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第十章 反転する世界
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『怪物と闘う者は、自らも怪物にならぬよう、気をつけるべきだろう。
深淵を覗み込む者は、深淵からものぞきこまれているのだ
ーーフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ』
海杜の私設秘書から正式に雪花コーポレーション社長秘書となった不知火李は、
びっしりと予定の埋まった社長のスケジュール表とにらめっこし、ふと独り言を呟いた。
「海杜様、こんなにたくさんのスケジュールをこなされて……
御身体にご負担がかからなければいいんですけど……」
その時、ふいに人の気配を感じ、慌てて顔を上げた。
そこにあったのは、懐かしい顔だった。
「久しぶりだね。李ちゃん」
「あ……英葵様……」
そこに立っていたのは、スーツ姿の咲沼英葵だった。
柔らかい微笑みを浮かべる彼と対照的に、
彼の姿を目にした瞬間、なんだか、李は急に居心地の悪さを感じた。
本来、社長秘書であるこの席は、この青年の場所のような気がして。
英葵はふと笑みを引っ込めた。
「社長は、いらっしゃいますか」
李はマニュアル通りに答えた。
「はい。社長室で執務をなさっています」
「面会したいのですが」
「申し訳ございません。海杜様……いえ、社長は本日、スケジュールが詰まっていらっしゃいまして……」
実際、海杜のスケジュールはまさに分単位で刻まれたもので、
あと一時間もしないうちに某企業の重役との会談が控えていた。
「構わないよ。不知火君」
「えっ……?」
李が振り返ると、そこには雪花海杜が立っていた。
「やあ、英葵。久しぶりだね」
*
いつもの捜査一課。
その喧騒の中で、ふとあたしを呼ぶような声がした。
あたしが振り返ると、意外な人物が手を振っていた。
それはいかにも好々爺然した一人の初老の男性だった。
「おお。未央ちゃん。久しぶりじゃのう。元気にしとったかい」
彼は西原十三雄。
こうして見ると、物腰の柔らかいおじいちゃんという雰囲気だが、
捜査となると、まさに「鬼」になる名物警部だ。
なぜか、彼は「ニシハラ」ではなく、「サイバラ」と呼ばれている。
なんとなくその方がしっくりくるのも事実だが。
彼は警察学校の教官だった時代もあって、あたしはその頃お世話になった。
まあ、簡単に言ってしまえば、あたしに刑事のいろはを叩き込んでくれた恩人である。
現在は確か、S西署勤務だったはずだが……。
「どうされたんです?西原さん」
「いや、近くに寄ったもので、未央ちゃんの顔でも拝んでいこうかと思っての」
「また……そんなこと言って、西原さんのことだから、本当は何かあるんでしょう?」
「未央ちゃんにはかなわんのう。そうじゃ。実は、気にかかることがあってな」
「気にかかること……?」
あたしが問うと、初老の名刑事は、その柔らかな表情を少し固くした。
「ああ。お前さん、雪花家の事件を担当しとったろう?」
「えっ?……ええ」
「実はのぉ……」
「あ~っ!!先輩!!ようやく見つけましたよ~!!」
そこに立っていたのは……。
な~え~こ~!!
*
「社長……」
僕は、紅茶を運んできた不知火李が扉を閉めるのを確認してから、声を上げた。
「君にそう呼ばれるのは、随分久しぶりな気がするね」
そういうと、むかえに座る雪花海杜は微笑んだ。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ。英葵」
「……………………・」
「どうしたんだい。僕に何か言いたいことがあってわざわざ来たんじゃないのかな。
それなら遠慮なく言いたまえよ。あいにくだが、僕も時間を持て余している訳ではないのでね」
「……社長に復帰されたのですね。おめでとうございます」
「ああ、ありがとう……というべきなのかな。
僕としては少々不本意なんだが、この肩書きはどうやら僕のことを離してくれないようでね。
今は会長職も兼任だから、正直、身体がいくつあっても足りないくらいさ」
あの当時と寸分変わらぬその爽やかな笑顔。
あの当時……。
そう。彼が僕とバスケットをしてくれたあの夏のままの……。
「そうだ。戻ってこないかい?英葵。君のように有能な人間が傍にいてくれると僕としても心強いからね」
そう、僕が大好きだった……あの夏のままの……。
僕はその笑顔を真っ直ぐに見据えたまま、言った。
「社長……。人を殺すのは、怖くなかったですか?」
*
「その台詞を聞くのは二回目だね」
そう言うと、彼――雪花海杜は少し首を竦めてみせた。
「美麻……ですか」
「ああ。君の妹がそんな戯言を言っていた」
彼は少し遠い目をした。
「あの子は、あなたの犯行に気が付いていた。そして、一緒に地獄に堕ちる選択を選んでしまった……」
「愚かだね」
「愚か……?」
「ああ。愚か以外のなんだというんだい?」
僕と雪花海杜はちょうど真正面に睨み合う格好となった。
先に視線を外したのは、僕の方だった。
顔を伏せた僕に、雪花海杜の声が容赦なく響く。
「この僕を犯人呼ばわりするということは、それなりの根拠があってのことなのだろうね」
「……ええ」
「じゃあ、謹んで拝聴しようかな?君のお説を。君はこれからどんな話をして僕を追い詰めてくれるのかな?楽しみだよ」
そう言うと、彼は笑みを浮かべ椅子に背を預けた。
*
「おお、苗子ちゃんじゃないか。今日もお前さんは可愛らしいのう」
そうサイバラさんは目を細めた。
「やっだ~!!サイバラさんったら、お世辞が上手なんだから。きゃはっ☆」
苗子はそう言って首をぶんぶんと振り回した。
自慢のコアラヘアが凶器のように辺りに舞う。
あたしはそれを避けるように立ち位置を変えた。
「そんなことはない。わしは生まれてこのかた、嘘と尻餅はついたことがない。ほんとのことじゃて」
サイバラさんは、苗子がとてもお気に入りなのだ。
理由は簡単で、なんでも、苗子は今年5歳になるサイバラさんのお孫さんによく似ているらしい。
5歳の幼女と苗子を比較するサイバラさんもサイバラさんだが、比較される苗子も苗子だと思う。
あっと、また愉快な苗子の闖入のせいで話が飛んでしまった。
「で?サイバラさん。さっきの話ですけど」
「おお、そうじゃったな。ええと、なんじゃったかの」
あたしはスライディングしかけた。
「雪花家の件でしょう?しっかりして下さい」
「おお、おお、そうじゃった。雪花家と言えば、どうしても気になるんじゃ。あの少年が」
「あの少年?」
「ああ、13年前に自殺した奥方の息子で……名前はなんと言ったかね」
「海杜……」
「ん?」
「雪花……海杜ですか?」
「ああ、そんな名前だった」
「彼は……どんな様子でしたか?」
あたしはなんとなく気になって尋ねていた。
もう十数年も前の彼のことを今更気にしてどうにもならないだろうに。
あたしも重症だ。
「取り乱して泣いておったよ。男の子にとって、母親を失うということは、
それはそれは深いダメージだから無理もないんじゃが……」
「じゃが……?」
不審な空気を察知したらしい苗子が、怪訝な顔で聞き返した。
サイバラさんは続ける。
「ああ……。葬儀の後、わしは葬儀会場となった大広間へ向った。
一人で被害者の遺影と静かに向き合い、事件解決を誓うのが、わしの習慣でな」
その習慣は何度か聞いたことがあった。
確か、一種の儀式みたいなものだって言っていた。
被害者の無念を雪ぐための静かな決意表明。
あたしはそんなサイバラさんの姿勢も好きだった。
が、あたしは重要なことが気にかかった。
「事件解決……?サイバラさん。その件は自殺だったのでしょう?どうして……?」
「ああ……。それはそうなんじゃが……」
歯切れが悪くなったサイバラさんに助け舟を出すように、
「で、それからどうしたんです?」
と苗子が首を傾げた。
サイバラさんは、なぜかここで生唾を飲み込んだ。
そして、ゆっくりと続ける。
「広間に入ろうと思って、わしは『おやっ?』と思った。どうやら先客がいるようじゃった。
わしは気になって、そっと襖を開けて中を見た。すると、案の定、その家の坊主が遺影の前に座っておった」
――雪花海杜。
あたしはなんとなく胸騒ぎがして自分の肩を抱き締めていた。
どうして……?
息子が母親の遺影の前にいる。
ただ、それだけ……。
なんの不思議なことでもないじゃない……?
どうしてあたしはこんなに不安になるの……?
「あの坊主はな、誰もいないと思ったんじゃろ……」
サイバラさんは、どこか遠くを見るような目になって言った。
「笑ったんじゃ……」
「笑った……?」
「それがな。どんな風に形容していいのか……わしにもわからなんだが……それはそれは恐ろしい形相じゃった。
わしは長年刑事をしとったが……あんなに邪悪な笑いを見たことはない……」
あたしはとうとう自分の肩を抱いたまま、その場に崩れていた。
「先輩……!!」
慌てて苗子が支えてくれていなかったら、あたしは床に叩きつけられていたに違いない。
「じゃが、お前さんが指摘した通り、あの件は自殺としてあっさり片付けられてしまった。
上からの圧力があったらしかった。だが、わしはあの件は事件じゃと今でも信じとる。
誰がなんと言おうと、わしの中の刑事の勘がそう告げておる。
それに何より、わしはずっと気にかかっておったんじゃ。あの少年のあの笑みが。
だから、今回の件を聞いて、いても立ってもいられんでの。
だが、管轄が違うだの、お前さんのような老いぼれの出る幕ではないだのいろいろ妨害されての。
別の瑣末な件をいろいろと押し付けられてなかなか動けんかった。
その間に事件は全て終わってしもうたようじゃが……」
「やはり……そうでしたか」
二人目の闖入者が現れた。
それは、白衣の青年――熊倉比呂士だった。
「熊倉君。いきなり現れて何よ」
あたしは内心の動揺を悟られないように強気に振舞った。
彼は小脇に何かを抱えていた。
それはまさに13年前の雪花海杜の母親の自殺に関する捜査ファイルだった。
「おお。熊倉君。君は……」
「ええ。僕も少々気になることがあったので、ちょっと調べていました。
当時の捜査官であったサイバラさんにもお話を伺いたかったのですが、手間が省けましたね」
「で。君には何かわかったのかね」
熊倉君は、首を振った。
「残念ながら、当時の遺体写真だけでは判断し兼ねます。
自殺として片付けられたため、丹念な司法解剖も行われていなかったようですしね」
あたしはなぜか、ひどくほっとしていた。
きっと怖かったのだ。
熊倉の口から決定的な一打が飛び出すことが。
あたしは駄目押しするように問うた。
「自殺としておかしな点は発見できなかったのね?たとえば、索条痕とかから……」
「ああ。形状としては問題ないよ。ただ、こうした索条痕は遺体をおぶった場合でもできるからね。
絶対的に他殺でなかったとも言えない」
「そう……」
「残念じゃの。君に調べ直してもらったら、何か新発見でもあるかと思ったんじゃが……」
「いいえ。諦めるのはまだ早いですよ。サイバラさん」
熊倉の一言に、あたしたちは弾かれたように顔を上げた。
「別の方面から彼を追い詰めることは可能かもしれません。あくまで可能性ですが……」
『彼』を追い詰める……?
一体、何を言っているの?
自問するあたしに熊倉君は優しい口調で語りかけた。
「君には話していなかったが、僕には別の仮説があると言ったね」
「ええ……」
確かに熊倉はいつも何かを言いかけてやめる。
そんな不審な点があった。
そんな時は、いつも「僕の仮説が」とだけ。
「それがどうしたって言うの?あたしがまどろっこしいことが嫌いなのは知っているでしょう?
さっさと言いなさい!!」
あたしは思わず叫んでいた。
身体が芯まで冷えていくような感覚。
セーブが効かない。
いつもシニカルな笑みを浮かべる熊倉君がひどく悲しそうな目をした。
嫌ね。二人とも調子が可笑しいわ。
こんな時、場を和ますはずの苗子も、今にも泣き出しそうな顔をただ伏せている。
一体どうしたって言うのよ。
二人とも。
可笑しいわ。
おかしいじゃない。
馬鹿ね。どうしてあんたたちがそんなに深刻になるのよ。
なんだか笑い出したいような、泣き出したいような妙な気分だった。
どうしてなのよ。
どうして……。
それは、あたし自身が一番良くわかっている。
サイバラさんの話を聞いた瞬間に。
でも……。
熊倉君が静かに声を上げた。
「ずっと胸に仕舞ってきた僕の仮説、それは、雪花海杜犯人説だよ」
*
雪花家事件の解決から二週間。
アタシはすっかりいつも通りの女性誌の仕事に戻っていた。
勿論、事件記者になる夢は、捨ててなんかないけどね。
むしろ、その夢はあの事件を契機に、どんどん強くなっていた。
そんな時、アタシは意外な訪問者を受けた。
「こんにちは。伊山さん」
そこに立っていたのは、槌谷玉君だった。
「あれぇ!?槌谷君、いらっしゃい!!」
編集長も声を上げた。
「どうしたんだい?槌谷君。これからJリーグの開幕戦だろう?
エースストライカーであるあんたがこんなとこで油売ってていいのかい」
「あはは。実は逃げ出して来たんですよ。しばらく合宿所から離れられそうにないですからね。
移動生活になってしまいますし。今のうちに命の洗濯です」
そういうと、彼はぺろっと舌を出した。
「そっか、試合あっちこっちであるもんね。大変だね」
「ええ、まあ。でも、好都合ですよ。
忙しくなるから、妙なことも考えなくて済みそうですから……」
「槌谷君……」
自分の発言でしんみりしたことを自覚したのか、槌谷君は話題を変えるように言った。
「そう言えば、すごいですね。あの英葵さんの社長就任パーティ以来、
美麻ちゃんと雪花社長のこと……純愛だってどの雑誌の記事もベタ褒めですよ」
そう言うと、彼は数冊の雑誌をデスクに広げた。
彼は、「気になって、キオスクで買ってきたんです」と頭を掻いた。
「えっ?どれどれ。見せて?……うわ~っ。ほんとだ~」
確かにどの雑誌もその件一色って感じだ。
「テレビをつけてもこの話題一色か……。インパクト大。センセーショナルだったもんな。
パーティ会場で、恋人の遺体を抱えて号泣。これが記事にならないはずないだろう?
