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カルテ21 双極性障害
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立ち上がろうとした恵果さんの腕を寸でのところで掴んで止めた。
恵果さんがわたしを睨んでる。目が「騙したんですね」と言っている。わたしは頭を下げて囁くように小さく「ごめんなさい」と言った。
「でも、話しだけは聞いて欲しかったの。わたしは、まだ可能性があるって、思ったの」
「可能性?」
恵果さんの困惑の表情が胸に重石を掛ける。
不安になる。わたしの判断が間違っていたら? って。
わたしは、まだ恵果さんの心が完全に蓮さんを拒絶している訳じゃないって信じている。だから緒方君に『彼らにもう一度向き合わせるチャンスを』と言ったの。
それが違っていたら?
恵果さんの目をジッと見つめた。
緒方君ならきっと、目の動き、表情、言動から相手の気持ちを見抜く事が出来る。
わたしにはそんな事は出来ないけれど、彼女のこれからの人生にとって幸せといえる最良な選択をして欲しいから、賭けに出た。
わたしも緒方君も、一か八かの賭けに出たんだ。
「ともかく、ご主人の事情を、知って、それからもう一度考えてみませんか?」
恵果さんの腕を掴んだまま、低く静かに言った。恵果さんはわたしの迫力に押されたらしく、「は……はい……」と黙り込んでしまった。
カーテンのこちら側の密やかなる攻防は、あちら側には伝わっていないようだった。
変わらず、静かに話しが続いていた。
「では、その頃の近藤さんは、鬱の時の落ち込みとは反対に、自身が今はなんでも出来るような気持ちの盛り上がりがあり、それが次第に感情のコントロールを難しくしていった、ということになりますね」
「はい……」
聞こえてくる会話に耳を澄ましているうちに、恵果さんの表情が硬くなり、小さく、呟くように言った。
「そうなんです……別人みたいになったんです……」
わたしは黙って恵果さんを見つめていた。
カーテンの向こうから、蓮さんの言葉が聞こえた。
「両親が、多重人格を疑って……でも、僕はそんな筈はないって。でも心配だから、しばらく行っていなかった心療内科に行って来いって言われて――」
時折、緒方君が絶妙のタイミングで頷き、促す様子が伝わってくる。多重人格、という言葉を耳にした時、恵果さんがビクッと震えた。
わたしは握ったままだった手をそっと撫でた。
蓮さんのお話しに区切りがついて、少しの沈黙を経て、緒方君がゆっくりと話しを始めた。
「そうですね、自分で感情のコントロールできないくらいに粗暴になる、というのは鬱の時とは全く違う別の人格のように思えますね。
解離性同一性障害か、と心配なさる気持ちは分かります。
けれど、近藤さんの場合は、ちょっと違います」
そうなんですか? という蓮さんの声が聞こえ、恵果さんが顔を上げる。緒方君は、ええ、と応えていた。
「躁うつ病という病は聞いたことはありますね?」
蓮さんの頷く気配があった。それを確認したように、緒方君の言葉が続く。
「現在は、双極性障害、と言うのですが、これは、対極の場所にある躁と鬱の間を行き来して揺れ動くのでそう呼ばれています。
僕の診断では、近藤さんはこれに当たるんです。
恐らく、これまで近藤さんを診ていた城崎先生も同じ診断をすると思います」
「双極性障害、ですか」
自らに言い聞かせるように蓮さんが呟いていた。緒方君が「はい」と応える。
「躁と鬱の症状が現れるにはバイオリズムのような周期があって、それは患者さんによって様々なので、このくらい、という期間は一概には示せませんが、近藤さんは恐らく……四年から五年、といったところでしょうか。
その間に、少しずつ移り変わっていっていくように思います」
穏やかに優しく、人の心にすっと浸透する緒方君の声が、聞こえる。
「鬱の時は、周りの人間も心配して必死にフォローしてくれるのですが、反対に躁の状態の時は、攻撃的になる方が多く、特に一番身近な人間を深く傷つけてしまう事が多いようです。
結果、周囲の人間もフォローをするのが難しいのです」
そこで一旦言葉を切った緒方君は、蓮さんの様子を窺っているようだった。
「お心当たりが、おありのようですね?」
胸がキュッと鳴くような、優しい声だった。蓮さんの、嗚咽が聞こえる。
「もっと、早く気付けばよかった……」
悲嘆にくれた声音が、ここまでしっかりと届いた。
蓮さんの深い後悔と苦しみが空気を震わせて、カーテンを超えて恵果さんに届いた。
わたしの手の中にある恵果さんの手が小さく震えていた。
うつ向いたままの恵果さんの感情は分からない。
泣いているの?
怒っているの?
