんだ」

「まあ待てよ。別に帰ってもいいが、後で困るのはお前なんじゃないのか?」

「えっ?」

突然、恭平は服の上から私の身体をまさぐり始めた。

「何を……するんだ……!?」

私は訳がわからなくて、思わず声を上げた。

「お前、そんな顔して意外に感じやすい方だったようだな。身体が反応してるぜ?」

「えっ……?あっ……」

恭平の手はゆっくりと私の身体をなぞっていく。

「離せ……離すんだ……。あっ……」

「くくっ……。咲沼との時も、ずいぶん色っぽい声で啼いていたようじゃないか」

「!?」

知っている!?

恭平は私と咲沼の秘め事を知っている……?

なぜ!?

私はその瞬間、完全に恭平に絡め取られていた。

もっとも知られたくなかった秘密をもっとも知られたくない相手に知られてた。

それだけで、十分なダメージだった。

「咲沼も悪くなかったが、お前はもっと楽しませてくれるんだろう?」

「咲沼……?君は……咲沼君にもこんな……ああっ!!」

首筋を舐め上げられ、私は思わず声を上げていた。

それから、すぐに私はさっと身体が熱くなるのを感じた。

思わず反応してしまった自分自身が許せなかった。

恭平にはそんな私の悔恨が伝わったのか、せせら笑った。

「肌が汗ばんでる……それにこの痕は何だ?なるほどね。ついさっきまで咲沼とお楽しみだったか。

お前、本当はこっちの方がお似合いなんじゃないのか?抱くより抱かれる方が」

私が恭平をにらみ上げようとした瞬間。


「ねえ、社長」


「!?」

これは……あの夜の……。

「驚いたかい?社長さん」

「これは……!?」

「そうだ。こいつはあの晩のお前さんの醜態の一部始終が収められたテープだよ。

ずいぶん、楽しませてもらったぜ?何せ、いつもポーカーフェイスのお前があんなに可愛く鳴いたんだからな」

私は身体が芯から冷えていくのを感じた。

「入手ルートはどうでもいいだろう?さ、どうするんだ?海杜」

どうすると言ったって……答えは一つだ。

私は恭平の身体を突き飛ばし、ポータブルラジカセに飛びつこうとした。

だが、その寸前、恭平の長い足が私の足に絡んだ。

「うあっ!!」

私は間一髪で床に叩きつけられずに済んだ。

だが、それと引き換えに私の身体は恭平の腕の中にあった。

「さて、困ったなあ?海杜」

「更科君……」

「お前はこれで俺に逆らえなくなった。形勢逆転だなぁ?」

そう言うと、更科は私の唇を奪った。

「んっ!!やめっ!!うあっ!!」

「お前はこのテープがある限り、俺には逆らえない。例え、こんなことをされてもな」

そう言うと、恭平は私のワイシャツのボタンを引きちぎった。

「やめろっ!!正気か!?」

「正気も正気さ。俺はお前に比べればずっと冷静だよ。なぜならお前はこれからどんどんよがり狂っていくんだからな」

「なっ!!」

無理やり衣服が剥ぎ取られ、私はバランスを崩して床に転がった。

強かに胸を打って、一瞬息ができなくなった。

冷たい大理石の床は素肌に刺すような冷たさを感じさせた。

息をつくまもなく、更科は私の上に覆いかぶさった。

「やめるんだ……更科君……こんなっ……」

「ははん。これは見事だな。咲沼の奴、お前が相手だとたいしたサディストぶりなようじゃないか。俺との時は可愛いもんだったがね」

そう言うと、恭平は英葵に付けられた痕をなぞった。

「何より、俺は嬉しくてしょうがないんだよ。いつも出し抜かれていたお前をこうして弄ぶことができて」

そう言うと、恭平は私の両腕を私自身のネクタイで縛り上げた。

「くっ……!!」

「ガキの頃からお前が憎くて憎くて仕方がなかった……。お前はいつも優等生面して俺の前に立ち塞がった」

そう言いながら、恭平は私の胸の飾りを弄んだ。

「お前はここでこうして、咲沼に抱かれたんだろう?」

「あっああ……!!」

「あいつ以上に啼かせてやるから、安心しな」

冷たい大理石の床が、私の汗と血でまみれたのは、それからまもなくのことだった。





「はっ……あっ……んあっ……」

私は混濁する意識の中で声を上げていた。

信じたくない、認めたくないが容赦なく襲う快楽に、私は何度も呑まれていた。

「それにしても、やっぱり社長椅子の座り心地は最高だな。海杜」

恭平は椅子に座り、私を自分の膝の上に抱え、犯し続けていた。

私は羞恥心さえ失い、恭平の腕の中で呻き、悶えていた。

恭平はそんな私の醜態を嬉しそうに見つめ、あざ笑いながら私を攻め続けた。


コンコン。


突然響いたノックの音に、私は現実に引き戻された。

まさに、ひやりとした冷水を浴びせかけられたようだった。

「あん?誰だ。いいとこだってのに」

「あっ……更科君……。今は……」

「社長。いらっしゃいませんか。社長」

聞きなれた庶務課の女性の声。

「社長」

ノブがゆっくりと回った。

しまった……鍵……!!

