上 下
276 / 804

優しい訪問者達

しおりを挟む
 トレーナーの袖で目元を擦り、頬を拭う。随分前から色が変わってしまっているけれど、まだまだ吸水率は衰えていなかったようだ。いい生地だ。

「あーっ……何かスゴく喉、乾いたな」

 何だか目が覚めたみたいだ。急に身体が生理的な欲求を訴えてくる。ふと、テーブルの上に目がいった。

 レモンがたっぷり浮かんだ水のピッチャー。盾のようなロゴが蓋の真ん中に描かれた、高級なチョコレートが収められた箱。そして、大皿に山盛り盛られた厚切りベーコンたっぷりのナポリタン。それからシンプルな見た目のカップケーキ。全部、皆さんが用意してくれたものだ。

 お水は、親衛隊のシアンさんとサロメさん、扉の前で控えてくれている二人が。チョコはサタン様、ナポリタンはレダさんが。カップケーキは多分……ヨミ様だろう。

 ……そういえば、お見送りにはいらっしゃらなかったな。

 今さら気づく。バアルさんとヨミ様、何気ない二人のやり取りからは、いつも確かな信頼と俺にはない強い繋がりが見て取れた。正直、羨ましいくらいに。

 だから、多分、今回も信じて疑わないんだろう。バアルさんの無事を、必ず彼が帰ってくるということを。

 ……やっぱり、羨ましいな。

 羽ばたきかけていた俺の思考を、甘酸っぱい香りが呼び戻す。さっきまで感じていなかったハズのバターとトマトの香り。美味しそうな匂いにそそられたからだろう。お腹の虫まで騒ぎ始める。

 無いもの強請りな考えを、頭を軽く振って打ち消す。腹が減っては何とやらだが……取り敢えずはとレモンがたっぷり浮かんだ水のピッチャーに手を伸ばした。

「よーし、いっぱい飲むし、食べるぞ! コルテも付き合ってくれる? 一緒の方が美味しいしさ」

 バアルさんとお揃いのグラスに注いでいると、嬉しそうにくるくる飛んでいたコルテが、じゃじゃんとおちょこサイズのグラスを掲げた。

「ふふっ、ありがとう」

 小さな彼がすっぽり入って水浴び出来そうなグラスに注げば、小さなボディがぴかぴか瞬く。続けて醤油皿くらいの小皿。それから、これで切ってってことだろう、普通サイズのナイフを小さな彼が差し出してきた。

 早速、ナポリタンの麺や具材を小さく切って盛り、チョコとカップケーキも出来るだけ小さく、食べやすいサイズに。これでコルテの方も準備万端だ。待ちきれないのか、小皿の前でお目々を輝かせ、そわそわと身体を揺らしている。

「じゃあ、いただきます!」

 手を合わせた俺に続き、コルテが小さなナイフとフォークを掲げる。結構なボリュームだったのに、あっという間に平らげ、飲み干してしまっていた。

 ……何というか、生き返ったなって感じだ。こっちではまだ死んでないけど。

 ごちそうさまをして、食べ終わったお皿は取り敢えずワゴンへと戻しておいた。心なしか丸くなったコルテを手のひらの上に招き、ぼんやりとシャンデリアの明かりを見上げる。その時だ。

「……っ…………! ……」

 扉の前で何やら誰かが何かを叫んでいる。内容は一切聞き取れないが、聞き覚えのある声だった。

「何か、揉めてる? よね?」

 コルテに尋ねれば「見てこようか?」と書かれたスケッチブックを提示してくる。

「いや、俺が行くよ。ついてきてくれる?」

 肯定を示すように瞬いたコルテが、手のひらからぴょんっと飛び立つ。ぴるぴると煌めく羽をはためかせ、俺の肩の上にちょこんと舞い降りた。

「ありがとう」

 メタリックな光沢を帯びたボディがまた輝く。やっぱり、貴賓室だからだろうか? 俺が思っていたよりも頑丈というか、ドア自体が分厚いらしい。ふかふかの絨毯を踏みしめながら近づいても、声が聞き取れない。やっぱり開けるしかないようだ。

「あの……どうかし、あっ」

 おそるおそる開いた先には見知った顔が二人、シアンさんとサロメさんに宥められていた。内の一人と少し濡れた紫の瞳とかち合った瞬間、阻むように広げていた彼らの腕を掻い潜り、抱えた緑の花束ごと俺に向かって突っ込んできた。

「アオイ様っ!」

「おわっ……と」

 咄嗟に腕を広げて受け止める。グリムさんが小柄なお陰で助かったな。これがクロウさんくらい長身な方なら、今頃一緒に室内へと倒れ込んでいるところだ。

 背中に回された細い腕が、もう離さないと言わんばかりにぎゅうぎゅう抱き締めてくる。顔を押しつけられている胸元で嗚咽に近い声が、何度も俺を呼んでいる。よっぽど心配をかけてしまったんだろうか。

