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図書室より4

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 僕は彼の方を見られなくなって、五限の終わりに単身教室を出た。一階へ下り、保健室の戸を開け、川上を見つけると、ずかずかと力強く歩み寄って、彼女に抱きついた。
「まぁ、どうしたの?」
 川上がそう言って僕を抱きしめると、途端に体の力が抜けて、なおさら体を預けた。
「何かあったの?」
 保健室に漂うココアの香りに安心して、不覚にも瞳が潤むのを感じ、川上のシャツにこすりつけて拭った。僕は彼女の胸の中で何か短く前置きし、血の付いた手のひらを彼女に見せた。
「血が出た、痛い」
 川上は流し場で傷口を洗い、椅子に座るよう言った。その間に薬品戸棚から消毒液と絆創膏を取ってきて、適当に処置した。
「こんなくらいで泣かないの」
 川上は僕の頭を撫でながら言った。
「泣いてないよ」
 こんなくらいじゃない、もっと大変な目に遭ったんだと言いたいけれど、川上に言っても意味がない。
 川上は何があったと再三聞くから、鉛筆の先が誤って深く刺さり、驚いたと言った。
「……霞って、時々マヌケよねぇ」
 川上が笑った。僕もつられて右の口角を上げた。そのままホームルームをサボって、僕は川上と世間話をした。他愛ない会話だった。
 落ち着いた頃に教室に戻ると、すでに教室は閑散としていた。皆部活に行ったか、家に帰ったのだろう。数人が教室の端でだべっているだけだった。
 僕が荷物をまとめていると、鞄の中の小説が目に入って、それで思い出した。今日は図書委員長に呼び出されていたのだった。僕は全く気乗りしなかったけれど、反省文を書きたくなくて、渋々図書室に足を向けることにした。
 戸は二センチほど開いていた。そこに下履きの先を引っかけて、足を振り抜く。レールの端から響く衝撃音がリングインのBGMとして働き、中にいる図書委員長に出頭を知らせた。
「あ、霞ちゃん」
 彼女はカウンターの内側で、薄い座布団を敷いたパイプ椅子に座って書き物をしていた。
「そこに座って」
 外の陽は若干色味を増して、奥の本棚の上に横並びの磨りガラスから橙赤色の光が差している。僕は陽の光を背にして足の不安定な黒い木の椅子に腰を下ろした。彼女は僕の無意識の狙いに導かれるように目の前の席に着いた。陽の光がまばゆくて、彼女の薄い顔は半分以上が低温の火に焼かれているようだ。
「これ見て欲しいねんけど、ちゃんと保管してる? 紛失とかしてない?」
 これまでの集大成とも言うべき盗難履歴が、彼女の手によって一枚の紙に集約され、僕に差し出された。
「んー、多分全部あるよ、なくした覚え無いし」
「いつ返せる?」
 一度に返却するには量が多かった。重たい荷物を持って登校したくはないから、少しずつ返しても良いかと尋ねた。彼女はそれを快諾した。
「なんぼゆっくりでもええよ、私が卒業するまでに返してくれたら問題ないから」
 週に一冊でどうにか、と頭の中でざっと計算したら、半年では全く足らないことが分かった。いつもこの時間にいるから、と言われ、僕はこれ以来、少しずつ自分の部屋の本棚から本を引き抜いていくことになる。
 次の日の昼、屋上にあの変態がぬけぬけとやって来た。
「よー、また来たぞー」
 チャラついた挨拶が癪に障り、僕は中身の入った牛乳パックを投げつけた。パックは彼の胸元にぶつかると、中の牛乳を弾けさせた。
「うぁっ! 何すんねん!」
 白いシャツに牛乳がまき散らされた。これだけでは怒りが治まらず、彼に飛びかかった。
「お前、ふざけやがって!」
 上からのしかかり、彼を押し倒した。殴ろうとして拳を上げたが、彼の長い腕がすっと伸びて、手首を掴まれる。男の力は強く、振りほどけない。離せ、離せと繰り返したが、離したら殴られると彼は言い訳を続けた。
「舐めんなっ、クソ野郎!」
 手が出せない代わりに顔を突き出して、鬼の形相で彼を睨みつけた。飄々として、自由気ままに生きる彼に、思いの丈をぶつけた。
 彼は不思議な生き物でも見るような神妙な表情で僕の必死の瞳を見つめた。僕の伝えたい感情を懸命に捉えようとするように見え、そのときなぜだか、彼と本当の意味で目を合わせていると感じた。
 彼は何も言わずに上体を起こした。馬乗りしていた僕は彼の腰の上でなおも腕を暴れさせて殴ろうとしたが、彼は手首を離さない。
「なんや、昨日のこと気にしてんのか」
 僕は答えず、ただうめいて、届かない拳に力を込めた。
「あれは傑作やったなぁ、女が目ん玉ひん剥いて男のあそこ見てんねんから、ほんま笑った、ハハハっ!」
 彼は生来のサディストだった。彼は顔を真っ赤にして暴れる僕を楽しんで見ていた。後ろ盾の無い一匹狼だと知っていて、僕が女で非力でなんとでもなる存在だと侮って、安心して僕を辱めているんだ……
「……おい、白鳥?」
 彼の顔がみるみる内に青ざめていくのを、間近で見た。僕の視界は潤んで、瞳の奥が熱かった。頭はショートして、今の気持ちを表情でしか伝えられず、力の入らなくなった拳は弛緩し、無害に成り果てた。
 彼はとても動揺していた。両手の自由を奪われながらも、僕はうろたえる彼の表情をしばし堪能した。何もかも投げ打って、ようやく欲しかった表情にありつけたのだった。
 万力に固定された手首が痛み出し、無力に涙する女が命令した。
「離せ」
 彼はいかにも悪い事をした感じで手を離した。彼は僕の目を見ていられなくなって、視線をその辺の地面にやっていた。僕は完全に彼の心の動きを掌握し、煮るのも焼くのも、思うがままだった。
 ずる賢い頭が働いて、拳を平手に、力加減を絶妙なものにした。
 ぶたれた彼は目が覚めたように僕を見て、すまん、言い過ぎたと詫びた。僕は彼の両肩をつかんで、もう良い、と言った。それから、次はいつ来るのかと聞いた。昼間のサッカーは不定期だが、月曜と水曜によくやると彼は恐る恐る言った。まだ僕が怒っているのでは、また不意にぶたれるのではと怯える彼を見るのは面白くてたまらなかった。
 彼は僕を女だと認識しているようだった。そして、女を泣かせることは重罪だという古い価値観にとらわれていた。家に押しかけて散々母を殴打する酒臭い男らとは大違いの、うぶな少年だった。
 贖罪のために、サッカーの無い日は屋上に必ず来て、僕の話し相手をするように言うと、彼は渋らずに首を縦に振った。彼のピュアな部分を垣間見て、黒い欲望が腹の底に溜まるのを感じたが、僕はそれを気取られぬよう、彼の落としたカツサンドを開封して、口にくわえた。
「あ、それ俺のやのに!」
 屋上で追いかけ回され、彼に捕まるまでの間、僕は体を精一杯動かし、汗を掻いた。良く晴れた、夏の午後だった。
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