「あっ!!今は!!」

私は慌てて声を上げた。

その私の唇を更科が自分の唇で制した。

「んっ!?更科君!!」

私の中で嫌な予感がよぎった。

まさか……まさか……。

恭平はにやりと笑うと言った。

「どうぞ」

「!?」

私を眩暈と吐き気が同時に襲った。

こんな姿を見られたら、いったい私はどうしたらいいというのだ。

大体、恭平だってただでは済まない。一体、君は何を考えているんだ!?

無情にもドアは開かれた。

私は彼女の反応が怖くて、きつく目を閉じた。

「あら、副社長。社長はこちらにはいらっしゃらないのですか」

幸いにも彼女が立っている位置からは、私の姿は死角に入り、見えていないようだった。

自分の膝の上に私の姿があるにも関わらず、恭平は涼しい顔をして答えた。

「ああ。社長は今、不在のようだぜ。俺も用があって、こうして待っているんだが……」

そう言って、恭平は緩んだネクタイを締める仕草をした。

「そうですか……。では、失礼します」

女性社員がそう背を向けた瞬間。

ほっとした私に恭平は不意打ちを食らわせた。

「うあっ!!」

「えっ……?」

「おや?どうかしたかい」

「いえ……。今、何か声がしたような気がしたものですから……」

「気のせいだろう。俺には聞こえなかった」

「そうですか……。失礼致しました」

そう言うと、釈然としない表情で女性社員は部屋を後にした。

「さ……更科君……」

「お前は忍耐能力に欠けるな。海杜」

そうせせら笑うように言うと、恭平は傍らの電話の受話器に手を伸ばした。

「ああ。俺だ。社長室には誰も通すな。海杜はしばらく仮眠を取るからな。あと、俺もだ。副社長室にも誰も通すなよ。

少々、昨日の残業がたたって疲れたんでな」

恭平はそう受話器に言うと、乱暴に受話器を置いた。

「さあ、海杜。ここからが本番だぜ?せいぜいゆっくり楽しもうじゃないか」





私は完全に恭平に壊されていた。

骨の髄までしゃぶりつくされたのではないのかという程に、私は完膚なきまでに彼に征服された。

私は彼との最中に何度も意識を失った。

これは悪い夢なのではないか。

そうだ。

そうに決まっている。

まさか、恭平が男であり、従兄弟である自分を犯すなど、そんなことあるはずがない。

私はそう確信し、目覚める。

だが、その度、自分に覆いかぶさる恭平の歪んだ笑みにぶつかっては絶望し、また意識を失う。

その繰り返しだった。

いっそ、そのまま還ってこない方が、どれだけ救われたのだろうか。

この壁一枚隔てた外側では、いつもと変わらずに社員達が黙々と業務をこなしているのだろう。

私はこの地獄から救われるのならば、今このドア開け放ち、この醜態にまみれた身体を全社員に晒しても構わないとさえ思った程だった。

ようやく恭平が私の身体を解放したのは、もう既に就業時間終了間際のことだった。

私は恭平が去った後、自分自身の流した血と精液の中でただ呆けていた。

ふと頬に触れると、さらさらとした筋のようなものに触れた。

涙の痕らしかった。

私は痛む身体を起こし、窓辺から差し込む赤い夕日に目をやった。

窓辺に近づくと、夕焼けに反射するように窓ガラスに自分の姿が映った。

死人のように虚ろな目と腫れあがった頬。

唇からは血が一筋。

露になった肌に刻まれたいくつもの痕。

私は思わず、ガラスに拳を叩き込んでいた。

身体中に痺れるような鈍痛を感じ、私はずるずるとうずくまった。


これが私の罪の代償か。

私は朱に染まる部屋でまた意識を失った。





私は痛みと吐き気に耐えながら、自宅に戻った。

里香は私の変化に気が付いたのか心配げな仕草を見せたが、私はそれを振り切ってホールのピアノに向かった。

ピアノが弾きたい。

狂ったようにただ弾きたい。

すると、月明かりに浮かびあがるピアノの前に誰かが座っていた。

「君は……美麻ちゃん?」

私が声をかけると、その影はびくっと身体を震わせた。影がこちらをゆっくりと向く。

やはり、それは美麻だった。

そうだ。私はコンクールの為に美麻に自分のピアノを預けていたのだ。彼女は今日もこうして練習をしていたのだろう。

「海杜さん……?」

