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出会った場所は最悪、出会えた人は最良

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 ほんのさっきまで、俺はサボりにサボった過去の自分を恨みながら、終わりの見えない試験範囲を総ざらいしていたはずだ。はずだった。

「何処だ? ここ……」

 目の前に広がっている夢としか思えない景色に、自分の頬をつねる。痛い、でも覚めない。

 反対の頬も引っ張ってみる。やっぱり痛い、ちょっと泣きそうだ。

 今度は一旦、目を閉じてみる。開いたらきっと目の前には開きっぱなしの参考書が。

 回りを見渡せば、脱ぎっぱなしの服が置いてあるベッドと床に置きっぱなしのゲーム機がある。ごく普通の、俺の部屋に戻っているはずだ。

 大丈夫、大丈夫、これは夢なんだから。だって、そうじゃなきゃ説明がつかない。

 なんで、すぐ側に、血みたいに真っ赤な池がいくつも有るんだ? おまけに、地面の所々からは炎が吹き出してるし。

 空は、黒い絵の具で塗り潰したのかってくらい真っ暗で、さっきから耳を塞ぎたくなるような悲鳴が。助けて、許して、ごめんなさい、と懇願する人々の悲痛な叫びが、ひっきりなしに聞こえてきて。

「こんなの、まるで、地獄じゃないか……」

「左様でございます。アオイ様」

「へ? なんで、俺の名前……」

 あまりにも自然に俺の独り言に応えた声は、低めだけど柔らかく丁寧な口調で。だから、つい目を開けてしまったんだ。

 この人なら、この状況をなんとかしてくれるんじゃないかって。そんな、すがるような気持ちで。

 でも、現実は時として残酷というか……甘くないよね、ホント。



 俺の目の前には、男が立っていた。多分男だと思う。だってゲームとか漫画で、執事さんが着てるような服、着てるし。

 額から触覚が生えてようが、背中から半透明な羽が生えていようが、そんなのは些細な問題だ。

 だって顔は人間だから! よーく見たら瞳が虫の目みたいに複眼だけど、全体の八割位は人間だから!

 四、五十代くらいの真っ白な髭とオールバックが似合ってる、渋めのカッコいいオジ様なんだから!!

「申し遅れました、私バアルと申します。貴方様には、ベルゼブブという名の方が、馴染みがあるかもしれませんが……」

「あー……よくゲームとかに出てくる、ハエの王様みたいなやつ?」

「はい、その認識でよろしいかと……概ね間違ってはおりませんので」

 成る程ね……どうりで人間以外の部分が虫っぽいわけだ。

 現実離れした見た目にびっくりして、頭ん中がとっ散らかっちゃったけど……普通に、優しそうな雰囲気のいい人じゃない?

 こらそこ、人には触覚も羽も生えていませんよ? なんて言うんじゃありません!

 ……ん? ちょっと待って、俺の知識が間違ってないんだったらさ、ベルゼブブって悪魔じゃなかったっけ?

 そんでもって、サタンに仕えてなかったっけ? サタンって地獄の王様じゃなかったっけ? あれ?

