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小さな協力者
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店の裏口のドアを開けると、路地裏が続き、小さな飲食店が軒を連ねていた。
凛花はコンクリートの壁にもたれ掛かり、煙草に火を点けた。ふぅ、と顎を上げ煙を吐き出す。
ビルに囲まれた狭い空が見える。闇が夕刻の空を呑み込もうとしていた。
龍吾さんを初めて見たのも、ちょうどこの時間帯だった。
凛花はポーチから名刺ケースを出した。中に入れてある名刺の束の一番後ろには、プライベートの携帯電話を走り書きした一枚がそっと忍ばせてあった。
次に龍吾に会ったら勇気を出して渡す、と決めていた一枚だった。
叶わなくなってしまった。
龍吾、さん。会いたい。
凛花には、まだ店に出たばかりの頃から、田崎の息がかかった女、その噂が先行し誰も近づかなかった。
そればかりか、美貌と優雅な身のこなし、博識で客の男達を虜にしていった凛花は次第に嫉妬の標的となっていった。
寂しさも苦しみも、心にしまい込むしかなかった。
自分には誰もいない。支えになるものも何もない。
自分は何の為に生きているの。
日々を過ごすのがやっとだった。
三年前のあの日、同伴客が急に来られなくなり時間が空いた凛花は、夕暮れ時の歓楽街をフラリと歩いていた。
「テメッ! イイ気になってんじゃねぇぞっ!!」
突如聞こえたその怒鳴り声の直後、ポリバケツが転がる音が辺りに響いた。
ビルの間の狭い路地だった。
数人の人だかりの隙間から、男に殴られ地面に座り込み拳で唇を拭う男が見えた。
まだ十六、七に見えた少年は、恰幅のいい男数人に取り囲まれてもまるで怯む事なく睨み付けていた。
「なんだぁ、その目はぁ! セイジさんにちょっと目ェかけて貰ってるからっていー気になってんじゃねぇかぁ!」
一人の男が彼を蹴りあげたが、怯まぬ少年の次の言葉に凛花は目を見張った。
「いー気になってる!? そーさ! いー気になってんだよっ! 俺はテメェらとは違うんだ! 今に見てろ!」
「んだと、コルぁああ!」
彼のその言葉は、凛花の心を大きく揺さぶった。
強い。
彼を袋叩きにしていた男達は、後から現れた一人の男の姿に慌てて止めると頭を下げて何処かへ消えた。
凛花はこの時、彼がこの街で少し名が知られ始めていた剣崎セイジのところにいる男だという事を心に留めた。
『俺はテメェらとは違うんだよ! 今に見てろ!』
私にもその心を少し分けてね。その心を支えにもう少し頑張ってみるから。
あの日から凛花の心の深淵には彼がいた。
密かに彼を見つめ続けた。店を知り、名前を知った。
同時に、彼の成長も見てきたのだ。
あれから三年も経ったのね。
初めて言葉を交わした時の心の震えは一生忘れない。
煙草を指に挟んだままの凛花の頬を、ハラハラと涙が溢れた。
どんなに辛くても、苦しくても、泣かなかった。けれど、籠の中に入れられてしまった自分にはもう、小さな希望の光すらーー、
「りんか?」
ランドセルを背負った少女が凛花を見つめていた。路地裏の小さな中華料理屋の娘だった。
背は小さいが、小学五年生。ここでいつも煙草を吸う凛花の、小さな話し相手だった。
「カレシにフラれた?」
育った環境もあり、少しオマセだった。
凛花は肩を竦めてニコッと笑った。少女の姿に凛花の心に温かいものが拡がっていた。
涙を拭いながら微笑む。
「位林(イーリン)ちゃん、お帰り。私はカレシなんていないわよ」
位林は凛花の傍に駆け寄ると抱きつき、そっと耳打ちした。
「あたし、知ってるよ。ローザのりゅうごとちょっと仲良ししてたでしょ」
凛花がパッと位林から離れて目を見開いた。
「フフフ、図星。たまに朝見かけたんだ。一緒にいるとこ。けど最近見ないから心配してた。りんか、大丈夫?」
こんな小さな子に心配されちゃうなんて。
年端よりも大人びた少女の優しさに、胸が熱くなった。
「りゅうご、いい男だよね。あたしがもう少し大人だったら絶対に狙うのにな」
真剣な位林の瞳に、凛花は眉尻を下げ困った顔をしてみせる。
「でもあたし、りんか好きだからりゅうごはゆずるわ!」
エヘッと舌を出した位林の頭を「もう」と凛花は軽く小突いた。
「ねえ、りんか」
不意に真面目な表情になった位林は凛花の瞳を真正面から捉える。
「なあに、位林ちゃん?」
「りんかはりゅうごに会えなくされちゃったの?」
凛花が目を丸くした。
この小さな女のコは、何処まで知っているのだろう。
どんな事情を知っているのだろう。