なぜか彼女は深刻そうな顔で私を見つめた。

「どうしたんだい……?」

「あの……海杜さん……なんだかすごく疲れているみたいだったから……」

それはそうだろう……。

私は連続で二人の男に犯されたのだ。

その一人はこの少女の実の兄か。

今、こうしてまだ正気でいられる自分が信じられないくらいだ。

だが、この少女と彼女の兄に私の一族がした仕打ちを思えば……当たり前の罰なのかもしれない。

「あの……大丈夫ですか」

「ははは……大丈夫……」

私はそう笑いかけたつもりだったが、急に膝から地面に落ちていた。

だが、私の身体は固い床に打ち付けられずにすんでいた。

代わりに暖かく、柔らかい感触に頭を預けていた。

美麻が咄嗟に私を受け止めてくれたらしかった。

「海杜さん!?大丈夫ですか?」

「すまな……い」

私は彼女から身体を離そうとしたが、身体に力が入らなかった。

「いいえ……いいえ……。海杜さん……」

私の背中に回された手に次第に力がこもっていく。

「このままで……いて下さい」

「えっ……?」

「今だけ……このまま……」

見上げた私の目に映ったのは、涙を浮かべた美麻だった。

「美麻ちゃん?」

「ごめんなさい……」

「どうして……」

どうして君が謝るんだ?

そう問いかけようとした私の唇は、柔らかな美麻の唇で塞がれていた。







綾小路莢華は、自分の目の前で起きていることが信じられなかった。


いったい……どういうこと?


雪花家のテラスに、クラスメイトの咲沼美麻がいること事態が驚きだったが、

何より彼女に衝撃を与えたのは、美麻が海杜を抱き締め、キスしているという事実だった。

混乱の後に彼女に訪れたのは、猛烈な怒りだった。





私はこんなにも優しいキスを知らない。

彼女はぎこちなく私に口付けていた。彼女は緊張しているのか、微かに震えていた。

少女のまぶたが揺れていた。ただ、かえってそのぎこちなさから真摯な思いが伝わった。

長い口付けだった。

私も目を閉じ、ただ少女に自分の唇を預けていた。

なんだかひどく心地よいキスだった。

少女の唇が離れると同時に私はゆっくりとまぶたを上げた。

私の視線にぶつかると、美麻はさっと顔を赤らめた。

「ご、ごめんなさい!!」

「あら、咲沼さんじゃありませんこと?」

美麻の悲鳴のような叫びと同時に響いたのは、莢華の鋭い声だった。

「莢華……」

私は痛む体を美麻から離し、莢華を見上げた。

「海杜お兄様、いったいどうなさったの?なんだか、ひどく具合が悪そう」

莢華は私に駆け寄ると、私に心配げな目を向けた。

「大丈夫だよ。それより、莢華。今日はどうしたんだい?」

すると、莢華は少し寂しそうな顔をした。

「いとこ同士ですのに、理由がなくては尋ねてはいけませんの?」

「ああ、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。すまない」

「いいのよ。お兄様。私、わかっておりますから……。ごめんなさい。

少し、お兄様をからかってみたくなっただけですの。

……それより、どうして咲沼さんがここにいらっしゃるの?」

そう言うと、莢華は形のよい眉をひそめ、その切れ長の目を美麻に向けた。

なぜか、美麻を見る彼女の目にただならぬ殺気に似た雰囲気を感じる。気のせいだろうか。

「あの……私……ピアノを弾かせてもらっていたんです」

「ピアノ……?」

「はい……あのう私、コンクールに……」

その瞬間、莢華の目が吊り上った。

「なんですって?あなたが?どうして。だって、あのコンクールは選ばれた人間しか出場の権利はないはずよ?」

「推薦人がいれば、その限りではないよ。莢華」

「推薦人なんて……誰が。……まさか」

「そうだ。僕だよ」

莢華はとうとう目を剥いて私を見た。彼女が冷静さを欠いているのは手に取るようにわかった。

「お兄様……戯れが過ぎますわ……」

「莢華。戯れなんかじゃない。僕は、彼女の才能を埋もれさせておくには忍びないと思って……」

「嫌……聞きたくない……・聞きたくないわ!!」

莢華はそう叫ぶように言うと、耳を塞いだ。

「お忘れになったの?お兄様!!私のピアノの師匠はお兄様ですのよ!?

