舞姫【前編】

友秋

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激震3

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 本当は、怖い、助けて。星児さん、保さん。私を迎えに来てください!

 そう叫びたかった。でも。



 泣き崩れてしまいそうな自分を必死に奮い立たせて、みちるはそこにいた。

 毅然、とまではいかなくとも、決して星児と保の事は話すまい、と口を閉ざした。

 自分は、あの二人に迷惑をかけてはいけない存在だから。その一心で。



 今日も、あの男が夕方店に現れた。だが、みちるが上がる前に帰って行った。

 だからマスターも安心して彼女に少しお使いものを頼み、表から帰したのだ。彼が待ち伏せしてるなど露知らず――。


 付けられている、とみちるが気付いたのは、マスターから頼まれたお使いを済ませた後、人通りの少ない霊園沿いの路地を歩いている時だった。

 逃げようとしたみちるは腕を掴まれ、近くの茂みに引き込まれた。

「どうして、僕を避けるんですか?」

 バクバクと壊れてしまいそうな勢いで脈打つ鼓動が邪魔をして、みちるは声が出なかった。

 みちるは血の気が引き蒼白になった顔で、口だけを動かす。

 真面目そうなお坊ちゃん風の大学生とおぼしき彼は、みちるの腕を掴んだまま離さない。瞬きもしない目がみちるを震え上がらせた。

「僕はただ、君がす、好きで、はな、話しがしたくて」

 ごめんなさい、私は、貴方の事は。

 そう言いたくても言葉にならない。泣き叫ぼうにも声も出ない。

 恐怖のあまり、涙も出なかった。

「君はいつも、優しく笑ってて、だから、だから……」

 星児の言った言葉がみちるの脳裏を過った。

『気のねぇヤツに気ぃ持たせてるんだよ』

 そんなつもりじゃないのに!

 みちるはギュッと目を閉じ首を横に振った。みちるの仕草を見た彼は、完全に拒絶された――と、表情を変えた。

「……ひっ……ぁっ」

 そのまま地面に押し倒されたみちるは必死に抗った。

 蘇る記憶は、あの雨の歓楽街で見た保の姿。

 助けて、助けて保さん――――!

「や……やぁあっ!」
「おい! 何してるんだ!」

 男の声がし、みちるの身体を蹂躙していた手がフッと一気に離れた。

「大丈夫かっ、君!?」

 みちるが恐る恐る目を開けると、そこには、男を押さえ込みながら心配そうに彼女を伺う巡回中の警察官がいた。

†††

 バチが当たったんだ。

 星児さんにあんな、あんな言葉言って。

 こんな私が星児さんや保さんに心配してもらったり、ましてや迎えに来てもらう資格なんて、ない。

 溢れそうな涙を必死に堪えた。

 私は、最低。

 追い討ちをかけるかのような冷ややかな女性刑事の取り調べに、みちるは完全に心を閉ざした。

 みちるの記憶の奥底に眠る、父と母が亡くなった時の、大人達の冷たい対応。

 あれは、警察署だった。

「警察は、嫌いです」

 聞かれた事には答えず、みちるはそれだけ呟き、貝になった。

 そんなみちるの頑なだった心が、亀岡の押し付けがましさのない自然な優しさに、ほんの少しだけ和らいでいた。

 自分の名前だけなら、いいかな、話しても。

「津田、みちる、です……」

 みちるが名前を口にした時、それまで穏やかな表情で彼女を見ていた亀岡の表情が一瞬強張った。

 なんだろう?

 みちるは怪訝そうに首を傾げ、それを見た亀岡は慌てて表情を取り繕った。

「ああ、ごめんごめん。ありがとう。名前だけでも聞かせて貰えれば助かるよ」

 刑事はボールペンで調書に名前を書き込んだ。

「ちょっと席を外すけど、ちゃんと帰してあげるから心配しないでもう少しだけ待っていてくれるかな?」
「……はい」

 不安そうな表情のみちるに亀岡はそっと微笑み、席を立った。




 みちるは毛布にくるまったままコーヒーカップを両手で持ち、その中の茶色の冷めてしまった液体を見つめていた。

 微かに顔を上げ、そっと部屋の様子を伺った。

スーツ姿の男性が三、四人出入りしており、その中に時折女性の姿が見える。もう夜中というのに、皆、忙しそうに動き回っていた。

 亀岡が席を立って、どのくらい経っただろう。

 私、早く帰りたい。保さん、帰って来てるかな。どうしよう、なんて話そう。

 心細さと不安で胸が苦しくなった時だった。

「津田みちるさん、こっちに」

 部屋の入り口から顔を出した亀岡が手招きしていた。

 え……?

 素早く近くに来た若松がみちるに手を添え立たせた。

 服が乱れている為に毛布にくるまったままゆっくりとみちるは歩き出す。

 そして――、

「みちる!」

 部屋から出た瞬間、強い力に抱きすくめられた。

 みちるは一瞬何が起きたか分からなかった。広い胸に顔を埋められ、上げられなかったが、

「みちる、みちる! 良かった! どんだけ心配したか、わかるか?」

 みちるの躰に深く深く浸透する声。芯から全てを潤してくれる感触。

 保、さん? どうして?