「えっと……こんにちは、グリムさん。お花、ありがとうございます」

 それどころではなさそうだけど、挨拶とお礼を欠かしてはいけないだろう。

 出来るだけ優しく声をかけ、灰色のフード越しに小さな頭を撫でる。返答ってことでいいんだよな? 撫でていた頭が左右にふるふると揺れた。

 視線を上げれば、金、青、黄、三色の眼差しがこちらへと集中していた。腕を組み、どこか安心したように微笑んでいるクロウさん。白銀の耳と尻尾をおろおろ揺らし、整った騎士様フェイスをしょんぼり歪めたシアンさん。黒い鱗に覆われた尻尾を揺らし、困ったように白く鋭い牙を見せているサロメさん。三人の。

「クロウさんも、こんにちは」

「……ええ、こんにちは。すみませんね、ウチのグリムがお騒がせしちゃって……思ったより、お元気そうで安心しましたよ」

 やっぱり心配をかけていたらしい。鋭い瞳をゆるりと細め、クロウさんが柔らかく笑う。ふと感じた視線の先に目を向けたのと同時だった。

「す、すみません、俺達……」

「アオイ様が酷くお疲れのご様子でしたので、俺達の判断で面会をお断りしていました。申し訳ございません」

 震える声で謝罪をするシアンさんに続けて、経緯をサロメさんが補足してくれる。それが言い終わると同時に二人が勢いよく頭を下げた。

「ああ、いえ、大丈夫ですから、頭を上げてください。それより、ありがとうございます。俺の為に色々と気を使ってもらっちゃって……」

 顔を上げてくれたお二人は、今度は口を揃え「当然のことをしたまでですから」と微笑む。

「ところでアオイ様、良かったらこれ、使ってください」

 いつの間にか、側まで来ていたクロウさん。彼が懐から何かを取り出す。

「へ? ありがとう、ございます?」

 そっと手を取られ、ぽんっと乗せられたのはポケットティッシュだった。新品なティッシュと微笑むクロウさんとを交互に見つめていると、ちょんちょんとクロウさんが自分の口元を指し示す。口に何か付いてるってことか?

「あっ」

 点と点とが繋がった。慌てて封を開けさせてもらい、拭えば案の定、白い紙に鮮やかなオレンジが。ナポリタンソースによる汚れが付いてしまっている。

「あ、ありがとうございます……いつもはバアルさんが教えてくれたり、拭いてくれるから…………あっ」

 自分で自分に追い打ちをかけてしまっていた。

 視線を上げれば、微笑ましそうにこちらを見つめる眼差し達に迎えられる。お陰でますます顔が熱くなってしまった。口元にソースがべったりだったっていう事実だけで、十分湯気が出ていそうだったのにさ。

「ふふっ……やっぱりアオイ様は、バアル様のことが大好きですね」

 いや、訂正しよう。もう出てるよ絶対。いつの間にか顔を上げていたグリムさんに、嬉しそうにそう呟かれた瞬間、一気にボッと熱が加速したんだからな。

 いや、まぁ、その通りですし。グリムさんに笑顔が戻って何よりなんだけどさ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

侯爵令息セドリックの憂鬱な日

めちゅう
BL
 第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける——— ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

ちっちゃくなった俺の異世界攻略

鮨海
ファンタジー
あるとき神の采配により異世界へ行くことを決意した高校生の大輝は……ちっちゃくなってしまっていた! 精霊と神様からの贈り物、そして大輝の力が試される異世界の大冒険?が幕を開ける!

婚約者の浮気相手が子を授かったので

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。 ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。 アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。 ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。 自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。 しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。 彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。 ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。 まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。 ※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。 ※完結しました

貧乏大学生がエリート商社マンに叶わぬ恋をしていたら、玉砕どころか溺愛された話

タタミ
BL
貧乏苦学生の巡は、同じシェアハウスに住むエリート商社マンの千明に片想いをしている。 叶わぬ恋だと思っていたが、千明にデートに誘われたことで、関係性が一変して……? エリート商社マンに溺愛される初心な大学生の物語。

ボクが追放されたら飢餓に陥るけど良いですか?

音爽(ネソウ)
ファンタジー
美味しい果実より食えない石ころが欲しいなんて、人間て変わってますね。 役に立たないから出ていけ? わかりました、緑の加護はゴッソリ持っていきます! さようなら! 5月4日、ファンタジー1位!HOTランキング1位獲得!!ありがとうございました!

麗しの眠り姫は義兄の腕で惰眠を貪る

黒木  鳴
BL
妖精のように愛らしく、深窓の姫君のように美しいセレナードのあだ名は「眠り姫」。学園祭で主役を演じたことが由来だが……皮肉にもそのあだ名はぴったりだった。公爵家の出と学年一位の学力、そしてなによりその美貌に周囲はいいように勘違いしているが、セレナードの中身はアホの子……もとい睡眠欲求高めの不思議ちゃん系(自由人なお子さま)。惰眠とおかしを貪りたいセレナードと、そんなセレナードが可愛くて仕方がない義兄のギルバート、なんやかんやで振り回される従兄のエリオットたちのお話し。

職業寵妃の薬膳茶

なか
BL
大国のむちゃぶりは小国には断れない。 俺は帝国に求められ、人質として輿入れすることになる。

処理中です...