私こそがお兄様の最初で最後の弟子ですのよ?そして、この私もコンクールに出場しますのよ?」

「わかっている。だが、君の今の先生は風見君だろう?」

「違う……!!違いますわ!!お兄様がお忙しくなって私のピアノの講師をおやめになっても、

新しく風見先生がいらしても、私の中ではまだお兄様が先生なのよ!!」

「莢華……」

「私は、いつだってお兄様を目標に頑張ってきましたの。

それなのに……それなのに、いきなりこんな……こんなぜんぜん関係ない方を推薦なさるなんて!!」

莢華は泣いていた。彼女は感情を持て余したのか、両手でわっと顔を覆った。


「ごめんなさい……」

莢華がはっと涙に濡れた顔を上げた。

私も弾かれたように振り返った。そこには今まで怯えたようにただ黙っていた美麻の姿があった。

彼女もまた泣いていた。

「ごめんなさい」

美麻はもう一度繰り返した。

美麻の頬に一筋の光る雫が流れた。

「でも、許して下さい。綾小路さん」

「えっ……」

「夢だったんです」

そう言うと、美麻は遠慮がちに口を開いた。

「私、小さな頃からピアノが大好きで……いつか、ピアニストになれたらきっと素敵……そう思っていたんです。

でも、うちにはお金もないから、ピアノなんて買えなかったし、習うこともできなかった。

ただ、児童館に行くと、大きなピアノがあって……先生がピアノを教えてくれて……

やっぱり私、ピアノ好きなんだって思って……どんなに時間がかかってもいい。

絶対にピアニストに……それが無理でも、ピアノに関われる仕事をしようって思っていたんです。

その夢が……もしかしたら、叶うかもしれないんです」

美麻は静かに続ける。

口調は静かだが、そこには言い知れぬ決意のようなものが感じられた。

静かな闘志のようなものが彼女を静かに包み込んでいた。

「夢だったんです……だから、私、どうしても諦めたくない……出たいんです。

このコンクールに。お願いします……許して下さい」

莢華は、少し圧倒されたようだった。私もまた俗っぽい言い方をすれば、感動していた。

こんなにも真摯に自分の夢に向かう美麻に。

「そう……。でも、私も負けませんわ。本番では……容赦致しませんわよ?」

「莢華さん……!!」

莢華は踵を返すと、さっとテラスを後にした。その途端、美麻はその場に崩れた。

今度は私が彼女を抱き留める番だった。

「ごめんなさい……海杜さん……ごめんなさい……」

美麻はそう言うと、また涙をこぼした。

「どうして、君が謝るんだい」

私はさっきと同じセリフを繰り返し、彼女を優しく抱き締めた。





私が軽い眩暈を感じるのとほぼ同時に、新たな闖入者が現れた。

「どうされたの?海杜さん。莢華さん、来た途端にお帰りになってしまいましたけど……」

その聞きなれた艶っぽい声に顔を上げると、里香がいつものように凛として立っていた。

「里香さん……」

「あなたは……確か……美麻さんだったかしら」

私の声には答えずに、里香はつかつかと私と美麻の側に寄ってきた。美麻が慌てて私から身を引いた。

「は、はい……。あの……今、海杜さん、気分が悪くなってしまったらしくて……あの……私……」

「そう……それはいけませんわ。海杜さん。きっと仕事詰めでお疲れなのね?

美麻さん、海杜さんがお世話になりましたわね。どうもありがとう」

「い……いえ……」

「さ、後は私が引き受けましたわ。あら。こんな時間……。あまり遅いとご両親もご心配されるでしょう?

ここは大丈夫だから、どうぞお帰りなさいな」

優しい言葉ではあったが、里香の声にはかすかに険がこもっていた。

「あの……私……父も母もいないんです……」

「まあ……それは悪いことをお聞きしてしまって……。ごめんなさいね」

里香はなぜか大袈裟に驚いてみせた。

「いいえ……。慣れましたから」

美麻はそう言うと、寂しげに微笑んだ。里香はそんな美麻に一瞥くれると、

「さ、美麻さん」

と彼女を追いやるように声を上げた。

「は、はい……」

私は美麻にここにいて欲しかった。だが、私が声を上げる前に、ドアに美麻は消えた。





どうしよう……。

私、何やってるんだろう。

キスしちゃった……?

