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無鉄砲と周到
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大通りで車を降り、ネオンが灯り始めた街を男達に脇を固められて凛花は歩く。ボディーガードを従えて闊歩する姿にも見えたが、その実は違った。
監視だ。予定調和以外の動きは許されない。
数日前から心配そうに、遠巻きにこちらを見詰める位林に凛花は気付いていた。
あれから、外に出て1人で煙草を吸う事すらままならなくった。位林とも会ってはいない。
龍吾が無事なのかだけ教えて位林!
さりげなく位林に目配せをした凛花は、男達に気付かれぬようシガレットケースを落とした。
†††
「凛花がこれを?」
龍吾はタバコをくわえたまま目を細め、登校前の位林から店の前で渡されたシガレットケースを見た。頬にはまだ絆創膏が残っている。
「うん。龍吾の事、知りたかったみたい。手紙が入ってた。コレ」
龍吾はうつ向き悲しそうな目をする位林の頭を撫でながら小さな紙も一緒に受け取った。
初めて凛花と話すきっかけとなった、朝日にキラキラと輝いたシガレットケースは、凛花の姿を思い出させ龍吾の胸を締め付けた。
小さな紙には『龍吾は?』とだけ書かれていた。あの手紙と同じ、優しい筆跡。
全治二ヶ月以上と言われた龍吾は、医師が目を見張る程驚異の回復力を見せ、一ヶ月で仕事に復帰していた。
寝てなんかいられるかよ!
田崎がいつまでも凛花を店に出すとは思えない。店に出なくなり、最悪クスリ漬けにでもされたら本当に救い出せなくなってしまう。
龍吾はギリッと奥歯を噛んだ。
早く何とかしねーと!
煙草を指に挟んだまま手を顎に当て、龍吾はシガレットケースを見つめた。
位林を何度も使う訳にはいかねーな。
何をどう勘づかれるか分からない。
何より位林があぶねぇ。
龍吾は胸ポケットからボールペンを出し、手紙に短い言葉を書き込み、シガレットケースの中にねじ込んだ。
「位林。これを上手く凛花に渡せるか。たった今拾ったように見せるんだ。出来るか」
「うん、できる!」
位林は緊張した面持ちで、しかし力強く答えた。
「よし、いい子だ」
龍吾は煙草をくわえると位林の頭をクシャッと撫でた。
「あたしは、それだけでいいの?」
つぶらな瞳が心配そうに龍吾を見上げていた。おかっぱ頭が愛らしい。
龍吾はニッと笑った。
「位林にそれ以上の事はさせられない。
後は、俺の仕事」
遅刻するなよ、と龍吾は位林の赤いランドセルの背中を優しく押した。
何度も振り向きながら走り去る位林を見えなくなるまで見送り、建物の壁に寄りかかった。
凛花、絶対に助けてやるからな。命を張ってでも!
†††
「コレ、落としたよ」
帽子を目深に被った少女が凛花の背後から声を掛けた。
凛花は位林と気付いたが「ありがとう」とだけ言って受け取った。少女はそのまま何も言わず、目も合わせずに走り去った。
位林の後ろ姿に、凛花は込み上げる想いを必死に堪え心の中で何度も呟いていた。
ありがとう、ありがとう、位林ちゃん!
