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父の過去
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「お帰りなさいませ、武明様」
エプロン姿の初老の女性が吹き抜けの広い玄関で出迎えていた。
武明は荷物を渡しながら微笑み、靴を脱ぐ。
「ただいま、ヤエさん」
出されたスリッパを履きジャケットを脱ぐと、リビングまでの廊下を歩きながら武明は女中のヤエに話しかけた。
「父さんと母さんはいないみたいだね」
「旦那様は今日はお帰りにならないそうです。奥様は〝芙蓉会〟の会合にお出かけです」
「そう」
相変わらず、何をしてるか分からない2人だ。
「御夕食はどうなさります?」
「今日は呑んで来てるから軽く。先に風呂に入ってきます」
「はい、では御用意しておきますね」
†
風呂から上がった武明は、バスタオルで頭を拭きながら2階に上がり、父の書斎にそっと入り電気を点けた。
ビッシリと本が並ぶ10畳程の書斎にドッシリとした構えの重厚な机。主のいない革ばりの黒い椅子が蛍光灯に重い光を反射していた。
武明は机に近付くと、一番下の深い引き出しを静かに開けた。
彼女に興味を持ったのは。
引き出しの奥に隠すかのようにしまわれた物を手に取った。
この切り取られた一片の写真のせいだ。
大きさからいって、3人写っていたと思われるが、中に写るのは2人のみ。
若かりし日、大学生とおぼしき父の武と1人の女性が写っている。
武明の父、津田武は人を寄せ付けない雰囲気を持つ男だった。
家族に対しても同じで、武明が物心ついた頃には既に親と子としてのコミュニケーションなど皆無だった。
武明は高校生の頃、謎めいた父に興味を持ち幾度か書斎に忍び込み、この写真を見つけたのだ。
父の過去だ。
写真の中に僅かに残る腕から察するに、消失した部分に写るのは男だ。女性を真ん中に撮影したものだったのだろう。
椅子に座る女性とその背に手をまわし、家族に見せた事もない笑顔で写る父。
場所は、サークルか何かの部室のようだ。
武明が津田みちるというストリップダンサーに興味を持ち近付いた理由は、この女性にあった。
彼女はこの女性にそっくりだったからだ。
アルタ前の横断歩道で反対側から押し寄せる人の波の中に彼女を見つけた時、武明は震えそうになった。
写真の中のあの女性!
確かめようと吸い寄せられるように近付いていくと、彼女は考え事をしていたのか武明にぶつかって来た。武明が定期券を落としたのは、一か八か、彼女の反応を見る為だった。
思惑通り拾ってはくれたが、彼女は自分の名前に何か感じるものは無かったようだった。
なんだ、ただの他人の空似。当然だ、あの女性であるわけがないのだ。それで終わる筈だった。
二度目の出会いは本当に偶然だった。
『同じ名前なんです』
津田なんて名前、珍しくは無い。けれど、これは直感だった。
何かある。
武明が素性を聞き出そうとしたが、彼女は逃げるように走り去ってしまう。その理由はすぐに判明する。
ストリップには興味はなかった武明が、あの日、仲の良い仲間達に誘われ一度だけなら、と冷やかし半分でストリップ劇場に行った。
劇場は残念ながら休みだったが、次回公演のポスターが貼ってあり、その中に踊り子の紹介として載っていた個人の写真の中に彼女がいたのだ。
濃いメイクはしているが、あの写真の女性と殆ど同じ造作の顔立ち。
透けるように白い服肌。二重瞼の大きな目。澄んだ瞳は少し青味がかって見えた。
見る者を惹き付けて離さない容姿。何者だ、彼女は。
けれど、と武明は踏み止まる。
なんだ風俗で働く女だったのか。
確実に惹かれ始めていた自分を否定した。
程度は知れる。これ以上近付くまでもない。
武明の考えの転換期は思いの外早く訪れた。御幸右京の邸宅で再会するなど、誰が想像しただろう。
憂う横顔に胸を掴まれた。興味は膨らむ。
関係を説明しろと言っても歯切れの悪い右京叔父。彼女が津田と縁戚に関係にあるのは恐らく間違いないのに。
父に聞き出そうか。
一瞬、過った考えは直ぐに捨てた。武明の第六感だった。
決して、父の耳に入れてはいけない。
彼女の事は自分で知る。今日はその第一歩の為に劇場に行ったのだ。
まさか、会えるとは。