伊山。お前も自分が死んだら恋人にそうやって泣いて欲しいか?」
「もうっ!!編集長!?」
「わりぃわりぃ……にしても……たいしたもんだな。
あれだけの不倫スキャンダルを瞬く間に美談にすり替えちまった……あの青年」
どこか突き放したような編集長の言葉に、槌谷君が怪訝そうに眉をひそめた。
「矢保編集長……?どういう意味ですか?」
編集長はそれを無視するようにタバコをくわえると、火を着けた。
「ちょっと、答えて下さいよ!!編集長!!」
編集長は大きくモクを吐き出し、
「伊山、槌谷君。あたしたちはまんまと乗せられちまったのかもしれないぜ?あの坊ちゃんに」
と雑誌で微笑む雪花さんの顔をこつんと小突いた。
*
「あのF埠頭の男の遺体には、ふたつの傷があった。この話はしたね」
「え?……ええ」
あたしは突然、熊倉にそんな話を振られ、必死に記憶の底に眠るその話を掘り起こした。
「その遺体は、一回目の殴打で気絶させられ、二回目でトドメを刺さされた。
ここまでは特に不審な点は見られない。ただし、一点だけ気になることがあった。それは、なんだった?」
苗子がはいっと手を挙げた。
「はい、じゃあ、元気がいい苗子君。答えて」と熊倉が彼女を指して眼鏡を上げた。
これではまるで、大学の講義だ。
苗子は瞳をくりくりとさせながら答えた。
苗子は苗子なりに必死に場の空気を変えようとしているようだった。
それは熊倉も同じようだった。
「確か、凶器が違ったんじゃなかったでしたっけ?」
「そう。その通り。苗子君は記憶力がいいね。
最初の方の傷は石のような丸っこくてごつごつしたもので付けられた傷。
そして、致命傷となった傷はもう少し重い平べったい鈍器。
簡単に言えば、ブロックか何かで付けられたものだった。僕はそんな見解を示した」
苗子が何度もうんうんと頷いた。
まるでブレイクダンスのようなその滑稽な動きに突っ込む余裕さえ、
あたしには残されていなかった。
「この不可解な件に関する僕の解釈は、加害者が一撃で被害者を殺し損ねて、
追っかけられるとかして第一の凶器を落としてしまい、
新たに別の凶器で殺したってな具合にお茶を濁した気がするんだが。どうかな」
あたしはせがむ様に先を促した。
「それも聞いたわ。それが……それがどうしたって言うの?」
「あの見解は、考えてみればひどく回りくどい仮説だ。
もっと素直に考えれば、こういうことになる。
そう、あの男を葬った犯人は二人いたのだと」
*
僕は自分の胸ポケットから一本のボールペンを取り出した。
そこには金文字で『雪花コーポレーション創業30周年記念』と彫られている。
僕はゆっくりとそれを目の前の青年――雪花海杜の前にかざした。
「そもそも埠頭での菊珂さんの事件の時に関しても、
僕は羽鳥警部にあのボールペンを見せられた時に、
本当は気が付くべきだったんです。
なぜ、あの死体があなたのボールペンを握っていたのか。
いや、こう言い換えた方がいいでしょう。
あの死体があなたのボールペンを握ることができたのか」
僕は一呼吸置いて、雪花海杜を見上げた。
「その答えはひとつです」
彼は少し、笑った。
「あの死体はまだ生きていたんですよ。
僕とあなたがあの現場に駆けつけた時には、まだね。
そして、僕とあなたが現場に着いてから殺されたんだ。
そう。あなたの手で」
*
英葵が重しを探しに出かけ、遺体と二人きりにされたあの時。
私の足元で呻き声が聞こえた。
見下ろすと、遺体だと思っていた男が動いていた。
その男は呻き声を上げると、哀願するように私を見上げた。
「た……助けてくれよぉ……」
男はそう言うと、私の足を掴んだ。
「なんだ……。まだ生きていたのか」
「えっ?」
次の瞬間、私は男の脳天にブロックを落としていた。
男はなんとも形容し難い声を上げると、その場に崩れ、今度は二度と動かなかった。
遠くで汽笛の音が鳴った。
*
彼は、相変わらず笑顔だった。
自らが殺人犯だと名指しされているにも関わらず。
むしろ、なんだかひどく嬉しそうだった。
僕はその笑みに挑むように続ける。
「あなたの犯行には複数のパートナーが存在しましたね」
「ああ、よく調べているね。本当に感心するよ」
「一人目は……」
*
吉成水智との共犯関係が成立したのは、実に奇妙なはじまりだった。
その日、私は水智から食事に誘われた。
普段ならばそういった誘いは全て断わるのだが、
この日の彼女の真剣な眼差しに気圧されるように私は彼女と食事を共にした。
その帰り、彼女をマンションまで送り届けた時のことだった。
「あなたのことが……ずっと好きだったの」
水智はそう言うと、真っ直ぐに私を見返した。
切迫感が感じられ、目が離せなかった。
私は少し思案した後、こう返事を返した。
「あなたには……私より、相応しい方がいるはずです」
それは紛れもなく、偽らざる私の本心だった。
目の前の水智は、明らかにショックを受けた様子だった。
だが、私には彼女の気持ちを受け止めることはできない相談だった。
これが正しい道なのだ。
いずれ、彼女もそのことをわかってくれるだろう。
私は一抹の申し訳なさを感じつつも、その場を離れることにした。
路上に横付けした愛車へと向う。
が、そんな私の背中に彼女は叩きつけるように言った。
「これが公になっても構わないのかしら?社長さん?」
私は怪訝な面を浮かべながら、ゆっくりと振り返る。
彼女は何かの書類を掲げていた。
それは紛れもなく、会長・雪花幸造と某企業の黒いつながりを示す資料だった。
「これは……」
「私を甘く見ないことね」
そう言うと、彼女は物凄い笑みを私に向けた。
彼女には申し訳ないが、この程度のこと、揉み消そうと思えば容易いことだろう。
だが。
私はそのジョーカーが欲しくなった。
これから、何かの役に立つかもしれない。
だから、私は言った。
「何が……お望みなんです?」
「言ったでしょう。私はあなたを愛しているのよ。
……これ以上は、言わなくてもわかるんじゃなくて?」
そう水智は妖艶に微笑んだ。
そして、つかつかと私に近づくと、私のタイを弄んだ。
そして、その晩、私は水智を抱いた。
意外なことに、彼女はそれが初めての経験のようだった。
私はせっかくなので、水智をこの計画の協力者として抱き込むことにした。
彼女はこの上なく、有能な女だ。手駒としてキープしておいて損はないだろう。
私の見込み通り、彼女はこの上なく有能で、この上なく忠実な共犯者となった。
彼女が望む報酬は、私の身体だけ。
実に安上がりな女だった。
「えっ……?更科副社長に例の件を……?例の件って……あの資料のこと?」
水智は彼女には珍しく、頓狂は声を上げてベッドから身体を起こした。
身体を起こした拍子に、彼女の豊かな肢体がランプの明かりに浮かび上がる。
「そう。……教えてあげたらどうです?」
例の件とは、某企業と会長の黒いつながりについて。
つまり、あの日、水智が私を脅迫したネタそのもののことである。
「でも、そんなことしたら、あなたが……」
「いいんですよ。会長の件など、私は痛くも痒くもありません。
それより、彼がどう出るか……試してみるのも、面白いんじゃないですか?」
「海杜……あなた、じゃあ、どうして私の脅しに屈したの?」
「そういうもの……悪くないかと思いましてね。運命に流されてみるもの……」
「あなた……怖い人ね」
「嫌いになりましたか?」
「逆よ……。うふふ……。あなたと共犯者になれるなんて……この上ない喜びよ。海杜……」
翌日、早速水智から電話があった。
「例の件、教えてあげたら大喜びだったわ。恭平。
本当に呆れるくらいに馬鹿な男。
いえ、ある意味、馬鹿正直で純粋なのね。うふふ……」
「それはそれは……。それで、君はそんな純粋な一青年を誑かして、罪悪感でも感じているのかな」
「いいえ。ちっとも。だって、お互い様ですもの。ふふ……」
*
私は思った。
里香殺害の件で、私は最も疑われるべき立場となるだろう。
計画した自分でもまるで綱渡りのような無茶な強行だと言わざるおえない。
しかし、アリバイを無事に確保する自信はあった。
そのために里香との逢瀬の合図は彼女の弾くピアノと決めたし、
李にその音色、テンポを暗記させるようにさりげなく李が確実に家にいる時を見計らって里香との睦言を行った。
だが、油断は禁物だった。
何せ、私は犯行後、そのまま死体となった里香の隣にいるのだから。
だが、私はあの女こそは、きっちりと自らの手で殺害しなければ、どうしても気が済みそうになかった。
水智は危険すぎると反対したが、どうしてもそこだけは譲れなかった。
恐らく、私自身の拘留は避けられないだろう。
だが、私はこれを逆手に利用することを思いついた。
警察の留置場。
これほど完璧なアリバイがあるだろうか。
私の命で始まった恭平との関係を、水智は予てから清算したがっていた。
論理的な意味だけでなく、物理的な意味で。
つまり、水智は恭平を亡き者にしたがっていたのだ。
全てが終わったから用済みというだけでは飽き足らないらしいのだ。
恭平という存在を抹殺してしまいたい。
そう水智はよくもらしていた。
訳を尋ねると、私以外の男に(水智はそう言えば、私との関係が初めてのことだったらしい)演技とは言え、
身体を許したことが許せないという。
何とも光栄なことだが、こうした女心というのは、私には未知の領分で、
今回ばかりは恭平への同情を禁じえない。
「私に任せて。あの男、恭平の息の根を止めてみせるわ」
ベッドの中で、彼女はそう力強く頷いた。
そうして、私が里香を殺害し、留置場にぶち込まれて三日目の夜。
里香の通夜で、水智が恭平を殺害する段取りとなっていた。
だが、予想外のアクシデントが勃発した。
監察医の計らいで、私は予想よりかなり早い段階で釈放が決定されてしまったのだ。
警察の留置場という最高のアリバイを私は逃すこととなった。
水智に殺害の決行をやめさせるべきか……。
だが……。
そう思案を巡らせていると、取調室のドアが勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、羽鳥未央だった。
私の顔を見た瞬間、彼女にぱっと安堵の表情が浮かんだのが印象的だった。
「大丈夫?病室からいきなり連行されたそうね。
ごめんなさいね。うちの連中……容赦がないから……。
だいぶ……疲れているんじゃないの?」
「いいえ……と言えば……嘘になりますね」
未央は何か言いたげだったが、結局何も言わず、踵を返した。
ふと未央の背中を見て思った。
女刑事と一緒にいる。
これほど完璧なアリバイもないだろう。
「お詫びに送るわ。乗って」
未央はそう言って、彼女の愛車らしい白い国産車に私を誘った。
「家には……戻りたくない……」
「えっ……?」
私は未央の瞳を見返した。
「行きたいところがあるんです。連れて行ってもらえませんか」
*
「あなたは恐ろしい人ですね。
その突発的な犯行さえもご自分のアリバイ工作の一端になさったのだから」
淡々と響く英葵の声に揺られつつ、私は記憶の船を漕いだ。
そうだ。その通りだ。
だから、私はあの夜、未央を抱いた。
そして、未央は私のアリバイを証言した。
己の刑事生命を賭して。
私には、未央がどんな状況に置かれようと、私のアリバイを証言するであろう自信があった。
彼女はそういう女だ。
*
予定外のことは、更に続いた。
私がアリバイを確保している間に恭平を殺害するはずだった水智がしくじったのだ。
あれも私のためならなんでもすると宣言していながら、土壇場で怖気づいたのだろう。
電話ごしに水智は私に詫びた。
「ごめんなさい……。タイミングが悪かったのよ」
「タイミング……?」
「そう。まさか、あんなことが起きるなんて……警察が来たからにはどうしようもないでしょう?」
「確かに……夕貴の件は予想外だったね。だが……」
「わかっているわ。昨夜やるべきだったってことは……でも、いいじゃない。
計画に悪影響を及ぼすことではないもの。むしろ、計画通りじゃない。
どこの誰だかわからないけど、感謝なくちゃいけないくらいだわ。ね?そうでしょう?」
「物は考えようか……。君には失望させられたよ」
「やだ……そんなこと、言わないで」
「冗談だよ。君には期待している。僕の方もアリバイは無事に確保できたからね。
幸いなアクシデントととらえるべきだろうとは思うさ」
「ええ。大丈夫。今度こそ……今度こそ、任せて。あの男の息の根を必ず止めてみせるわ」
そうだ、これは幸福なアクシデントと言ってもいいだろう。
夕貴がその幼い命を何者かによって奪われたという事実に変わりはない以上、
このアリバイは無駄ではないのだから。
それより私の関心は、別のところに移っていた。
そう。誰が夕貴を殺害したのか。
もう一人の殺人者の存在に。
*
父の死から数日後、私は水智に請われ、彼女のマンションを訪れた。
私の書いた筋書き通りに事が運んだことの祝い。
それはほんの名目で、本当の目的は、報酬を求めていたようだが。
彼女はひとしきり笑い転げた後、涙を拭きながら言った。
「全ての書類が会長名義から自分の名義に摩り替わっていたことを知った、
あの時の恭平の顔、あなたに見せてあげたかったわ」
「それにしても、社長解任の辞令を持ってきた時の君は正直、怖かったよ。
とても演技には思えなかった」
「あら。半分は本気だったのよ?私、あなたが愛しいと同時に憎いわ。
こんなにも私を魅了するあなたが……うふふ……」
そう言うと、水智は私の首筋に腕を絡ませた。
そう。恭平は水智を会長側のスパイだと考えたようだが、それはとんだお門違いだ。
実際、水智は私側の二重スパイだったのだから。
会長も恭平も何も知らずにこの有能な女専務に対して重要な情報をさらけ出し続けた。
そうして水智は会長サイドの情報と恭平サイドの情報を私にもたらしたという訳である。
「海杜。今日は泊まっていくんでしょう?」
昼間から繰り広げられた行為の後、自慢の手料理を振舞うと
(彼女は根っからの仕事人間に思われがちだが、家事もさらりとこなす家庭的な面もあった)、
珍しく甘えたような口調で言った。
「水智。会長が死んでからまだ初七日も済んでいないんだ。
自由に動くには、もう少し時間が必要だ。違うかい?」
「それはわかるわ。でも……寂しいのよ。
せっかく全てがうまく運んだっていうのに、あなたとの逢瀬もままならないなんて。
なんだかお預けを食らっている犬みたいで嫌だわ」
「ははは……。それはお互い様だろう?
お楽しみは後までとっておくというのもいいんじゃないかな?」
「うふふ……。そうね。それも悪くないわ。
私とあなたのものになったあの会社で……ね?うふふ……。ねぇ」
「ん?」
「あなた……本当にあの子のこと……」
「またその話かい?愚かだな。君も。僕があんな小娘に本気で溺れていたとでも思っているのかい?」
「うふふ……。まさか……。ただ……」
「もうその話は止めだ。それより、これだ」
私は水智に一筆の「詫び状」を書かせた。
「ねえ、これ、どういうこと?」
水智は不審気に私を見上げた。
「次の手さ。君には少し、つらい思いをかけるが……」
「わたしが……囮になるってことなのかしら?」
不安げな水智の肩を抱いた。
「ああ。経営陣の刷新を図ることによって、
これから会長が残した様々な膿が明るみにされるだろう。
今回の件で、君には会長の右腕として責任を取って専務職を辞任してもらう。
大丈夫。万が一、刑事事件に発展するようなことになっても、必ず助け出す。
……それとも、僕が信じられない?」
「まさか……。そういう意味じゃないのよ。海杜。ごめんなさい」
私は彼女の肩に手を置くと、囁いた。
「この仕事が終って……ほとぼりが冷めたら……一緒にならないか?」
「えっ……?」
「嫌かい?水智」
「そんな……ただ。驚いたのよ。信じられないのよ。
う……嬉しくて……。本当?本当なのね?海杜……」
「ああ。水智。愛してる」
「海杜……海杜……。うっ……ううっ……」
「泣いているのか?水智。君らしくないな。
さあ、乾杯しよう。君の好きなシャンパンを用意してきたんだ」
私はそう言うと、水智の涙を拭った。
「これからのことは、ほんの気楽な花嫁修業とでも思えばいい。
君は企業戦士としてよく社に尽くしてくれた。
君は少々オーバーワーク気味だったからね。
神様がくれた休養だと思えばいい」
「今夜は最良の日ね。私の人生で一番の幸せな日だわ。
ありがとう。海杜、私。この瞬間を、一生忘れないわ」
水智はすっかり舞い上がり、
私が彼女のグラスに睡眠薬を混入してもわからない有様だった。
やがて水智は子供のように無邪気な寝息を立て始めた。
「おやすみ。専務。疲れただろう?ゆっくりおやすみ」
そして、私は水智を彼女のマンションの屋上から落とした。
「詫び状」は屋上に靴と並べて添えた。
*
「君はさっき、『複数』のと言ったね。
じゃあ、まだ僕には犯行を手助けしてくれるフェアリーが存在したということだね」
彼――雪花海杜は、そう他人事のように言った。
僕はただ頷いた。
「それは、一体誰なのかな?」
僕は新たなる真相への口火を切った。
「それは勿論、あの伊山さんたちが真相を告げた日、
あなたの全ての罪を背負って死んでいった河原崎唯慧さんですよ」
*
矢保編集長はタバコを揉み消すと、椅子に反り返った。
「考えてみれば……おかしな点もあったんだよ。
例えば、あの毒ワイン事件の時、倒れた雪花莢華を真っ先に介抱したのは誰だった?」
「美麻ちゃんですが……あっ!?」
「そう。本来だったら、莢華を命とも思っているはずの河原崎唯慧が真っ先に莢華の処置をするのが本当だろう?
ところが、唯慧は莢華に見向きもせずに淡々と周りに指示を与えている。
軽症とは言え、大事な人間が毒物を飲まされたとして、取り乱さないなんてこと、ありえないはずなんだ……」
「ああ……」
「そして、あの最期の時だって、莢華が汚名を着ないように全て自分が背負って死んでいくこともできたはずなのに、
彼女は『莢華に命令されてやった』と公言し、莢華を殺人教唆の罪に落としている」
アタシと槌谷君は、顔を見合わせた。
「これは……どういうこと……なんですか……?」
「ひとつだけ確実に言えるとすれば……河原崎唯慧は、雪花莢華を本当は嫌っていたってことだな」
*
河原崎唯慧は、綾小路莢華を憎んでいた。
もうずっと前。
二人が少女だった頃から。
ただ、彼女はその思いを見ないようにして生きてきた。
唯慧は綾小路家の忠犬とまで呼ばれた使用人夫妻の娘であり、
彼女自身も綾小路家の令嬢・莢華の忠実な召使に甘んじるしか生きる術がなかったから……。
唯慧は無理やりに自分の主人である莢華を『好き』だと思い込もうとした。
そうして自らに彼女への忠誠心を無理やり刷り込んだ。
莢華の良い部分しか見ないようになっていた。
莢華の悪い部分には目をつぶっていた。
唯慧は、いつしか、莢華を自分の女神や女王のように神格化している自分に気がついた。
自分は莢華を愛している。
そう。他の誰よりも。
そう思い込むことでしか、今の自分の生きる道はないのだと。
*
実際、幼少の頃から自分と同じくらいの相手と言えば、莢華という存在しかいなかった。
莢華は聡明だったし、美しい少女である。
唯慧の想いもあながち嘘ではなかった。
だが、莢華と共に某名門女子中学に入学した頃から、そんな唯慧の世界に変化が生じ始めた。
万事が控えめで、常に莢華の影に隠れた存在としての彼女にも、
たくさんの同じ年頃の少女たちと触れ合うことで、友人と呼べる存在ができつつあったのだ。
ある日、学校近くにオープンしたクレープ屋が話題に上った。
名門女子校とは言え、こうした話題になれば普通の少女たちと代わり映えはしない。
唯慧はいつものように、特に口を挟む訳でもなく、彼女たちの話を聞いていた。
唯慧はそれだけで満足だった。
彼女たちとこうして同じ時間を共有しているというだけで。
「河原崎さんも一緒にどう?」
「えっ……?」
ふいにかけられた誘いの言葉に、唯慧は思わず相手を見返していた。
戸惑う唯慧に同級生は、
「そうよ。河原崎さん、一緒に行きましょうよ」
と無邪気な笑顔を向けた。
唯慧は、はにかみながら小さく頷いた。
その時。
「帰るわよ。唯慧」
そう声を上げたのは、莢華だった。
「えっ……?」
「忘れたの?今日は家庭教師の新田先生がいらっしゃる日よ」
莢華はそう言うと、唯慧の鞄を彼女の胸に押し付けた。
「あっ……」
「早くして。あなたがいなかったら、いったい誰が先生にお茶をお出しするの?」
「………………」
唯慧は結局、泣く泣く誘いを断わり莢華に従い帰宅した。
それから唯慧は、同級生たちと触れ合うことを避けるようになった。
こんなに哀しい想いをするのは、もう嫌だったから……。
そして、同時にやはり、自分は莢華の添え物でしかないのだ。
そう思い知らされた気がして。
こんな時、唯慧はいつも考えてしまう。
もし、莢華がいなければどうだったのだろう。
そうだ。莢華がいなければ。
莢華が……いなければ……。
莢華という存在が自分の全てを左右する。
莢華中心に自分の世界が回る。
では、自分という人間の存在意味とは一体なんなのだろう。
そう自らのアイデンティティに疑問を感じ始めた時、唯慧は一人の青年と出会った。
「今日から私のピアノ教師としていらして下さる雪花海杜お兄様よ」
正確に言えば、その青年を見かけたのは初めてではなかった。
彼は莢華の従兄弟として何度かこの家にも出入りしていたし、
莢華が出席するパーティなどにも顔を出していた。
ただ、名前を知ったのはこの時が初めてだった。
名前を知ることで、急速にこの青年が近くに感じられた。
恐らくそれは、紹介の際に彼が見せた微笑にも効果があったのだろうが。
だが、唯慧の一番の関心事は、
莢華がこの青年に恋愛感情を持っているということだった。
莢華が見せる浅ましいまでの「女」としての態度は、
唯慧を戸惑わせ、同時に彼女の心に余裕をもたらした。
所詮、莢華もまた、その辺りに転がっている一人の少女にすぎないのだと。
では、自分はどうしてこの少女に尽くさなければならないのだろう。
一体、自分と彼女に何の違いがあるというのか。
唯慧の疑問は日々、静かに膨らんでいった。
「河原崎君と言ったね」
「えっ……?」
唯慧は思わずはっとして顔を上げていた。
それは、ちょうど莢華が席を外している間に彼女の部屋にティーセットを運んだ時だった。
教え子が中座し、手持ち無沙汰だったらしい海杜が話しかけてきたのだ。
「は、はい」
「莢華の友達でいてくれてありがとう。あの子も育ちのせいかな?