キャバ嬢達の賑やかな話し声で溢れる控室で、凛花はメイク用の鏡の前に座り、渡されたシガレットケースをそっと開けた。
数本入ったタバコの下に紙が押し込まれていた。
周りを伺いながら、震える手でその紙をそっと引き出した。
自分が入れた紙だ。
位林ちゃん、気づかなかった? 仕方ないか、分からないわよね。
ため息をしかけた時だった。紙を裏返し、書かれていた文字に凛花は息を呑んだ。
『待ってろ!』
荒々しい筆跡だ。龍吾の書く字など見た事はなかったが、凛花には分かった。
手で口を覆う。喉が締め付けられるように痛い。漏れそうな嗚咽を抑えるのに必死だった。
†††
自分は無鉄砲と度胸が売り、というのは龍吾も重々承知していたが、今度ばかりは無計画に正面突破、という訳にはいかない。
龍吾は考える。
正面から突っ込んで自分が殺られて凛花も助けられず、では元も子もない。
「まいどー」
開店準備中のローザに酒屋が酒を運び入れていた。
「そこ置いといてくれー」
マスターがグラスを拭きながら恰幅のいい中年の男に指示した。
「龍吾、伝票受け取っといてくれ」
「はい」
フロアの掃除をしていた龍吾はモップをソファに立て掛け、酒屋の店主であるその男の、酒の運び入れを手伝い始めた。
「おう、悪いな龍ちゃん」
「いや、気にしなくていいっすよ」
軽く手を横に振り酒の入ったケースを受け取り運ぶ。
「そういや」
酒屋の店主が思い出したように話し出す。
「龍ちゃん、田崎さんとこ殴り込みに行ったんだってな」
ガチャンッ!という派手な音が店内に響き渡った。
「おいおい龍吾、気を付けてくれよ。何かあったらお前の給料から差っ引くぜ」
酒屋店主の思わぬ言葉に慌てた龍吾がカウンターに酒のケースごとぶつかったのだ。
すみません、とマスターに頭を下げ店主の方に向き直った。
「なに言ってんだよオヤジさん」
ケースを置き、伝票を受け取りながら龍吾はごまかす。
「この辺りの仲間連中、皆噂してるぞ」
肩を竦めて腹を揺するように店主は笑う。龍吾は苦笑いしながら受け取りのサインをした。
噂してる、か。そういやーー、
龍吾がふと何かを閃きかけた時、背後からボーイ仲間のシュウが声を上げた。
「オヤジさーん! そのせいでコイツ、退院してからセイジさんの事務所で寝泊まりさせられてんだぜー!」
シュウはカラカラと笑う。
「るせーっ! てめーは黙ってろ!」
龍吾は振り向きシュウに怒鳴った。
そうなのだ。退院したその日から、ボーイ仲間達とルームシェアしていたマンションに戻る事は許されず、事実上〝二十四時間監視下〟という状況が続いていた。
「ハハハ! 龍ちゃんは昔からムチャクチャやってセイジの手を焼かせてきたからな」
セイジ。剣崎をそう呼ぶ酒屋の店主は、剣崎とは昔からの馴染みらしかった。
ガハハと豪快に笑いながら「じゃ、またよろしく」とマスターに手を挙げ裏口に向かって歩き出す店主の背中を見た龍吾は、閃きかけた〝何か〟を思い出した。
ドアが閉まった音がして、龍吾は慌てて後を追った。裏口のドアを開けると、店主はまだそこで空ケースの整理をしていた。
「オヤジさん!」
「おう、なんだ龍ちゃん」
思いがけず声を掛けられ店主は驚き、顔を上げた。龍吾は辺りを見回しながら彼に近づき小声で話しかける。
「オヤジさん、確か鈴蘭にも酒卸してたよな?」
「断る」
「……俺、まだなんも言ってねーけど?」
顔も見ず、用件も聞かずに即答した店主に龍吾はムッとした。
「今回お前が起こした騒動でローザと取引があるうちは危うくアソコから切られそうになったんだぞ。あんな大口切られたら大損害だ」
龍吾はハッとした。
自分が今しようとする事は、もしかしたら考えているよりもずっと大事なのかもしれない。
悔しげに立ち尽くす龍吾の顔を見た店主は彼の肩を叩いた。
「ただ殴り込みに行ったんじゃねー事は知ってるさ。だけどな、これ以上セイジに迷惑かけんな。と俺は言いたいんだが」
