舞姫【前編】

友秋

文字の大きさ
上 下
36 / 64

君が好きだよ

しおりを挟む
「みちる。味噌汁に胡麻油は斬新だけどさ、お玉一杯は、ちょっとキツイな」
「……えっ⁉︎ あっ! 保さんっいつ帰って来たの⁉︎」

 ボンヤリと夕飯の支度をしていたみちるが驚いて顔を上げると、リビングからカウンター越しにスーツ姿の保が覗き込んでいた。

 保はみちると目が合うと、ニコッと笑う。

「もうかなり前に『ただいま』って言ったけど、みちる全然聞こえてなくてさ。いつ気付くかなー、って思いながら黙って見てたら、身の危険を感じる品、作り始めたから声掛けた」

 みの、きけん?

 みちるは手にしている瓶とお玉を見た。

 瓶は胡麻油。お玉一杯に並々と注がれたそれが今鍋の中に投入されていた。

「それさ」

 保は鍋を指差しながらニッコリ。

「俺の勘違いじゃなきゃ、味噌汁だよな?」
「ああ゛あっ! 大変!」

 保はみちるの焦る顔を見ながらアハハハと笑った。

「いいよ、変わる。手直しして何とか食えるモンにしてやるから」

 保はそう言いながらスーツのジャケットを脱ぎ、ワイシャツの腕を捲りながらキッチンに入って来た。

「ご、ごめんなさいっ」

 慌てふためくみちるの手から保はそっとお玉と胡麻油の瓶を取った。みちるの頭を撫で、言う。

「風呂はまだ?」
「え、うん……」

 保はみちるに「じゃあ入っておいで」と優しく微笑んだ。

「ツライ事や悲しい事があった時はムリはしなくていいんだ。思う存分1人の時間を過ごせばいい。俺は風呂の時間が何よりの時間だと思うね。ゆっくり入って来いよ」

 今ここで、声を泣いてしまえたら、どんなにか楽になるだろう。でも、それは出来ない。

 みちるは心の中でそっと呟く。

 泣き付かれたら、保さんは迷惑だよね。






 リビングのドアの向こうに消えたみちるの後ろ姿に、どれほどショックな事があったのだろう、と保は思いを巡らせた。

 泣かなくなったな、と保は思う。

 いや、元々俺の前ではあまり泣かないか。

 頼りにされてねーのかな、と微かに痛む胸を抱えて保は小さくため息をついた。

「さて、どうすっかな……」

 保は腕を組み難しい顔をし、コンロにかかる鍋を見た。




 立ち上る湯気がゆらゆら揺れるバスルーム。バスタブに浸かるみちるはゆっくりと手を伸ばし、いつも麗子がするような仕草をしてみた。

 違う。麗子さんはもっと優雅でしなやかで、女の私が見てもウットリしちゃう。

 揺れる湯気の中に伸ばした手が見えなくなった。みちるの視界が、曇ったのだ。

 分かっていたじゃない。最初から苦しむ事。だからブレーキ掛けた、筈だったのに。筈だったのに!

 みちるは膝を抱え、ブクブクと身体を沈める。

 蓋……。心に蓋が、出来たらいいのに……。





「凄い、これがあのお味噌汁?」
「そ」

 土鍋の蓋を持つ保が、どうだ、と言わんばかりの表情をみちるに向けた。その表情にみちるは思わず一言。

「保さん、ドヤ顔です」
「ドヤ顔にもなるだろー。すげ、頭捻ったんだぞ。油ギットリ味噌汁」

 みちるはそれを首を竦めながら「ごめんなさい」小さく舌を出す。保はその顔を見て小さくため息をついた。

 その顔はズルイな。

「ゆるーす」
「わぁい」

 保の〝苦肉の策〟は味噌仕立てキャベツ鍋だった。八当分くらいにされたキャベツ丸ごとが見事な鍋料理になっていた。

「この間のさ〝初夏だってのに味噌煮込み〟で、熱いのは懲りたんだけどな。もうコレしか思い付かなかった。冷蔵庫にキャベツあったからさ」

 慣れた手付きでみちるの皿に取り分けた保は笑いながら言う。

「かなり煮詰まってたから埋めまくったぞ」

 言いながらも保は思う。

 みちるはどれだけの時間煮立った鍋を見詰めていたのだろう。

「後は、材料の原型留めてねぇ恐ろしい代物が二品くらい出来上がってたけど、それはさすがの俺もどうにもならなくてな。わりーけど、捨てちまったぞ」
「うん、いいよ。ごめんね」

 みちるは、保が取り分けてくれた皿を両手で持ったまま伏し目がちに固まる。

 何があった?