どうもわがままな面があって……。疲れないかい?」
「い、いえ……」
「唯慧。一体、何を話しているの?」
鋭い莢華の声が響く。
萎縮し、唯慧は慌てて答えた。
「いえ……何も」
「本当に?」
海杜のことになると、莢華は異常なほどに神経質だった。
そんな空気を察したのか、海杜は快活に言った。
「ああ、莢華。河原崎君はお茶を運んでくれたんだよ。
たった今だから、まだ何も話せていない。残念だね。
そうだ。せっかくだから、河原崎君も一緒にティータイムにしよう」
「えっ……?」
莢華は海杜と二人きりでないことが不服なようだったが、
誘ったのが海杜だということで、ぐっと堪えているようだった。
「そう。じゃあ、唯慧。さっさと準備して頂戴」
「いや、今日は僕が紅茶を淹れよう。淑女諸君たちは座っていてくれ」
莢華が目を剥いたのが、唯慧には堪らなく愉快だった。
「ありがとうございます」
唯慧は海杜の好意に甘え、遠慮がちに腰をおろした。
青年に莢華と同等に扱われていることが何より嬉しかった。
「はい。どうぞ」
そう海杜が差し出したティーカップに触れる瞬間、
唯慧の中に感じたことのない暖かい感情が流れ込んできた。
その時。
「……!?」
海杜からカップを受け取った莢華がよろけ、カップを取りこぼしたのだ。
カップの中身は全て綺麗に唯慧にかかっていた。
唯慧の服は、見る間に紅茶で茶に染まった。
明らかにワザとだった。
「あら、手元が狂ったわ。ごめんなさいね。唯慧。
早く布巾でももってきて拭かないと、取れなくなってしまいますわよ」
「は……はい……」
そう唯慧が腰を上げた瞬間、鋭い声が響いた。
「そんなこと、しなくていい。河原崎君」
「えっ?」
「莢華。自分で布巾を取ってきて、拭いてあげなさい」
「でも……」
唯慧の方が戸惑う方だった。
「河原崎君。どうして君が恐縮するんだい?君には何の落ち度もないじゃないか」
「……あっ」
「さ、莢華。早くしなさい。河原崎君の服が染みになってしまうだろう?」
莢華は悔しそうに駆け出した。
「か、海杜様……」
「気にしないで。さ、紅茶を淹れ直してあげよう」
「……はい」
海杜は唯慧に優しくソーサーとカップを持たせた。
「はい、改めてどうぞ。……河原崎君。よくお聞き。君は莢華の奴隷なんかじゃない。
一人の一個人なのだからね。そのことを忘れてはいけないよ。
莢華に非がある時には、きちんと意見してやって欲しい。それが莢華のためでもあるのだからね」
「………………」
そうどこか寂しげに笑うこの青年に、唯慧は自分と同じ匂いを感じた。
そして、唯慧は惹きつけられた。
青年が持つ、深い漆黒の瞳の中に宿る底知れぬ闇に。
*
海杜と莢華の結婚初夜。
部屋に一人残された唯慧ははっきりと思い当たった。
莢華を愛している?
馬鹿な。
そうではない。
わたしはただ、そう……。
ただ、そう思い込もうとしていただけなのだ。
時折、夫婦の寝室から漏れ聞こえてくる新妻・莢華の喘ぎ声を聞きながら、
唯慧の中でそんな思いが燻っていた。
毛布をきつく握り締める。
唯慧は苛立っていた。
今夜がまるで少女から大人へと変わっていく時期に誰もが経験する反抗期のように。
唯慧は莢華という殻を破りたかったのかもしれない。
そして、唯慧はあの青年が莢華のモノとなったことが堪らなく悔しかった。哀しかった。
彼が莢華の所有する服やバックなどと同等になってしまったように思われて。
そう思うと、泣けて泣けて仕方がなかった。
唯慧はどうしてこんなに自分が悲しいのか、わからなかった。
いつしか唯慧は、泣き疲れて眠っていた。
その夜見たのは、莢華の代わりに海杜に抱かれる夢だった。
*
その日も、唯慧は莢華に呼ばれ、彼女の寝室にいた。
海杜が海外の取引相手と商談のため、最近は彼女の独り寝の回数が増えたらしい。
唯慧はそのことに、言い知れぬ喜びを感じていた。
ようやく寝入った莢華を起こさないように、唯慧はそっと部屋を後にした。
その時、遠くの方でドアの音がした。
海杜の自室の方だった。
新妻を放っておいて、深夜までご苦労なことだ。
彼女は自室へと戻るため、音のした方へ向かった。
唯慧の与えられた自室は、海杜の部屋の斜め向かえに位置していたから。
何気なく前方を見た唯慧は、反射的に身を柱の影に隠していた。
誰かいる……?
唯慧は柱からそっと、廊下の様子を伺った。
人影は二つだった。
一つはこの部屋の主の海杜だったが、もう一つは?
そっと辺りを気にするように現れたシルエットは、紛れもなく咲沼美麻ではないか。
どうして彼女がこんな時間に、海杜の自室にいなければならないのか。
導き出される答えは唯一つしかない。
唯慧は美麻が走り去り、それを静かに見守っていた海杜がドアを閉めるまで、
ただじっと柱の影で佇んでいた。
唯慧は行動を起こした。
海杜がドアを閉める寸前、そのドアの隙間に足を入れた。
海杜がはっとして振り返った。
「君は……見ていたのか」
彼にしては珍しく、ひどく狼狽しているようだった。
深夜の廊下は、小声でも音が響く。
「一先ず、部屋に入りなさい」
海杜はそう言って唯慧を部屋に招き入れた。
*
初めて入る海杜の部屋は、どこか芳しい香りに満ちていた。
唯慧には、それがあの少女――咲沼美麻の残した残り香のように思われた。
「君は莢華に今夜のことを報告するのだろうね」
海杜はひどく疲れたような顔をしながら言った。
彼は心底、事の発覚を恐れているようだった。
だが、それは自分のためというより、
咲沼美麻の未来を慮ってのことのように思われた。
この青年が莢華以外の女を抱いた。
このことが唯慧にもたらしたのは、莢華に対する哀れみと優越感。
そして、なぜか悲しみと嫉妬だった。
「お願いだ。美麻のことだけは、
君の胸に仕舞っておいてもらえないだろうか」
「残念ながら……と言いたいところですが。
私も鬼ではございません。あなたにチャンスを差し上げましょう」
「チャンス……?」
彼の弱みを握ったという優越感が、唯慧を大胆にした。
この男を手に入れたら、自分は莢華と同等。
いや、それ以上になれるかもしれない。
莢華の夫という地位のこの男を。
これは、チャンスなのだ。
唯慧はいきなり海杜の肩に腕を回し、素早く唇を奪った。
「んっ……」
唯慧のディープキスを海杜は必死に離した。
拒まれた唯慧はくすくすと笑いながら、
「駄目ですわ。これがチャンスの条件なのですから」
と笑った。
「……どういうことだい?」
「ふふ……。条件とは他でもない……あなたのからだですわ」
「!!」
唯慧は上目遣いで続ける。
「あなたが私のものになるって誓ってくれるのでしたら、
このことは公には致しませんわ」
「………………」
「そう。私を抱いて下さいませ。海杜様」
そして、唯慧は再び海杜の唇に自分の唇を重ねた。
今度は海杜は拒まなかった。
それが、彼のYESという意志表示だった。
唯慧は満足そうに海杜の身体を撫で回した。
これが、莢華の夫の身体。
莢華の所有物だったはずの身体。
それが今、自分の手中にある。
唯慧はどこかサディスティックな気持ちに支配された。
海杜のワイシャツのボタンに唯慧の指が掛かる。
同時に唯慧の舌が口の中に滑り込んできた時、海杜はぐったりと椅子に凭れ、きつく目を閉じた。
そして、海杜の上半身が露わになると、唯慧は夢中で愛撫した。
唯慧は自らも衣服を脱ぎ去り、
既に半裸の状態の海杜の身体をベッドに押し倒すと、はっとして動きを停止した。
あの日のままの、どこか哀しげな青年の目があったから。
唯慧は途端に涙をこぼしていた。
海杜への脅迫。
それはある意味、彼女にとって名目にすぎなかったから。
唯慧はただ、この青年に純粋な好意を抱いていただけだった。
『君は莢華の奴隷なんかじゃない。』
そう自分を一人の少女として扱ってくれた初めての存在であった彼に。
*
こうしてはじまった海杜との関係。
その晩も唯慧は、言い知れぬ優越感に酔いしれていた。
今、莢華は隣の部屋で一人寂しい新妻の役を与えられ、打ちひしがれているに違いないのだ。
声を上げたい衝動と戦うのに必死だった。
莢華のためではない。自分のため。
誰にも邪魔などされたくないから。
だから、唯慧は海杜の復讐にも何の躊躇いもなく、手を貸した。
彼との秘密の共有。
それは唯慧にとって、この上ない幸せだったから。
この至福の時間をもう少し。
あと少し。
*
雪花英葵・菊珂の結婚披露宴会場で、海杜は時計に目をやった。
「そろそろ届いた頃だろう」
「菊珂様宛の祝電ですか?」
「ああ。唯慧。菊珂を見届けて欲しい」
「私がですか?」
「ああ。菊珂が確実に翔ぶかどうかをね。
僕は菊珂の控え室に行って電報を回収してくる」
「……かしこまりました」
その時、不安げな表情の新郎が現れた。
「どうしたんだい?英葵」
「それが……菊珂がいないんです」
「菊珂が?」
「どこに行ったんだろう……。もう式がはじまるというのに……」
「わかった。僕も探してみよう。英葵。ここは僕に任せて、君は式の準備にあたってくれ」
「わかりました……」
そんな問答を聞きながら、唯慧は静かに披露宴会場を後にした。
ホテルの玄関から出て足早に北の方角へ向うと、
丁度白いものが頭上から落下してくるところだった。
それは紛れもなく、哀れな花嫁・雪花菊珂だった。
*
唯慧は海杜の命を受け、ワインに砒素を混入した。
粉末の砒素を水に溶かし、新品のワインのコルクから注射器を用いて入れるという根気のいる作業だった。
だが、唯慧にとっては、恋人の好物を作る楽しいクッキングでもしているような気持ちだった。
愛する海杜に重要な任務を任されたということが、今の唯慧には何事にも代えがたい喜びとなっていた。
毒入りワインは、ホステス役である莢華によって客人たちに振舞われた。
当然、海杜にも。
唯慧は一人オレンジジュースに口付けた。
そして、ハラハラしながら見つめていた。
なぜか過剰なまでに毒入りワインを摂取する海杜の姿を。
やがて惨劇の幕が上がり、完全に意識を失った海杜の姿を見て、
唯慧は声を上げたい衝動を、泣き出したい衝動を、
駆け寄りたい衝動を必死に殺した。
『どんなことになっても、君は君の行為を遂行するんだ。わかったね?』
海杜の命が唯慧の脳裏に響く。
自分は彼に命じられた通りに動くだけだから……。
唯慧は混乱する人々を前に高らかに声をあげた。
「これは、砒素中毒に違いありませんわ」
*
血みどろで横たわる里香を目にした瞬間、彼女はさすがに身体中が硬直して動けなくなった。
「何をしているんだ。唯慧。時間がないんだよ」
「……は、はい」
唯慧は血溜りを避けつつ、海杜の傍らに辿り着いた。
彼女はあらかじめ準備しておいた袋からハンカチを取り出した。
それを確認すると、海杜は唯慧を抱き寄せた。
「後は頼んだよ。唯慧」
「かしこまりました……。海杜様」
そう言うと、唯慧は海杜の口を背後からハンカチで覆った。
そのハンカチには、クロロホルムがたっぷりと仕込まれていた。
やがて、意識を失った海杜が唯慧の胸に倒れ込んだ。
唯慧は海杜の身体を優しく横たえると、同じように準備してきた石を窓ガラスに力いっぱい放り投げた。
そして、夜風が吹き込む窓辺から闇へとダイブした。
*
日差しの差し込む別荘の寝室で、唯慧がベッドでまどろんでいると、海杜の声が響いた。
「明日、美麻の友人だという記者が来る。どうやら、関係者を集めて事件の真相を話すつもりらしい」
唯慧ははっとして身体を起こした。
その拍子に彼女の身体を包んでいた毛布が滑り落ちる。
白い肌に赤い花が鮮やかに咲いていた。
海杜は微笑んだ。
「どうやら、ここまでらしい」
その笑顔がそのまま光に溶けて消えてしまいそうで、唯慧はふっと涙ぐんだ。
「そんな……」
「君には世話をかけたね」
「そんな……やめて下さい……。私は……私は……」
脅迫という手段で手に入れた海杜との関係を、いつも心の底では後悔していた。
そんな手段でなく、この青年と結ばれることができていたら……。
唯慧はそんな叶わぬ願いをいつも夢想していた。
「逮捕され、生き恥を晒すくらいだったら、僕は潔く死を選ぶ」
えっ……?と顔を上げた唯慧に、海杜は何かを手渡した。
それは拳銃だった。
「明日、全てが明るみにされるようだったら、これで僕を撃って欲しい」
唯慧はいやいやするように首を大きく振った。
心臓が飛び出さんばかりに波打つ。
だが、海杜は唯慧の手にそれを握らせた。
「お願いだ。僕は君に殺して欲しいんだよ」
そう海杜が悲痛な眼差しを見せた瞬間、唯慧は海杜の胸に思わず泣き崩れていた。
唯慧は海杜の腕の中で、全てを決意した。
*
海杜に渡された拳銃という名の凶器。
別荘から戻った唯慧は自室でそれをそっと取り出すと、ゆっくりと撫で回した。
海杜のぬくもりが感じられるようで。
彼は全てを自分に託した。
あの日、全てを決意した海杜の寂しげな笑みが浮かび、また涙ぐんだ。
「えっ……?」
ふいに銃口を目にした瞬間、唯慧は違和感に気がついた。
何かが銃口に詰まっているようなのだ。
これは……?
唯慧はわからないまま、それをまた大切に仕舞いこんだ。
*
そして迎えた当日。
美麻の友人という記者と編集長と名乗る見たこともない女性、
そして、やはり美麻の友人だったらしい青年が淡々と語り出した真相。
唯慧はそれを聴きながら、言い様のない恐ろしさに絡め捕られていくのを感じた。
なぜなら、唯慧は少しずつ。ゆっくりと気がついたから。
全てが……海杜の全ての罪が自分自身に転嫁されているということに。
「あっ……。この野次馬の中にいるの、河原崎さんじゃない?」
そう自分の名が指摘された瞬間、思わず唯慧は向えに座る海杜に目をやった。
だが、深く項垂れる彼の顔は、
黒いビロードのような髪に阻まれ、窺い知ることができない。
唯慧は全身の毛が逆立つような恐怖を覚えた。
間違いない。
自分は、間違いなく。
裏切られた。
彼に切られた。
彼女の脳裏を今まで天命として従ってきた彼の指示の全てが駆け抜けた。
全てが自分に罪を背負わせるため。
自分は初めから駒に過ぎなかった。
怒りよりも先に彼女の心を支配したのは、哀しみだった。
あの艶やかな黒髪の下に、今彼はどんな表情を浮かべているのだろう。
時折、微かに揺れる彼の肩。
泣いているのか。
震えているのか。
いや、今の唯慧にははっきりとわかる。
彼は笑っているのだ。
「撃てばいいだろう……」
唯慧ははっとして海杜を見下ろした。
「そんなに僕が憎いのなら、その引き金を引けばいい……」
真っ直ぐに自分を見つめる海杜の視線。
唯慧はその瞳に必死に懇願した。
だが、海杜は唯慧を見返す。
「やれ」と。
唯慧は、その瞬間、銃口に詰められたモノの意味を悟った。
この銃は、引き金を引けば、暴発するのだ。
暴発、それは唯慧の死を意味する。
そうすれば、全ては闇に葬られる。
彼の罪も全て自分と共に。
既に自分は穢れてしまった。
彼のためにこの手を汚した。
だが、一切後悔などはなかった。
これは、唯慧の精一杯の愛だったから。
恩返しをしよう。
唯慧は哀しくそう思い返した。
そう。これは恩返し。
夢をみせてくれた、あなたへの。
そして、罪滅ぼしだ。
脅迫という手段であなたを苦しめたことへの。
どうか、誤解しないで欲しい。
私は本当にあなたのことを……。
海杜様……。
唯慧の全てはあなたのお心のままに……。
唯慧は引き金を引いた。
*
拍手の音が響いていた。
それは、真犯人・雪花海杜から僕への賛辞のようだった。
「九十九出のことを思い出したよ。いや、実に素晴らしい」
「彼も……彼もあなたが……」
「ああ、実に残念なことに、彼はいささか優秀すぎた。君のようにね。
彼は今回の事件で真相に肉薄しすぎた。危険な因子は摘み取らなければ……ね?」
*
「それで……君は菊珂が自分に暴行しようとした見ず知らずの男を殺害したと言いたい訳かい?」
九十九は静かだが、はっきりとした口調で言った。
「……はい」
菊珂の四十九日法要のはじまる一時間ほど前。
私は自室で九十九出の訪問を受けていた。
予定よりもだいぶ早い時間の訪問に怪訝に感じたが、
彼は私と話がしたいと言い、有無言わせぬ様子で私の自室に滑り込んできたのだ。
そして、彼が語った内容。
それは、あの菊珂が「殺人を犯した」晩の光景だった。
九十九の話は、まるであの夜の菊珂の様子を盗み見てでもいたのではないかというほどに正確なもので、
私はその仮説を組み立てた彼の頭脳に素直に賞賛を送りたかった。
だが、菊珂亡き今、この青年は何を求めて私にこんな話をしているのか……。
それだけは見当がつかなかった。
「死体の始末を菊珂さんが一人で可能だったのでしょうか……」
私はその瞬間、よくやく彼が私に面会を求めた理由がわかった気がした。
「死体には、たくさんのブロックが錘として括りつけられていたらしいです。
まして、男の死体です。菊珂さんが一人でどうこうできたとは思えません」
九十九は言葉を切り、私を一瞥した。
「それで、僕、思ったんです。
菊珂さんが真っ先に助けを求めるのは誰なんだろうと……」
「助け……?」
「ええ。菊珂さんは財閥の令嬢とは言え、一人の女子高生だったんです。
こんな状況に追い込まれたら、当然、誰かに助けを求めたと思うんです」
私は彼が言わんとするところを先読みして言った。
「その相手が……僕だと言いたいのかな?」
九十九は私の答えに怯むことなく、はっきりと言った。
「そうです」
鋭い眼差し。
いつもは気が付かないのだが、こうしてそれを目の当たりにすると、九十九財閥の長である彼の父親を思い出す。
表向きは温厚だが、実際は頭の回転が速く、計算高い抜け目のない男。
のほほんとした雰囲気ながら、内部では刃を研いでいる。そんな、油断ならない相手……。
今はまだその片鱗を見せてはいないが、いずれはこの青年もそうなるだろう。
血とはそういうものだ。
まだ純粋なこの青年の行く末が見えた気がした。
そして、同時に私の中で危険信号が発せられた。
「なるほど。君の話はよくわかった。それで……僕にどうしろと?」
「お認めになるのですか?」
青年は真っ直ぐに私を見つめた。
私は彼の目を見詰めたまま、頷いた。
「自首して下さい」
九十九は続ける。
「あなたは窮地に陥った菊珂さんのために死体を始末したのでしょう?