 腕の力がフワッと優しく緩み、その時初めてみちるは顔を上げた。

 いつも広く柔らかく包み込んでくれていた優しい瞳がそこにあった。

「た、たも……っ」

 込み上げるものに潰されて、みちるは声が出なかった。

 クスッと笑った保は優しい手付きで彼女の頭を撫でた。心底、愛しそうに。



 二人の様子を黙って見ていた亀岡は思う。

 どういう経緯で彼女が兵藤の元に流れ着いたのかは分からない。しかし、彼等の積み上げて来たものの全てを今、見た気がした。

 自分の知る限りのこの子の情報を、コイツに教えても、大丈夫だろう。

「兵藤、ちょっといいか」



「みちる。俺がどうして迎えに来たのかは、後で説明してあげるから。今はちゃんと調書に協力してあげなさい。みちるが思い出すのツラい部分には触れないでくれ、ってさっき俺がしっかりお願いしておいたから」

 優しく説くようにみちるに話した保は彼女の頭をそっと撫でる。

「大丈夫だから」

 保は家から持って来たみちるのジャケットを彼女の肩に掛け微笑んだ。

 保の微笑に、みちるの心が解けてゆく。

「はい……」

 泣きそうだったみちるの顔に笑みが拡がる。

 保は、再び刑事課の部屋に入ってゆくみちるの耳元に優しく囁いた。

「ちゃんと、待ってるよ」

 自販機で買ってきた紙コップのコーヒーを、亀岡は保に渡した。保はそれを、どうも、と受け取る。

「兵藤タバコ吸うよな? 喫煙所、あるんだぞ」

 刑事課の部屋の前から動こうとしない保に亀岡はそう言葉をかけたが、保は首を振った。

「みちるがここから出て来た時に、俺の姿が見えなかったらまた不安にさせてしまいますから。彼女には一秒足りとも悲しい想いや寂しい想いはさせたくないんで」

 保はきっぱりと言い切った。亀岡は苦笑いする。

「……過保護だな」

 そうやって、あの子を大事にしてきたんだな。

「もう完全にバレてしまいましたし隠す必要もありませんからね」

 保は亀岡を見、ニッコリと笑った。

 亀岡は困ったような笑顔を見せ、保を軽く眺めていた。

 あれから、4年か。男らしさが増したな。

「みちるはもう二十歳ですから、時効です」
「まったくお前は」

 苦笑いする亀岡に保はそれから、と続ける。

「その大学生は反省してるみたいですし、未遂だった事だし、みちるにももう思い出させたくないんでこれきりで。ただ、彼には、もう二度とみちるの前に現れない、と約束はさせてください」

 保はニッコリと微笑んだ。

「約束を守らなかった場合はどうなるか分かりませんから」

 にこやかに続ける保の目が笑っていない。

 笑顔だが内心は腹わた煮えくり返るほど怒り心頭、ってワケか。怒らせたら一番厄介なタイプだな。

「それは警察で言うセリフじゃねーな」
「大丈夫ですよ。お縄になるような事はしませんから」
「そうしてくれ」

 亀岡はハハハと笑うしかなかった。

 コイツが言うと冗談に聞こえねーよ。

「今もアイツ、剣崎と一緒なのか?」
「ご想像にお任せします」
「会わなかった数年で小憎たらしさが増長してやがる」

 カップに口をつけたままクスクス笑っていた保は、それにしても、と亀岡を見た。

「こんなとこに亀岡さんがいるとは思いもしませんでした」

 亀岡が保を見ると、何かを探るような表情が見え隠れしている。

「ああ、俺もこんなとこにいるのは想定外なんだが」
「想定外?」

 勘の良い保はその言葉にすぐ反応する。

「いや、それはまあいい」

 保の反応に亀岡は言葉を濁した。

 ここにいるいきさつなんて、こんなとこでおおっぴらに話せる内容でもないしな。

「しかし、運命のいたずら、とかいうヤツかな。まさか彼女に再会出来るとは、てな。名前を聞いた時、何年も探し求めた想い人をやっと見つけた感動、ってのを初めて味わったよ」
「〝想い人〟ですか」

 保が、なるほど、と笑った。

「でもな、名前を教えてもらうだけでニ時間くらいかかったんだぞ」

 保の顔から余裕の笑みが消えた。亀岡は、保の微かな変化を感じ取り、言葉を選びながら続けた。

「今のお前達のやり取りを見ていて、どれだけお前が彼女を大事にしていて、彼女もお前をどれだけ慕っているか、イヤという程伝わった。だったら直ぐにでもお前に迎えに来てもらうよう連絡したっていいのに」

 静かにひと息吐き、亀岡は言葉を継いだ。

「彼女は決してお前達の事を口にしなかった。家族はいない、とまで言い切ったんだ」

 保は静かに亀岡を見た。

「確かに、家族、ではないですね」

 微かな自嘲が見て取れたが、亀岡は敢えて次の話題に入った。

「家族、で思い出したんだが」
「え?」
「実は俺はあの後ずっとあの事故の事調べて来たんだ。あの子の両親の事、お前に教えといてやるよ」

 それは、あまりにもサラッと、突然にーー。

 

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