空ケースを担いだ店主は去り際、龍吾の耳元に囁いた。
「お前が知りたいのは彼女の動向だろ」
顔を上げた龍吾に店主は目を合わせずに言い残した。
「来週の金曜日を最後に店は辞めるらしい」
†††
鈴蘭は、女性に囲まれ酒に酔い、上機嫌になった男達の饒舌な話し声と、キャバ嬢達の華やかな笑い声や明るい話し声が溢れていた。
きらびやかなシャンデリアの明かりがより一層客達の気分を盛り上げるよう演出する。その中で、静かに飲むテーブルがあった。
一人の紳士客と向き合う凛花はしなやかな手付きで酒を作り、彼にグラスを渡した。
「ありがとう」
受け取った年配の客は凛花の顔を覗き込んだ。
「凛花は本当に辞めてしまうのか?」
「ええ」
柔らかな笑みを見せた凛花は答える。
「寂しいな。まだ、いいじゃないか、辞めなくたって」
凛花は軽く小首を傾げ微笑んだ。
「ありがとうございます。でも若い子がまだまだたくさんおりますからこれから彼女達をよろしくお願いしますわ」
肩を竦めて見せた凛花は、煙草をくわえた客を見てすかさずライターを取る。
「そうは言ってもなぁ。凛花ほど機転が利いて話が聞ける子はなかなかなぁ」
凛花は、煙を吐きながらため息をつく客の膝に手を置いた。
「そんな事ありませんわ。育ててくださるのはお客様。彼女達を育ててあげてくださいな」
華やかな笑みを見た彼は、やはりこんな子はあまりいないな、と思いながら凛花の目を見た。
「店を辞めて、その後はどうするか決まってるのか?」
一瞬戸惑う表情を見せた凛花は寂しく微笑み、肩を竦めて「秘密です」とだけ小さく言った。
†††
来週の金曜日?
タイムリミットが迫っている事を示していた。
凛花!
龍吾は頭を抱える。
もう強行突破しかない。でもそれじゃあ凛花の安全は保証できない。
龍吾の頭にあるのは〝自分はどうなっても構わない。ただ、凛花だけを助けたい〟という気持ち、それだけだった。
†
朝日が射し込む剣崎の事務所。応接セットのソファで、龍吾は目を閉じた。間もなく剣崎が来る。
もう自分だけではどうする事も出来ない。ならば!
「何の真似だ、龍吾」
剣崎が事務所に姿を現し、デスクの椅子に腰を下ろした瞬間、龍吾は立ち上がり剣崎の目の前で土下座をした。
「お願いがあります!」
顔を上げぬまま、声を張り上げる。
剣崎は表情も変えず、足を組み机に肘を置き龍吾を見下ろした。
床に頭を付けたまま、龍吾は続ける。
「俺は、俺は一生、命がある限り、セイジさんの犬になります! 一生、タダ働きでかまいません! だから……」
一旦言葉を切り、先に続ける無謀とも言える〝直訴〟に覚悟を決めた。
「俺に凛花を救わせてください! 凛花を逃がす資金を貸してください!」
ほう、そう来たか。剣崎は思う。
向こう見ずで無鉄砲なコイツにしては、随分と周到な計画を立てたもんだな。
ほんの少しばかりの感心する気持ちなど、状況が状況なだけにおくびにも出さなかったが、剣崎は龍吾の成長に内心ほくそ笑んでいた。
常に冷静で思慮深い剣崎は、頭ごなしにあしらったりはしない。デスクの上に置いてある煙草を取り出し口にくわえた。
さて。ライターで火を点けながら未だ頭を上げない龍吾を見下ろす。
吸い込んだ煙を一気に吐き出し、口を開いた。
「あの状況でどうやって彼女を連れ出すつもりだ」
一瞬の沈黙があった。それを、龍吾自身が破る。
「強行突破で行きます。店前に出て来た凛花を、拐います。それは俺が1人でやります!」
フン、と剣崎が鼻で笑った。
「とんだ浅知恵だな。一生俺に尽くす、みてーな事ぬかしときながら命がいくつあっても足りねー方法じゃねーか」
龍吾は頭を上げられぬまま、グッと黙り込んだ。剣崎はその様子を見、煙草を指に挟んだまま立ち上がり窓の外に目をやった。
「お前がそこまで言うならな、とりあえず決意の程ってのを見せてみろ」
決意?
顔を上げた龍吾の前に、ずっと傍で一部始終を見ていた兵藤が白い布に包まれた何かを置いた。
まさか!