海杜さんに……。

恥ずかしい……!!きっと、呆れられちゃった。

これからどうやって彼に会えばいいんだろう。

そう長い廊下の角を曲がった瞬間。

「美麻……」

その聞きなれた懐かしい声に振り向くと、白いネグリジェを着た青褪めた菊珂ちゃんが立っていた。





綾小路莢華は父の書斎のドアをノックした。

ある決意をその胸に秘めて。

二度のノック。

聞きなれた穏やかな声が返答した。

ドアを開ける。

「おお、莢華。よく来たね」

いつも通り、温和な父の顔。莢華はつかつかと父の机に近づいた。

「どうしたんだ。莢華。真剣な顔をして」

「お父様……。お願いがございますの」

莢華はその可憐な唇を動かした。







「あなたには……私より、相応しい方がいるはずです」


雪花コーポレーションの若き新女専務・吉成水智よしなり みさとのプライドは、この時完全に崩れた。

彼女は高校を卒業してすぐに雪花コーポレーションに就職した。

この社に入って、もう十年が経つ。

本当は大学に行きたかった。だが、家が貧しく、すぐに金が必要だった。

彼女は優秀だった。その辺の学歴だけの輩とは一線を画す活躍を見せた。

彼女は女ながら、異例の出世を遂げた。

そんな彼女はまさに仕事が恋人とでもいうように、がむしゃらに仕事に全てを捧げてきた。

そんな彼女も鉄の女ではなかった。

水智は恋をした。

仕事だけに生きてきた彼女の初めての恋だった。

相手はこの社の長・雪花海杜。

彼は同い年ながら、自分より早く、会長の秘書として社に入っていた。

だが、最初、彼は終始おどおどと父の後をついて回るだけの情けないお坊ちゃまにしか見えなかった。

そんな水智の目が変わったのは、彼が社長に就任してからだった。

あのおどおどとした雰囲気は影を潜め、貫禄さえ漂わせる風格を身につけていた。

だが、同時に不思議と少年のような純粋さも忘れてはいない。

海杜はこの十年のうちに確実に男として成長していた。

水智は戸惑った。なにせ二十代も後半にさしかかってからの初めての恋である。

だが、ついに水智は三ヶ月前、想いを海杜に打ち明けた。

海杜は、ひどく悩んだ顔をした。

そして、随分時間が経ってから、こう言った。


「あなたには……私より、相応しい方がいるはずです」


海杜はもちろん、自分を卑下してそういう言葉を水智に向けたのだ。

彼なりの精一杯の気遣いだったのだろう。

だが、水智にとっては、逆に自分などは海杜とは釣り合わないとでも言われたような気分だった。

それが報われない思いへの僻みだということは、彼女自身、よくわかっていた。

だが、彼女はそうでも思わなければ、自分を保つことができなかった。

そうすることで、海杜を憎むことでしか。

だが、同時に水智は知っているのである。

海杜を自分がこの上なく愛していることを。


だから。

彼女は海杜の政敵・更科恭平と手を組んだ。


「盗聴器……本当にあなたのやることって、えげつないわよね」

そう言うと、水智は副社長室の恭平のデスクに隠された受信機に指を這わせた。

「俺は手段は選ばない主義なんだよ。それにそいつもなかなか役に立ってるんだぜ?そうそのおかげで切り札も手に入ったしな」

「あら。その切り札ってなあに?」

「おっと……これは、お前にも教えられねぇよ」

「あら。じゃあ、お互い様ね」

「ん?どういう意味だ?」

「なんでもないわ。こっちのことよ。それより、今日の会議はこれくらいかしら?失礼させてもらうわね」

水智がそう腰を浮かした瞬間。

恭平は彼女の唇を奪った。だが、その手馴れた口付けは、あっさりと水智に遮られた。

「やめてよ……。今日はそんな気分じゃないわ」

「なんだよ。いつもあれだけ声上げて感じてるくせに……。俺に海杜の面影でも重ねてるのかい?専務さんよ。

どうせ、俺と手を組んだのも、大方、あいつに振られるかなんかしたんだろう?」

「なんですって?」

「図星か?馬鹿だな。あれだけ毎回『海杜、海杜』喘がれたら、アホでもわかるだろうが。

ったく、男の腕ん中で別の男の名前を呼ぶなんざ。失礼な女だよな。というか、哀れな女だよな」

そう言うと、恭平はにやにやと笑った。

「とにかく……今日はそんな気分じゃないの。失礼するわ」





菊珂は自分が信じられなかった。

菊珂は美麻を部屋に招き入れると、思わず彼女に抱き付いていた。

「き、菊珂ちゃん?」

美麻の驚きに満ちた声が部屋に響く。

平生の菊珂では考えられないことだったから。

菊珂は戯れでも誰かに抱きつくことなど皆無だった。

父にも母にも抱っこを求めたことさえなかった。

だが、今の菊珂は誰かに抱き付いていないと、立っていることさえままならない状態だった。

それはあの日から全く喉を通らない食事のせいもあるだろうが、何より彼女の精神が悲鳴を上げていた。

これ以上、もう孤独には耐えられない。だが、もう自分は周りの誰とも違う世界の住人になってしまったのだ。

そう。今こうして身体を預けている美麻とさえも。

「嫌よ……嫌よ……」

「菊珂ちゃん?」

「嫌……」

菊珂は泣いていた。はじめて美麻の前で泣いていた。

菊珂は涙を見せるのが大嫌いだった。それは自分の弱さを知らしめる証であるような気がして。

だから、泣く時には絶対に一人の時に泣いた。

誰もいないことを確かめてから歯を食いしばって泣いていた。

決して声は上げなかった。声が漏れることさえ、彼女には許し難い屈辱だったのだ。

だが、今の自分はどうしてしまったのだろう。

今の自分はまるで子供のように声を上げて泣いている。

しかも、美麻がいるにも関わらず。

自分の中で確実に何かが壊れた。菊珂は改めてそれを感じた。

美麻は菊珂が泣いている間、ただ黙って優しく彼女の背中を抱き締めていた。

菊珂が落ち着きを取り戻し、顔を上げるとまるで聖母のように慈悲深い微笑みを湛えた美麻がいた。

「美麻……。聞かないのね」

菊珂は思わず声を上げていた。

「菊珂ちゃんが話したくないなら、私、聞かないよ」

「美麻……」

「ただ、忘れないでね」

美麻はそう言うと、微笑んだ。月明かりがそっと美麻を照らし出す。

「何があっても、変わらないよ」

「えっ……?」

「だから……何も心配しないでね?菊珂ちゃん」

「美麻……」

菊珂は決意したように切り出した。

「あのね。美麻……私……」





「ちょっと、大変なのよ!!海杜君!!」

私は電話の受話器を取り落としそうになった。

相手・澤原柚生の声が破裂するように鼓膜に響いたからだ。

「どうしたんですか?」

「どうしたもこうしたもないわ!!