悲しい色が射し込んだ凛花の瞳に、位林が優しく笑った。
「りんか、あたしがなんとかしてあげる」
凛花はコンクリートの壁にもたれ掛かり、煙草に火を点けた。ふぅ、と顎を上げ煙を吐き出す。
ビルに囲まれた狭い空が見える。闇が夕刻の空を呑み込もうとしていた。
龍吾さんを初めて見たのも、ちょうどこの時間帯だった。
凛花はポーチから名刺ケースを出した。中に入れてある名刺の束の一番後ろには、プライベートの携帯電話を走り書きした一枚がそっと忍ばせてあった。
次に龍吾に会ったら勇気を出して渡す、と決めていた一枚だった。
叶わなくなってしまった。
龍吾、さん。会いたい。
凛花には、まだ店に出たばかりの頃から、田崎の息がかかった女、その噂が先行し誰も近づかなかった。
そればかりか、美貌と優雅な身のこなし、博識で客の男達を虜にしていった凛花は次第に嫉妬の標的となっていった。
寂しさも苦しみも、心にしまい込むしかなかった。
自分には誰もいない。支えになるものも何もない。
自分は何の為に生きているの。
日々を過ごすのがやっとだった。
三年前のあの日、同伴客が急に来られなくなり時間が空いた凛花は、夕暮れ時の歓楽街をフラリと歩いていた。
「テメッ! イイ気になってんじゃねぇぞっ!!」
突如聞こえたその怒鳴り声の直後、ポリバケツが転がる音が辺りに響いた。
ビルの間の狭い路地だった。
数人の人だかりの隙間から、男に殴られ地面に座り込み拳で唇を拭う男が見えた。
まだ十六、七に見えた少年は、恰幅のいい男数人に取り囲まれてもまるで怯む事なく睨み付けていた。
「なんだぁ、その目はぁ! セイジさんにちょっと目ェかけて貰ってるからっていー気になってんじゃねぇかぁ!」
一人の男が彼を蹴りあげたが、怯まぬ少年の次の言葉に凛花は目を見張った。
「いー気になってる!? そーさ! いー気になってんだよっ! 俺はテメェらとは違うんだ! 今に見てろ!」
「んだと、コルぁああ!」
彼のその言葉は、凛花の心を大きく揺さぶった。
強い。
彼を袋叩きにしていた男達は、後から現れた一人の男の姿に慌てて止めると頭を下げて何処かへ消えた。
凛花はこの時、彼がこの街で少し名が知られ始めていた剣崎セイジのところにいる男だという事を心に留めた。
『俺はテメェらとは違うんだよ! 今に見てろ!』
私にもその心を少し分けてね。その心を支えにもう少し頑張ってみるから。
あの日から凛花の心の深淵には彼がいた。
密かに彼を見つめ続けた。店を知り、名前を知った。
同時に、彼の成長も見てきたのだ。
あれから三年も経ったのね。
初めて言葉を交わした時の心の震えは一生忘れない。
煙草を指に挟んだままの凛花の頬を、ハラハラと涙が溢れた。
どんなに辛くても、苦しくても、泣かなかった。けれど、籠の中に入れられてしまった自分にはもう、小さな希望の光すらーー、
「りんか?」
ランドセルを背負った少女が凛花を見つめていた。路地裏の小さな中華料理屋の娘だった。
背は小さいが、小学五年生。ここでいつも煙草を吸う凛花の、小さな話し相手だった。
「カレシにフラれた?」
育った環境もあり、少しオマセだった。
凛花は肩を竦めてニコッと笑った。少女の姿に凛花の心に温かいものが拡がっていた。
涙を拭いながら微笑む。
「位林(イーリン)ちゃん、お帰り。私はカレシなんていないわよ」
位林は凛花の傍に駆け寄ると抱きつき、そっと耳打ちした。
「あたし、知ってるよ。ローザのりゅうごとちょっと仲良ししてたでしょ」
凛花がパッと位林から離れて目を見開いた。
「フフフ、図星。たまに朝見かけたんだ。一緒にいるとこ。けど最近見ないから心配してた。りんか、大丈夫?」
こんな小さな子に心配されちゃうなんて。
年端よりも大人びた少女の優しさに、胸が熱くなった。
「りゅうご、いい男だよね。あたしがもう少し大人だったら絶対に狙うのにな」
真剣な位林の瞳に、凛花は眉尻を下げ困った顔をしてみせる。
「でもあたし、りんか好きだからりゅうごはゆずるわ!」
エヘッと舌を出した位林の頭を「もう」と凛花は軽く小突いた。
「ねえ、りんか」
不意に真面目な表情になった位林は凛花の瞳を真正面から捉える。
「なあに、位林ちゃん?」
「りんかはりゅうごに会えなくされちゃったの?」
凛花が目を丸くした。
この小さな女のコは、何処まで知っているのだろう。
どんな事情を知っているのだろう。
悲しい色が射し込んだ凛花の瞳に、位林が優しく笑った。
「りんか、あたしがなんとかしてあげる」
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