柔らかな笑みを浮かべ写る美しい女性。優しい人だったのではないだろうか。自分の周りにはいなかったタイプの女性に思えた。
「多分彼女は、あなたの娘ですね」
武明は写真の中の女性に呟いていた。
彼女を連れて劇場から離れ、手を繋ぎ、大学近くの文京区の喫茶まで連れて行った。
戻るのが遅くなるわけにはいかないというので、少しの時間話をして過ごした。
柔らかな物腰に優しい声。生まれながらに身につけていた所作だろうか。不思議な〝品〟があった。
店を出る時、みちるは当たり前のように伝票を手にする。
『あ、いいよ、僕から誘ったんだから』
武明にみちるは愛らしい笑顔で言った。
『武明さんは学生さんで、私は、お仕事はどうあれ、ちゃんと働いてるんです』
武明の周りには、当然のように財布を出さない女しかいない。女なんてそんなモノだと思ってきた。
普通の、それ以上の女の子だった。
「探るつもりで近付いただけの筈だったんだけどな」
武明は自嘲気味に呟き、謎の残る女性が写る写真をそっと元の場所にしまい、引き出しを閉めた。
父の過去にも確かに興味はある。しかし今は、彼女の事を純粋に一番知りたい。
書斎の電気を消した武明が廊下に出ると、弟が鼻歌まじりに部屋から出てきた。
「武弘」
兄に呼ばれ振り向いた弟は茶髪にルーズな出で立ちだ。日課の夜遊びに出かけるようだ。
「なに、兄さん?」
「お前、大学には行ってるのか」
「行ってるよ、たぶん? ハハハッ」
自分の可笑しな言い回しを自らツッこむように笑う。武明はため息を吐いた。
「オレはいずれ父さんに頼んで何処に潜り込ませてもらうし」
睨む武明に武弘は不快そうな顔をした。
「オレは、兄さんと違って要領悪いんだよ。つーか、兄さんに説教される覚えはないね。オレは兄さんより悪い事はしてねーから」
「なるほど、確かにね」
弟は、兄が浮かべた優美な笑みに微かな戦慄を覚えた。
「安心したよ、武弘は僕が思っていたより賢いと分かって」
黙ってしまった武弘に武明はひらりと手を振ると。
「行ってらっしゃい」
軽やかに階段を下りていった。
この家は、武弘が継げばいい。
卒業後は衆院議員の加藤先生の元で働けと父に言われていた。
父さん、僕はあなたの思い通りにはなりませんよ。
†††
エプロン姿の初老の女性が吹き抜けの広い玄関で出迎えていた。
武明は荷物を渡しながら微笑み、靴を脱ぐ。
「ただいま、ヤエさん」
出されたスリッパを履きジャケットを脱ぐと、リビングまでの廊下を歩きながら武明は女中のヤエに話しかけた。
「父さんと母さんはいないみたいだね」
「旦那様は今日はお帰りにならないそうです。奥様は〝芙蓉会〟の会合にお出かけです」
「そう」
相変わらず、何をしてるか分からない2人だ。
「御夕食はどうなさります?」
「今日は呑んで来てるから軽く。先に風呂に入ってきます」
「はい、では御用意しておきますね」
†
風呂から上がった武明は、バスタオルで頭を拭きながら2階に上がり、父の書斎にそっと入り電気を点けた。
ビッシリと本が並ぶ10畳程の書斎にドッシリとした構えの重厚な机。主のいない革ばりの黒い椅子が蛍光灯に重い光を反射していた。
武明は机に近付くと、一番下の深い引き出しを静かに開けた。
彼女に興味を持ったのは。
引き出しの奥に隠すかのようにしまわれた物を手に取った。
この切り取られた一片の写真のせいだ。
大きさからいって、3人写っていたと思われるが、中に写るのは2人のみ。
若かりし日、大学生とおぼしき父の武と1人の女性が写っている。
武明の父、津田武は人を寄せ付けない雰囲気を持つ男だった。
家族に対しても同じで、武明が物心ついた頃には既に親と子としてのコミュニケーションなど皆無だった。
武明は高校生の頃、謎めいた父に興味を持ち幾度か書斎に忍び込み、この写真を見つけたのだ。
父の過去だ。
写真の中に僅かに残る腕から察するに、消失した部分に写るのは男だ。女性を真ん中に撮影したものだったのだろう。
椅子に座る女性とその背に手をまわし、家族に見せた事もない笑顔で写る父。
場所は、サークルか何かの部室のようだ。
武明が津田みちるというストリップダンサーに興味を持ち近付いた理由は、この女性にあった。
彼女はこの女性にそっくりだったからだ。
アルタ前の横断歩道で反対側から押し寄せる人の波の中に彼女を見つけた時、武明は震えそうになった。
写真の中のあの女性!