いきなり、主催者側から君が後見人を務めている咲沼美麻をコンクール出場者から外すように言われたのよ!!」

「なんですって!?」

「あたしたちの審査員の中では全会一致であの子の出場は決定済みだったのよ。

これは、なんかの圧力がかかったに違いないわ……。

こんなこと……前代未聞よ!!一体、どうなってるの!?」

私の中で嫌な予感が渦巻いた。

莢華の父はあの大会のスポンサーの一人と仲がいいのだ。

もし、あの子煩悩な男が莢華に頼まれたりしたら……。

「ちょっと、海杜君、聞いてる?」

「あ、はい……。聞いてますよ」

「とにかく、あたし、絶対に納得できないわ。上に掛け合ってみる!!」

「待て!!柚生!!」

電話は切れた。

私は受話器を戻すと、ソファに沈んだ。





菊珂ちゃんの口から聞かされた言葉は、信じられないことだった。

「私……英葵さんのことが……好きなの」

でも、同時にすごく嬉しいことだった。

「お兄ちゃんとは……?」

「うん……付き合っているわ」

その時だけ、菊珂ちゃんの頬にほんのりと赤みが差した。

「そっか……」

お兄ちゃん……なんて水臭いんだろう。

菊珂ちゃんと付き合っているんだったら付き合ってるんだって教えてくれてもいいのに。

「美麻……許してくれる?」

「何言ってるの?菊珂ちゃん。私、すごくすごく嬉しいよ」

「美麻……。ありがとう」

「お兄ちゃんのこと……よろしくね。菊珂ちゃん」

「あら。私だって言わないといけないわ。美麻」

菊珂ちゃんは涙を拭くと、にっこりと笑った。

「えっ?」

「海杜お兄様のこと……よろしくね」





「あ~~~~~っ!!」

いきなり立ち上がった美麻に、菊珂は振り落とされた。

「やだっ!!大変!!私、洗濯物、干しっぱなしだった!!」

「えっ……?美麻?」

菊珂が目を点にしている。

「ごめんね。菊珂ちゃん!!私、帰るっ!!」

美麻はそういうと、脱兎の勢いで菊珂の部屋を後にした。

「やれやれ……うふふ」

「あら。美麻さん、今お帰り?今日も晩御飯お召し上がりになればいいのに」

さっきは早く帰宅するように促していた里香の言葉の矛盾にも気づかずに、美麻は

「すみません!!私、急用が!!失礼します!!」

と大慌てで駆け出した。

その時、ふいに廊下を曲がってきた影と衝突した。

「きゃっ!!……すみません!!」

「……いや。こちらこそ、すまない」

影は雪花幸造だった。

幸造は美麻の腕を取って立ち上がらせた。

「すみません……」

「いや。それより……」

「あっ……私、失礼します!!」

美麻は幸造に一礼すると、バタバタと廊下に消えた。

「里香。あの子は一体何者だ?」

「菊珂さんのクラスメイトだそうで。咲沼美麻さんというお嬢さんですわ。

なんでもピアノのコンクールに出場するとかで……毎日うちに練習にいらしていますのよ」

「ピアノ……?」

「ええ。それが……何か?」

「そうか。いや、なんでもない」

「あなた……?」

幸造はいつまでも美麻が消えた廊下に視線を泳がせていた。





雪花家の新米メイド・不知火李しらぬい すももには、今、気になる存在がいる。

それは雪花海杜。

彼女が住み込みで勤める家の長男である。

メイドとしての初日。

てっきり、海杜を当主である雪花幸造の妻・里香の夫と勘違いしてしまい、大恥をかいた。

だが、それが誤解で心底ほっとしたのは、李自身だった。

簡単に言えば、李の一目惚れだった。

ただし、李は今まで恋愛経験が一度も無かったため、

自分の胸の高鳴りの意味するところがはっきりわかっていた訳ではないのだが。

一つ屋根の下で海杜が寝起きしている。ただそれだけで李の胸には暖かい感情が流れる。

そして、見た目通りの海杜の優しさに触れる度に、李の思いは強くなるばかりだった。

初めてこの家に来た日。

李はいきなり皿を割った。

「大丈夫かい?破片を素手でさわっちゃいけないよ」

「は、はい……申し訳ありません」

「こっちにおいで」

「えっ……?」

「指。血が出てる。手当てしよう。化膿したら大変だ」

「そんなっ!!こんなの、舐めておけば治ります!!」

