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喫茶ローザ1
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「みちるちゃん、今日は暇だから早くあがっていいよ。タイムカードはちゃんとシフト通りに打刻してあげるから」
喫茶ローザの口ひげマスター安永慎二がカウンターの中から、客が帰ったテーブルを片付けるみちるに声を掛けた。
オレンジ色のエプロンにGパン姿のみちるが顔を上げる。
「マスター、すみません。今日は保さんが終わる時間に迎えに来てくれるの。ギリギリまで働かせてくれませんか? おトイレ掃除しますから」
微笑んだみちるにマスターは相好を崩し、カウンターから身を乗り出した。
「デートかな?」
口ひげのロマンスグレーがニコニコと楽しそうに笑っている。トレーにグラスやカップをのせ片付けて来たみちるが恥ずかしいそうにをはにかんだ。
「そんなんじゃないですよ。今日は一緒にご飯食べに行くんです。保さんが私みたいなの相手にするわけないじゃないですか」
首を竦めた彼女の手からトレーを受け取るマスターは、フッと笑った。
「みちるちゃんは外見はちゃんと大人の女性だけど、まだまだだな」
「え?」
首を傾げたみちるに、いや何でもないよ、とマスターは言いながらガチャガチャと食器を洗い始める。
マスターは、たもっちゃんも受難だな、とほくそ笑んだ。
「じゃあ、お掃除してきまーす」
バケツと雑巾を持ったみちるが明るい声で言う。
「はい、よろしくね」
†
『みちるちゃんに少し社会勉強させてあげたら?』
みちるが19の誕生日を迎える頃だった。麗子が星児と保に提案した。
その夜、星児と保の同じマンション最上階に住む麗子の部屋で、一緒に夕飯を食べる為に4人顔を揃えていた。
間取りは、星児と保の持つものよりも2部屋少なく、1LDKだが、リビングダイニングの広さはかなりのものだった。
こういう時は大抵、料理は保が腕を振るう。イタリア料理店、日本料理屋、中華、と様々な店でアルバイトの経験がある保のメニューは和洋折衷だ。
この日は季節の天ぷらや煮物がメインで、締めに筍ご飯が出てきた。生の筍を糠で茹で、上品な味付けに仕上げたもので、彩りに山椒の葉まで飾ってあった。
「おいし」
お茶碗を持ち箸をくわえ、幸せ一杯の顔をするみちるの頭を、保が撫でた。その時に、麗子があの言葉を言い出したのだ。
ほろ酔い加減だった大人三人が、急に真剣な顔になる。
「社会、勉強?」
保が聞き返した。
「そう。みちるちゃん、ずっと家にいて、今は私達くらいしか誰かと接する機会ないでしょ? アルバイトくらいはしてみたらどうかしら。もちろんみちるちゃんがイヤじゃなければ、よ」
麗子がみちるにウィンクする。
「私は、イヤじゃないです」
ちょっと外で働いてみたい、かも。みちるはチラリと星児を見た。
「俺も悪くないと思うな」
冷や酒のグラスを傾けその揺れる透明な液体を眺めながら星児が言う。
「そうだな。場所、職種によるけどーー、あっ」
保が話ながら何かを閃いた。
「慎ちゃんとこでアルバイトの大学生がこの春卒業で辞めて、誰か探してるって言ってたぞ!
