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蝉のリフレイン8
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僕が引き戸を開けると、パーマの女と目が合った。真っ赤な口紅とキツい目つきが物々しい。女は白いシャツの上にベージュの薄い布をはおり、下は花柄のパンツを履いている。隣には制服姿の男子生徒がいて、彼は鼻からずれ下がった丸眼鏡を直さず、そのままにしてうなだれている。授業で発表するときしか声を聞かないような無口の優等生、名前はたしか磯野。
僕とは目を合わせない磯野の落ちた視線や、何かに隷従したおかっぱ頭、固く閉ざした厚い唇を見ると、なぜか寂しい気持ちで一杯になった。勝手なことを言うようで申し訳ないけど、彼がそんな風に腐っている限り、僕は彼の先行きがどうにも不安だし、いつか彼の気が狂っておかしくなっても何も不思議に思わない。不本意な雄は時限爆弾なんだ、どうなっても知らないよ。
後ろから半中が出張ってきて、パーマの女に頭を下げた。
「磯野さん、お待たせいたしました、どうぞお入り下さい」
「はいっ、失礼いたします。ほら、イチロウ、早くしなさい」
磯野は丸眼鏡を外し、眉間を少し揉んでまたかけ直し、重たそうに立ち上がって、母の後について教室の中へ進んだ。すれ違う彼は母の背だけを見て、僕は空気のように無心で見送った。戸が閉じられる音が無人の廊下に響く。
荒い磨りガラスの向こうにはぼけた人影が見えたが、不鮮明すぎて、たとえ三人であっても一つの塊に見える。振り向けば延々とすすけた白い廊下が続き、左方の窓からは豊かな日光が差し込んでいる。そういった一種の無味乾燥な光景を見ていると、僕は次第に手のひらが汗ばむのを感じた。突然の焦りとともに歩き出し、徐々に歩幅を大きくピッチを上げて廊下の端まで急ぎ、階段を下りた。
屋外に出ると蝉の鳴き声が一層強まった。だが無人は続いていた。中庭横の下駄箱はほとんど下履きで埋め尽くされ、その中にわずかに二三の運動靴が入っていた。僕はその中の一つを手に取り、踵の潰れた下履きと履き替えて、校門を出た。
校門を出てすぐの曲がり角で栄二とはち合せする予感があった。いざ角を曲がると、眼前には下水路に沿ったアスファルトの道が伸びているだけだった。
何かが始まった気がしてならなかった。校門を出たときにその号砲を聞いたと思った。しかし何が始まったのか分からないで焦っていた。どこに向かえば良いのか見当も付かないが、それでもはやる気持ちを抑えられず、小走りで下校路をなぞった。
飛び出しキケンの看板のそばから、信号の先の花屋の脇から、高架下の暗がりから彼が現れることを幾度も想像し、その全てを実際に確かめ、空振った。急坂を越え、橋を渡る頃には息が切れていた。僕はちょうど橋の真ん中あたりで足を止め、欄干に寄りかかった。きらきらした汗が唇の先から滴って手の甲に落ちた。息が弾むのを無理やり抑え、顔を上げる。
青空をアーチ状に遮るバイパスと、高架下のコートでバスケをする男達の姿、その先の県立住宅の茶色い壁面、橋の向こう岸を右に折れた先の公園から聞こえる子供の笑い声、むっとして揺れる暑い空気、目下を流れる油が浮いた川の黒さ、背後を通過する自転車の車輪が回る音、蝉時雨、焼かれる首筋、噴き出す汗、立ちこめる夏の匂い、欄干から伝わる冷たさ……
何もかもに実感が溢れていた。色褪せていた物体がきちんと発色し、新鮮な音が鼓膜を叩き、よそよそしかった空気が肌に密着してくる感覚がたまらない。
僕は深呼吸を繰り返し、ざらついた欄干の手触りを何度も確かめた。うん、ちゃんと見た目通りざらざらしてる、よかった。
僕はひとまずの家の方へ歩き始めた。疲れたのか、安心して気が緩んだのか、歩調は緩やかになっていた。国道を過ぎ、住宅街を抜けると、市民会館の手前にある大きな森林公園が見えてきた。ミンミンミンと、命の声がせわしなく聞こえる。
その公園には二つの小高い丘があった。丘の向こうには野球の防護ネットと広いグラウンドがあり、その左手、市民会館の脇には少しばかりの遊具が、短く刈り込まれた芝生の上に設置されていた。
僕は二つの丘のうち、低い方の丘に登った。この丘の上にはベンチが一つ置かれていて、周囲の木々がほっそりとして風通しが良いことを僕は知っていた。
