胡蝶の舞姫

友秋

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昭和33年5月 新宿 マリー

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 昭和三十三年四月に施行された売春禁止法によって、公認で売春が行われていた赤線が廃止となり、表向き、ほぼ全ての遊郭が廃業となった。しかし、あくまでも表向きの話であり、五月現在、旅館、旅荘、と行った看板に付け替え隠れて違法な営業をしている店が未だ多く見られた。

 新宿二丁目にある〝富さん〟の店もその一つだった。

 宵闇に溶ける黒い板塀に囲まれた屋敷は、旅荘という看板を掲げてはいたが、昼間、陽の光の下で見ると、健全な旅館業を営む建物ではない事は明らかだった。

 染め抜きの藍の暖簾をくぐって中に入った佐藤徹也は、玄関へと続く石畳を歩き、辺りを窺う。中は、ここが一週間前に当局の取り締まりの対象となったことが見て取れる静けさに包まれていた。

 女の声どころか人の気配もしない。梅雨の湿った風が、庭の柳の枝を揺らしていた。引き戸の玄関に手を掛けた時、人の気配を感じた徹也は振り向く。

 誰もいない、と思われた庭に、人がいた。

 箒を持ち、庭を掃く、赤い絣に白い割烹着を着けた少女だった。こちらを見ていた。

 目を凝らして少女を見た徹也は、おや、と思う。

 外国人?

 抜けるような白い肌は日本人のそれとは明らかに違った。目の色、髪の色もアジア系のものじゃない。

 梅雨の晴れ間に覗いた陽の光の下、息を呑む美しさだった。徹也は心の動揺を隠し、軽く会釈した。

「こんにちは」

 徹也の挨拶が、思いがけないものだったらしく、少女は恥ずかしそうにちょこんと頭を下げて直ぐに裏へと駆けていった。

 サワサワとなる葉擦れの音が、幻をみせたかの余韻を残していた。

 店の子、かな。

 徹也は首を傾げながら、中へと入っていった。





「やられたよ」

 奥座敷に通された徹也を待っていた平泉富夫、通称〝富さん〟は、キセルをふかしながら笑っていた。摘発されて営業不可能となり困り果てているのかと思いきや、案外余裕な様子だった。

 一週間前、徹也は懇意にしている警察官から『明日、花園神社に行ってみろよ、面白いものが見られるぞ』と耳打ちされていた。

〝面白いもの〟とは、何の事はない、〝大捕物劇〟だ。

 話を聞いたから、とうわけではないが、用あって花園神社の近くを通りかかった徹也が見たのは、半裸に近い女達が次から次から境内へと逃げ込む光景だった。

『花園神社から向こうは管轄外になるんだ。あそこに逃げ込めば捕まらない、って女たちは知っているのさ』

 警官は笑っていたが、逃げ切れた女達はどこへ行ったのか。

「時間の問題だな、とは思っていたんだけどね。予想より早く来た」

 女物の着物を、襟を大きく抜いて少しだらしなく着、白く細い肩が露わになっている。肩に掛かる長い髪の毛を一つに束ねたは富夫は、気怠げにキセルの煙を吐き出した。

 ゆったりとした構えは、余裕ではなく諦めだったか。勧められた座布団に座った徹也は富夫を眺めた。

「富さんとこはこの辺りで一番目立っていたんだ。暖簾を変えたところで目を付けられていて当然だろ」

 富夫は「そうだね」と力無く笑い、キセルを火鉢に軽く叩きつけて灰を落とした。

「で、これからどうするんだ」

 徹也の問いに富夫は再びキセルをくわえて遠い目をした。ゆっくりとした口調で考えながら話す。

「逃した女達が、一週間経って何人か戻って来た。彼女らは元々、売られるか、逃げるかして来た女達で行き場所なんてないんだ。彼女らを連れて田舎に帰るよ」
「田舎に?」
「ああ、そうさ」

 キセルの煙の行方を視線で追いながら徹也は聞く。

「富さんは、生まれも育ちも新宿じゃなかったか」
「僕自身はね。母親が北海道なんだよ。夕張。炭鉱の街さ。あそこは鉱夫がいる。ちょっと荒っぽいけど、こっちの澄ました冷たい男どもよりはよっぽどいい。それにこっちみたいにまだ厳しくはないって話だ」

 徹也は「なるほどな」とだけ応えてそれ以上は踏み込まなかった。

 北海道。その地名が胸中を少しだけ抉った。この話はもういい、話題を変えよう。

「ところで富さん」

 徹也は話の舵を切った。

「今日、俺を呼んだ用は何だ」

 富夫はキセルを口から外して煙を吐き出し意味深に笑った。

「さっき、そこで女の子に会わなかったか」

 徹也は、ああ、と思い出す。

「会った。外国人みたいな」

 見た者をハッとさせるくらいの雰囲気を纏った少女。一度見たら忘れられない容姿をしていた。

「あの子は摘発の対象じゃなかったのか」

 富夫は、キセルの煙を吐きながら「あの子はね」と話し始めた。

「商売女じゃない。親戚の子だって言ったら、警官も哀れんで置いていった」
「親戚って。明らかに日本人じゃないのに?」

 富夫が肩を竦めてクックと笑う。

「警官が哀れんで、って言ったろ。あれは外国人じゃない、混血児だよ。日本人の子だ」

 え、と徹也が言葉を詰まらせる。黙り込んだ徹也に富夫は続けた。

「万里子、っていうんだ。今日来てもらったのは他でもない、あの子の事で頼みがある」
「どんな頼みだよ」

 嫌な予感がする。まさか、と構える徹也に待っていたのは予想通りの言葉だった。

「あの子をお宅に引き取って欲しい」

 唐突な話に徹也は「は?」と声を上げた。

「どういう事だよ、説明してくれ」

 富夫は「無責任な話なんだけどさ」とため息を吐く。

「三年くらい前かな。新宿駅の東口で、乞食みたいに真っ黒になってうずくまっていたのを拾ったんだよ。この子は綺麗になるって一目で分かったから拾ったね。身寄りは無いって言うし、戦災孤児かなんかと思ったから商売道具になると思ってさ。けど、こんな事になって」
「本当に無責任だな」