龍吾は固唾を呑む。
「指、詰めてみせろや」
予想が出来た剣崎のその言葉に、目を閉じた。剣崎は龍吾に背を向けたまま言葉を続ける。
「お前が今しようとしている事はな、『助けたい』『はいそうですか』で済むような事じゃねーんだよ。指1本くらいどって事ないっくらいの覚悟がいる事なんだよ」
剣崎はゆっくり振り返り、龍吾を睨み付けた。
「ヘタすりゃ全面抗争に持ち込まれちまうくれーの事なんだよ!」
張り詰めた空気に、耳鳴りがしそうだった。
目を開け、顔を上げた龍吾の視線は刺すような剣崎のそれとぶつかる。怯む事なく睨み返した。
「わかりました」
短く答えた龍吾は、正座したまま深呼吸をし、目の前の白い包みを手に取った。
ゆっくりと包みを開けると銀色の光を放つ、短刀が姿を現した。
一呼吸置いた龍吾は短刀を取り出し、白布を広げ床に敷き、そこに左手を目一杯開いて置いた。
短刀を再び取り柄を握り直し振り上げた――、
短刀の鋭い刃が龍吾の左手中指の第一関節を切り落とす寸前。柄を握り締める腕が掴まれ、刃は数ミリ手前で止まった。
龍吾の腕を掴んでいたのは、剣崎だった。剣崎は感情の一切読めない仮面のような表情で龍吾を見下ろしていた。
「うちは表向き客商売なんだよ。指詰めた男なんざ堂々と店に出せねぇだろうが」
ゴトン、と短刀が床に落ちた。
緊張の糸は一気に弛んでしまったが、まだ、激しく脈打つ鼓動に息が切れる。
龍吾は目を見開いたまま剣崎を見上げた。
「少し頭を冷やせ」
それだけ言い残し、剣崎はドアの向こうに消えた。
「セイジさん!」
どうしてだよっ! 俺はこんだけの覚悟を! それなのに!
どうしてだよ!
握り締めた拳で何度も床を叩きつける龍吾の目から、涙がこぼれた。
凛花!
泣いた事など、ましてや誰かの為に涙を流した事など初めてだった。
監視だ。予定調和以外の動きは許されない。
数日前から心配そうに、遠巻きにこちらを見詰める位林に凛花は気付いていた。
あれから、外に出て1人で煙草を吸う事すらままならなくった。位林とも会ってはいない。
龍吾が無事なのかだけ教えて位林!
さりげなく位林に目配せをした凛花は、男達に気付かれぬようシガレットケースを落とした。
†††
「凛花がこれを?」
龍吾はタバコをくわえたまま目を細め、登校前の位林から店の前で渡されたシガレットケースを見た。頬にはまだ絆創膏が残っている。
「うん。龍吾の事、知りたかったみたい。手紙が入ってた。コレ」
龍吾はうつ向き悲しそうな目をする位林の頭を撫でながら小さな紙も一緒に受け取った。
初めて凛花と話すきっかけとなった、朝日にキラキラと輝いたシガレットケースは、凛花の姿を思い出させ龍吾の胸を締め付けた。
小さな紙には『龍吾は?』とだけ書かれていた。あの手紙と同じ、優しい筆跡。
全治二ヶ月以上と言われた龍吾は、医師が目を見張る程驚異の回復力を見せ、一ヶ月で仕事に復帰していた。
寝てなんかいられるかよ!
田崎がいつまでも凛花を店に出すとは思えない。店に出なくなり、最悪クスリ漬けにでもされたら本当に救い出せなくなってしまう。
龍吾はギリッと奥歯を噛んだ。
早く何とかしねーと!