 そう、聞きたかった。喉元まで来た言葉を、保は押し戻す。

「さ、食お」
「うん」

 保の優しい声に顔を上げたみちるがニコッと笑った。





「旨いか?」
「うん! 凄いよ! どうしてこんなに?」
「そりゃぁ、イロイロ工夫はしました」

 悲しげな色に覆われていたみちるの顔にほんのり幸せの色が挿すのを見て、保が笑い掛けた。

「落ちてる時は、旨いモン食うのが一番だろ?」
「……うん……うん」

 何も聞かない。何も勘繰らない。でも、ちゃんと包み込んでくれる。柔らかく、温かく。それが、保。

 私は、甘えていいんですか? でも、一度寄りかかってしまうと。

「泣きたい時は泣けばいい。泣いた分だけすっきりするぞ。ちゃんと風呂で泣いて来なかったな」

 温かい食べ物、優しい言葉が合わさって溶け合って、心に染み込む。

「う゛……ぅ……」

 箸と皿を持つ手が震えていた。その手に、ぽたぽたと雫が落ちる。

 いつの間にか傍に来ていた保が柔らかくみちるの肩を抱き、次の瞬間、張り詰めていた何かが弛んだ。

 箸も皿もテーブルに置いたみちるは、保に抱きつき声を上げて泣き出した。

 辛いの。苦しいの。でもどうしたらいいのか、私、分かんないの。

 みちるは泣きながら、心の中の葛藤を吐き出していた。

 保は、みちるの頭と背中を優しく撫で続けていた。目を固く閉じ、胸が張り裂けそうな想いを必死に隠して。



 みちる。君が好きだよ。一生、俺が守ってやるよ。


 そう言えたら、どんなにか、良いか。

 保の脳裏に浮かぶのは星児の姿だ。

 この想いは決して口にしてはいけない。封印しなければいけない。

 しゃくりあげていたみちるが少し落ち着きを取り戻してきたところを見計らい、保が静かに話しかけた。

「みちる」

 泣き晴らした目が、保を見上げた。潤む漆黒の瞳を見つめながら保は思う。

 みちるの、この先の未来には何が待っているのだろうか。穏やかな、なだらかな道が続いているとは思えない。

 自分がこの先ずっと守ってやる事ができなくても、今、精一杯の〝幸せ〟を感じさせてやりたい。

 俺は、君の人生の踏み台になってもいい。

 たとえ君が、俺を見ていなくとも。

 保は両手でそっとみちるの顔を挟んだ。

「保さん、ありがとう。たくさん泣いたら、少しすっきりしました」

 大きな手に包まれた顔の中で、みちるの腫れぼったくなった目が笑っていた。

「よし」

 柔らかな笑みを見せていた保は、ゆっくりとみちるに顔を近づけ彼女の頬に唇を寄せた。そして、優しく頬擦りをする。

「……ん」

 みちるはくすぐったそうに首を竦めて笑った。

「くすぐったいよ……」

 クスクス笑っていたみちるは、今度は、頬擦りしていた保の顔を両手で挟んだ。

「お礼です」

 言いながら、みちるは彼の頬にキスをした。



 保さんは、〝大好き〟です。ずっと、傍にいて欲しい。保さんの拡げた手の平の中で、フワフワと浮かんでいたい。でもそれは、いつまで許される?

 みちるは心の声をそっとしまう。

「冷めちまうな。食事再開!」
「うん」

 笑う保が再び席に着く。保が箸を取ったのを見て、みちるも箸を取った。

「では、いただきます」
「いただきまーす」

 顔の前で手を合わせた二人は笑いながら食事を再開した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

友情結婚してみたら溺愛されてる件

鳴宮鶉子
恋愛
幼馴染で元カレの彼と友情結婚したら、溺愛されてる?

結構な性欲で

ヘロディア
恋愛
美人の二十代の人妻である会社の先輩の一晩を独占することになった主人公。 執拗に責めまくるのであった。 彼女の喘ぎ声は官能的で…

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

【完結】やさしい嘘のその先に

鷹槻れん
恋愛
妊娠初期でつわり真っ只中の永田美千花(ながたみちか・24歳)は、街で偶然夫の律顕(りつあき・28歳)が、会社の元先輩で律顕の同期の女性・西園稀更(にしぞのきさら・28歳)と仲睦まじくデートしている姿を見かけてしまい。 妊娠してから律顕に冷たくあたっていた自覚があった美千花は、自分に優しく接してくれる律顕に真相を問う事ができなくて、一人悶々と悩みを抱えてしまう。 ※30,000字程度で完結します。 (執筆期間:2022/05/03〜05/24) ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼ 2022/05/30、エタニティブックスにて一位、本当に有難うございます! ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼ --------------------- ○表紙絵は市瀬雪さまに依頼しました。  (作品シェア以外での無断転載など固くお断りします) ○雪さま (Twitter)https://twitter.com/yukiyukisnow7?s=21 (pixiv)https://www.pixiv.net/users/2362274 ---------------------

車の中で会社の後輩を喘がせている

ヘロディア
恋愛
会社の後輩と”そういう”関係にある主人公。 彼らはどこでも交わっていく…

冷徹御曹司と極上の一夜に溺れたら愛を孕みました

せいとも
恋愛
旧題:運命の一夜と愛の結晶〜裏切られた絶望がもたらす奇跡〜 神楽坂グループ傘下『田崎ホールディングス』の創業50周年パーティーが開催された。 舞台で挨拶するのは、専務の田崎悠太だ。 専務の秘書で彼女の月島さくらは、会場で挨拶を聞いていた。 そこで、今の瞬間まで彼氏だと思っていた悠太の口から、別の女性との婚約が発表された。 さくらは、訳が分からずショックを受け会場を後にする。 その様子を見ていたのが、神楽坂グループの御曹司で、社長の怜だった。 海外出張から一時帰国して、パーティーに出席していたのだ。 会場から出たさくらを追いかけ、忘れさせてやると一夜の関係をもつ。 一生をさくらと共にしようと考えていた怜と、怜とは一夜の関係だと割り切り前に進むさくらとの、長い長いすれ違いが始まる。 再会の日は……。

処理中です...