 徹也は吐き捨てるように呟いた。戦災孤児の惨めさは嫌という程分かっている。大人達の汚さも。富夫は肩を竦めた。

「分かってるさ。だから、あの子は放り出すわけにはいかないと思ってお宅にお願いする事にしたんだ。お宅ならって思った」

 富夫の言葉に徹也は複雑な想いを抱いた。こちらに任せて大丈夫な保証などないのにな。そっと眉を顰め、徹也は話を深掘りする。

「そこまで考えるなら一緒に北海道、連れて行けばいいだろう」
「それがさ、あの子、東京から離れたくないって言うんだ」
「東京から離れたくない?」

 怪訝な顔をする徹也に富夫は思案顔をした。

「ただの〝孤児〟じゃないね。どうも何か事情を持ってる。僕は漠然としか分からないけど」

 ますます分からない。

「どうしてそんな事が言える?」

 キセルをくわえてひと吸いして煙を吐き、源太は話し始めた。

「最初は、立川辺りのパンスケが産み落として捨てた子かと思ったけど」
「違うのか」
「違うね。逆算してみると分かる。万里子の生まれは、戦中だ。進駐軍の上陸前だ」
「何でそんな事分かる?」
「本人が名前と年齢をちゃんと話した。ついでに、証拠もある」
「証拠?」

 ゆらりと立ち上がった富夫は、奥の押し入れから小さな薄汚れた巾着を出して来、徹也に渡した。

「万里子を拾った時、あの子が首から掛けていた物だよ」

 巾着には長い紐が付いていて、裏返すと名札が縫い付けてあった。

〝周防万里子一歳 東京府西多摩郡小河内村ーー〟

「東京府……」

 呟く徹也に富夫は言う。

「東京都の発足は昭和十八年。万里子の生まれは戦中だ。戦況が悪くなってきた頃、赤ん坊から大人までみんなそうやって服や持ち物に必ず名札を付けたものを身に付けていたから、その一つだろう」

 親が縫い付け、まだ当時乳飲み子であったろう万里子の首に掛けていたのだろう。それにしても、と徹也は考える。

 進駐軍の上陸前に、しかも戦中にアメリカ人と関係を持った日本人がいたのか。しかも、子供まで作って。

 戦争が終わって十三年。書かれた文字は、名前が辛うじて読める程度で住所はもう消えてしまっていた。

「けどさ、あの子何も話さないんだ」

 巾着を眺めていた徹也は難しい顔のまま顔を上げた。

「新宿に流れ着くまで、自分がどこから、どうしてこんなところに来たのか、全く話さないんだ。聞こうとすると、震えて脅えて、泣き出す。よほど怖い目にあったんじゃないかって思って、もう聞くのはやめた」

〝怖い目〟に。

 なるほど、と呟いた徹也は、巾着を軽く握った。中には硬いものが入っている事が分かった。

「開けていいか」

「もちろん」と富夫が頷いた。

 中には、クロス、つまり十字架が入っていた。燻んではいるが、剥げたりはしていない。恐らく純金だ。

「こんなものを、万里子は持っていたのか?」
「ああ。驚くのはそれだけじゃない。裏を」

 指さされて徹也は裏返した。裏には、アルファベットで名前が彫られていた。

「S.NAOYA?」

 読み上げて、徹也は目を丸くした。

「まさか、周防直也?」
「ああ、まさかだよね」

 富夫が余所事のようにキセルの煙を吐いていた。

「まさか、あの周防財閥の人間が、あんな乞食みたいになって、と僕も思ったんだけど、考えてみたら、周防財閥の総統、周防麒次郎の跡取りと目されている周防直也って確か、牧師で、どっか田舎に引っ込んでいた、って話を客から聞いた事があるんだよ」

 周防財閥。戦後勢いを伸ばし、東京五輪招致に盛り上がる好景気に乗っかって経済界で益々勢力を拡大している新興財閥だ。周防直也とは、その財閥の御曹司だ。

 経済界に常にアンテナを張り、世の中の情勢に敏感な夜の世界の人間で生きていれば知らない者はいない。

「もしかしたら、お宅らにとってとんでもない切り札になるかもしれないよ。安くない〝買い物〟じゃないかい? まあ、あの子渡して金貰う気はないから安心しな。引き取ってもらえらたそれでいい」

 徹也はため息を吐いた。

「参ったよ、分かった。引き取る。多分、兄貴は商売になりゃ文句は言わないだろう。それより何より、兄貴はあんなだけど、義理は忘れない男だから。大恩人の富さんの頼み、断ったりはしないよ」

 富夫は「ありがとう」と微笑み、手を叩き鳴らした。

「マリー、客人にお茶を持ってきておくれ」

 奥から「はーい」と言う声がして、間も無く、障子が静かに開いた。

 赤い絣に白い割烹着、童のように肩で切り揃えた髪。西洋人形のような美しい顔だが不思議と、着物がしっくりときていた。

 遠目で見た時もハッとしたが、近くで見ても一瞬、息をするのを忘れそうになった。

「年齢よりも大人に見えるけど、まだ十六だよね、マリー」

 徹也の思った事を汲んだ富夫の言葉にマリーは「はい」と頷き三つ指突いて挨拶をした。

「周防万里子です」

 顔を上げた時に見せた笑顔に、徹也は胸に小さな痛みを感じていた。
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