胡蝶の舞姫

友秋

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昭和38年1月 松の内

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 昭和三十八年。東京五輪を翌年に控えた年が明けた。

 松の内。恵三の大切な友人達である日本橋の旦那衆が、新年を祝う為に金田中に集まっていた。

 今や押しも押されぬ新橋の名妓と言われる蝶花と妹分の姫花が初舞を披露し、座敷は花が咲いたような雰囲気に包まれていた。

 地方芸者の唄と三味線に合わせ、立ち方芸者の二人が艶やか且つしなやかに、華やかに舞う。花びらが散り舞うようだった。

 ほう……、という嘆息が漏れ聞こえる中、蝶花と姫花の舞いはしっとりと落ち着いたものになっていき、唄と三味線が消える。

 静まり返る中で二人は正座し扇子を前に置いた。手を突き頭を下げ、舞いの披露が終わった。

「いや、素晴らしかった」
「これは贅沢な座敷だ」

 旦那衆が拍手をしながら口々に賛辞を述べた。目の肥えた彼らの言葉に嘘はない。

「素晴らしい。今年は初座敷でこれほど贅沢なものを見せてもらえて、いい年になるよ」
「本当だ。これほどの舞いはなかなか見られないぞ。恵三さまさまだ」

 ご機嫌の旦那衆に恵三ははにかんでいた。

 その笑みが好き。絵美子の胸が心地よく跳ねた。

「蝶花は妹も素晴らしいな」
「あたしの育て方が良いのです」
「これはこれは」

 旦那衆が楽しそうに笑い、座敷が和やかな空気で満たされる。粋で上質な男達の品に満ちた新年の座敷だった。

「今年はいい年になる」
「ああ、今年も良き商売が出来るよう、互いに頑張っていこう」

 老舗の旦那衆だ。酌が始まっても乱れる事はない。

「とうとう、五輪が来年となったな。どうだ、恵三。お宅の景気の程は」

 海苔屋の旦那の言葉に恵三は猪口に口を付けながらフッと笑う。

「そんな事は話さずとも耳聡いお宅達はちゃんと知っているのだろう」
「ははは、まあな」

 恵三に交わされ旦那はカラカラと笑い返した。気の置けないやり取りだ。

「僕らの耳に入ってきている情報が本当かどうか、気になるところさ」

 呉服屋の旦那が少し身を乗り出して楽しげに話し、恵三はククと喉を鳴らす。

「確かに、外に流している情報と内情は違うな。全部外に流せばみんなお縄だ」
「恵三は相変わらずだ」

 冗談とも本気ともつかぬ恵三の言葉を旦那衆は笑って受け流す。

 事実をサラリと零すのは、恵三にとって唯一気持ちが緩められる信頼する友の座敷だからだ。

「結局、神宮前の大きな事業はうちの建設部門が掠め取ったようなものだからな」
「ああ、やっぱりそうか。そういや、お前のところが吸収した鉄道も好調だな」
「これからは郊外に目を向ける」
「それはいいな」

 男達の会話を上手に聞き流し、適当な場所でしっかりと相槌を入れる。

 普段はのらりくらり、ゆらゆらと掴み所のないような蝶花は一度座敷に上がれば隅々まで気を回しながらも話しを小耳に挟み、突然振られても適当な受け答えだ出来る術を持っている。