ベンチに座り、カバンの中から金閣を取る。木漏れ日の中の読書はとても心地が良かった。枝葉の影が揺れながら落ちるまだら模様のページはどんな緑よりも目に優しく感じられた。
僕とは目を合わせない磯野の落ちた視線や、何かに隷従したおかっぱ頭、固く閉ざした厚い唇を見ると、なぜか寂しい気持ちで一杯になった。勝手なことを言うようで申し訳ないけど、彼がそんな風に腐っている限り、僕は彼の先行きがどうにも不安だし、いつか彼の気が狂っておかしくなっても何も不思議に思わない。不本意な雄は時限爆弾なんだ、どうなっても知らないよ。
後ろから半中が出張ってきて、パーマの女に頭を下げた。
「磯野さん、お待たせいたしました、どうぞお入り下さい」
「はいっ、失礼いたします。ほら、イチロウ、早くしなさい」
磯野は丸眼鏡を外し、眉間を少し揉んでまたかけ直し、重たそうに立ち上がって、母の後について教室の中へ進んだ。すれ違う彼は母の背だけを見て、僕は空気のように無心で見送った。戸が閉じられる音が無人の廊下に響く。
荒い磨りガラスの向こうにはぼけた人影が見えたが、不鮮明すぎて、たとえ三人であっても一つの塊に見える。振り向けば延々とすすけた白い廊下が続き、左方の窓からは豊かな日光が差し込んでいる。そういった一種の無味乾燥な光景を見ていると、僕は次第に手のひらが汗ばむのを感じた。突然の焦りとともに歩き出し、徐々に歩幅を大きくピッチを上げて廊下の端まで急ぎ、階段を下りた。
屋外に出ると蝉の鳴き声が一層強まった。だが無人は続いていた。中庭横の下駄箱はほとんど下履きで埋め尽くされ、その中にわずかに二三の運動靴が入っていた。僕はその中の一つを手に取り、踵の潰れた下履きと履き替えて、校門を出た。
校門を出てすぐの曲がり角で栄二とはち合せする予感があった。いざ角を曲がると、眼前には下水路に沿ったアスファルトの道が伸びているだけだった。
何かが始まった気がしてならなかった。校門を出たときにその号砲を聞いたと思った。しかし何が始まったのか分からないで焦っていた。どこに向かえば良いのか見当も付かないが、それでもはやる気持ちを抑えられず、小走りで下校路をなぞった。
飛び出しキケンの看板のそばから、信号の先の花屋の脇から、高架下の暗がりから彼が現れることを幾度も想像し、その全てを実際に確かめ、空振った。急坂を越え、橋を渡る頃には息が切れていた。僕はちょうど橋の真ん中あたりで足を止め、欄干に寄りかかった。きらきらした汗が唇の先から滴って手の甲に落ちた。息が弾むのを無理やり抑え、顔を上げる。
青空をアーチ状に遮るバイパスと、高架下のコートでバスケをする男達の姿、その先の県立住宅の茶色い壁面、橋の向こう岸を右に折れた先の公園から聞こえる子供の笑い声、むっとして揺れる暑い空気、目下を流れる油が浮いた川の黒さ、背後を通過する自転車の車輪が回る音、蝉時雨、焼かれる首筋、噴き出す汗、立ちこめる夏の匂い、欄干から伝わる冷たさ……
何もかもに実感が溢れていた。色褪せていた物体がきちんと発色し、新鮮な音が鼓膜を叩き、よそよそしかった空気が肌に密着してくる感覚がたまらない。
僕は深呼吸を繰り返し、ざらついた欄干の手触りを何度も確かめた。うん、ちゃんと見た目通りざらざらしてる、よかった。
僕はひとまずの家の方へ歩き始めた。疲れたのか、安心して気が緩んだのか、歩調は緩やかになっていた。国道を過ぎ、住宅街を抜けると、市民会館の手前にある大きな森林公園が見えてきた。ミンミンミンと、命の声がせわしなく聞こえる。
その公園には二つの小高い丘があった。丘の向こうには野球の防護ネットと広いグラウンドがあり、その左手、市民会館の脇には少しばかりの遊具が、短く刈り込まれた芝生の上に設置されていた。
僕は二つの丘のうち、低い方の丘に登った。この丘の上にはベンチが一つ置かれていて、周囲の木々がほっそりとして風通しが良いことを僕は知っていた。
ベンチに座り、カバンの中から金閣を取る。木漏れ日の中の読書はとても心地が良かった。枝葉の影が揺れながら落ちるまだら模様のページはどんな緑よりも目に優しく感じられた。
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