「……バアルさんってさ、やっぱり悪魔なの?」

「はい」

「……もしかして、さ…………サタンって、王様に、仕えてたりする?」

「はい……ですが、サタン様は、すでに譲位なされていらっしゃいます。ですので、今現在お仕えさせて頂いているのは、別の御方ではございますが」

「……マジで地獄なの? ここ」

「はい、左様でございます」

「……え、ホントに俺、死んだの!? いつの間に? ただ一夜漬けしてただけなのに……」

 だって、夜更かしなんて、そんな珍しいことじゃない。新作のゲームが出た時は、睡眠時間が二、三時間なんてざらだったし。

 それでも全然平気だったし! 講義中に、ちょっとだけ寝ちゃってたけどさ……

「……って、そもそも何で地獄!? 俺、そんなに悪いことしたの!?」

 見に覚えが無さ過ぎるんだけど……

 そりゃあ、一日一善みたいな殊勝な日々を送っていた訳ではないけどさ。でも人の道から外れるようなことなんて、何も。

「アオイ様、どうか、落ち着いて下さい……とはいえ、貴方様が取り乱されるのは当然です。そして、私がとやかく言える立場でもないのですが……」

 叫び過ぎて喉が痛い。涙だけじゃなくて鼻水まで出そう。

 怖くて、不安で……頭ん中がぐちゃぐちゃで、気持ち悪くて、吐きそうで。気分最悪な俺の背中を、白い手袋をつけた手が、優しく撫でてくれる。何度も何度もあやすように。

 とん、とん……と一定のリズムでそっと叩かれながら、すべすべのハンカチで頬や鼻を拭われて、少し気持ちが落ち着いてきた。

「ありがとう、ございます……それで、その……どうして俺は、地獄に……落ちてしまったんですか?」

 申し訳なさそうに俺を宥めている彼に、ぼそぼそ尋ねると頭をゆるりと撫でられる。

「……それをご説明させて頂く為に、貴方様をお迎えに上がりました。ここでは落ち着かないでしょうから……場所を変えましょう。失礼致します」

 そう言って、鮮やかな緑色の瞳を細めたバアルさん。彼の引き締まった長い腕が、俺の身体を軽々と持ち上げた。何故か、お姫様抱っこで。

「ひぇっ……バアルさん?」

「私の首に腕を回して……そう、いい子ですね」

 訳も分からず、言われるがままに彼の首にすがりつく。すると、また頭を撫でられた。なんだか子供扱いされているみたいだ。

 手つきが優しいからか、耳ざわりのいい低音が落ち着くからか、その両方なのか。嫌などころか、もっとして欲しいと思ってしまうのが、また悔しい。

「お口は閉じていて下さいね? 舌を噛んでしまうといけませんので」

 満足そうに頬を綻ばせ、俺の唇をちょんとつつく。小さい子に、静かにしててねと言い聞かせるように、自分の口元に立てていた指で。

 心臓から、ドキリと高鳴る音がした。

 聞かなかったことにして、首筋に顔を埋める。ふわりと鼻先を擽ってくる優しい香り。なんだろう、ハーブみたいな……スゴく安心する。

 ついすり寄ってしまっていたらしい。すぐにバレて、クスクスと笑われてしまった。

「では、参りましょうか。しっかり私に掴まっていて下さいね」

 身体が急に、宙に浮いたような。唐突な浮遊感を感じた瞬間、目も開けていられないような突風が俺を襲った。

 何とか、自分の身に起きている状況を確認しようとする。けれども、薄く開けた視界から分かるのは、周囲の景色が車で移動するよりも速く俺の視界から、駆け抜けていってるってことだけ。まるで、ジェットコースターにでも乗っているような気分だ。

 熱くなっていた頬は、叩きつけられる強風ですっかり冷やされてしまう。それどころか、全身までもが震えるほど寒くなっていく。

 唯一の温もりに、必死にしがみついて耐えていると突然ピタリと風が止んだ。



 周囲の景色はさっきまでの、人が決して住めないような不毛の地とは180度変わって人工的だった。

 目の前にそびえ立つ、綺麗な青い石で作られた、テーマパークでしか見たことのないような立派なお城に、少しだけほっとした。

 死んだなんて言われてなかったら、ここが地獄だなんて知らなかったら、すっげー! ゲームみたい! とか、バカみたいにはしゃいでたんだろうな。今頃。

「到着致しました。もう大丈夫ですよ。怖い思いをさせてしまって申し訳ございません……」

 せめて術をかけておくべきでしたね……と申し訳なさそうに俺を見つめるバアルさん。

 彼の指先が俺の頬をするりと撫でると、お風呂にでも浸かっているかのように、ぽかぽかと芯から身体が温まっていく。

 すげー……なんだこれ? 魔法かなんかかな? 流石、悪魔なだけあるわ。

「なにぶん、ここでの暮らしが長いもので、人間様の扱いには慣れておらず……いえ、言い訳でしたね、失礼致しました」

 すらりと伸びた体躯を真っ直ぐ伸ばしてから素早く傾ける。とても綺麗なお辞儀だ。

 地獄の王様に仕えているだけあるな。口調や態度だけじゃなくて、仕草まで洗練されてて、なんだか恐縮してしまう。

「いえ、そんな……ありがとうございます。運んでもらったうえに温かくしてもらって」

「私めの不手際によるものですので……本当に此度の件といい、貴方様にはご迷惑をかけるばかりで……」

「それって、俺が死んだのと関係有るんですか? 地獄に居るのとも……」

 沈痛な面持ちで静かに頷いた彼に。ああ、やっぱり俺は死んだのかと、ようやくストンと胸に落ちた。

 死因が試験前の一夜漬けってのが、あんまりだけども。どうせ死ぬなら、せめてカッコよく死にたかったなぁ……子供とか猫とか庇ってトラックにはねられるみたいな。

 そんな、少しずれた後悔をしている俺に、思いもよらない言葉が彼の口から発せられた。

「……はい。貴方様が亡くなられてしまったのも、地獄に落ちてしまわれたのも、全てこちらの手違いでして……」

 え……ちょっと待って、今この人なんて言った?

 ……手違い?……まさか俺、死ななくてもいいのに死んだってこと?
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