煙草を指に挟んだまま手を顎に当て、龍吾はシガレットケースを見つめた。
位林を何度も使う訳にはいかねーな。
何をどう勘づかれるか分からない。
何より位林があぶねぇ。
龍吾は胸ポケットからボールペンを出し、手紙に短い言葉を書き込み、シガレットケースの中にねじ込んだ。
「位林。これを上手く凛花に渡せるか。たった今拾ったように見せるんだ。出来るか」
「うん、できる!」
位林は緊張した面持ちで、しかし力強く答えた。
「よし、いい子だ」
龍吾は煙草をくわえると位林の頭をクシャッと撫でた。
「あたしは、それだけでいいの?」
つぶらな瞳が心配そうに龍吾を見上げていた。おかっぱ頭が愛らしい。
龍吾はニッと笑った。
「位林にそれ以上の事はさせられない。
後は、俺の仕事」
遅刻するなよ、と龍吾は位林の赤いランドセルの背中を優しく押した。
何度も振り向きながら走り去る位林を見えなくなるまで見送り、建物の壁に寄りかかった。
凛花、絶対に助けてやるからな。命を張ってでも!
†††
「コレ、落としたよ」
帽子を目深に被った少女が凛花の背後から声を掛けた。
凛花は位林と気付いたが「ありがとう」とだけ言って受け取った。少女はそのまま何も言わず、目も合わせずに走り去った。
位林の後ろ姿に、凛花は込み上げる想いを必死に堪え心の中で何度も呟いていた。
ありがとう、ありがとう、位林ちゃん!
キャバ嬢達の賑やかな話し声で溢れる控室で、凛花はメイク用の鏡の前に座り、渡されたシガレットケースをそっと開けた。
数本入ったタバコの下に紙が押し込まれていた。
周りを伺いながら、震える手でその紙をそっと引き出した。
自分が入れた紙だ。
位林ちゃん、気づかなかった? 仕方ないか、分からないわよね。
ため息をしかけた時だった。紙を裏返し、書かれていた文字に凛花は息を呑んだ。
『待ってろ!』
荒々しい筆跡だ。龍吾の書く字など見た事はなかったが、凛花には分かった。
手で口を覆う。喉が締め付けられるように痛い。漏れそうな嗚咽を抑えるのに必死だった。
†††
自分は無鉄砲と度胸が売り、というのは龍吾も重々承知していたが、今度ばかりは無計画に正面突破、という訳にはいかない。
龍吾は考える。
正面から突っ込んで自分が殺られて凛花も助けられず、では元も子もない。
「まいどー」
開店準備中のローザに酒屋が酒を運び入れていた。
「そこ置いといてくれー」
マスターがグラスを拭きながら恰幅のいい中年の男に指示した。
「龍吾、伝票受け取っといてくれ」
「はい」
フロアの掃除をしていた龍吾はモップをソファに立て掛け、酒屋の店主であるその男の、酒の運び入れを手伝い始めた。
「おう、悪いな龍ちゃん」
「いや、気にしなくていいっすよ」
軽く手を横に振り酒の入ったケースを受け取り運ぶ。
「そういや」
酒屋の店主が思い出したように話し出す。
「龍ちゃん、田崎さんとこ殴り込みに行ったんだってな」
ガチャンッ!という派手な音が店内に響き渡った。
「おいおい龍吾、気を付けてくれよ。何かあったらお前の給料から差っ引くぜ」
酒屋店主の思わぬ言葉に慌てた龍吾がカウンターに酒のケースごとぶつかったのだ。
すみません、とマスターに頭を下げ店主の方に向き直った。
「なに言ってんだよオヤジさん」
ケースを置き、伝票を受け取りながら龍吾はごまかす。
「この辺りの仲間連中、皆噂してるぞ」
肩を竦めて腹を揺するように店主は笑う。龍吾は苦笑いしながら受け取りのサインをした。
噂してる、か。そういやーー、
龍吾がふと何かを閃きかけた時、背後からボーイ仲間のシュウが声を上げた。
「オヤジさーん! そのせいでコイツ、退院してからセイジさんの事務所で寝泊まりさせられてんだぜー!」
