舞姫【前編】

友秋

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辞表

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 予想より遥かに早く、その日は来た。あれからまだ、2週間も経っていないというのに。

「異動、ですか」
「ああ……」

 上司である店長の顔が固い。

 覚悟は出来てたけどさ。仕事はえーな。

 保は心の中で苦笑いするしかなかった。

「お前、何かしたのか? あの成約の後いきなり『担当を変えろ』という津田様からのクレームがあっての、今回の人事だ」

 お前の抜けた穴をどう埋めたらと店長が狼狽える。異動を告げた時の固い表情は、本社人事の意図を測りかねていたからだ。

 本社の営業部長付け。

 まぁ、体良く飼い殺しってとこだな。

「俺としては、上に何かの間違いじゃないかと何とか掛け合ってみたんだが……」

 どう足掻いたってムリだろう。保は内心で苦笑した。

「ありがとうございます。店長のそのお気持ちだけで嬉しいですよ」

 ニッコリと微笑んだ保は前以て準備しておいた封書をスーツの内ポケットから出し、店長のデスクに出した。

「兵藤、これは……!」

 封書に書かれた文字を見た店長の顔色が変わる。

 辞表だった。

「本当は、何時だって覚悟はしていたんですよ」

 言葉には嘘はない。今回の事はあくまできっかけに過ぎない。

 保は深く頭を下げた。

 しかし、自分はどうせいつか星児のところへ、いつ辞めてもいいんだ、などといった、いい加減な気持ちで仕事をした事は一度もない。何時だって本気だった。

 部下を持つ身になってからは、何かがあれば必ず自分が責任を取る、という覚悟で常に携帯していた〝辞表〟だった。

 本来ならば、こんな形で、まるで尻尾を巻いて逃げ去るような辞職は性に合わない。不本意過ぎる。けれど、

『保さん、私が一人でちゃんと生きてゆく道を見つける事は、保さんと星児さんへの恩返しになると思ってるの』

 頭を下げたままの保の脳裏に蘇るのは、あの日潤んだ瞳で真っ直ぐに彼を見つめていたみちるの言葉だった。

 保は、自分もここで一つの区切りを付けよう、と覚悟を決めたのだ。

 少しでもみちるの傍にいてやれる道を選択するために。

「本当にお世話になりました。沢山のチャンスを下さった店長には、心から感謝しております」

 保は、暫くの間その頭を上げなかった。






 保の辞表を受け取った店長は「受理するかはちょっと考える」と言いそれを預かった。どちらにしても、受理するしかないだろう、と保は思う。

 本社からの直々の辞令だ。販売店に残る道はもう残されてはおらず、本社にしてみれば、明らかな鼻つまみ者は「辞職大いに結構」であろう。

 デスクに戻った保が机上の片付けをしていた時だった。

「兵藤君」

 柔らかなハイボイスの呼びかけに、保は振り向く。少し離れた所で立っていた女性が寂しそうに微笑みを向けていた。

「河村さん」

 聡明な印象を与える美人で店内でも評判の看板店員だった。

「辞めてしまうの?」

 寂しそうな表情を浮かべ、彼女が言う。保の、辞令と辞表を出した、という噂はあっという間に拡がっていた。片付けをする間も何人もの同僚や部下達から真意を聞かれた。

 その度に保は丁寧に説明し、部下達には、この後は心配ないようしっかり引き継ぎをするから、と言い安心させた。

 彼女は――。

「ああ……」

 保は複雑な表情で彼女を見、肩を竦めた。

「やっと、また兵藤君と一緒にお仕事する事が出来て、私凄く嬉しかったのよ」

 彼女、河村理沙は、保がみちるに出会ったあの頃、もしかしたら付き合うかも――という途上段階の関係にあった女性だ。

 当時は、確かに彼女に惚れていた。身体の関係もあった。

 ただ、自分の背後にある事情が引っ掛かり、なかなか『付き合って欲しい』と言い出す事が出来なかった。彼女が保のその言葉を待っている事を知りながら。

 その内に、みちると出会ってしまい、転勤、という形で自然と関係は途切れてしまったのだ。

 あの時に、しっかりと彼女と付き合う形を取っていたら、こんなに苦しまずに済んだだろうか、という考えが保の頭をもたげたが、直ぐに、いや、と否定する。

 どちらにしても、自分はみちるに惹かれただろう。

「俺も、河村さんと久しぶりに仕事出来て楽しかったよ」

 保は理沙に優しく笑いかけた。その笑顔に、理沙はキュッとブラウスの胸元を握り締めた。

 締め付けるような胸の痛み。それが全てを物語っている。

 理沙はずっと待っていたのだ。転勤で離ればなれになってしまった後も保からの連絡を。

 何かを言おうとした理沙だったが、喉元が塞がれたように潰れなかなか言葉にならなかった。

 兵藤君、兵藤君! イヤよ、もう会えなくなるなんて――! 私はまだ貴方の事が……!

 理沙はさりげなく保に近付き、片付けを手伝い始めた。

 理沙は精一杯の笑顔を作り小さく囁いた。

「私、つまらない意地なんて張らないで自分から兵藤君に連絡してみれば良かったわ」

 明るく言おうと努めた理沙だったが、その声は震え掠れる。理沙はごまかすように自嘲気味に笑った。保も困ったように笑う。

「ごめんな……」

 その言葉がズキンと理沙の胸を刺した。

〝ごめん〟? 何に対する言葉なのか。

 連絡をしなかった事なのか、理沙の気持ちに答えられない、という事か。理沙は目を閉じ、小さく首を振った。

 どちらにしても、もうとっくに終わっていたのね。

「私、兵藤君に負けないくらい素敵な人、見つける」

 保は「ああ」と爽やかな笑みを理沙にくれた。


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