僕があなたと同じ立場だったら……同じことをしたかもしれない」
「………………」
「でも、僕、同時に思うんです。菊珂さんはあの罪を悔いて死んでしまった。
これは事実です。僕……このままこの罪をうやむやにするべきではないと思うんです」
そう言うと、九十九は突然、顔を伏せた。
「……生きている側の者がきちんと償うべきだと思います。
もう、菊珂さんは償いたくても償うことができないんだから……」
九十九は泣いているようだった。
噛み締めるようにそう言うと、涙に濡れたその顔をあげた。
「お願いします。雪花さん。菊珂さんの代わりに……罪を償って下さい」
「僕が拒否したら?」
無駄とは知りつつ、私は一応、尋ねた。
たとえ、彼がここで「私が求める回答」をしたとして、
この後のこの青年の運命は決まっていたに違いないのだから。
九十九は私の思惑を知るはずもなく、「私が求めない回答」をした。
「僕はこの事実を知ってしまった以上、隠し通すことはできません。
あなたの返答次第では、警察に向かう準備ができています」
その目には、並々ならぬ決意が感じられた。
私は観念した風を装い、言った。
「わかった……君の言う通りにしよう。この四十九日法要が終わったら……警察に行く」
私の答えに九十九の顔にさっと明るさが戻った。
「ありがとうございます!!きっと……きっとこれで菊珂さんも安心できると思います」
そう言うと、九十九は私の両手を取り、拝むように握手をした。
彼は「ありがとう。ありがとう」と繰り返し、また泣いた。
嬉し泣きのようだった。
私はやんわりとその手を払いのけると、彼に背を向けた。
そして、この上なく、柔らかい口調に務め、言った。
「そうだ……。九十九君。君はワインが好物らしいね。
僕もそうなんだ。今夜の四十九日法要では、とっておきのワインを用意しようと思っているんだよ。
どうか、存分に楽しんで行って欲しい。そう……菊珂のためにも……ね」
*
熊倉がちらちらとこちらに向ける視線が、
あたしを気遣うようなその眼差しが、逆に痛かった。
「九十九青年は、君と苗子君があの埠頭での事件の目撃者と話しているのを立ち聞きして
雪花菊珂嬢の死の真相に行き着いた。
そしてその後、君に報告しようとした新たな仮説というのは、
こういうことだったんじゃないだろうか。
菊珂嬢があの細腕で大の男の死体を始末できたとは思えない。
つまり、彼女は誰かに助けを求めたことになる。
では、菊珂嬢が出したSOSを受けたのは、誰か?
その答え。
つまり、彼は菊珂の兄である雪花海杜がこの件に一枚噛んでいることを察知したんではないだろうか。
そして、彼は哀れにもその仮説を君に告げる間もなく、第三の被害者となってしまった」
学者然とした九十九青年の顔が浮かんでは消えた。
「熊倉さんは、あの毒杯事件で、雪花さんがどんなトリックを使ったって考えているんです?」
苗子の問いに、熊倉は寂しげに首を振った。
*
「トリック……?そんなもの、はじめから存在しないよ」
彼――雪花海杜は挨拶のように陽気に声を上げた。
「えっ……?」
「この件に関しては、作為は一切用いてない。僕は解毒剤も服用していなかったしね」
「まさか……」
「本当さ。そう。もし僕が死んだら……それで僕の負け。
そこで僕の復讐は、ジ・エンドというところだね」
「そんな……」
この人は自分の命さえも賭していたのだ。
そう本当の意味で賭していた。
「神は僕を生かした。おっと……死神かもしれないがね」
彼はそう嘯くと、また笑った。
自分は死神さえも味方につけている。
そんな自信からなのか、それとも自分に恐れるものなど何もない。
その表れなのか、それはどこか不敵な笑みだった。
*
熊倉の声が響く。
「敵は九十九君の動向を察知し、
彼が次の行動を実行に移す前に絶妙なタイミングで葬っている。
まして、彼はこの件で自分が被害者側の人間であることを我々に刷り込んだ。
まさに命がけの芸当でね。実に恐ろしい相手だよ。
……恐ろしいと言えば、話は前後するが、彼の妹・雪花菊珂の事件に尽きると思う……。何せ……」
*
「あの時、菊珂が男を『殺した』と知った時、
僕としては、菊珂を裁判にかけて晒し者にしてやろうと思ったんだがね。
君の意見を聞いて、考えが変わった。君のお手並みを拝見しようと思った。
それも面白いかと思ってね」
彼は少し天を仰ぐように天井を見上げた。
「あの子は純粋な子だ。あの男を自分が殺害したと『思い込んだ』ことによって、
毎日どれだけ苦しんだことか想像に難くない。
幸せの絶頂から叩き落す。これ程愉快な復讐もないだろう?」
その瞬間、僕の脳裏に生前の菊珂の華やかな笑顔がさっと蘇った。
ほんの一年という短い間、僕の妻だった少女の笑顔が。
「菊珂には……彼女には、何の落ち度もなかった……。
あなたの復讐のターゲットになるべく理由も……!!」
思わず椅子を蹴って立ち上がり激昂した僕を雪花海杜は静かに見上げた。
空恐ろしいくらいに冷徹な眼差しで。
「まだわからないのかい?英葵。そんなこと、関係ないんだよ」
そして、噛んで含めるように。
まるで何もわからない子供に教えるかのように、ゆっくりと告げた。
「そう。菊珂は残念ながら、あの女の娘だからね」
僕は初めて言い知れぬ恐怖を感じた。
この人の憎悪は、全て『血』に注がれている。
この『雪花家』という一族を構成する『血』に。
そこに『一個人』やその個人が持つ『感情』というカテゴリは存在しない。
ただ、『その血を受け継いでいるか否か』。
この人の復讐におけるターゲットの選択は、この一点のみにおいてぶれずに存在している。
僕は喘ぐように問うた。
「あの電報を出したのは、あなただったんですよね」
あの電報とは、伊山凛たち(元々は九十九出か)が指摘した菊珂を死においやった電報のことだ。
彼はゆっくりと頷いた。
答えは実に簡単ことだったのだ。
あのF埠頭の犯罪に関しては、僕と当事者である菊珂。そして、彼しか知らない。
菊珂は当然除外されるとして、僕ではないとすれば、
もうあの電報の差出人である得るのは、彼・雪花海杜しかいないのだから。
哀しいくらいに簡単すぎる引き算だった。
「あれはほんの方法のひとつに過ぎなかった。
あんな電報ひとつでは、確実性に欠けるからね。
だが、別に上手く行かなくても問題なかった。
チャンスはいくらでもある。
だが、予想に反して菊珂はあっさりと逝ってくれた。
それだけあの子も純粋だったということだろうね」
あの電報におけるトリックは、いわゆる、プロバビリティの犯罪という訳か。
目の前の雪花海杜は続ける。
「だから、もし、あの電報だけで菊珂が死を選ばなければ、
別の方法も用意していたんだがね。例えば、君の撮影したこの写真」
それは、菊珂が男を「殺した」時の写真。
僕が会長を脅迫する際に使った切り札だった。
「どうして……あなたがそれを……」
「決まっているじゃないか。君が初めて僕を脅迫した晩さ。
君の携帯を失敬して僕の携帯にこの写真を送った。
もちろん、送信記録等は抹消させてもらったから、君が気がつかないのも無理はない。
あの夜、君が僕と菊珂を撮影しているのは気がついていた。
だが、放っておいたんだ。その写真が何かに使えるかもしれないとね。
菊珂があの電報だけで翔んでくれたおかげで、結局、その必要もなかったがね」
彼は薄ら笑いを浮かべた。
僕は負けていたのだ。
最初から勝負はついている。
もうずっと長い間。
気の遠くなるような間。
この人こそ、「この世の果て」を見続けていたのだから。
「さあ、聞かせてもらおうかな。さっきの続きを」
彼はそう髪を掻き揚げると、笑った。
だが、その目だけは笑っていなかった。
僕は喘ぐように叫んだ。
「社長……答えて下さい!!人を殺すのは……怖くなかったのですか?」
*
凍りついたかのように動きを止めた海杜さんの目を見詰めたまま、わたしは繰り返した。
「海杜さん、人を殺すのは……怖くなかったですか?」
そして、続ける。
「今までの殺人事件の真犯人は……あなたなんですよね?」
わたしは、そう告げてから夢中で彼の胸にすがり付いていた。
いったい君は何を言い出すんだ?
そんな馬鹿なことがある訳ないじゃないか。
そう笑い飛ばして欲しかった。
叱って欲しかった。
わたしの言葉をひとつひとつを否定してわたしの辿り付いた悲しい結論を突き崩して欲しかった。
なのに、海杜さんは何の反応も示さなかった。
ただ、静かにわたしを見つめているだけだった。
やがて、視線を逸らしたのは、彼の方だった。
でも、すぐに彼はわたしを見返した。
氷のように冷たい視線で。
「言っただろう……?僕は君が思っているような人間じゃないと」
それは間違いなく、肯定の答えだった。
わたしは、その瞬間、思わず両手で顔を覆っていた。
「……海杜さん……」
思わず、嗚咽が漏れた。
信じられない。
信じたくない。
現実を遮断した視界は暗闇に覆われても、
わたしに残酷な運命を告げるように、
冷徹な海杜さんの声は容赦なく降り注いでくる。
「いつから……気が付いていた?」
わたしはゆっくりと両手を離し、彼を見つめた。
涙で霞んでよく見えないその顔。
何の感情も表れていないその顔。
よくできた仮面のようなその顔。
これが本来のこの人の姿……?
違う……。
そう信じたい……だけど。
「はっきりと確信を持ったのは、里香さんの事件の時です。
あの事件では、里香さんのピアノがキーとなっていました。
里香さんのピアノを聴いた李さんの証言によって犯行時刻が絞られたんです。
でも、もしそこに作為があったとしたら?」
「作為……?」
「はい。前に言いましたよね。海杜さん……。
自分のピアノはコピーマシーンのようだって」
「ああ……」
「だから、考えたんです……。もし、あの時、既に里香さんが殺されていたとしたら?
あのピアノは里香さんじゃなくて、本当はあなたが弾いていたんじゃないかって……。
里香さんの旋律を真似て……」
「美麻。真似くらいだったら、誰だって簡単にできるんじゃないかい?」
海杜さんは、そう少し笑った。
「いいえ。癖を真似するには、時間がかかります。
まして、人が聞いて、その人の弾き方だと思わせるくらいに似せるには……。
李さんが、言っていました。
もう十数年ピアノを弾いていなかった里香さんがピアノを再開したのは、本当に亡くなる間際の短い期間。
とてもこの短期間で里香さんのピアノの特徴を掴んで自分のものにするということはできません。
里香さんの旋律の真似ができるのは、昔、彼女からピアノを習っていたあなたしかいないんです」
「なるほどね……」
「そのピアノがフェイクならば、海杜さんのアリバイは……崩れます」
*
あの夜。
里香との何度目かの逢瀬の晩。
そう。里香を殺めた晩。
愛してもいない女を抱きながら、私は視線をただ天井に泳がせていた。
その晩は、天井に広がる年代を経た染みが妙に気になった。
「ねぇ……。海杜さん」
里香は、気がそぞろな私にやや不満げに眉をひそめた。
私は仕方がないので、不満を口にしかけたらしい唇を塞いだ。
里香は満足げにうっとりとした視線を寄越した。
私はそれを無視し、唇を下降させた。
里香は彼女の乳房に愛撫する私の頭を掻き抱きながら、吐息交じりに言い出した。
「私、知っておりますのよ?海杜さん」
「……何をですか?」
「あなたとお母様の本当のご関係……」
「…………!!」
「そんなに驚かないで。でも、嬉しいわ。あなたを当惑させることができて。
私、あなたのそういう顔もすごく好きなの。あなたは滅多にそういう顔……見せて下さいませんけどね」
里香の勝ち誇ったような笑みを見るのが嫌で、私は愛撫を再開した。
「授業が終わったあと、一度、忘れ物に気がついて戻りましたの。
その時……偶然、見てしまいましたのよ。あなたとお母様の逢瀬を。
うふふ……。だから、言ったでしょう?こうしてあなたとできるのは……あなたの母としての特権だと」
私はその問いに答えず、下へと唇を下降させた。里香の吐息が激しくなる。
「ねぇ……あなた、お母様を殺したんじゃありません?」
私の動きが止まった。
里香が同時ににやりと笑った。
私も思わず笑っていた。
「怖いことを言う人だ……。あなたも」
「あら。あなたほどではございませんわ。そう。それがあなたの本当の目ですのね」
「えっ……?」
「あなた、お母様を抱きながら、とても怖い目で彼女を見下ろしていた。
まるで、殺意さえも感じさせるような怖い目でしたわ。そう。ちょうど、そういう目」
私は思わず、苦笑していた。
「それは、まずいところを見られてしまったようですね」
「構わないのよ。海杜さん。あなたが例え、人殺しだろうが……私の愛は変わりませんわ。
いいえ、むしろ私はそんなあなたに惹かれたの。そうよ。その目だわ。私が欲しかったのは……。
最初はただのつまらない優等生だって思っていた。
実際、あなたは問題一つ起さずに、雪花家の長男として慎ましやかに過ごしていた。
でも、それがあなたの偽りの仮面だとわかった瞬間から、あなたを愛するようになったの……」
「それはそれは……光栄とでも言っておきましょうか?
しかし……あなたも随分変わった人ですね」
「うふふ……愛なんて一種の病癖に過ぎませんわ。
そう……。人は、どこか狂気に誘われるのかもしれませんわね?
海杜さん……欲しい……早く……!!」
「せっかちな人ですね。あなたも……」
「あなたがそうさせるんでしょう?ねぇ?早く……」
私は里香が望む通りにしてやった。
つながっても、なんの感動も呼び起こさない。
だが、里香は違うようだった。
大きく弓なりにのけぞると、自分から腰を動かし始めた。
「……すぐにわかりましたわ。……あなたが……お母様を殺められたことは」
「では、なぜ僕を警察に突き出そうとしなかったのです?」
「愛した男を刑務所に送れるほど、私は強い女ではありませんわ。それに……」
「それに?」
「それに、私、あの方がどうも好きになれませんでしたの。
だから……あっああ……!!い……いいわ。海杜さん……。もっと……」
里香は上になると、私を見下ろした。
「でも、私……どうしてあなたがあの女のいいなりになっていたのか……不思議で仕方がありませんでしたわ」
「答えは簡単です。僕は弱い人間なんですよ。だから、この家がなければ生きてはいけないのです」
「嘘つき」
「本当ですよ。だから、今もこうしてここにいるんだ」
そう言うと、私は里香の首筋に愛撫した。里香は吐息を漏らした。
そのまま彼女は倒れこむように私の胸に頬を押し付けた。
私はそれをかわすように体制を変えた。
再び里香の夢心地に酔う顔が私の下になった。
「……嘘おっしゃい。あなたは十分、独りでも生きていけるわ。この家を捨てても……」
「『独りで生きるためには、人は獣であるか神でなければならない』アリストテレスの警句ですか?」
「ええ……。あっ……はあ……あなたはある意味、無敵だわ。あなたは神になってしまわれたから」
「神……ですか?ふふ……いいえ。醜い獣の方かもしれませんよ?」
「どちらにせよ。あなたはいまや敵なしだわ。
誰もがあなたに同情の目を向けている。
あの女刑事さんだって同様よ。彼女はあなたの虜ね。
本当にあなたは罪な人」
そう言うと、里香は正面を向いて私を見上げた。
「でも、あなたはもう無敵ではないかもしれない。あなたは神から転落したのだから」
「転落……?」
「あなたは人間の心を取り戻してしまった。……あの少女のせいで……」
「…………」
「私は怖かったのよ。あなたが、またあの純粋な少年に戻ってしまうことが。
あなたが神から転落し、ただの人間に成り下がってしまうことが……」
「…………」
「それに……許せないでしょう?あのお嬢さんが……そうあんな小娘があなたを奪うなんて。
だから、壊してあげましたのよ。あの子の夢も希望もね?うふふ……」
『里香お義母様……。私……私、どうしたらよろしいの?どうしたら、海杜お兄様の心を取り戻せるの?』
『莢華さん。おかわいそうにね。美麻さんも、あんなお綺麗な顔して、恐ろしい方なのね。
大丈夫よ。莢華さん。私はあなたの味方ですからね。』
『うっ……ううっ……お義母様……ううっ……。』
『本当にかわいそうな莢華さん。もう泣くのはおよしなさい。
泣いてばかりでは、何も解決しませんわよ?』
『でも、もう私、どうしていいのかわかりませんの!!わかりませんのよ!!』
『莢華さん。あなた、大切なものを奪われて、そのまま引き下がるおつもりなの?』
『え……?』
『あなたは大切なものを奪われた。ならば、あなたもあの子の大切なものを奪って差し上げればよいではありませんか。』
『大切なもの……?』
『そう。あの子の大切なもの……そう。例えば、ピアノね。
そうよ。あの子からピアノを奪ってしまえばいいんだわ。』
『そんな……そんなこと……どうやって……。』
『うふふ……簡単なことではありませんか。
あの子がピアノを弾けないようにすればいいのよ。
そう。弾きたくても弾けない状況にするの。』
『そんなこと……。』
『何をためらっているの?莢華さん。あなたはただ、奪われたものの代償を求めているだけ。
ただ、それだけ。なんにも悪いことではないじゃないの。』
『さ……里香さん……。』
『さ。おやりなさいな。莢華さん……。ね?』
「そして、莢華さんは私の忠告通りに行動し、美麻さんの手を砕いたのですわ」
「……あなたという人は……」
「あら。あなたの口からそんな言葉が出るとは思いませんでしたわ。
そう、私はあなたのやり方を真似ただけですのよ。
人を使って目的を遂げる……これであなたとおあいこね。うふふ……ふふふ……」
里香の勝ち誇ったような笑み。
「あなたを誰にも渡すものですか。あなたを奪おうとするものは、絶対に許さないわ。
あなたは私だけのものなの。あなたは逃げられやしないわ。
永遠に私の腕の中で生き続けるしかないの。
うふふ……ふふふ……ほほほ……ほほほ……」
そう妖艶に笑った里香の顔が、あの日の母に重なる。
母さん。
あなたは何度でも僕を縛るつもりですか。
そして、何度、僕の大切なものを壊すおつもりですか。
ならば、僕も何度でもあなたを
殺してやる。
笑っていたはずの里香が頓狂な声を上げた。
それはそうだろう。
その里香の豊かな乳房の谷間には、深々と刃が突き立てられたのだから。
私はわざと急所を外していた。
一息でなど楽にしてやるものか。
あの人が、あの子が苦しんだように。
包丁を抜いた瞬間、生暖かい鮮血が私に降りかかった。
目の前が赤くなる。
その瞬間。
訳がわからなくなった。
包丁を突き立てる度、何度も鮮血と里香の断末魔の声が私に降りかかる。
ただ、それだけ覚えている。
気が付くと、全身を朱に染めた里香が虚ろな視線を私に寄越していた。
その様子は、皮肉なことに今まで目にしたどんな里香よりも美しかった。
*
私は返り血を洗い流すために、バスルームに向かった。
途中で李に会った時は、さすがに肝が冷えた。
そして、彼女が慌てて電灯のスイッチに指をかけたことも。
私は李の手を制した。
もし、あの時電灯が燈れば、李は返り血に塗れた私と対面したであろう。
シャワー後、再び里香の部屋へ戻り、当たり前のことながら、
さっきの状態のまま虚ろな視線を向ける里香を横目に見ながらピアノを弾いた。
その後私は唯慧を呼び、指示を与えると、クロロホルムを嗅ぎ、里香の隣に倒れこんだのである。
*
「僕の両手は血で穢れている。これは前に話したね。
……それは、君の両親のことだけを意味していた訳ではないんだ」
わたしはもう、海杜さんの顔を見ることができなかった。
だから、ただ彼の胸に頬を押し当てて、ぎゅっと瞳を閉じていた。
聞きたくない……もう聞きたくない……!!
でも、海杜さんの声は容赦なくわたしに降り注ぐ。
「僕も聞きたいことがある」
「聞きたいこと……?」
「美麻、君こそ、どうしてあんなことをした?」
あんなこと?
