胡蝶の舞姫

友秋

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謀(はかりごと)

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 旦那衆の会話から、絵美子は恵三の母が日本橋の芸者だった事を知った。芸文化に造詣が深いのはその為だったか、と納得する。旦那衆と恵三の関係は幼馴染だった。

 日本橋、と思い浮かべてどんな姐さんがいたかしら、と絵美子が考えていると、一人の旦那が言った。

「日本橋は残念ながら、もう失くなってしまうね」
「失くなってしまう?」

 素直な疑問を口にした絵美子に恵三が答える。

「ああ、日本橋の見番が今年で閉鎖する事になったからな。それで日本橋は終わる」
「時代、かねぇ」

 旦那衆の寂しげな顔に絵美子の胸が締まる。

 時代って? こんな素晴らしい文化が、どうして失くなってしまうのだろう。この花のような文化を失ってしまったら、街はどうなってしまうの。

「姫花ちゃんのような妓が頑張ってくれたら、芸の新橋はこれからも続いていくよ」

 ションボリしていた絵美子に呉服屋の旦那が優しく声を掛ける。

「そうだ、未来は明るいぞ」
「あら、姫花ちゃんだけ? あたしもおりますけど」
「ああ、そうだ、いかんいかん、これほどの名妓蝶花を忘れては」

 座敷が明るくなる。楽しそうに酒を呑む恵三を見るのは初めてだ。恵三の隣でお銚子を持つ絵美子の胸がソワソワと落ち着かない。

 通った鼻筋に、眉と目の距離が短い彫りの深い横顔は、まるで絵に描いたように綺麗なラインを描いていた。美しい横顔が明るい笑顔を見せている。

 知らない姿を見せられる度にドキドキと鳴る胸は。この現象は。そっと深呼吸をし、素知らぬフリをし、酌をする。

「恵三さん」
「ああ」

 手が震えぬように。

 叶わぬと分かる恋を、私はするの? 切なさに胸が潰されそう。

 楽しそうに話す恵三が、ほんの少しだけ、いつもより近かった。

 微かに触れる手が、冷たくて心地よい手が、ちょっとだけ熱い。ほろ酔い、ね、恵三さん。

 私は、恵三さんの為に出来る事は、あるのだろうか。

 絵美子が旦那衆の酒の様子を見回し空いた銚子をさり気なく片していると、蝶花の酌を受けていた旦那が「そういえば、恵三」と切り出した。

 恵三が目を向けると、旦那はゆっくりと話し始めた。

「民自党の有島議員の動きが少しおかしい。お前は確か、有島と反する鴻原派だったな」

 ふむ、と恵三は肘掛に肘を突き手を軽く顎に触れた。

「俺は別段、鴻原に付いている訳ではないが、世間ではそう見られているらしいな」
「ああ、僕らもお前の性質上、特定の誰かに靡くとは考えていないが、皆はそんな事知らんだろうからな」
「で、有島の動きというのは?」

 込み入った政財界の話が出るのも座敷ならではだ。男達は、芸者の節度を知っている。芸者が他に口外しない事を前提に話し合うのだ。故に、彼女達は時に空気となる。

 蝶花が絵美子に目配せした。まだ日の浅い半玉に芸者のマナーを教えるのは姐さんの役目だった。

 そっと見守るように静かに酌を続けていた絵美子だったが、耳はしっかりと会話を捉えていた。

「五輪関係の建設談合、相当な金が動いているだろう。自分らは棚に上げてお前を潰しに掛かろうとしてるんじゃないか?」

 絵美子の耳が、聡くなる。

 恵三さんを、狙っているという事?

 恵三自身は至って冷静だ。ふうん、とだけ反応し、旦那衆の話を聞いている。

「有島は、鴻原を外から崩していこうとしているのだろう。恵三を潰せば、鴻原に大打撃を与えられるとでも考えているんじゃないか」
「いや、それだけじゃないな」

 別の旦那が考えながら言葉を挟んだ。

「恵三を潰せば、周防が崩せるとでも考えているんじゃないのか」

 旦那達が頭を寄せ合い難しい顔で話す中黙ったままだった恵三がゆっくりと口を開く。

「面白いじゃないか」

 不敵に笑う恵三に、旦那衆は肩を竦めた。

「恵三らしいな。僕らとしては、少しはお前が焦る顔が見たいんだが」
「ああ、全くだ」

 冗談交じりの会話が交わされ、恵三がハハハと笑った。

「有島は、俺から見れば隙だらけだ。取る足りない。心配はいらない」

 絵美子が恵三の顔を見た時、少し前までの解れた表情はもう消えていた。冷たさを孕む美貌の中にある瞳が不敵な光を見せていた。

 戦う顔だ。

 絵美子は思う。

 私に、何か出来る事は?

「そういや、有島というのは相当な好色男だとか」
「ハハハ、表沙汰にはなってないが、あちらこちらでというハナシだぞ」
「嫌な男だな」

 旦那衆の話を聞きながら、絵美子は恵三の身を案じていた。



『絵美子との約束、ちゃんと守ってやらないとな』

 別れ際の恵三の言葉に絵美子は一瞬『約束?』という顔をしてしまったが、直ぐに思い出す。

『はい!』と元気に応えた絵美子にフッと笑った恵三の人差し指が軽く頰を撫でた。触れたところが微かに痺れる。

 楽しかった宴は、恵三の機嫌を上向きにしたようだ。いつにも増して、芳香が増量していた。

 媚薬にやられ、もはや約束事はなんだっか、と思い始めた時、恵三が言った。

『来週だな。迎えに来る』



 別れた後、余韻に溺れてしまうと浮上はいつだって難しい。

 今夜が、以前交わした約束を果たしてくれる約束の日だった。

 私はまた溺れないよう必死にもがくのだろうか。

 はあ、とため息を吐いた時だった。

「姫花、今夜は梅奴の代わりにお座敷入ってくれないかい」
「え、平丸屋の梅奴ちゃん?」

 外から戻ってきた花菱の女将が、三味線の稽古を始めようとしていた絵美子を捕まえた。

「すまないね。さっき、平丸屋のおかあさんにそこで会ってね。梅奴ちゃん、今日高熱で寝込んでしまったらしくてね。最近はどこの芸者屋も半玉は少なくて、代役を揃えるのも一苦労なんだよ。ちょうどうちの姫花が今夜はお座敷掛かってないって話したらーー」

 つまり、今夜の約束はまた後日に、となりそうだ。

 項垂れる絵美子に女将は申し訳なさそうに言った。

「今夜は確か、津田様との約束だったね」
「はい」
「大丈夫さ。姫花は津田様のお気に入りだから。私が電報を打って事情を伝えておくよ」
「……はい」

 絵美子は恵三からあの座敷のご褒美としてもらった蝶と花の刺繍が施された薄紅色の半襟を恨みがましく眺めた。

 今夜、この半襟使っちゃおう。恵三さんがそばにいるって思えるから。

「おかあさん、今夜は、何処で、何方どなたの?」
「ああ、そうだった。えっと」

 女将は老眼鏡を掛けて、平丸屋の女将からもらったメモ用紙を見た。

「吉兆で、有島様」

 絵美子の目が、見開かれた。

 私に出来る事が、あるかもしれない。

 それは初めての〝はかりごと〟。
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