「ダメだよ。結構、出血してる。こっちへ」

「も、申し訳ありません!!」

やがて彼は意外な程慣れた手つきで李の指に包帯を巻き付けた。

「も、申し訳ありません……」

「そんな。いちいち謝る必要なんてないよ。君はもう家族同然なんだからね」

「えっ……」

「そうだろう?君もこの家で暮らしているんだから」

なんて優しい笑顔なんだろう。

その瞬間、李の想いは決定的になった。

「海杜様……。あっ!!」

李はこの家に来て、通算十六枚目の皿を割った。





洋風建築の屋敷の中で唯一の和室。

その上座の中央に掲げられているのは、母・雪花薫の遺影。


今日は母の十三回忌。


母は、息子の私から見ても、凛とした美しい人だった。

しかし、私は彼女の笑った顔を覚えていない。

周りに対しても、自分自身に対しても、そう。あらゆる面で厳しい人だった。

私に対しても息子というより、この雪花家の跡取りとして接していた感が強い。

私には、それがひどく寂しいことに感じられていた。

だが、私にとってはかけがえないたった一人の母に違いはなく、

没後からこうして時を経た今でも特別な感傷が胸を過ぎるのを禁じえない。

「海杜さん」

振り返ると、里香が喪服に身を包んで立っていた。

彼女の和服は見慣れているが、今日は黒ということで、一層彼女の白い肌が協調されている。

凛とした涼やかな雰囲気は、遺影の中の母によく似ている。

彼女は音もなく私の側に来ると、

「そろそろ、皆様がお集まりになるお時間ですわ。さ、海杜さん。あなたも着替えて下さいな」

と私の手を取った。





「さ、海杜さん」

里香に促され、私は衝立の裏に入ると、おもむろにワイシャツに手をかけた。ゆっくりとボタンを外す。

里香はその間に衝立に私の紋付をかけた。

着物の着付けができるのは、この屋敷では里香のほかには存在しない。

「よろしくて?海杜さん」

「あ、はい」

私がそう声を上げると、里香は私の紋付を取り、衝立の中に入ってきた。

「すみません。里香さん。お手数を……」

里香は笑った。

「おかしなことをおっしゃいますわね。海杜さん」

そう言うと、里香は紋付を私の肩にかけた。そして、私に正面を向かせた。

だが、その手はなぜか紋付から離れた。

「今は、私があなたの母……」

ゆっくりと里香の指先が私の肌を滑る。

「えっ……あっ……!!」

「母が息子に手をかけるは……当たり前ではありませんか」

里香の唇がぞろりと私の肌を撫でた。

「ううっ……。何をされるんですか……里香さん……」

「うふふ……」

里香は肌から唇を離すと、意味ありげに笑った。

「うっ!!」

彼女は再び私の肌に唇を這わせた。やがて、それは下降していく。

「や……やめて……!!里香さ……!!」

「これは私だけの特権ですよ。海杜さん。そう。あなたの『母』としての……」

「あぁっ……やっ……」

ふと里香が顔を上げた。

「あら、もうこんな時間……。残念ですわねぇ」

そう言うと、里香はようやく私から手を離し、てきぱきと私に着付けを施した。

私はその間、ただ凍りついたように動きを停止していた。

「できましたわ」

そう言うと、里香は私の肩に手を置いた。

私は反射的にその手から逃れていた。

身体が熱にでも浮かされたように、小刻みに震える。

「あらあら……。うふふ。では、先に行ってますわね。

海杜さん。あなたもお早くいらして下さいましね」

そう妖艶に微笑むと、里香は障子に消えた。

トンっという障子の心地よい閉鎖音が響いた瞬間、私は腰を抜かしてその場に崩れていた。





「今日はみんな黒い服なんだね?」

ふいに響いた天真爛漫な声に下を見ると、夕貴も子供用の礼服を着て、ちょこんと立っていた。

その無邪気で愛くるしい顔を見ていると、先ほど彼の母親から受けた行為が思い出されて、いたたまれなくなる。

「そうよ。今日は、私と海杜お兄様のお母様の十三回忌の法事なのよ。夕貴」

一人洋装の喪服に身を包んだ菊珂が、夕貴を抱き上げ膝の上に座らせた。

「じゅうさんかいき?」

「そう」

「そうやってると、本当の母親みたいだな。菊珂」

現れたのは、更科恭平だった。