あそこなら」
†
慎ちゃんなんて言うからどんなお兄さんかと思えば、親ほども年の離れた、ベレー帽が似合いそうな熟年紳士だった。
みちるは初めて会った時の驚きを思い出す度に肩を竦めた。
その〝慎ちゃん〟がマスターとして切り盛りする喫茶ローザは、谷中にあるみちる達の住まいから千代田線根津駅方面へ続く言問通りの坂道の途中にあった。
二階が居住スペースになっているらしい、小さな建物の一階が店舗だ。
競馬が趣味のマスターは店内の内装の至るところでそれを主張する。壁には歴代名馬のグラビアがズラリと並び、蹄鉄がその脇に飾られていた。
お客も、そんなマスターと競馬談義をしたい商店街の店主や下町の旦那衆が多かった。
彼等は仕事の合間にカウンターでマスターと楽しそうに話したら、サッサと帰って行く。
その他には、1人でゆっくりと本を読みながらコーヒーを飲むような学生やサラリーマン。
アルバイトであるウエイトレスは、話しかけられてもほんの少しの相槌で済む。
打てば響くような気の効いたお喋りなど出来ない人見知りするみちるには、気持ち良く働ける場所だった。
喫茶ローザの口ひげマスター安永慎二がカウンターの中から、客が帰ったテーブルを片付けるみちるに声を掛けた。
オレンジ色のエプロンにGパン姿のみちるが顔を上げる。
「マスター、すみません。今日は保さんが終わる時間に迎えに来てくれるの。ギリギリまで働かせてくれませんか? おトイレ掃除しますから」
微笑んだみちるにマスターは相好を崩し、カウンターから身を乗り出した。
「デートかな?」
口ひげのロマンスグレーがニコニコと楽しそうに笑っている。トレーにグラスやカップをのせ片付けて来たみちるが恥ずかしいそうにをはにかんだ。
「そんなんじゃないですよ。今日は一緒にご飯食べに行くんです。保さんが私みたいなの相手にするわけないじゃないですか」
首を竦めた彼女の手からトレーを受け取るマスターは、フッと笑った。
「みちるちゃんは外見はちゃんと大人の女性だけど、まだまだだな」
「え?」
首を傾げたみちるに、いや何でもないよ、とマスターは言いながらガチャガチャと食器を洗い始める。
マスターは、たもっちゃんも受難だな、とほくそ笑んだ。
「じゃあ、お掃除してきまーす」
バケツと雑巾を持ったみちるが明るい声で言う。
「はい、よろしくね」
†
『みちるちゃんに少し社会勉強させてあげたら?』
みちるが19の誕生日を迎える頃だった。麗子が星児と保に提案した。
その夜、星児と保の同じマンション最上階に住む麗子の部屋で、一緒に夕飯を食べる為に4人顔を揃えていた。
間取りは、星児と保の持つものよりも2部屋少なく、1LDKだが、リビングダイニングの広さはかなりのものだった。
こういう時は大抵、料理は保が腕を振るう。イタリア料理店、日本料理屋、中華、と様々な店でアルバイトの経験がある保のメニューは和洋折衷だ。
この日は季節の天ぷらや煮物がメインで、締めに筍ご飯が出てきた。生の筍を糠で茹で、上品な味付けに仕上げたもので、彩りに山椒の葉まで飾ってあった。
「おいし」
お茶碗を持ち箸をくわえ、幸せ一杯の顔をするみちるの頭を、保が撫でた。その時に、麗子があの言葉を言い出したのだ。
ほろ酔い加減だった大人三人が、急に真剣な顔になる。
「社会、勉強?」
保が聞き返した。
「そう。みちるちゃん、ずっと家にいて、今は私達くらいしか誰かと接する機会ないでしょ? アルバイトくらいはしてみたらどうかしら。もちろんみちるちゃんがイヤじゃなければ、よ」
麗子がみちるにウィンクする。
「私は、イヤじゃないです」
ちょっと外で働いてみたい、かも。みちるはチラリと星児を見た。
「俺も悪くないと思うな」
冷や酒のグラスを傾けその揺れる透明な液体を眺めながら星児が言う。
「そうだな。場所、職種によるけどーー、あっ」
保が話ながら何かを閃いた。
「慎ちゃんとこでアルバイトの大学生がこの春卒業で辞めて、誰か探してるって言ってたぞ!
あそこなら」
†
慎ちゃんなんて言うからどんなお兄さんかと思えば、親ほども年の離れた、ベレー帽が似合いそうな熟年紳士だった。
みちるは初めて会った時の驚きを思い出す度に肩を竦めた。
その〝慎ちゃん〟がマスターとして切り盛りする喫茶ローザは、谷中にあるみちる達の住まいから千代田線根津駅方面へ続く言問通りの坂道の途中にあった。
二階が居住スペースになっているらしい、小さな建物の一階が店舗だ。
競馬が趣味のマスターは店内の内装の至るところでそれを主張する。壁には歴代名馬のグラビアがズラリと並び、蹄鉄がその脇に飾られていた。
お客も、そんなマスターと競馬談義をしたい商店街の店主や下町の旦那衆が多かった。
彼等は仕事の合間にカウンターでマスターと楽しそうに話したら、サッサと帰って行く。
その他には、1人でゆっくりと本を読みながらコーヒーを飲むような学生やサラリーマン。
アルバイトであるウエイトレスは、話しかけられてもほんの少しの相槌で済む。
打てば響くような気の効いたお喋りなど出来ない人見知りするみちるには、気持ち良く働ける場所だった。
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○表紙絵は市瀬雪さまに依頼しました。
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(Twitter)https://twitter.com/yukiyukisnow7?s=21
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