 蝶花の技術を懸命に吸収してきた姫花は、旦那衆の酌に気を回しながら話しを聞いていた。

 恵三さんの会社は確か、建設や鉄道、ホテル、相当手広くやっている。恵三さんが数々の事業を成功させてるという話も聞いてる。

 センスのよい色とデザインのネクタイにベスト。かいた胡坐の膝に肘を置き、反対の手に猪口を持ちながら友人を話しする。何気ない仕草が眩しい。

 未だ、目の端に入れるだけで胸がドキドキと鳴ってしまう。

 一人の旦那がクスリと笑った。

「恵三、姫花はまだ引かせたら駄目だぞ。この妓はこれからだからな」

 一瞬、座敷が静かになったが、直ぐにハハハと誰かが笑い出し、皆も続いた。

「あんなに遊び人だった恵三が、全く遊ばなくなったという噂を聞いた時はまさかと思ったがな」
「余計な事を」
「あら、恵三さん、珍しい表情をお見せになるの」

 絵美子が真っ赤になり蝶花が優しく小突く。旦那衆の温かな笑いが空気を柔らかくしていた。

 座敷でこんな雰囲気になるのは特別な事だ。

「姫花は、育てたのは俺だが、これほどの一本になったのだ、今直ぐに引かせれば方々から恨まれるだろう。それは勘弁だ」

 笑いながら話す恵三は絵美子に視線を向けた。

「だが、貰うのは俺だ」
「よ、男前」
「きゃあ、恵三さんたら」

 旦那と蝶花の合いの手に、座敷が笑いに包まれた。

 こんな場で堂々と話せる男が何処にいる。しかも、そこに嘘がない事が伝わる。

 恵三の〝結婚しよう〟が本気である事が絵美子の胸に刻まれた。泣きたくなるのを堪え、笑う。

「恵三さん、こんな場所で何をおっしゃるの」
「いいじゃないか、僕らが証人だよ」

 和やかな空気のまま座敷遊びへと移行する。

「次は投扇興でもいかが」

 蝶花の艶やかな声に旦那衆が「いいね」と応える。

「じゃあ、あたしが買ったら、何してくれますの」
「そうだなぁ」

 酒が入り陽気になった声が色とりどりの言葉に変わる。賑やかに遊びが始まった中、恵三の手が絵美子の手を握っていた。

 楽しそうにお座敷遊びを始めた旦那衆を見つめる恵三の、鼻筋が通った横顔が嬉しそうに綻んでいる。

「恵三さん」
「うん?」

 絵美子は嬉しそうに語りかける。

「恵三さんが楽しそうにしているのを見るのが私の幸せです」

 切れ長の美しい目が、一瞬だが微かに見開かれたようだった。直ぐに柔らかな笑みに変わる。

「絵美子がいるから尚更だな」
「まあ、恵三さんは最近益々お上手です」

 ハハハと笑った恵三を見上げ、絵美子の胸がギュッと締まった。

 今直ぐにでも抱き締めたいくらい愛おしい。ずっと、あなたの傍に置いてくださいね。

 そっと胸の中で囁いていた。

「恵三さん、今夜はこの後も、もう少し遊んで行かれるのでしょう」
「そうだな、奴らとは外でもう少し」

 絵美子は黙って頷いた。

 いつも来てくれる。今夜は、我慢。

「こら恵三、そんなところで姫花を独り占めするんじゃない」
「そうだ、姫花もこちらへ」
「はーい」

 ご機嫌の旦那衆に呼ばれ、絵美子は立ち上がった。


 帰り際、店の前に横付けされたハイヤーに乗る前、蝶花が旦那衆の相手をしている間に恵三がそっと絵美子を抱いた。

「恵三さん?」
「今夜はこれでお別れだからな」

 フフと笑って絵美子も恵三の背中に手を回した。

 皆、酒が入り上機嫌で蝶花や女将と話し、こちらに気が回っていない。人が大勢いる中での束の間の二人きり空間。

「絵美子」

 抱き締めたまま耳元に囁かれ絵美子はくすぐったさに首を竦めつつも「はい」と応えた。

「今月末に直也との座敷を予定している。姫花を呼ぶ。準備しておいてくれ」
 
 絵美子はハッと顔を上げた。

 とうとう! とうとう会える!

 恵三の優しい笑みが月明かりの下で妖しく揺れた。心臓が飛び出しそうになるのを堪えた。

「絵美子、あのロザリオはちゃんと持っているか」
「はい、今も持ってます」

 恵三は頷く。

「大事に持っているんだ。直也に会ったら見せるといい。色々聞けるだろう」
「はい」

 額に唇を寄せ、恵三は絵美子をハイヤーに乗せた。

「明日の夜は行く」
「はい、待ってます」


 ハイヤーが走り出すと、蝶花の小さなため息が聞こえた。

「恵三さんのあんな姿、想像もできなかったわ」
「え」

 蝶花の優しい笑みが、車窓の流れるネオンに映えていた。

「本気で惚れたのね。恵三さんも、姫花ちゃんも」
「……はい」

 フフと寂しげな笑いにドキンとした。

「蝶花姐さん?」
「ちょっと羨ましいな、って思ったのよ」
「羨ましい?」
「そう、羨ましい」

 胸がキュッと締まる。

 まさか、蝶花姐さんも恵三さんを? あれ、待って。でも蝶花姐さんは男の人を好きにならない人じゃ?

 絵美子の額がトンと小突かれた。

「今、とんでもない誤解思考してたでしょう」
「あ」

 額を撫でる絵美子に蝶花は笑う。

「あたしが羨ましい、って思ったのは。堂々と、この人が好き、と宣言できる恋が出来る事よ」

 あ、と口元を押さえた絵美子に蝶花は静かに続ける。

「今どこかにいる姫花ちゃんの親友も、きっと苦しんでると思う。あたし達は、世間から見たら異分子だから。異物のようなものね。迫害されないようにしないと」

 胸が痛い。

 迫害だなんて。

 蝶花が見つめる車窓に、雨粒が当たり始めていた。

 明日は、雨かな。

「姫花ちゃん、明日も新宿に行くのよね。あいにくのお天気になりそうだけど」
「うん……」
「でも、お友達と会えるから雨なんて気にならないでしょ」
「うん」

 フフフと笑い合う。

「妹に素敵なお友達が出来てお姉ちゃんは嬉しい」

 キャハハッと絵美子が笑った。

 明るく笑いながら、自分はこんなお姐さんがいるのに、とマリーを想った。心の片隅に痛みが走る。

 マリー、明日はたくさんお喋りしようね。

 池之端の自宅に着く頃には、雨は本降りとなっていた。




 バシャバシャと足元で水が勢いよく跳ねる。

 ハアハアと息を切らせながら、一人の女が懸命に走っていた。

 苦しい。死んじゃいそう。でも、今立ち止まったら、確実に殺されちゃう!

 どうしてこんな事に!

 雨の新宿は、グレーだ。街全体が、灰色に染まっていた。

 彼女は涙を雨に流されながら、二丁目から三丁目に向かって必死に走っていた。

「スミ子、てめぇっ、逃げられると思ってんのか!」
「捕まえろ!」

 男達の怒号が後ろから迫ってきていた。

 騙されたのだ。

「このオカマ野郎が!」

 男の一言に、涙が一気に溢れ出た。

 迫害だ。こんなの。どうして、こんな目に遭わなきゃいけないの。

 懸命に生きてるだけなのに。誰にも迷惑なんて掛けてないのに!

「あっ」

 舗装されていないぬかるみにハマり、スミ子は滑って転んだ。

 もうダメだ! そう思った時だった。

「こっち、こっちに来て!」

 腕を引っ張られ立ち上がると、声の主は「走って!」と言った。

 手を引かれ、スミ子は走り出した。

 自分よりも背が低い着物姿の女。

 いい着物が雨で濡れるのも構わず自分を助ける為に?

 スミ子の中に、過ぎるものがあった。

 まさか、あなたは。

「こっちよ、隠れるの!」

 着物の女はスミ子の手を引き、細い露地に入って行った。
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