彼も私と同じように黒い紋付を着用している。

いつも束ねている長い髪は今日は無造作にそのまま肩に流している。

なぜか夕貴は恭平を見ると、菊珂の後ろに隠れた。

人見知りしない夕貴としては、珍しいのだが、夕貴は恭平が苦手らしい。

できれば、私も彼からは雲隠れしていたいが……。
「なんだよ。夕貴。ずいぶん、ご挨拶だな」

恭平は夕貴のそんな様子を見ると、さも楽しそうに夕貴に顔を近づけた。

夕貴は今にも泣きそうな顔を上げ、菊珂に助けを求めるように彼女を大きな潤んだ瞳で見つめている。

恭平はますます嬉しそうに夕貴を見下ろした。

彼は生まれながらにサディスティックな傾向を持っているのかもしれない。

「夕貴が避けるのは、恭平お兄様のお顔があんまり怖いからではありませんの?」

菊珂は恭平のえげつない行為が癇に障ったのか、片眉を上げて彼を睨み付けた。

「怖いのはお前の方だろ?菊珂。お前には絶対に嫁の貰い手がないな」

「おあいにく様。恭平お兄様にご心配されるほど、私、落ちぶれておりませんわよ」

「言ったな、やれやれ。お前の妹ながら、天晴れな女だよな。菊珂は」

そう言うと、恭平は私に流し目を寄越した。そして、なぜか彼は和服姿の私に舐めるような視線を絡めた。

私は気分が悪くなったので、外の空気を吸うことにした。

外に出ると、ふいに人影があるのに気が付いた。目を凝らすと、それは意外な人物だった。

制服姿の美麻が、灯篭にぼんやりと視線を浮かべ、立っていたのだ。

「美麻ちゃん?どうしたんだい?」

美麻は、私に気が付くと伏せ目がちに頭を下げた。

「ごめんなさい……。あの……こんな日に伺ってしまって……。

私、知らなかったものですから……今日の授業のノートのコピー持ってきたんですけど」

美麻は今、法事中だと知って遠慮していたらしい。

「いいんだよ。美麻ちゃん。よかったら、入ってくれないか。君のお兄さんも手伝ってくれているから……」

「はい……。すみません」

美麻はてきぱきとよく働いた。

数人のメイドや里香に混じって、お膳を次々と座敷に運んでいる。

聞くと、養護施設のボランティアで慣れているのだという。

「美麻さん、助かりますわ。ありがとう」

里香は笑顔で美麻を労った。そこに、いつものような影は感じられない。

私はほっとしてお膳の前に座った。

その時、後ろで派手な物音と悲鳴があがった。李がお膳をひっくり返したらしい。

「あらあら」

「お、奥様。す、すみません!!」

李が準備中にひと騒動起こすのは、もう我が家の年中行事と化していた。

「いいのよ。余分に準備してありますから。

そうだ。これ、美麻さんお食べなさいな。伯父が急に急用ができて、来られないというの。

あまりで申し訳ないんだけど……」

「は、はい……!!ありがとうございます。でも、私……一緒にお座敷で食べる訳には……」

「いいんだよ。美麻ちゃん。お兄さんも一緒だから。よかったら、僕の隣にきなさい」

「社長……すみません」

美麻は私が手招きすると、遠慮がちに私の隣の膳の前に座った。

ちょうど、咲沼兄妹に挟まれる格好になった。

「美麻。ごめんなさいね。手伝ってもらっちゃって……」

菊珂が美麻の横に座り、申し訳なさそうに言った。

「ううん。私の方こそ、いいのかな」

「いいのよ。もう美麻は私の家族なんだから」

「えっ……?」

私と美麻は思わず顔を見合わせていた。菊珂はそんな私たちを見て、嬉しそうに微笑んだ。

私が菊珂にその真意を問おうとした瞬間、菊珂はすっと立ち上がっていた。

彼女はそのまま、母の遺影の前に進み出て、一礼した。そして、振り返った。

「こんな席でというのも、どうかと思うのですが……

こうして親戚一同の方が見えておりますし……何より、母にも聞いて欲しいので……」

菊珂は少しはにかむようだったが、輝くような笑顔で言った。

「私、ここにいらっしゃる咲沼英葵さんと……結婚することに致しましたの」


なんだって……?


私は思わずサイドを振り返った。

そこには、自信に満ちた英葵の美しい横顔があった。
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