蝶の羽根【完結】

友秋

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かすがい

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「ママー、ふね、ふね。おっきいおっきい」
「うん。おっきいね。今日は憲吾の欲しいモノ、何か持って来てくれてるかなー?」

 振り向きながら先を走る憲吾の姿に、凛花は愛しげに目を細めた。

 あの人の子供の頃もこんな感じだったのかしら。

 どことなく面影を感じる時、切なさに胸が締め付けられる。

「すっごいねー」

 憲吾が連絡船を見上げた。

 まだ島から出た事のない憲吾は漁船が基準となっており、この、本島からの連絡船がとてつもなく大きな船に見えるのだ。

 連絡船は客だけでなく、離島の生活物資も運んで来る。幼い憲吾にしてみれば、欲しい物も運んでくれる大きな宝箱なのだろう。

 凛花は下船する疎らな乗客の中に、いつも無意識に彼を探す。今日は既に客が降りたあとらしく、船からは乗組員が物資を下ろし始めていた。

 凛花は辺りを見回し、そっと肩を竦めた。

 いるわけないのにね。

 小さなため息をついた時、「凛子ちゃぁーん」と漁師の奥さん達が集まる場所から声が掛かった。凛花が振り向くと奥さん達が、こっちこっち、と手招きしていた。

「憲吾、あんまり海に近付き過ぎちゃダメよ」

 真剣に船を見上げる憲吾に声を掛け、呼ばれた所へ駆けて行った。

 母の言葉をよそに憲吾は、わぁ、と船の前方に回り込んで行く。ふと下を見ると、透き通る水の中に魚達が泳いでいた。今度はそちらに気を取られ、身体を前に乗り出した――。





「ああ、そうですか。いえ、こちらでちょっと探してみます」

 連絡船の待合所になっている小さな建物の中。切符売り場の窓口傍の公衆電話で話しをしていた背の高い青年は、じゃあ後ほど、と言い受話器を置いた。

「アンちゃん、観光?」

 待合所の椅子に腰掛けて煙草を吸っていた老人が、青年に声を掛けた。

 明らかに釣り客ではない、観光にしては季節外れの、スポーツバッグ1つだけの単身来島者である彼に、興味半分、訝しげ半分の視線を向けていた。

「いえ、ちょっと会いたい人がここにいる、と聞いて」
「おや、コレか?」

 老人はタバコをくわえたまま小指を立ててニンマリする。青年はそれを見て苦笑いした。

「まあ、そんなとこです」

 老人は、いいねぇ、とカカカと笑った。

「しかし、アンちゃんみたいなの、この島来たら目立ってイカンなぁ」

 楽しそうに話す老人の言葉を聞き流しながら、青年は開け放たれた待合所の入口から海岸線に目をやった。すると、今下りた連絡船の近くで海の中を覗き込む子供が見えた。

 あの子供、危ないな。

 そう思った次の瞬間だった。視界からその子供が消え、水飛沫が上がった。

「アンちゃん⁉︎」

 老人が声を上げた時には既に青年の姿はそこにはなかった。



 




「誰だった?」

 高台の宿で青い海を眺めながら網の手入れを続ける老主人が、電話を終えて勝手口に出てきた女将に聞いた。

「いやなぁ、聞いたことない若い男の声でな。凛子ちゃんの事をな」
「ほぉ……」
「礼儀正しくてぇ、狩谷龍吾、って名乗って」






「子供が海に落ちた!」

 悲鳴のような声に凛花は顔を上げ振り向いた。

 憲吾⁉︎

 連絡船が停泊する辺りにいた筈の憲吾の姿がなかった。

 一瞬にして血の気が引く。

「けんご――――っ!」

 凛花は叫びながらそこへ走った。騒然とする港の喧騒など聞こえなかった。

 憲吾がいなくなったら、私は、生きていけない――!

 息が出来ないくらいに脈打つ鼓動。

 その時、目の前で誰かが海に飛び込んだ。大きな飛沫が上がる。あっという間にそこに人だかりが出来た。

「コッチだ! コレ掴まれー!」

 男達が浮きを投げ入れた。

「しっかり掴まれー! 引き上げるぞー!」

 凛花は、抜けていってしまいそうな意識を必死に捕まえる。激しく脈打っていた鼓動はもうマヒしてしまったのか感覚もない。かわりに耳鳴りがしそうだった。

 両手で口を覆う凛花は、声も出せずに立ち尽くしていた。

 男達に引き上げられた、子供を腕に抱く青年がチラリと見えた。ガタイの良い漁師達に囲まれ、その顔はなかなか見えない。彼は、大量の水を飲んだ為に咳き込む子供の背中を叩き、落ち着かせているようだった。
 
「あーっ、浜野屋んとこの凛子ちゃんのチビじゃねーかぁ」

 一人の漁師が声を上げた。凛花はハッと我に返った。

「けんごっ! けんごっ!」

 泣きながら駆け出した時だった。漁師達に囲まれ見えなかった青年が憲吾を抱いたままスッと立ち上がった。

 スラリと背が高く、水も滴る……その姿に周りの男達が惚けたように息を呑む。彼は泣きじゃくる憲吾の背中を優しく撫でながら凛花の方を向いた。

 凛花の足が、止まった。

 ああ、神さま……。

 
 



「その名前、牧師が話しとった?」

 直った網を片付け始めた主人は手を休める事なく女将に聞いた。

「そうそう。今、この島に着いたと。凛子ちゃんこの島におる、って私が教えたら、嬉しそうにしとっと」
「やーっと来たか。憲吾の父親だな」
「多分な。凛子ちゃん、ずっと誰かば待ってるようやったしなぁ」

 二人はそれ以上の事は話さなかった。穏やかに吹く潮風に身を任せ、老夫婦は凪いでいる海を遠い目をして見つめる。
 
 流刑の歴史を持つこの島は、漂着した者の過去は詮索しないことがいつしか暗黙のルールとなっていた。

 そう。たとえ裕福でなくとも、貧しくとも平穏に。幸せに暮らせたらそれで、それだけで良いのだから。

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