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月夜の脱出

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「――おい、貴様、何者だ!」

 扉の向こうで見張り番をしていた黒服が叫んだ。ローライトはその大きな手で黒服の顔を鷲づかみにした。

「静かにしないか……」
「うぐっ……ぁ……」

 ローライトの手から黒い霧のようなものがかすかにしみ出しているのが見えた。私はその様子を眺めながら、ローライトの背後でビクビクしている。これはいったい何なのだろうか。

 ローライトが顔から手を離すと、黒服はうつろな目をしたまま放心状態になった。どうしたのかと思っていぶかっていると、ローライトが黒服に向かって言った。

「この先にいる見張りのポジションと人数は?」
「――ロビーに三人、……館の正門に二人……です」
「裏口はどうだ」
「駐在の警備兵が一人……」
「そうか、分かった。では貴様は引き続き、ここの見張りを務めよ、そして上の者には、何も問題はなかった、お嬢様は今も牢の中でおとなしくしておいでです、とでも報告しておけ、いいな」
「……はい……」

 ふふん、とローライトはせせら笑い、それから振り返って、怪しげなやりとりに対して怪訝な表情を見せる私に言った。

「こんな身なりでは目立ちすぎるのでな、いったんこの屋敷から出るぞ」
「……えぇ、それは私も賛成。……というか、さっき、あなたどうやったの、催眠術?」
「若娘は細かいことなど気にしないほうが健康的だ」

 ローライトはそのあと私に屋敷の中の案内を命じた。

「裏口までの最短経路でよろしく。巡回の輩が見えたら随時報告せよ。――さぁ、さぁ」
「ちょっとっ、せかさないでよ、見つかっちゃうでしょ!?」

 ローライトは人差し指で私の背中をツンツンとつついて、先に先にと行かせようとする。からかわれているみたいで腹が立ったが、私がこの家を脱出するには彼の力が必要だった。私の見立てでは、この大男はどこか、ただ者じゃない雰囲気がある。もしかしたら、うまくいくかもしれない、と思っていた。

「くっふっふ……、さぁ、さぁ」

 私は仕方がなく、先を急いだ。この真夜中の時間帯には執事やメイドが館の中をあまり動き回らないはずなので、私は慎重に一階の回廊を進んでいって、ふだんは料理人が腕を振るうキッチンのそばまで忍び足で向かった。

そこから裏口へと続く使用人専用の勝手口があり、私は先んじて勝手口から伸びる細長い通路を壁際からこっそりのぞいた。

(――あっ! 誰か来る!)

 メイド姿の女性が一人、こちらに向かって歩いてきていた。廊下は消灯されたままで薄暗く、それが誰なのかははっきり見えないが、間違いなく人の足音が近づいてくる。

 振り返って彼に目で合図すると、彼は察しよくうなずいて、それから突然、黒装束の前を開いて、私の体を引き寄せ、その中に私の体を招じ入れた。

(なにっ!? なんなのよ!?)

 どこかに隠れるわけでもなく、ただ彼のマントの如き服の中に入れられて、密着するように抱き寄せられ、私は声にならない悲鳴を心の中で上げた。ここで声を出してはいけないと必死に息を止めた。

「……大丈夫だ……」

 ローライトの声が頭の上の方からかすかに響いた。

(ぜっ、ぜんぜん大丈夫じゃないでしょ、こんなの、どう考えても見つかっちゃうわ……っ)

すぐそばでメイドの足音が間近に迫り、そして何事もなかったかのように遠ざかっていった。なぜばれなかったのかは分からない。メイドがよほど鈍感だったのだろうか? いくら黒装束で闇に紛れていたとしても、大男を見逃すなんてことがあるのだろうか? 

ローライトは足音が完全に聞こえなくなってから私を離した。

「――っぷはぁ、……はぁ……、いきなり何するのよっ、息苦しかったじゃないっ」
「シーッ、静かにしないか。こんなことぐらいで動揺してくれるな」
「だ、だって、あなた、何もかも急なんだもの……」

 彼は私の批判を意に介さず、またもや人差し指でせっついて、勝手口を開けさせた。ここまで来れば案内などいらないというのに、彼はにやけ面をして、私を先に行かせるのを面白がっている。

 駐在の警備兵は駐在所で居眠りをしていた。職務怠慢でひっぱたいてあげたかったけれど、今の私にはできない。おそらく私はもう、この家にとっては不要な邪魔者でしかないから。そして今、裏門から謎の大男とともに、夜の闇に紛れて、家を去ろうとしている。

「むぅ、熟睡しているなぁ。これは僥倖」
「起きないうちに、さっさと行きましょう」
「まて、我が主よ」
「なに?」
「これは何だ」

 駐在所は上半分がガラス張りで、初老の警備兵が鼻提灯を膨らませながら眠っているのが見える。しかしローライトが指さしているのは警備兵の方ではなく、警備兵のそばの机に置いてあるラジオだった。

「ラジオよ」
「ら・じ・お? ほーう、しゃれた名前だな」
「……え? あなた、知らないの?」
「初めて見た。しかし、見るからに機械仕掛けであることは分かるぞ、うむ」
「あなた、田舎者なの?」
「何を言うか、私は生まれも育ちも首都ヴィクトリアーナ、生粋の都会人だ」
「……え」

 私は彼の言葉を聞いて、あっけにとられた。

 ヴィクトリアーナは、帝国が成立してから皇歴320年までの間に使われていた首都の古い名義だった。現在は首都の範囲も広がり、様々な街が吸収合併された影響で、ハイネスヴェリナと名称を改めている。

 私は彼の顔をじっと見上げた。そんなことはあるはずがない、この男は嘘をついている。しかし、どれほどにらみをきかせても、彼の顔からは嘘を言う者の気配が感じられない。なぜだろう。

「なんだ、私の顔に何かついているかね」
「無精ひげと、うっとうしい長い髪が邪魔くさいわね」
「長い間ずっと鎖で縛られていたのだ、仕方ないだろう」

 どこで誰に縛られていたのか、と、出会ったときの疑問が再びわき上がってきたが、私が尋ねる前に、彼は駐在所に土足で入っていって、警備兵の鞄を物色し始めた。

 私は小声で注意した。

「こらっ、みっともないことしないでよ」
「……寝ぼすけからは罰金を徴収せねばならん」

 彼は鞄から財布を発見すると、私に向けて見せつけ、いたずらに笑った。私はあきれて頭を抱えた。私の屋敷で盗みを働く者が出るとは。そしてそれを見逃さなければならないとは、不名誉の極みだ。

 私たちはそうやって誰にも見つかることなく、簡単に屋敷を脱出した。ついさきほどまで牢屋に入れられていたとは信じられないほど、すべてがイージーで、拍子抜けするほどだった。上を見上げれば、夜空には美しい星空と三日月が輝いていた。
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