確かめようと吸い寄せられるように近付いていくと、彼女は考え事をしていたのか武明にぶつかって来た。武明が定期券を落としたのは、一か八か、彼女の反応を見る為だった。
思惑通り拾ってはくれたが、彼女は自分の名前に何か感じるものは無かったようだった。
なんだ、ただの他人の空似。当然だ、あの女性であるわけがないのだ。それで終わる筈だった。
二度目の出会いは本当に偶然だった。
『同じ名前なんです』
津田なんて名前、珍しくは無い。けれど、これは直感だった。
何かある。
武明が素性を聞き出そうとしたが、彼女は逃げるように走り去ってしまう。その理由はすぐに判明する。
ストリップには興味はなかった武明が、あの日、仲の良い仲間達に誘われ一度だけなら、と冷やかし半分でストリップ劇場に行った。
劇場は残念ながら休みだったが、次回公演のポスターが貼ってあり、その中に踊り子の紹介として載っていた個人の写真の中に彼女がいたのだ。
濃いメイクはしているが、あの写真の女性と殆ど同じ造作の顔立ち。
透けるように白い服肌。二重瞼の大きな目。澄んだ瞳は少し青味がかって見えた。
見る者を惹き付けて離さない容姿。何者だ、彼女は。
けれど、と武明は踏み止まる。
なんだ風俗で働く女だったのか。
確実に惹かれ始めていた自分を否定した。
程度は知れる。これ以上近付くまでもない。
武明の考えの転換期は思いの外早く訪れた。御幸右京の邸宅で再会するなど、誰が想像しただろう。
憂う横顔に胸を掴まれた。興味は膨らむ。
関係を説明しろと言っても歯切れの悪い右京叔父。彼女が津田と縁戚に関係にあるのは恐らく間違いないのに。
父に聞き出そうか。
一瞬、過った考えは直ぐに捨てた。武明の第六感だった。
決して、父の耳に入れてはいけない。
彼女の事は自分で知る。今日はその第一歩の為に劇場に行ったのだ。
まさか、会えるとは。
柔らかな笑みを浮かべ写る美しい女性。優しい人だったのではないだろうか。自分の周りにはいなかったタイプの女性に思えた。
「多分彼女は、あなたの娘ですね」
武明は写真の中の女性に呟いていた。
彼女を連れて劇場から離れ、手を繋ぎ、大学近くの文京区の喫茶まで連れて行った。
戻るのが遅くなるわけにはいかないというので、少しの時間話をして過ごした。
柔らかな物腰に優しい声。生まれながらに身につけていた所作だろうか。不思議な〝品〟があった。
店を出る時、みちるは当たり前のように伝票を手にする。
『あ、いいよ、僕から誘ったんだから』
武明にみちるは愛らしい笑顔で言った。
『武明さんは学生さんで、私は、お仕事はどうあれ、ちゃんと働いてるんです』
武明の周りには、当然のように財布を出さない女しかいない。女なんてそんなモノだと思ってきた。
普通の、それ以上の女の子だった。
「探るつもりで近付いただけの筈だったんだけどな」
武明は自嘲気味に呟き、謎の残る女性が写る写真をそっと元の場所にしまい、引き出しを閉めた。
父の過去にも確かに興味はある。しかし今は、彼女の事を純粋に一番知りたい。
書斎の電気を消した武明が廊下に出ると、弟が鼻歌まじりに部屋から出てきた。
「武弘」
兄に呼ばれ振り向いた弟は茶髪にルーズな出で立ちだ。日課の夜遊びに出かけるようだ。
「なに、兄さん?」
「お前、大学には行ってるのか」
「行ってるよ、たぶん? ハハハッ」
自分の可笑しな言い回しを自らツッこむように笑う。武明はため息を吐いた。
「オレはいずれ父さんに頼んで何処に潜り込ませてもらうし」
睨む武明に武弘は不快そうな顔をした。
「オレは、兄さんと違って要領悪いんだよ。つーか、兄さんに説教される覚えはないね。オレは兄さんより悪い事はしてねーから」
「なるほど、確かにね」
弟は、兄が浮かべた優美な笑みに微かな戦慄を覚えた。
「安心したよ、武弘は僕が思っていたより賢いと分かって」
黙ってしまった武弘に武明はひらりと手を振ると。
「行ってらっしゃい」
軽やかに階段を下りていった。
この家は、武弘が継げばいい。
卒業後は衆院議員の加藤先生の元で働けと父に言われていた。
父さん、僕はあなたの思い通りにはなりませんよ。
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