シュウはカラカラと笑う。
「るせーっ! てめーは黙ってろ!」
龍吾は振り向きシュウに怒鳴った。
そうなのだ。退院したその日から、ボーイ仲間達とルームシェアしていたマンションに戻る事は許されず、事実上〝二十四時間監視下〟という状況が続いていた。
「ハハハ! 龍ちゃんは昔からムチャクチャやってセイジの手を焼かせてきたからな」
セイジ。剣崎をそう呼ぶ酒屋の店主は、剣崎とは昔からの馴染みらしかった。
ガハハと豪快に笑いながら「じゃ、またよろしく」とマスターに手を挙げ裏口に向かって歩き出す店主の背中を見た龍吾は、閃きかけた〝何か〟を思い出した。
ドアが閉まった音がして、龍吾は慌てて後を追った。裏口のドアを開けると、店主はまだそこで空ケースの整理をしていた。
「オヤジさん!」
「おう、なんだ龍ちゃん」
思いがけず声を掛けられ店主は驚き、顔を上げた。龍吾は辺りを見回しながら彼に近づき小声で話しかける。
「オヤジさん、確か鈴蘭にも酒卸してたよな?」
「断る」
「……俺、まだなんも言ってねーけど?」
顔も見ず、用件も聞かずに即答した店主に龍吾はムッとした。
「今回お前が起こした騒動でローザと取引があるうちは危うくアソコから切られそうになったんだぞ。あんな大口切られたら大損害だ」
龍吾はハッとした。
自分が今しようとする事は、もしかしたら考えているよりもずっと大事なのかもしれない。
悔しげに立ち尽くす龍吾の顔を見た店主は彼の肩を叩いた。
「ただ殴り込みに行ったんじゃねー事は知ってるさ。だけどな、これ以上セイジに迷惑かけんな。と俺は言いたいんだが」
空ケースを担いだ店主は去り際、龍吾の耳元に囁いた。
「お前が知りたいのは彼女の動向だろ」
顔を上げた龍吾に店主は目を合わせずに言い残した。
「来週の金曜日を最後に店は辞めるらしい」
†††
鈴蘭は、女性に囲まれ酒に酔い、上機嫌になった男達の饒舌な話し声と、キャバ嬢達の華やかな笑い声や明るい話し声が溢れていた。
きらびやかなシャンデリアの明かりがより一層客達の気分を盛り上げるよう演出する。その中で、静かに飲むテーブルがあった。
一人の紳士客と向き合う凛花はしなやかな手付きで酒を作り、彼にグラスを渡した。
「ありがとう」
受け取った年配の客は凛花の顔を覗き込んだ。
「凛花は本当に辞めてしまうのか?」
「ええ」
柔らかな笑みを見せた凛花は答える。
「寂しいな。まだ、いいじゃないか、辞めなくたって」
凛花は軽く小首を傾げ微笑んだ。
「ありがとうございます。でも若い子がまだまだたくさんおりますからこれから彼女達をよろしくお願いしますわ」
肩を竦めて見せた凛花は、煙草をくわえた客を見てすかさずライターを取る。
「そうは言ってもなぁ。凛花ほど機転が利いて話が聞ける子はなかなかなぁ」
凛花は、煙を吐きながらため息をつく客の膝に手を置いた。
「そんな事ありませんわ。育ててくださるのはお客様。彼女達を育ててあげてくださいな」
華やかな笑みを見た彼は、やはりこんな子はあまりいないな、と思いながら凛花の目を見た。
「店を辞めて、その後はどうするか決まってるのか?」
一瞬戸惑う表情を見せた凛花は寂しく微笑み、肩を竦めて「秘密です」とだけ小さく言った。
†††
来週の金曜日?
タイムリミットが迫っている事を示していた。
凛花!
龍吾は頭を抱える。
もう強行突破しかない。でもそれじゃあ凛花の安全は保証できない。
龍吾の頭にあるのは〝自分はどうなっても構わない。ただ、凛花だけを助けたい〟という気持ち、それだけだった。
†
朝日が射し込む剣崎の事務所。応接セットのソファで、龍吾は目を閉じた。間もなく剣崎が来る。
もう自分だけではどうする事も出来ない。ならば!