そう顔を上げたわたしに、海杜さんは言った。
「どうして、夕貴を殺したんだ?」
深淵を覗み込む者は、深淵からものぞきこまれているのだ
ーーフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ』
海杜の私設秘書から正式に雪花コーポレーション社長秘書となった不知火李は、
びっしりと予定の埋まった社長のスケジュール表とにらめっこし、ふと独り言を呟いた。
「海杜様、こんなにたくさんのスケジュールをこなされて……
御身体にご負担がかからなければいいんですけど……」
その時、ふいに人の気配を感じ、慌てて顔を上げた。
そこにあったのは、懐かしい顔だった。
「久しぶりだね。李ちゃん」
「あ……英葵様……」
そこに立っていたのは、スーツ姿の咲沼英葵だった。
柔らかい微笑みを浮かべる彼と対照的に、
彼の姿を目にした瞬間、なんだか、李は急に居心地の悪さを感じた。
本来、社長秘書であるこの席は、この青年の場所のような気がして。
英葵はふと笑みを引っ込めた。
「社長は、いらっしゃいますか」
李はマニュアル通りに答えた。
「はい。社長室で執務をなさっています」
「面会したいのですが」
「申し訳ございません。海杜様……いえ、社長は本日、スケジュールが詰まっていらっしゃいまして……」
実際、海杜のスケジュールはまさに分単位で刻まれたもので、
あと一時間もしないうちに某企業の重役との会談が控えていた。
「構わないよ。不知火君」
「えっ……?」
李が振り返ると、そこには雪花海杜が立っていた。
「やあ、英葵。久しぶりだね」
*
いつもの捜査一課。
その喧騒の中で、ふとあたしを呼ぶような声がした。
あたしが振り返ると、意外な人物が手を振っていた。
それはいかにも好々爺然した一人の初老の男性だった。
「おお。未央ちゃん。久しぶりじゃのう。元気にしとったかい」
彼は西原十三雄。
こうして見ると、物腰の柔らかいおじいちゃんという雰囲気だが、
捜査となると、まさに「鬼」になる名物警部だ。
なぜか、彼は「ニシハラ」ではなく、「サイバラ」と呼ばれている。
なんとなくその方がしっくりくるのも事実だが。
彼は警察学校の教官だった時代もあって、あたしはその頃お世話になった。
まあ、簡単に言ってしまえば、あたしに刑事のいろはを叩き込んでくれた恩人である。
現在は確か、S西署勤務だったはずだが……。
「どうされたんです?西原さん」
「いや、近くに寄ったもので、未央ちゃんの顔でも拝んでいこうかと思っての」
「また……そんなこと言って、西原さんのことだから、本当は何かあるんでしょう?」
「未央ちゃんにはかなわんのう。そうじゃ。実は、気にかかることがあってな」
「気にかかること……?」
あたしが問うと、初老の名刑事は、その柔らかな表情を少し固くした。
「ああ。お前さん、雪花家の事件を担当しとったろう?」
「えっ?……ええ」
「実はのぉ……」
「あ~っ!!先輩!!ようやく見つけましたよ~!!」
そこに立っていたのは……。
な~え~こ~!!
*
「社長……」
僕は、紅茶を運んできた不知火李が扉を閉めるのを確認してから、声を上げた。
「君にそう呼ばれるのは、随分久しぶりな気がするね」
そういうと、むかえに座る雪花海杜は微笑んだ。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ。英葵」
「……………………・」
「どうしたんだい。僕に何か言いたいことがあってわざわざ来たんじゃないのかな。
それなら遠慮なく言いたまえよ。あいにくだが、僕も時間を持て余している訳ではないのでね」
「……社長に復帰されたのですね。おめでとうございます」
「ああ、ありがとう……というべきなのかな。
僕としては少々不本意なんだが、この肩書きはどうやら僕のことを離してくれないようでね。
今は会長職も兼任だから、正直、身体がいくつあっても足りないくらいさ」
あの当時と寸分変わらぬその爽やかな笑顔。
あの当時……。
そう。彼が僕とバスケットをしてくれたあの夏のままの……。
「そうだ。戻ってこないかい?英葵。君のように有能な人間が傍にいてくれると僕としても心強いからね」
そう、僕が大好きだった……あの夏のままの……。
僕はその笑顔を真っ直ぐに見据えたまま、言った。
「社長……。人を殺すのは、怖くなかったですか?」
*
「その台詞を聞くのは二回目だね」
そう言うと、彼――雪花海杜は少し首を竦めてみせた。
「美麻……ですか」
「ああ。君の妹がそんな戯言を言っていた」
彼は少し遠い目をした。
「あの子は、あなたの犯行に気が付いていた。そして、一緒に地獄に堕ちる選択を選んでしまった……」
「愚かだね」
「愚か……?」
「ああ。愚か以外のなんだというんだい?」
僕と雪花海杜はちょうど真正面に睨み合う格好となった。
先に視線を外したのは、僕の方だった。
顔を伏せた僕に、雪花海杜の声が容赦なく響く。
「この僕を犯人呼ばわりするということは、それなりの根拠があってのことなのだろうね」
「……ええ」
「じゃあ、謹んで拝聴しようかな?君のお説を。君はこれからどんな話をして僕を追い詰めてくれるのかな?楽しみだよ」
そう言うと、彼は笑みを浮かべ椅子に背を預けた。
*
「おお、苗子ちゃんじゃないか。今日もお前さんは可愛らしいのう」
そうサイバラさんは目を細めた。
「やっだ~!!サイバラさんったら、お世辞が上手なんだから。きゃはっ☆」
苗子はそう言って首をぶんぶんと振り回した。
自慢のコアラヘアが凶器のように辺りに舞う。
あたしはそれを避けるように立ち位置を変えた。
「そんなことはない。わしは生まれてこのかた、嘘と尻餅はついたことがない。ほんとのことじゃて」
サイバラさんは、苗子がとてもお気に入りなのだ。
理由は簡単で、なんでも、苗子は今年5歳になるサイバラさんのお孫さんによく似ているらしい。
5歳の幼女と苗子を比較するサイバラさんもサイバラさんだが、比較される苗子も苗子だと思う。
あっと、また愉快な苗子の闖入のせいで話が飛んでしまった。
「で?サイバラさん。さっきの話ですけど」
「おお、そうじゃったな。ええと、なんじゃったかの」
あたしはスライディングしかけた。
「雪花家の件でしょう?しっかりして下さい」
「おお、おお、そうじゃった。雪花家と言えば、どうしても気になるんじゃ。あの少年が」
「あの少年?」
「ああ、13年前に自殺した奥方の息子で……名前はなんと言ったかね」
「海杜……」
「ん?」
「雪花……海杜ですか?」
「ああ、そんな名前だった」
「彼は……どんな様子でしたか?」
あたしはなんとなく気になって尋ねていた。
もう十数年も前の彼のことを今更気にしてどうにもならないだろうに。
あたしも重症だ。
「取り乱して泣いておったよ。男の子にとって、母親を失うということは、
それはそれは深いダメージだから無理もないんじゃが……」
「じゃが……?」
不審な空気を察知したらしい苗子が、怪訝な顔で聞き返した。
サイバラさんは続ける。
「ああ……。葬儀の後、わしは葬儀会場となった大広間へ向った。
一人で被害者の遺影と静かに向き合い、事件解決を誓うのが、わしの習慣でな」
その習慣は何度か聞いたことがあった。
確か、一種の儀式みたいなものだって言っていた。
被害者の無念を雪ぐための静かな決意表明。
あたしはそんなサイバラさんの姿勢も好きだった。
が、あたしは重要なことが気にかかった。
「事件解決……?サイバラさん。その件は自殺だったのでしょう?どうして……?」
「ああ……。それはそうなんじゃが……」
歯切れが悪くなったサイバラさんに助け舟を出すように、
「で、それからどうしたんです?」
と苗子が首を傾げた。
サイバラさんは、なぜかここで生唾を飲み込んだ。
そして、ゆっくりと続ける。
「広間に入ろうと思って、わしは『おやっ?』と思った。どうやら先客がいるようじゃった。
わしは気になって、そっと襖を開けて中を見た。すると、案の定、その家の坊主が遺影の前に座っておった」
――雪花海杜。
あたしはなんとなく胸騒ぎがして自分の肩を抱き締めていた。
どうして……?
息子が母親の遺影の前にいる。
ただ、それだけ……。
なんの不思議なことでもないじゃない……?
どうしてあたしはこんなに不安になるの……?
「あの坊主はな、誰もいないと思ったんじゃろ……」
サイバラさんは、どこか遠くを見るような目になって言った。
「笑ったんじゃ……」
「笑った……?」
「それがな。どんな風に形容していいのか……わしにもわからなんだが……それはそれは恐ろしい形相じゃった。
わしは長年刑事をしとったが……あんなに邪悪な笑いを見たことはない……」
あたしはとうとう自分の肩を抱いたまま、その場に崩れていた。
「先輩……!!」
慌てて苗子が支えてくれていなかったら、あたしは床に叩きつけられていたに違いない。
「じゃが、お前さんが指摘した通り、あの件は自殺としてあっさり片付けられてしまった。
上からの圧力があったらしかった。だが、わしはあの件は事件じゃと今でも信じとる。
誰がなんと言おうと、わしの中の刑事の勘がそう告げておる。
それに何より、わしはずっと気にかかっておったんじゃ。あの少年のあの笑みが。
だから、今回の件を聞いて、いても立ってもいられんでの。
だが、管轄が違うだの、お前さんのような老いぼれの出る幕ではないだのいろいろ妨害されての。
別の瑣末な件をいろいろと押し付けられてなかなか動けんかった。
その間に事件は全て終わってしもうたようじゃが……」
「やはり……そうでしたか」
二人目の闖入者が現れた。
それは、白衣の青年――熊倉比呂士だった。
「熊倉君。いきなり現れて何よ」
あたしは内心の動揺を悟られないように強気に振舞った。
彼は小脇に何かを抱えていた。
それはまさに13年前の雪花海杜の母親の自殺に関する捜査ファイルだった。
「おお。熊倉君。君は……」
「ええ。僕も少々気になることがあったので、ちょっと調べていました。
当時の捜査官であったサイバラさんにもお話を伺いたかったのですが、手間が省けましたね」
「で。君には何かわかったのかね」
熊倉君は、首を振った。
「残念ながら、当時の遺体写真だけでは判断し兼ねます。
自殺として片付けられたため、丹念な司法解剖も行われていなかったようですしね」
あたしはなぜか、ひどくほっとしていた。
きっと怖かったのだ。
熊倉の口から決定的な一打が飛び出すことが。
あたしは駄目押しするように問うた。
「自殺としておかしな点は発見できなかったのね?たとえば、索条痕とかから……」
「ああ。形状としては問題ないよ。ただ、こうした索条痕は遺体をおぶった場合でもできるからね。
絶対的に他殺でなかったとも言えない」
「そう……」
「残念じゃの。君に調べ直してもらったら、何か新発見でもあるかと思ったんじゃが……」
「いいえ。諦めるのはまだ早いですよ。サイバラさん」
熊倉の一言に、あたしたちは弾かれたように顔を上げた。
「別の方面から彼を追い詰めることは可能かもしれません。あくまで可能性ですが……」
『彼』を追い詰める……?
一体、何を言っているの?
自問するあたしに熊倉君は優しい口調で語りかけた。
「君には話していなかったが、僕には別の仮説があると言ったね」
「ええ……」
確かに熊倉はいつも何かを言いかけてやめる。
そんな不審な点があった。
そんな時は、いつも「僕の仮説が」とだけ。
「それがどうしたって言うの?あたしがまどろっこしいことが嫌いなのは知っているでしょう?
さっさと言いなさい!!」
あたしは思わず叫んでいた。
身体が芯まで冷えていくような感覚。
セーブが効かない。
いつもシニカルな笑みを浮かべる熊倉君がひどく悲しそうな目をした。
嫌ね。二人とも調子が可笑しいわ。
こんな時、場を和ますはずの苗子も、今にも泣き出しそうな顔をただ伏せている。
一体どうしたって言うのよ。
二人とも。
可笑しいわ。
おかしいじゃない。
馬鹿ね。どうしてあんたたちがそんなに深刻になるのよ。
なんだか笑い出したいような、泣き出したいような妙な気分だった。
どうしてなのよ。
どうして……。
それは、あたし自身が一番良くわかっている。
サイバラさんの話を聞いた瞬間に。
でも……。
熊倉君が静かに声を上げた。
「ずっと胸に仕舞ってきた僕の仮説、それは、雪花海杜犯人説だよ」
*
雪花家事件の解決から二週間。
アタシはすっかりいつも通りの女性誌の仕事に戻っていた。
勿論、事件記者になる夢は、捨ててなんかないけどね。
むしろ、その夢はあの事件を契機に、どんどん強くなっていた。
そんな時、アタシは意外な訪問者を受けた。
「こんにちは。伊山さん」
そこに立っていたのは、槌谷玉君だった。
「あれぇ!?槌谷君、いらっしゃい!!」
編集長も声を上げた。
「どうしたんだい?槌谷君。これからJリーグの開幕戦だろう?
エースストライカーであるあんたがこんなとこで油売ってていいのかい」
「あはは。実は逃げ出して来たんですよ。しばらく合宿所から離れられそうにないですからね。
移動生活になってしまいますし。今のうちに命の洗濯です」
そういうと、彼はぺろっと舌を出した。
「そっか、試合あっちこっちであるもんね。大変だね」
「ええ、まあ。でも、好都合ですよ。
忙しくなるから、妙なことも考えなくて済みそうですから……」
「槌谷君……」
自分の発言でしんみりしたことを自覚したのか、槌谷君は話題を変えるように言った。
「そう言えば、すごいですね。あの英葵さんの社長就任パーティ以来、
美麻ちゃんと雪花社長のこと……純愛だってどの雑誌の記事もベタ褒めですよ」
そう言うと、彼は数冊の雑誌をデスクに広げた。
彼は、「気になって、キオスクで買ってきたんです」と頭を掻いた。
「えっ?どれどれ。見せて?……うわ~っ。ほんとだ~」
確かにどの雑誌もその件一色って感じだ。
「テレビをつけてもこの話題一色か……。インパクト大。センセーショナルだったもんな。
パーティ会場で、恋人の遺体を抱えて号泣。これが記事にならないはずないだろう?