「何の真似だ、龍吾」
剣崎が事務所に姿を現し、デスクの椅子に腰を下ろした瞬間、龍吾は立ち上がり剣崎の目の前で土下座をした。
「お願いがあります!」
顔を上げぬまま、声を張り上げる。
剣崎は表情も変えず、足を組み机に肘を置き龍吾を見下ろした。
床に頭を付けたまま、龍吾は続ける。
「俺は、俺は一生、命がある限り、セイジさんの犬になります! 一生、タダ働きでかまいません! だから……」
一旦言葉を切り、先に続ける無謀とも言える〝直訴〟に覚悟を決めた。
「俺に凛花を救わせてください! 凛花を逃がす資金を貸してください!」
ほう、そう来たか。剣崎は思う。
向こう見ずで無鉄砲なコイツにしては、随分と周到な計画を立てたもんだな。
ほんの少しばかりの感心する気持ちなど、状況が状況なだけにおくびにも出さなかったが、剣崎は龍吾の成長に内心ほくそ笑んでいた。
常に冷静で思慮深い剣崎は、頭ごなしにあしらったりはしない。デスクの上に置いてある煙草を取り出し口にくわえた。
さて。ライターで火を点けながら未だ頭を上げない龍吾を見下ろす。
吸い込んだ煙を一気に吐き出し、口を開いた。
「あの状況でどうやって彼女を連れ出すつもりだ」
一瞬の沈黙があった。それを、龍吾自身が破る。
「強行突破で行きます。店前に出て来た凛花を、拐います。それは俺が1人でやります!」
フン、と剣崎が鼻で笑った。
「とんだ浅知恵だな。一生俺に尽くす、みてーな事ぬかしときながら命がいくつあっても足りねー方法じゃねーか」
龍吾は頭を上げられぬまま、グッと黙り込んだ。剣崎はその様子を見、煙草を指に挟んだまま立ち上がり窓の外に目をやった。
「お前がそこまで言うならな、とりあえず決意の程ってのを見せてみろ」
決意?
顔を上げた龍吾の前に、ずっと傍で一部始終を見ていた兵藤が白い布に包まれた何かを置いた。
まさか!
龍吾は固唾を呑む。
「指、詰めてみせろや」
予想が出来た剣崎のその言葉に、目を閉じた。剣崎は龍吾に背を向けたまま言葉を続ける。
「お前が今しようとしている事はな、『助けたい』『はいそうですか』で済むような事じゃねーんだよ。指1本くらいどって事ないっくらいの覚悟がいる事なんだよ」
剣崎はゆっくり振り返り、龍吾を睨み付けた。
「ヘタすりゃ全面抗争に持ち込まれちまうくれーの事なんだよ!」
張り詰めた空気に、耳鳴りがしそうだった。
目を開け、顔を上げた龍吾の視線は刺すような剣崎のそれとぶつかる。怯む事なく睨み返した。
「わかりました」
短く答えた龍吾は、正座したまま深呼吸をし、目の前の白い包みを手に取った。
ゆっくりと包みを開けると銀色の光を放つ、短刀が姿を現した。
一呼吸置いた龍吾は短刀を取り出し、白布を広げ床に敷き、そこに左手を目一杯開いて置いた。
短刀を再び取り柄を握り直し振り上げた――、
短刀の鋭い刃が龍吾の左手中指の第一関節を切り落とす寸前。柄を握り締める腕が掴まれ、刃は数ミリ手前で止まった。
龍吾の腕を掴んでいたのは、剣崎だった。剣崎は感情の一切読めない仮面のような表情で龍吾を見下ろしていた。
「うちは表向き客商売なんだよ。指詰めた男なんざ堂々と店に出せねぇだろうが」
ゴトン、と短刀が床に落ちた。
緊張の糸は一気に弛んでしまったが、まだ、激しく脈打つ鼓動に息が切れる。
龍吾は目を見開いたまま剣崎を見上げた。
「少し頭を冷やせ」
それだけ言い残し、剣崎はドアの向こうに消えた。
「セイジさん!」
どうしてだよっ! 俺はこんだけの覚悟を! それなのに!
どうしてだよ!
握り締めた拳で何度も床を叩きつける龍吾の目から、涙がこぼれた。
凛花!
泣いた事など、ましてや誰かの為に涙を流した事など初めてだった。
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