伊山。お前も自分が死んだら恋人にそうやって泣いて欲しいか?」
「もうっ!!編集長!?」
「わりぃわりぃ……にしても……たいしたもんだな。
あれだけの不倫スキャンダルを瞬く間に美談にすり替えちまった……あの青年」
どこか突き放したような編集長の言葉に、槌谷君が怪訝そうに眉をひそめた。
「矢保編集長……?どういう意味ですか?」
編集長はそれを無視するようにタバコをくわえると、火を着けた。
「ちょっと、答えて下さいよ!!編集長!!」
編集長は大きくモクを吐き出し、
「伊山、槌谷君。あたしたちはまんまと乗せられちまったのかもしれないぜ?あの坊ちゃんに」
と雑誌で微笑む雪花さんの顔をこつんと小突いた。
*
「あのF埠頭の男の遺体には、ふたつの傷があった。この話はしたね」
「え?……ええ」
あたしは突然、熊倉にそんな話を振られ、必死に記憶の底に眠るその話を掘り起こした。
「その遺体は、一回目の殴打で気絶させられ、二回目でトドメを刺さされた。
ここまでは特に不審な点は見られない。ただし、一点だけ気になることがあった。それは、なんだった?」
苗子がはいっと手を挙げた。
「はい、じゃあ、元気がいい苗子君。答えて」と熊倉が彼女を指して眼鏡を上げた。
これではまるで、大学の講義だ。
苗子は瞳をくりくりとさせながら答えた。
苗子は苗子なりに必死に場の空気を変えようとしているようだった。
それは熊倉も同じようだった。
「確か、凶器が違ったんじゃなかったでしたっけ?」
「そう。その通り。苗子君は記憶力がいいね。
最初の方の傷は石のような丸っこくてごつごつしたもので付けられた傷。
そして、致命傷となった傷はもう少し重い平べったい鈍器。
簡単に言えば、ブロックか何かで付けられたものだった。僕はそんな見解を示した」
苗子が何度もうんうんと頷いた。
まるでブレイクダンスのようなその滑稽な動きに突っ込む余裕さえ、
あたしには残されていなかった。
「この不可解な件に関する僕の解釈は、加害者が一撃で被害者を殺し損ねて、
追っかけられるとかして第一の凶器を落としてしまい、
新たに別の凶器で殺したってな具合にお茶を濁した気がするんだが。どうかな」
あたしはせがむ様に先を促した。
「それも聞いたわ。それが……それがどうしたって言うの?」
「あの見解は、考えてみればひどく回りくどい仮説だ。
もっと素直に考えれば、こういうことになる。
そう、あの男を葬った犯人は二人いたのだと」
*
僕は自分の胸ポケットから一本のボールペンを取り出した。
そこには金文字で『雪花コーポレーション創業30周年記念』と彫られている。
僕はゆっくりとそれを目の前の青年――雪花海杜の前にかざした。
「そもそも埠頭での菊珂さんの事件の時に関しても、
僕は羽鳥警部にあのボールペンを見せられた時に、
本当は気が付くべきだったんです。
なぜ、あの死体があなたのボールペンを握っていたのか。
いや、こう言い換えた方がいいでしょう。
あの死体があなたのボールペンを握ることができたのか」
僕は一呼吸置いて、雪花海杜を見上げた。
「その答えはひとつです」
彼は少し、笑った。
「あの死体はまだ生きていたんですよ。
僕とあなたがあの現場に駆けつけた時には、まだね。
そして、僕とあなたが現場に着いてから殺されたんだ。
そう。あなたの手で」
*
英葵が重しを探しに出かけ、遺体と二人きりにされたあの時。
私の足元で呻き声が聞こえた。
見下ろすと、遺体だと思っていた男が動いていた。
その男は呻き声を上げると、哀願するように私を見上げた。
「た……助けてくれよぉ……」
男はそう言うと、私の足を掴んだ。
「なんだ……。まだ生きていたのか」
「えっ?」
次の瞬間、私は男の脳天にブロックを落としていた。
男はなんとも形容し難い声を上げると、その場に崩れ、今度は二度と動かなかった。
遠くで汽笛の音が鳴った。
*
彼は、相変わらず笑顔だった。
自らが殺人犯だと名指しされているにも関わらず。
むしろ、なんだかひどく嬉しそうだった。
僕はその笑みに挑むように続ける。
「あなたの犯行には複数のパートナーが存在しましたね」
「ああ、よく調べているね。本当に感心するよ」
「一人目は……」
*
吉成水智との共犯関係が成立したのは、実に奇妙なはじまりだった。
その日、私は水智から食事に誘われた。
普段ならばそういった誘いは全て断わるのだが、
この日の彼女の真剣な眼差しに気圧されるように私は彼女と食事を共にした。
その帰り、彼女をマンションまで送り届けた時のことだった。
「あなたのことが……ずっと好きだったの」
水智はそう言うと、真っ直ぐに私を見返した。
切迫感が感じられ、目が離せなかった。
私は少し思案した後、こう返事を返した。
「あなたには……私より、相応しい方がいるはずです」
それは紛れもなく、偽らざる私の本心だった。
目の前の水智は、明らかにショックを受けた様子だった。
だが、私には彼女の気持ちを受け止めることはできない相談だった。
これが正しい道なのだ。
いずれ、彼女もそのことをわかってくれるだろう。
私は一抹の申し訳なさを感じつつも、その場を離れることにした。
路上に横付けした愛車へと向う。
が、そんな私の背中に彼女は叩きつけるように言った。
「これが公になっても構わないのかしら?社長さん?」
私は怪訝な面を浮かべながら、ゆっくりと振り返る。
彼女は何かの書類を掲げていた。
それは紛れもなく、会長・雪花幸造と某企業の黒いつながりを示す資料だった。
「これは……」
「私を甘く見ないことね」
そう言うと、彼女は物凄い笑みを私に向けた。
彼女には申し訳ないが、この程度のこと、揉み消そうと思えば容易いことだろう。
だが。
私はそのジョーカーが欲しくなった。
これから、何かの役に立つかもしれない。
だから、私は言った。
「何が……お望みなんです?」
「言ったでしょう。私はあなたを愛しているのよ。
……これ以上は、言わなくてもわかるんじゃなくて?」
そう水智は妖艶に微笑んだ。
そして、つかつかと私に近づくと、私のタイを弄んだ。
そして、その晩、私は水智を抱いた。
意外なことに、彼女はそれが初めての経験のようだった。
私はせっかくなので、水智をこの計画の協力者として抱き込むことにした。
彼女はこの上なく、有能な女だ。手駒としてキープしておいて損はないだろう。
私の見込み通り、彼女はこの上なく有能で、この上なく忠実な共犯者となった。
彼女が望む報酬は、私の身体だけ。
実に安上がりな女だった。
「えっ……?更科副社長に例の件を……?例の件って……あの資料のこと?」
水智は彼女には珍しく、頓狂は声を上げてベッドから身体を起こした。
身体を起こした拍子に、彼女の豊かな肢体がランプの明かりに浮かび上がる。
「そう。……教えてあげたらどうです?」
例の件とは、某企業と会長の黒いつながりについて。
つまり、あの日、水智が私を脅迫したネタそのもののことである。
「でも、そんなことしたら、あなたが……」
「いいんですよ。会長の件など、私は痛くも痒くもありません。
それより、彼がどう出るか……試してみるのも、面白いんじゃないですか?」
「海杜……あなた、じゃあ、どうして私の脅しに屈したの?」
「そういうもの……悪くないかと思いましてね。運命に流されてみるもの……」
「あなた……怖い人ね」
「嫌いになりましたか?」
「逆よ……。うふふ……。あなたと共犯者になれるなんて……この上ない喜びよ。海杜……」
翌日、早速水智から電話があった。
「例の件、教えてあげたら大喜びだったわ。恭平。
本当に呆れるくらいに馬鹿な男。
いえ、ある意味、馬鹿正直で純粋なのね。うふふ……」
「それはそれは……。それで、君はそんな純粋な一青年を誑かして、罪悪感でも感じているのかな」
「いいえ。ちっとも。だって、お互い様ですもの。ふふ……」
*
私は思った。
里香殺害の件で、私は最も疑われるべき立場となるだろう。
計画した自分でもまるで綱渡りのような無茶な強行だと言わざるおえない。
しかし、アリバイを無事に確保する自信はあった。
そのために里香との逢瀬の合図は彼女の弾くピアノと決めたし、
李にその音色、テンポを暗記させるようにさりげなく李が確実に家にいる時を見計らって里香との睦言を行った。
だが、油断は禁物だった。
何せ、私は犯行後、そのまま死体となった里香の隣にいるのだから。
だが、私はあの女こそは、きっちりと自らの手で殺害しなければ、どうしても気が済みそうになかった。
水智は危険すぎると反対したが、どうしてもそこだけは譲れなかった。
恐らく、私自身の拘留は避けられないだろう。
だが、私はこれを逆手に利用することを思いついた。
警察の留置場。
これほど完璧なアリバイがあるだろうか。
私の命で始まった恭平との関係を、水智は予てから清算したがっていた。
論理的な意味だけでなく、物理的な意味で。
つまり、水智は恭平を亡き者にしたがっていたのだ。
全てが終わったから用済みというだけでは飽き足らないらしいのだ。
恭平という存在を抹殺してしまいたい。
そう水智はよくもらしていた。
訳を尋ねると、私以外の男に(水智はそう言えば、私との関係が初めてのことだったらしい)演技とは言え、
身体を許したことが許せないという。
何とも光栄なことだが、こうした女心というのは、私には未知の領分で、
今回ばかりは恭平への同情を禁じえない。
「私に任せて。あの男、恭平の息の根を止めてみせるわ」
ベッドの中で、彼女はそう力強く頷いた。
そうして、私が里香を殺害し、留置場にぶち込まれて三日目の夜。
里香の通夜で、水智が恭平を殺害する段取りとなっていた。
だが、予想外のアクシデントが勃発した。
監察医の計らいで、私は予想よりかなり早い段階で釈放が決定されてしまったのだ。
警察の留置場という最高のアリバイを私は逃すこととなった。
水智に殺害の決行をやめさせるべきか……。
だが……。
そう思案を巡らせていると、取調室のドアが勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、羽鳥未央だった。
私の顔を見た瞬間、彼女にぱっと安堵の表情が浮かんだのが印象的だった。
「大丈夫?病室からいきなり連行されたそうね。
ごめんなさいね。うちの連中……容赦がないから……。
だいぶ……疲れているんじゃないの?」
「いいえ……と言えば……嘘になりますね」
未央は何か言いたげだったが、結局何も言わず、踵を返した。
ふと未央の背中を見て思った。
女刑事と一緒にいる。
これほど完璧なアリバイもないだろう。
「お詫びに送るわ。乗って」
未央はそう言って、彼女の愛車らしい白い国産車に私を誘った。
「家には……戻りたくない……」
「えっ……?」
私は未央の瞳を見返した。
「行きたいところがあるんです。連れて行ってもらえませんか」
*
「あなたは恐ろしい人ですね。
その突発的な犯行さえもご自分のアリバイ工作の一端になさったのだから」
淡々と響く英葵の声に揺られつつ、私は記憶の船を漕いだ。
そうだ。その通りだ。
だから、私はあの夜、未央を抱いた。
そして、未央は私のアリバイを証言した。
己の刑事生命を賭して。
私には、未央がどんな状況に置かれようと、私のアリバイを証言するであろう自信があった。
彼女はそういう女だ。
*
予定外のことは、更に続いた。
私がアリバイを確保している間に恭平を殺害するはずだった水智がしくじったのだ。
あれも私のためならなんでもすると宣言していながら、土壇場で怖気づいたのだろう。
電話ごしに水智は私に詫びた。
「ごめんなさい……。タイミングが悪かったのよ」
「タイミング……?」
「そう。まさか、あんなことが起きるなんて……警察が来たからにはどうしようもないでしょう?」
「確かに……夕貴の件は予想外だったね。だが……」
「わかっているわ。昨夜やるべきだったってことは……でも、いいじゃない。
計画に悪影響を及ぼすことではないもの。むしろ、計画通りじゃない。
どこの誰だかわからないけど、感謝なくちゃいけないくらいだわ。ね?そうでしょう?」
「物は考えようか……。君には失望させられたよ」
「やだ……そんなこと、言わないで」
「冗談だよ。君には期待している。僕の方もアリバイは無事に確保できたからね。
幸いなアクシデントととらえるべきだろうとは思うさ」
「ええ。大丈夫。今度こそ……今度こそ、任せて。あの男の息の根を必ず止めてみせるわ」
そうだ、これは幸福なアクシデントと言ってもいいだろう。
夕貴がその幼い命を何者かによって奪われたという事実に変わりはない以上、
このアリバイは無駄ではないのだから。
それより私の関心は、別のところに移っていた。
そう。誰が夕貴を殺害したのか。
もう一人の殺人者の存在に。
*
父の死から数日後、私は水智に請われ、彼女のマンションを訪れた。
私の書いた筋書き通りに事が運んだことの祝い。
それはほんの名目で、本当の目的は、報酬を求めていたようだが。
彼女はひとしきり笑い転げた後、涙を拭きながら言った。
「全ての書類が会長名義から自分の名義に摩り替わっていたことを知った、
あの時の恭平の顔、あなたに見せてあげたかったわ」
「それにしても、社長解任の辞令を持ってきた時の君は正直、怖かったよ。
とても演技には思えなかった」
「あら。半分は本気だったのよ?私、あなたが愛しいと同時に憎いわ。
こんなにも私を魅了するあなたが……うふふ……」
そう言うと、水智は私の首筋に腕を絡ませた。
そう。恭平は水智を会長側のスパイだと考えたようだが、それはとんだお門違いだ。
実際、水智は私側の二重スパイだったのだから。
会長も恭平も何も知らずにこの有能な女専務に対して重要な情報をさらけ出し続けた。
そうして水智は会長サイドの情報と恭平サイドの情報を私にもたらしたという訳である。
「海杜。今日は泊まっていくんでしょう?」
昼間から繰り広げられた行為の後、自慢の手料理を振舞うと
(彼女は根っからの仕事人間に思われがちだが、家事もさらりとこなす家庭的な面もあった)、
珍しく甘えたような口調で言った。
「水智。会長が死んでからまだ初七日も済んでいないんだ。
自由に動くには、もう少し時間が必要だ。違うかい?」
「それはわかるわ。でも……寂しいのよ。
せっかく全てがうまく運んだっていうのに、あなたとの逢瀬もままならないなんて。
なんだかお預けを食らっている犬みたいで嫌だわ」
「ははは……。それはお互い様だろう?
お楽しみは後までとっておくというのもいいんじゃないかな?」
「うふふ……。そうね。それも悪くないわ。
私とあなたのものになったあの会社で……ね?うふふ……。ねぇ」
「ん?」
「あなた……本当にあの子のこと……」
「またその話かい?愚かだな。君も。僕があんな小娘に本気で溺れていたとでも思っているのかい?」
「うふふ……。まさか……。ただ……」
「もうその話は止めだ。それより、これだ」
私は水智に一筆の「詫び状」を書かせた。
「ねえ、これ、どういうこと?」
水智は不審気に私を見上げた。
「次の手さ。君には少し、つらい思いをかけるが……」
「わたしが……囮になるってことなのかしら?」
不安げな水智の肩を抱いた。
「ああ。経営陣の刷新を図ることによって、
これから会長が残した様々な膿が明るみにされるだろう。
今回の件で、君には会長の右腕として責任を取って専務職を辞任してもらう。
大丈夫。万が一、刑事事件に発展するようなことになっても、必ず助け出す。
……それとも、僕が信じられない?」
「まさか……。そういう意味じゃないのよ。海杜。ごめんなさい」
私は彼女の肩に手を置くと、囁いた。
「この仕事が終って……ほとぼりが冷めたら……一緒にならないか?」
「えっ……?」
「嫌かい?水智」
「そんな……ただ。驚いたのよ。信じられないのよ。
う……嬉しくて……。本当?本当なのね?海杜……」
「ああ。水智。愛してる」
「海杜……海杜……。うっ……ううっ……」
「泣いているのか?水智。君らしくないな。
さあ、乾杯しよう。君の好きなシャンパンを用意してきたんだ」
私はそう言うと、水智の涙を拭った。
「これからのことは、ほんの気楽な花嫁修業とでも思えばいい。
君は企業戦士としてよく社に尽くしてくれた。
君は少々オーバーワーク気味だったからね。
神様がくれた休養だと思えばいい」
「今夜は最良の日ね。私の人生で一番の幸せな日だわ。
ありがとう。海杜、私。この瞬間を、一生忘れないわ」
水智はすっかり舞い上がり、
私が彼女のグラスに睡眠薬を混入してもわからない有様だった。
やがて水智は子供のように無邪気な寝息を立て始めた。
「おやすみ。専務。疲れただろう?ゆっくりおやすみ」
そして、私は水智を彼女のマンションの屋上から落とした。
「詫び状」は屋上に靴と並べて添えた。
*
「君はさっき、『複数』のと言ったね。
じゃあ、まだ僕には犯行を手助けしてくれるフェアリーが存在したということだね」
彼――雪花海杜は、そう他人事のように言った。
僕はただ頷いた。
「それは、一体誰なのかな?」
僕は新たなる真相への口火を切った。
「それは勿論、あの伊山さんたちが真相を告げた日、
あなたの全ての罪を背負って死んでいった河原崎唯慧さんですよ」
*
矢保編集長はタバコを揉み消すと、椅子に反り返った。
「考えてみれば……おかしな点もあったんだよ。
例えば、あの毒ワイン事件の時、倒れた雪花莢華を真っ先に介抱したのは誰だった?」
「美麻ちゃんですが……あっ!?」
「そう。本来だったら、莢華を命とも思っているはずの河原崎唯慧が真っ先に莢華の処置をするのが本当だろう?
ところが、唯慧は莢華に見向きもせずに淡々と周りに指示を与えている。
軽症とは言え、大事な人間が毒物を飲まされたとして、取り乱さないなんてこと、ありえないはずなんだ……」
「ああ……」
「そして、あの最期の時だって、莢華が汚名を着ないように全て自分が背負って死んでいくこともできたはずなのに、
彼女は『莢華に命令されてやった』と公言し、莢華を殺人教唆の罪に落としている」
アタシと槌谷君は、顔を見合わせた。
「これは……どういうこと……なんですか……?」
「ひとつだけ確実に言えるとすれば……河原崎唯慧は、雪花莢華を本当は嫌っていたってことだな」
*
河原崎唯慧は、綾小路莢華を憎んでいた。
もうずっと前。
二人が少女だった頃から。
ただ、彼女はその思いを見ないようにして生きてきた。
唯慧は綾小路家の忠犬とまで呼ばれた使用人夫妻の娘であり、
彼女自身も綾小路家の令嬢・莢華の忠実な召使に甘んじるしか生きる術がなかったから……。
唯慧は無理やりに自分の主人である莢華を『好き』だと思い込もうとした。
そうして自らに彼女への忠誠心を無理やり刷り込んだ。
莢華の良い部分しか見ないようになっていた。
莢華の悪い部分には目をつぶっていた。
唯慧は、いつしか、莢華を自分の女神や女王のように神格化している自分に気がついた。
自分は莢華を愛している。
そう。他の誰よりも。
そう思い込むことでしか、今の自分の生きる道はないのだと。
*
実際、幼少の頃から自分と同じくらいの相手と言えば、莢華という存在しかいなかった。
莢華は聡明だったし、美しい少女である。
唯慧の想いもあながち嘘ではなかった。
だが、莢華と共に某名門女子中学に入学した頃から、そんな唯慧の世界に変化が生じ始めた。
万事が控えめで、常に莢華の影に隠れた存在としての彼女にも、
たくさんの同じ年頃の少女たちと触れ合うことで、友人と呼べる存在ができつつあったのだ。
ある日、学校近くにオープンしたクレープ屋が話題に上った。
名門女子校とは言え、こうした話題になれば普通の少女たちと代わり映えはしない。
唯慧はいつものように、特に口を挟む訳でもなく、彼女たちの話を聞いていた。
唯慧はそれだけで満足だった。
彼女たちとこうして同じ時間を共有しているというだけで。
「河原崎さんも一緒にどう?」
「えっ……?」
ふいにかけられた誘いの言葉に、唯慧は思わず相手を見返していた。
戸惑う唯慧に同級生は、
「そうよ。河原崎さん、一緒に行きましょうよ」
と無邪気な笑顔を向けた。
唯慧は、はにかみながら小さく頷いた。
その時。
「帰るわよ。唯慧」
そう声を上げたのは、莢華だった。
「えっ……?」
「忘れたの?今日は家庭教師の新田先生がいらっしゃる日よ」
莢華はそう言うと、唯慧の鞄を彼女の胸に押し付けた。
「あっ……」
「早くして。あなたがいなかったら、いったい誰が先生にお茶をお出しするの?」
「………………」
唯慧は結局、泣く泣く誘いを断わり莢華に従い帰宅した。
それから唯慧は、同級生たちと触れ合うことを避けるようになった。
こんなに哀しい想いをするのは、もう嫌だったから……。
そして、同時にやはり、自分は莢華の添え物でしかないのだ。
そう思い知らされた気がして。
こんな時、唯慧はいつも考えてしまう。
もし、莢華がいなければどうだったのだろう。
そうだ。莢華がいなければ。
莢華が……いなければ……。
莢華という存在が自分の全てを左右する。
莢華中心に自分の世界が回る。
では、自分という人間の存在意味とは一体なんなのだろう。
そう自らのアイデンティティに疑問を感じ始めた時、唯慧は一人の青年と出会った。
「今日から私のピアノ教師としていらして下さる雪花海杜お兄様よ」
正確に言えば、その青年を見かけたのは初めてではなかった。
彼は莢華の従兄弟として何度かこの家にも出入りしていたし、
莢華が出席するパーティなどにも顔を出していた。
ただ、名前を知ったのはこの時が初めてだった。
名前を知ることで、急速にこの青年が近くに感じられた。
恐らくそれは、紹介の際に彼が見せた微笑にも効果があったのだろうが。
だが、唯慧の一番の関心事は、
莢華がこの青年に恋愛感情を持っているということだった。
莢華が見せる浅ましいまでの「女」としての態度は、
唯慧を戸惑わせ、同時に彼女の心に余裕をもたらした。
所詮、莢華もまた、その辺りに転がっている一人の少女にすぎないのだと。
では、自分はどうしてこの少女に尽くさなければならないのだろう。
一体、自分と彼女に何の違いがあるというのか。
唯慧の疑問は日々、静かに膨らんでいった。
「河原崎君と言ったね」
「えっ……?」
唯慧は思わずはっとして顔を上げていた。
それは、ちょうど莢華が席を外している間に彼女の部屋にティーセットを運んだ時だった。
教え子が中座し、手持ち無沙汰だったらしい海杜が話しかけてきたのだ。
「は、はい」
「莢華の友達でいてくれてありがとう。あの子も育ちのせいかな?
どうもわがままな面があって……。疲れないかい?」
「い、いえ……」
「唯慧。一体、何を話しているの?」
鋭い莢華の声が響く。
萎縮し、唯慧は慌てて答えた。
「いえ……何も」
「本当に?」
海杜のことになると、莢華は異常なほどに神経質だった。
そんな空気を察したのか、海杜は快活に言った。
「ああ、莢華。河原崎君はお茶を運んでくれたんだよ。
たった今だから、まだ何も話せていない。残念だね。
そうだ。せっかくだから、河原崎君も一緒にティータイムにしよう」
「えっ……?」
莢華は海杜と二人きりでないことが不服なようだったが、
誘ったのが海杜だということで、ぐっと堪えているようだった。
「そう。じゃあ、唯慧。さっさと準備して頂戴」
「いや、今日は僕が紅茶を淹れよう。淑女諸君たちは座っていてくれ」
莢華が目を剥いたのが、唯慧には堪らなく愉快だった。
「ありがとうございます」
唯慧は海杜の好意に甘え、遠慮がちに腰をおろした。
青年に莢華と同等に扱われていることが何より嬉しかった。
「はい。どうぞ」
そう海杜が差し出したティーカップに触れる瞬間、
唯慧の中に感じたことのない暖かい感情が流れ込んできた。
その時。
「……!?」
海杜からカップを受け取った莢華がよろけ、カップを取りこぼしたのだ。
カップの中身は全て綺麗に唯慧にかかっていた。
唯慧の服は、見る間に紅茶で茶に染まった。
明らかにワザとだった。
「あら、手元が狂ったわ。ごめんなさいね。唯慧。
早く布巾でももってきて拭かないと、取れなくなってしまいますわよ」
「は……はい……」
そう唯慧が腰を上げた瞬間、鋭い声が響いた。
「そんなこと、しなくていい。河原崎君」
「えっ?」
「莢華。自分で布巾を取ってきて、拭いてあげなさい」
「でも……」
唯慧の方が戸惑う方だった。
「河原崎君。どうして君が恐縮するんだい?君には何の落ち度もないじゃないか」
「……あっ」
「さ、莢華。早くしなさい。河原崎君の服が染みになってしまうだろう?」
莢華は悔しそうに駆け出した。
「か、海杜様……」
「気にしないで。さ、紅茶を淹れ直してあげよう」
「……はい」
海杜は唯慧に優しくソーサーとカップを持たせた。
「はい、改めてどうぞ。……河原崎君。よくお聞き。君は莢華の奴隷なんかじゃない。
一人の一個人なのだからね。そのことを忘れてはいけないよ。
莢華に非がある時には、きちんと意見してやって欲しい。それが莢華のためでもあるのだからね」
「………………」
そうどこか寂しげに笑うこの青年に、唯慧は自分と同じ匂いを感じた。
そして、唯慧は惹きつけられた。
青年が持つ、深い漆黒の瞳の中に宿る底知れぬ闇に。
*
海杜と莢華の結婚初夜。
部屋に一人残された唯慧ははっきりと思い当たった。
莢華を愛している?
馬鹿な。
そうではない。
わたしはただ、そう……。
ただ、そう思い込もうとしていただけなのだ。
時折、夫婦の寝室から漏れ聞こえてくる新妻・莢華の喘ぎ声を聞きながら、
唯慧の中でそんな思いが燻っていた。
毛布をきつく握り締める。
唯慧は苛立っていた。
今夜がまるで少女から大人へと変わっていく時期に誰もが経験する反抗期のように。
唯慧は莢華という殻を破りたかったのかもしれない。
そして、唯慧はあの青年が莢華のモノとなったことが堪らなく悔しかった。哀しかった。
彼が莢華の所有する服やバックなどと同等になってしまったように思われて。
そう思うと、泣けて泣けて仕方がなかった。
唯慧はどうしてこんなに自分が悲しいのか、わからなかった。
いつしか唯慧は、泣き疲れて眠っていた。
その夜見たのは、莢華の代わりに海杜に抱かれる夢だった。
*
その日も、唯慧は莢華に呼ばれ、彼女の寝室にいた。
海杜が海外の取引相手と商談のため、最近は彼女の独り寝の回数が増えたらしい。
唯慧はそのことに、言い知れぬ喜びを感じていた。
ようやく寝入った莢華を起こさないように、唯慧はそっと部屋を後にした。
その時、遠くの方でドアの音がした。
海杜の自室の方だった。
新妻を放っておいて、深夜までご苦労なことだ。
彼女は自室へと戻るため、音のした方へ向かった。
唯慧の与えられた自室は、海杜の部屋の斜め向かえに位置していたから。
何気なく前方を見た唯慧は、反射的に身を柱の影に隠していた。
誰かいる……?
唯慧は柱からそっと、廊下の様子を伺った。
人影は二つだった。
一つはこの部屋の主の海杜だったが、もう一つは?
そっと辺りを気にするように現れたシルエットは、紛れもなく咲沼美麻ではないか。
どうして彼女がこんな時間に、海杜の自室にいなければならないのか。
導き出される答えは唯一つしかない。
唯慧は美麻が走り去り、それを静かに見守っていた海杜がドアを閉めるまで、
ただじっと柱の影で佇んでいた。
唯慧は行動を起こした。
海杜がドアを閉める寸前、そのドアの隙間に足を入れた。
海杜がはっとして振り返った。
「君は……見ていたのか」
彼にしては珍しく、ひどく狼狽しているようだった。
深夜の廊下は、小声でも音が響く。
「一先ず、部屋に入りなさい」
海杜はそう言って唯慧を部屋に招き入れた。
*
初めて入る海杜の部屋は、どこか芳しい香りに満ちていた。
唯慧には、それがあの少女――咲沼美麻の残した残り香のように思われた。
「君は莢華に今夜のことを報告するのだろうね」
海杜はひどく疲れたような顔をしながら言った。
彼は心底、事の発覚を恐れているようだった。
だが、それは自分のためというより、
咲沼美麻の未来を慮ってのことのように思われた。
この青年が莢華以外の女を抱いた。
このことが唯慧にもたらしたのは、莢華に対する哀れみと優越感。
そして、なぜか悲しみと嫉妬だった。
「お願いだ。美麻のことだけは、
君の胸に仕舞っておいてもらえないだろうか」
「残念ながら……と言いたいところですが。
私も鬼ではございません。あなたにチャンスを差し上げましょう」
「チャンス……?」
彼の弱みを握ったという優越感が、唯慧を大胆にした。
この男を手に入れたら、自分は莢華と同等。
いや、それ以上になれるかもしれない。
莢華の夫という地位のこの男を。
これは、チャンスなのだ。
唯慧はいきなり海杜の肩に腕を回し、素早く唇を奪った。
「んっ……」
唯慧のディープキスを海杜は必死に離した。
拒まれた唯慧はくすくすと笑いながら、
「駄目ですわ。これがチャンスの条件なのですから」
と笑った。
「……どういうことだい?」
「ふふ……。条件とは他でもない……あなたのからだですわ」
「!!」
唯慧は上目遣いで続ける。
「あなたが私のものになるって誓ってくれるのでしたら、
このことは公には致しませんわ」
「………………」
「そう。私を抱いて下さいませ。海杜様」
そして、唯慧は再び海杜の唇に自分の唇を重ねた。
今度は海杜は拒まなかった。
それが、彼のYESという意志表示だった。
唯慧は満足そうに海杜の身体を撫で回した。
これが、莢華の夫の身体。
莢華の所有物だったはずの身体。
それが今、自分の手中にある。
唯慧はどこかサディスティックな気持ちに支配された。
海杜のワイシャツのボタンに唯慧の指が掛かる。
同時に唯慧の舌が口の中に滑り込んできた時、海杜はぐったりと椅子に凭れ、きつく目を閉じた。
そして、海杜の上半身が露わになると、唯慧は夢中で愛撫した。
唯慧は自らも衣服を脱ぎ去り、
既に半裸の状態の海杜の身体をベッドに押し倒すと、はっとして動きを停止した。
あの日のままの、どこか哀しげな青年の目があったから。
唯慧は途端に涙をこぼしていた。
海杜への脅迫。
それはある意味、彼女にとって名目にすぎなかったから。
唯慧はただ、この青年に純粋な好意を抱いていただけだった。
『君は莢華の奴隷なんかじゃない。』
そう自分を一人の少女として扱ってくれた初めての存在であった彼に。
*
こうしてはじまった海杜との関係。
その晩も唯慧は、言い知れぬ優越感に酔いしれていた。
今、莢華は隣の部屋で一人寂しい新妻の役を与えられ、打ちひしがれているに違いないのだ。
声を上げたい衝動と戦うのに必死だった。
莢華のためではない。自分のため。
誰にも邪魔などされたくないから。
だから、唯慧は海杜の復讐にも何の躊躇いもなく、手を貸した。
彼との秘密の共有。
それは唯慧にとって、この上ない幸せだったから。
この至福の時間をもう少し。
あと少し。
*
雪花英葵・菊珂の結婚披露宴会場で、海杜は時計に目をやった。
「そろそろ届いた頃だろう」
「菊珂様宛の祝電ですか?」
「ああ。唯慧。菊珂を見届けて欲しい」
「私がですか?」
「ああ。菊珂が確実に翔ぶかどうかをね。
僕は菊珂の控え室に行って電報を回収してくる」
「……かしこまりました」
その時、不安げな表情の新郎が現れた。
「どうしたんだい?英葵」
「それが……菊珂がいないんです」
「菊珂が?」
「どこに行ったんだろう……。もう式がはじまるというのに……」
「わかった。僕も探してみよう。英葵。ここは僕に任せて、君は式の準備にあたってくれ」
「わかりました……」
そんな問答を聞きながら、唯慧は静かに披露宴会場を後にした。
ホテルの玄関から出て足早に北の方角へ向うと、
丁度白いものが頭上から落下してくるところだった。
それは紛れもなく、哀れな花嫁・雪花菊珂だった。
*
唯慧は海杜の命を受け、ワインに砒素を混入した。
粉末の砒素を水に溶かし、新品のワインのコルクから注射器を用いて入れるという根気のいる作業だった。
だが、唯慧にとっては、恋人の好物を作る楽しいクッキングでもしているような気持ちだった。
愛する海杜に重要な任務を任されたということが、今の唯慧には何事にも代えがたい喜びとなっていた。
毒入りワインは、ホステス役である莢華によって客人たちに振舞われた。
当然、海杜にも。
唯慧は一人オレンジジュースに口付けた。
そして、ハラハラしながら見つめていた。
なぜか過剰なまでに毒入りワインを摂取する海杜の姿を。
やがて惨劇の幕が上がり、完全に意識を失った海杜の姿を見て、
唯慧は声を上げたい衝動を、泣き出したい衝動を、
駆け寄りたい衝動を必死に殺した。
『どんなことになっても、君は君の行為を遂行するんだ。わかったね?』
海杜の命が唯慧の脳裏に響く。
自分は彼に命じられた通りに動くだけだから……。
唯慧は混乱する人々を前に高らかに声をあげた。
「これは、砒素中毒に違いありませんわ」
*
血みどろで横たわる里香を目にした瞬間、彼女はさすがに身体中が硬直して動けなくなった。
「何をしているんだ。唯慧。時間がないんだよ」
「……は、はい」
唯慧は血溜りを避けつつ、海杜の傍らに辿り着いた。
彼女はあらかじめ準備しておいた袋からハンカチを取り出した。
それを確認すると、海杜は唯慧を抱き寄せた。
「後は頼んだよ。唯慧」
「かしこまりました……。海杜様」
そう言うと、唯慧は海杜の口を背後からハンカチで覆った。
そのハンカチには、クロロホルムがたっぷりと仕込まれていた。
やがて、意識を失った海杜が唯慧の胸に倒れ込んだ。
唯慧は海杜の身体を優しく横たえると、同じように準備してきた石を窓ガラスに力いっぱい放り投げた。
そして、夜風が吹き込む窓辺から闇へとダイブした。
*
日差しの差し込む別荘の寝室で、唯慧がベッドでまどろんでいると、海杜の声が響いた。
「明日、美麻の友人だという記者が来る。どうやら、関係者を集めて事件の真相を話すつもりらしい」
唯慧ははっとして身体を起こした。
その拍子に彼女の身体を包んでいた毛布が滑り落ちる。
白い肌に赤い花が鮮やかに咲いていた。
海杜は微笑んだ。
「どうやら、ここまでらしい」
その笑顔がそのまま光に溶けて消えてしまいそうで、唯慧はふっと涙ぐんだ。
「そんな……」
「君には世話をかけたね」
「そんな……やめて下さい……。私は……私は……」
脅迫という手段で手に入れた海杜との関係を、いつも心の底では後悔していた。
そんな手段でなく、この青年と結ばれることができていたら……。
唯慧はそんな叶わぬ願いをいつも夢想していた。
「逮捕され、生き恥を晒すくらいだったら、僕は潔く死を選ぶ」
えっ……?と顔を上げた唯慧に、海杜は何かを手渡した。
それは拳銃だった。
「明日、全てが明るみにされるようだったら、これで僕を撃って欲しい」
唯慧はいやいやするように首を大きく振った。
心臓が飛び出さんばかりに波打つ。
だが、海杜は唯慧の手にそれを握らせた。
「お願いだ。僕は君に殺して欲しいんだよ」
そう海杜が悲痛な眼差しを見せた瞬間、唯慧は海杜の胸に思わず泣き崩れていた。
唯慧は海杜の腕の中で、全てを決意した。
*
海杜に渡された拳銃という名の凶器。
別荘から戻った唯慧は自室でそれをそっと取り出すと、ゆっくりと撫で回した。
海杜のぬくもりが感じられるようで。
彼は全てを自分に託した。
あの日、全てを決意した海杜の寂しげな笑みが浮かび、また涙ぐんだ。
「えっ……?」
ふいに銃口を目にした瞬間、唯慧は違和感に気がついた。
何かが銃口に詰まっているようなのだ。
これは……?
唯慧はわからないまま、それをまた大切に仕舞いこんだ。
*
そして迎えた当日。
美麻の友人という記者と編集長と名乗る見たこともない女性、
そして、やはり美麻の友人だったらしい青年が淡々と語り出した真相。
唯慧はそれを聴きながら、言い様のない恐ろしさに絡め捕られていくのを感じた。
なぜなら、唯慧は少しずつ。ゆっくりと気がついたから。
全てが……海杜の全ての罪が自分自身に転嫁されているということに。
「あっ……。この野次馬の中にいるの、河原崎さんじゃない?」
そう自分の名が指摘された瞬間、思わず唯慧は向えに座る海杜に目をやった。
だが、深く項垂れる彼の顔は、
黒いビロードのような髪に阻まれ、窺い知ることができない。
唯慧は全身の毛が逆立つような恐怖を覚えた。
間違いない。
自分は、間違いなく。
裏切られた。
彼に切られた。
彼女の脳裏を今まで天命として従ってきた彼の指示の全てが駆け抜けた。
全てが自分に罪を背負わせるため。
自分は初めから駒に過ぎなかった。
怒りよりも先に彼女の心を支配したのは、哀しみだった。
あの艶やかな黒髪の下に、今彼はどんな表情を浮かべているのだろう。
時折、微かに揺れる彼の肩。
泣いているのか。
震えているのか。
いや、今の唯慧にははっきりとわかる。
彼は笑っているのだ。
「撃てばいいだろう……」
唯慧ははっとして海杜を見下ろした。
「そんなに僕が憎いのなら、その引き金を引けばいい……」
真っ直ぐに自分を見つめる海杜の視線。
唯慧はその瞳に必死に懇願した。
だが、海杜は唯慧を見返す。
「やれ」と。
唯慧は、その瞬間、銃口に詰められたモノの意味を悟った。
この銃は、引き金を引けば、暴発するのだ。
暴発、それは唯慧の死を意味する。
そうすれば、全ては闇に葬られる。
彼の罪も全て自分と共に。
既に自分は穢れてしまった。
彼のためにこの手を汚した。
だが、一切後悔などはなかった。
これは、唯慧の精一杯の愛だったから。
恩返しをしよう。
唯慧は哀しくそう思い返した。
そう。これは恩返し。
夢をみせてくれた、あなたへの。
そして、罪滅ぼしだ。
脅迫という手段であなたを苦しめたことへの。
どうか、誤解しないで欲しい。
私は本当にあなたのことを……。
海杜様……。
唯慧の全てはあなたのお心のままに……。
唯慧は引き金を引いた。
*
拍手の音が響いていた。
それは、真犯人・雪花海杜から僕への賛辞のようだった。
「九十九出のことを思い出したよ。いや、実に素晴らしい」
「彼も……彼もあなたが……」
「ああ、実に残念なことに、彼はいささか優秀すぎた。君のようにね。
彼は今回の事件で真相に肉薄しすぎた。危険な因子は摘み取らなければ……ね?」
*
「それで……君は菊珂が自分に暴行しようとした見ず知らずの男を殺害したと言いたい訳かい?」
九十九は静かだが、はっきりとした口調で言った。
「……はい」
菊珂の四十九日法要のはじまる一時間ほど前。
私は自室で九十九出の訪問を受けていた。
予定よりもだいぶ早い時間の訪問に怪訝に感じたが、
彼は私と話がしたいと言い、有無言わせぬ様子で私の自室に滑り込んできたのだ。
そして、彼が語った内容。
それは、あの菊珂が「殺人を犯した」晩の光景だった。
九十九の話は、まるであの夜の菊珂の様子を盗み見てでもいたのではないかというほどに正確なもので、
私はその仮説を組み立てた彼の頭脳に素直に賞賛を送りたかった。
だが、菊珂亡き今、この青年は何を求めて私にこんな話をしているのか……。
それだけは見当がつかなかった。
「死体の始末を菊珂さんが一人で可能だったのでしょうか……」
私はその瞬間、よくやく彼が私に面会を求めた理由がわかった気がした。
「死体には、たくさんのブロックが錘として括りつけられていたらしいです。
まして、男の死体です。菊珂さんが一人でどうこうできたとは思えません」
九十九は言葉を切り、私を一瞥した。
「それで、僕、思ったんです。
菊珂さんが真っ先に助けを求めるのは誰なんだろうと……」
「助け……?」
「ええ。菊珂さんは財閥の令嬢とは言え、一人の女子高生だったんです。
こんな状況に追い込まれたら、当然、誰かに助けを求めたと思うんです」
私は彼が言わんとするところを先読みして言った。
「その相手が……僕だと言いたいのかな?」
九十九は私の答えに怯むことなく、はっきりと言った。
「そうです」
鋭い眼差し。
いつもは気が付かないのだが、こうしてそれを目の当たりにすると、九十九財閥の長である彼の父親を思い出す。
表向きは温厚だが、実際は頭の回転が速く、計算高い抜け目のない男。
のほほんとした雰囲気ながら、内部では刃を研いでいる。そんな、油断ならない相手……。
今はまだその片鱗を見せてはいないが、いずれはこの青年もそうなるだろう。
血とはそういうものだ。
まだ純粋なこの青年の行く末が見えた気がした。
そして、同時に私の中で危険信号が発せられた。
「なるほど。君の話はよくわかった。それで……僕にどうしろと?」
「お認めになるのですか?」
青年は真っ直ぐに私を見つめた。
私は彼の目を見詰めたまま、頷いた。
「自首して下さい」
九十九は続ける。
「あなたは窮地に陥った菊珂さんのために死体を始末したのでしょう?
僕があなたと同じ立場だったら……同じことをしたかもしれない」
「………………」
「でも、僕、同時に思うんです。菊珂さんはあの罪を悔いて死んでしまった。
これは事実です。僕……このままこの罪をうやむやにするべきではないと思うんです」
そう言うと、九十九は突然、顔を伏せた。
「……生きている側の者がきちんと償うべきだと思います。
もう、菊珂さんは償いたくても償うことができないんだから……」
九十九は泣いているようだった。
噛み締めるようにそう言うと、涙に濡れたその顔をあげた。
「お願いします。雪花さん。菊珂さんの代わりに……罪を償って下さい」
「僕が拒否したら?」
無駄とは知りつつ、私は一応、尋ねた。
たとえ、彼がここで「私が求める回答」をしたとして、
この後のこの青年の運命は決まっていたに違いないのだから。
九十九は私の思惑を知るはずもなく、「私が求めない回答」をした。
「僕はこの事実を知ってしまった以上、隠し通すことはできません。
あなたの返答次第では、警察に向かう準備ができています」
その目には、並々ならぬ決意が感じられた。
私は観念した風を装い、言った。
「わかった……君の言う通りにしよう。この四十九日法要が終わったら……警察に行く」
私の答えに九十九の顔にさっと明るさが戻った。
「ありがとうございます!!きっと……きっとこれで菊珂さんも安心できると思います」
そう言うと、九十九は私の両手を取り、拝むように握手をした。
彼は「ありがとう。ありがとう」と繰り返し、また泣いた。
嬉し泣きのようだった。
私はやんわりとその手を払いのけると、彼に背を向けた。
そして、この上なく、柔らかい口調に務め、言った。
「そうだ……。九十九君。君はワインが好物らしいね。
僕もそうなんだ。今夜の四十九日法要では、とっておきのワインを用意しようと思っているんだよ。
どうか、存分に楽しんで行って欲しい。そう……菊珂のためにも……ね」
*
熊倉がちらちらとこちらに向ける視線が、
あたしを気遣うようなその眼差しが、逆に痛かった。
「九十九青年は、君と苗子君があの埠頭での事件の目撃者と話しているのを立ち聞きして
雪花菊珂嬢の死の真相に行き着いた。
そしてその後、君に報告しようとした新たな仮説というのは、
こういうことだったんじゃないだろうか。
菊珂嬢があの細腕で大の男の死体を始末できたとは思えない。
つまり、彼女は誰かに助けを求めたことになる。
では、菊珂嬢が出したSOSを受けたのは、誰か?
その答え。
つまり、彼は菊珂の兄である雪花海杜がこの件に一枚噛んでいることを察知したんではないだろうか。
そして、彼は哀れにもその仮説を君に告げる間もなく、第三の被害者となってしまった」
学者然とした九十九青年の顔が浮かんでは消えた。
「熊倉さんは、あの毒杯事件で、雪花さんがどんなトリックを使ったって考えているんです?」
苗子の問いに、熊倉は寂しげに首を振った。
*
「トリック……?そんなもの、はじめから存在しないよ」
彼――雪花海杜は挨拶のように陽気に声を上げた。
「えっ……?」
「この件に関しては、作為は一切用いてない。僕は解毒剤も服用していなかったしね」
「まさか……」
「本当さ。そう。もし僕が死んだら……それで僕の負け。
そこで僕の復讐は、ジ・エンドというところだね」
「そんな……」
この人は自分の命さえも賭していたのだ。
そう本当の意味で賭していた。
「神は僕を生かした。おっと……死神かもしれないがね」
彼はそう嘯くと、また笑った。
自分は死神さえも味方につけている。
そんな自信からなのか、それとも自分に恐れるものなど何もない。
その表れなのか、それはどこか不敵な笑みだった。
*
熊倉の声が響く。
「敵は九十九君の動向を察知し、
彼が次の行動を実行に移す前に絶妙なタイミングで葬っている。
まして、彼はこの件で自分が被害者側の人間であることを我々に刷り込んだ。
まさに命がけの芸当でね。実に恐ろしい相手だよ。
……恐ろしいと言えば、話は前後するが、彼の妹・雪花菊珂の事件に尽きると思う……。何せ……」
*
「あの時、菊珂が男を『殺した』と知った時、
僕としては、菊珂を裁判にかけて晒し者にしてやろうと思ったんだがね。
君の意見を聞いて、考えが変わった。君のお手並みを拝見しようと思った。
それも面白いかと思ってね」
彼は少し天を仰ぐように天井を見上げた。
「あの子は純粋な子だ。あの男を自分が殺害したと『思い込んだ』ことによって、
毎日どれだけ苦しんだことか想像に難くない。
幸せの絶頂から叩き落す。これ程愉快な復讐もないだろう?」
その瞬間、僕の脳裏に生前の菊珂の華やかな笑顔がさっと蘇った。
ほんの一年という短い間、僕の妻だった少女の笑顔が。
「菊珂には……彼女には、何の落ち度もなかった……。
あなたの復讐のターゲットになるべく理由も……!!」
思わず椅子を蹴って立ち上がり激昂した僕を雪花海杜は静かに見上げた。
空恐ろしいくらいに冷徹な眼差しで。
「まだわからないのかい?英葵。そんなこと、関係ないんだよ」
そして、噛んで含めるように。
まるで何もわからない子供に教えるかのように、ゆっくりと告げた。
「そう。菊珂は残念ながら、あの女の娘だからね」
僕は初めて言い知れぬ恐怖を感じた。
この人の憎悪は、全て『血』に注がれている。
この『雪花家』という一族を構成する『血』に。
そこに『一個人』やその個人が持つ『感情』というカテゴリは存在しない。
ただ、『その血を受け継いでいるか否か』。
この人の復讐におけるターゲットの選択は、この一点のみにおいてぶれずに存在している。
僕は喘ぐように問うた。
「あの電報を出したのは、あなただったんですよね」
あの電報とは、伊山凛たち(元々は九十九出か)が指摘した菊珂を死においやった電報のことだ。
彼はゆっくりと頷いた。
答えは実に簡単ことだったのだ。
あのF埠頭の犯罪に関しては、僕と当事者である菊珂。そして、彼しか知らない。
菊珂は当然除外されるとして、僕ではないとすれば、
もうあの電報の差出人である得るのは、彼・雪花海杜しかいないのだから。
哀しいくらいに簡単すぎる引き算だった。
「あれはほんの方法のひとつに過ぎなかった。
あんな電報ひとつでは、確実性に欠けるからね。
だが、別に上手く行かなくても問題なかった。
チャンスはいくらでもある。
だが、予想に反して菊珂はあっさりと逝ってくれた。
それだけあの子も純粋だったということだろうね」
あの電報におけるトリックは、いわゆる、プロバビリティの犯罪という訳か。
目の前の雪花海杜は続ける。
「だから、もし、あの電報だけで菊珂が死を選ばなければ、
別の方法も用意していたんだがね。例えば、君の撮影したこの写真」
それは、菊珂が男を「殺した」時の写真。
僕が会長を脅迫する際に使った切り札だった。
「どうして……あなたがそれを……」
「決まっているじゃないか。君が初めて僕を脅迫した晩さ。
君の携帯を失敬して僕の携帯にこの写真を送った。
もちろん、送信記録等は抹消させてもらったから、君が気がつかないのも無理はない。
あの夜、君が僕と菊珂を撮影しているのは気がついていた。
だが、放っておいたんだ。その写真が何かに使えるかもしれないとね。
菊珂があの電報だけで翔んでくれたおかげで、結局、その必要もなかったがね」
彼は薄ら笑いを浮かべた。
僕は負けていたのだ。
最初から勝負はついている。
もうずっと長い間。
気の遠くなるような間。
この人こそ、「この世の果て」を見続けていたのだから。
「さあ、聞かせてもらおうかな。さっきの続きを」
彼はそう髪を掻き揚げると、笑った。
だが、その目だけは笑っていなかった。
僕は喘ぐように叫んだ。
「社長……答えて下さい!!人を殺すのは……怖くなかったのですか?」
*
凍りついたかのように動きを止めた海杜さんの目を見詰めたまま、わたしは繰り返した。
「海杜さん、人を殺すのは……怖くなかったですか?」
そして、続ける。
「今までの殺人事件の真犯人は……あなたなんですよね?」
わたしは、そう告げてから夢中で彼の胸にすがり付いていた。
いったい君は何を言い出すんだ?
そんな馬鹿なことがある訳ないじゃないか。
そう笑い飛ばして欲しかった。
叱って欲しかった。
わたしの言葉をひとつひとつを否定してわたしの辿り付いた悲しい結論を突き崩して欲しかった。
なのに、海杜さんは何の反応も示さなかった。
ただ、静かにわたしを見つめているだけだった。
やがて、視線を逸らしたのは、彼の方だった。
でも、すぐに彼はわたしを見返した。
氷のように冷たい視線で。
「言っただろう……?僕は君が思っているような人間じゃないと」
それは間違いなく、肯定の答えだった。
わたしは、その瞬間、思わず両手で顔を覆っていた。
「……海杜さん……」
思わず、嗚咽が漏れた。
信じられない。
信じたくない。
現実を遮断した視界は暗闇に覆われても、
わたしに残酷な運命を告げるように、
冷徹な海杜さんの声は容赦なく降り注いでくる。
「いつから……気が付いていた?」
わたしはゆっくりと両手を離し、彼を見つめた。
涙で霞んでよく見えないその顔。
何の感情も表れていないその顔。
よくできた仮面のようなその顔。
これが本来のこの人の姿……?
違う……。
そう信じたい……だけど。
「はっきりと確信を持ったのは、里香さんの事件の時です。
あの事件では、里香さんのピアノがキーとなっていました。
里香さんのピアノを聴いた李さんの証言によって犯行時刻が絞られたんです。
でも、もしそこに作為があったとしたら?」
「作為……?」
「はい。前に言いましたよね。海杜さん……。
自分のピアノはコピーマシーンのようだって」
「ああ……」
「だから、考えたんです……。もし、あの時、既に里香さんが殺されていたとしたら?
あのピアノは里香さんじゃなくて、本当はあなたが弾いていたんじゃないかって……。
里香さんの旋律を真似て……」
「美麻。真似くらいだったら、誰だって簡単にできるんじゃないかい?」
海杜さんは、そう少し笑った。
「いいえ。癖を真似するには、時間がかかります。
まして、人が聞いて、その人の弾き方だと思わせるくらいに似せるには……。
李さんが、言っていました。
もう十数年ピアノを弾いていなかった里香さんがピアノを再開したのは、本当に亡くなる間際の短い期間。
とてもこの短期間で里香さんのピアノの特徴を掴んで自分のものにするということはできません。
里香さんの旋律の真似ができるのは、昔、彼女からピアノを習っていたあなたしかいないんです」
「なるほどね……」
「そのピアノがフェイクならば、海杜さんのアリバイは……崩れます」
*
あの夜。
里香との何度目かの逢瀬の晩。
そう。里香を殺めた晩。
愛してもいない女を抱きながら、私は視線をただ天井に泳がせていた。
その晩は、天井に広がる年代を経た染みが妙に気になった。
「ねぇ……。海杜さん」
里香は、気がそぞろな私にやや不満げに眉をひそめた。
私は仕方がないので、不満を口にしかけたらしい唇を塞いだ。
里香は満足げにうっとりとした視線を寄越した。
私はそれを無視し、唇を下降させた。
里香は彼女の乳房に愛撫する私の頭を掻き抱きながら、吐息交じりに言い出した。
「私、知っておりますのよ?海杜さん」
「……何をですか?」
「あなたとお母様の本当のご関係……」
「…………!!」
「そんなに驚かないで。でも、嬉しいわ。あなたを当惑させることができて。
私、あなたのそういう顔もすごく好きなの。あなたは滅多にそういう顔……見せて下さいませんけどね」
里香の勝ち誇ったような笑みを見るのが嫌で、私は愛撫を再開した。
「授業が終わったあと、一度、忘れ物に気がついて戻りましたの。
その時……偶然、見てしまいましたのよ。あなたとお母様の逢瀬を。
うふふ……。だから、言ったでしょう?こうしてあなたとできるのは……あなたの母としての特権だと」
私はその問いに答えず、下へと唇を下降させた。里香の吐息が激しくなる。
「ねぇ……あなた、お母様を殺したんじゃありません?」
私の動きが止まった。
里香が同時ににやりと笑った。
私も思わず笑っていた。
「怖いことを言う人だ……。あなたも」
「あら。あなたほどではございませんわ。そう。それがあなたの本当の目ですのね」
「えっ……?」
「あなた、お母様を抱きながら、とても怖い目で彼女を見下ろしていた。
まるで、殺意さえも感じさせるような怖い目でしたわ。そう。ちょうど、そういう目」
私は思わず、苦笑していた。
「それは、まずいところを見られてしまったようですね」
「構わないのよ。海杜さん。あなたが例え、人殺しだろうが……私の愛は変わりませんわ。
いいえ、むしろ私はそんなあなたに惹かれたの。そうよ。その目だわ。私が欲しかったのは……。
最初はただのつまらない優等生だって思っていた。
実際、あなたは問題一つ起さずに、雪花家の長男として慎ましやかに過ごしていた。
でも、それがあなたの偽りの仮面だとわかった瞬間から、あなたを愛するようになったの……」
「それはそれは……光栄とでも言っておきましょうか?
しかし……あなたも随分変わった人ですね」
「うふふ……愛なんて一種の病癖に過ぎませんわ。
そう……。人は、どこか狂気に誘われるのかもしれませんわね?
海杜さん……欲しい……早く……!!」
「せっかちな人ですね。あなたも……」
「あなたがそうさせるんでしょう?ねぇ?早く……」
私は里香が望む通りにしてやった。
つながっても、なんの感動も呼び起こさない。
だが、里香は違うようだった。
大きく弓なりにのけぞると、自分から腰を動かし始めた。
「……すぐにわかりましたわ。……あなたが……お母様を殺められたことは」
「では、なぜ僕を警察に突き出そうとしなかったのです?」
「愛した男を刑務所に送れるほど、私は強い女ではありませんわ。それに……」
「それに?」
「それに、私、あの方がどうも好きになれませんでしたの。
だから……あっああ……!!い……いいわ。海杜さん……。もっと……」
里香は上になると、私を見下ろした。
「でも、私……どうしてあなたがあの女のいいなりになっていたのか……不思議で仕方がありませんでしたわ」
「答えは簡単です。僕は弱い人間なんですよ。だから、この家がなければ生きてはいけないのです」
「嘘つき」
「本当ですよ。だから、今もこうしてここにいるんだ」
そう言うと、私は里香の首筋に愛撫した。里香は吐息を漏らした。
そのまま彼女は倒れこむように私の胸に頬を押し付けた。
私はそれをかわすように体制を変えた。
再び里香の夢心地に酔う顔が私の下になった。
「……嘘おっしゃい。あなたは十分、独りでも生きていけるわ。この家を捨てても……」
「『独りで生きるためには、人は獣であるか神でなければならない』アリストテレスの警句ですか?」
「ええ……。あっ……はあ……あなたはある意味、無敵だわ。あなたは神になってしまわれたから」
「神……ですか?ふふ……いいえ。醜い獣の方かもしれませんよ?」
「どちらにせよ。あなたはいまや敵なしだわ。
誰もがあなたに同情の目を向けている。
あの女刑事さんだって同様よ。彼女はあなたの虜ね。
本当にあなたは罪な人」
そう言うと、里香は正面を向いて私を見上げた。
「でも、あなたはもう無敵ではないかもしれない。あなたは神から転落したのだから」
「転落……?」
「あなたは人間の心を取り戻してしまった。……あの少女のせいで……」
「…………」
「私は怖かったのよ。あなたが、またあの純粋な少年に戻ってしまうことが。
あなたが神から転落し、ただの人間に成り下がってしまうことが……」
「…………」
「それに……許せないでしょう?あのお嬢さんが……そうあんな小娘があなたを奪うなんて。
だから、壊してあげましたのよ。あの子の夢も希望もね?うふふ……」
『里香お義母様……。私……私、どうしたらよろしいの?どうしたら、海杜お兄様の心を取り戻せるの?』
『莢華さん。おかわいそうにね。美麻さんも、あんなお綺麗な顔して、恐ろしい方なのね。
大丈夫よ。莢華さん。私はあなたの味方ですからね。』
『うっ……ううっ……お義母様……ううっ……。』
『本当にかわいそうな莢華さん。もう泣くのはおよしなさい。
泣いてばかりでは、何も解決しませんわよ?』
『でも、もう私、どうしていいのかわかりませんの!!わかりませんのよ!!』
『莢華さん。あなた、大切なものを奪われて、そのまま引き下がるおつもりなの?』
『え……?』
『あなたは大切なものを奪われた。ならば、あなたもあの子の大切なものを奪って差し上げればよいではありませんか。』
『大切なもの……?』
『そう。あの子の大切なもの……そう。例えば、ピアノね。
そうよ。あの子からピアノを奪ってしまえばいいんだわ。』
『そんな……そんなこと……どうやって……。』
『うふふ……簡単なことではありませんか。
あの子がピアノを弾けないようにすればいいのよ。
そう。弾きたくても弾けない状況にするの。』
『そんなこと……。』
『何をためらっているの?莢華さん。あなたはただ、奪われたものの代償を求めているだけ。
ただ、それだけ。なんにも悪いことではないじゃないの。』
『さ……里香さん……。』
『さ。おやりなさいな。莢華さん……。ね?』
「そして、莢華さんは私の忠告通りに行動し、美麻さんの手を砕いたのですわ」
「……あなたという人は……」
「あら。あなたの口からそんな言葉が出るとは思いませんでしたわ。
そう、私はあなたのやり方を真似ただけですのよ。
人を使って目的を遂げる……これであなたとおあいこね。うふふ……ふふふ……」
里香の勝ち誇ったような笑み。
「あなたを誰にも渡すものですか。あなたを奪おうとするものは、絶対に許さないわ。
あなたは私だけのものなの。あなたは逃げられやしないわ。
永遠に私の腕の中で生き続けるしかないの。
うふふ……ふふふ……ほほほ……ほほほ……」
そう妖艶に笑った里香の顔が、あの日の母に重なる。
母さん。
あなたは何度でも僕を縛るつもりですか。
そして、何度、僕の大切なものを壊すおつもりですか。
ならば、僕も何度でもあなたを
殺してやる。
笑っていたはずの里香が頓狂な声を上げた。
それはそうだろう。
その里香の豊かな乳房の谷間には、深々と刃が突き立てられたのだから。
私はわざと急所を外していた。
一息でなど楽にしてやるものか。
あの人が、あの子が苦しんだように。
包丁を抜いた瞬間、生暖かい鮮血が私に降りかかった。
目の前が赤くなる。
その瞬間。
訳がわからなくなった。
包丁を突き立てる度、何度も鮮血と里香の断末魔の声が私に降りかかる。
ただ、それだけ覚えている。
気が付くと、全身を朱に染めた里香が虚ろな視線を私に寄越していた。
その様子は、皮肉なことに今まで目にしたどんな里香よりも美しかった。
*
私は返り血を洗い流すために、バスルームに向かった。
途中で李に会った時は、さすがに肝が冷えた。
そして、彼女が慌てて電灯のスイッチに指をかけたことも。
私は李の手を制した。
もし、あの時電灯が燈れば、李は返り血に塗れた私と対面したであろう。
シャワー後、再び里香の部屋へ戻り、当たり前のことながら、
さっきの状態のまま虚ろな視線を向ける里香を横目に見ながらピアノを弾いた。
その後私は唯慧を呼び、指示を与えると、クロロホルムを嗅ぎ、里香の隣に倒れこんだのである。
*
「僕の両手は血で穢れている。これは前に話したね。
……それは、君の両親のことだけを意味していた訳ではないんだ」
わたしはもう、海杜さんの顔を見ることができなかった。
だから、ただ彼の胸に頬を押し当てて、ぎゅっと瞳を閉じていた。
聞きたくない……もう聞きたくない……!!
でも、海杜さんの声は容赦なくわたしに降り注ぐ。
「僕も聞きたいことがある」
「聞きたいこと……?」
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あんなこと?
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