この、賭けといってもいいわたしと緒方君の作戦は、どちらに転ぶか。
早鐘を打つような鼓動がずっと続いてる。
祈るような気持ちで、緒方君に、全てを託す。
わたしは、こうして恵果さんの手を握っていることしか出来ない。
緒方君――。
目を閉じて、緒方君の名前を呼んだ時、静かな澄んだ声が聞こえて来た。
「大丈夫ですよ、近藤さんはちゃんと、病気と付き合っていく覚悟が出来ているじゃないですか。
こうしてここに来てくれる方は、少しでも心を調節しながら生きていく意味を分かっていますから」
そこで一息置いた緒方君は、言った。
「こうしてもう一つの症状に気付くのは、遅くはなかった筈ですよ、きっと」
深い響きを持つ、色んな意味が詰まった言葉に聞こえた。
「恵果さん!?」
わたしが止める間もなく、立ち上がった恵果さんがカーテンを開けていた。
「恵果!?」
診察室には、向かい合う形で座る緒方君と、恵果さんのご主人、蓮さんの姿があった。
蓮さんは、信じられない、という驚いた表情でこちらを、恵果さんを見つめていた。
わたしは、抑えておけなくてごめんなさい、と内心で謝りながら緒方君へ視線を送ったけれど、緒方君は穏やかな笑みを浮かべたまま、少しも焦る様子は見せていなかった。
すべて、計算通りだった、とでも言うように。
「恵果……どうしてここに……」
予想だにしていなかった展開に、蓮さんが恵果さんと緒方君を見比べて言葉を失った。
当然の反応よね。こんな、診察を他の人に聞かせるなんてこと、完全にルール違反。
でも緒方君は、このご法度を犯してまで二人をどうにかしようとしてくれたの。
恵果さんと蓮さんにとって、この行為が吉とでるか凶とでるか、それはわたしも緒方君も分からない。
さっきから治まることを知らないわたしの鼓動が、より加速して、つんのめりそうになっている。
「恵果さん……」
蓮さんを見つめて何も言わない恵果さんに、わたしは堪らず声を掛けた。
緒方君、何か話して、この場をどうにかして! 心の中で叫んだ時だ。
「わたしが、悪いの?」
恵果さんの硬い声にドキッとした。
何を、言い出すの? 不安がわたしの胸を占める。
緒方君に訴えるような視線を向けたけれど、緒方君は動かない。
それどころか、おろおろとするわたしを見て、口を動かした。
〝だ・ま・っ・て・み・て・て〟
黙って見てて?
こんな、今にも暴発しそうな恵果さんを? 黙って?
それじゃあ、これ以上険悪になったらどうするの?
緒方君に対する不安がむくむくと胸の中に湧き出した時。
「わたしが、蓮を追い込んだっていうの?」
硬く、高い声だった。
ヤバイって!
緒方君がなんと言っても、わたしは黙ってはいられない!
「恵果さ」
「違う!」
わたしの声を覆い被せる声が診察室に響き渡った。
立ち上がった蓮さんが、ゆっくりと恵果さんのもとに来た。
その後ろで緒方君は椅子に足を組んでゆったり座ったまま、事の成り行きを見守っているようだった。
あくまでも、冷静に。
張り詰めた緊張に包まれる診察室で、蓮さんがゆっくりと言った。
「こんな病気に苦しんでるオレとずっと一緒に生きていくって言ってくれた恵果を、傷つけてしまって……。
本当は、礼を言いたかったのに。
それどころか、オレはオレは――」
小さな、やっと聞き取れるくらいの掠れた声は次第にすぼみ、最後は言葉にならなかった。
恵果さんが、その場で泣き崩れた。
「苦しかったよ、辛かったよ」
恵果さんの震える細い肩に、蓮さんがそっと手を伸ばして触れた。
「ごめんな、ごめん……」
うんうん、と頷きながら両手で顔を覆って泣き出した恵果さんを、蓮さんが抱き締めた。
緒方君を見ると、安堵の表情を見せている。
これが、狙いだった?
先の先まで、予想して。
早まらない。
わたしだったら、こうなる前に間に入ってしまって、まとまるものもまとまらなかったかもしれない。
緒方君は、一手も二手も先を読んでいる。
本当は、それは交渉が本職のわたしに必要な力。
わたしの胸に、新しい感情が芽吹く。上手く、具体的には言えないけれど。
緒方君は、すごい……。
抱き合って泣く近藤さん夫婦を一頻り見守っていた緒方君は、彼らが少し落ち着くと傍に行き、屈んで目線を合わせてゆっくりと話し始めた。
「恵果さんの仕事がお忙しくなっていた時期と、蓮さんの状態が少しずつ悪化していた時期がリンクしているようです。
それはたまたまなので、どちらが悪いわけでもありませんが、すれ違いが蓮さんの病状に影響した、ということは否めませんね。
蓮さんは、結婚する前からずっと寄り添ってくれていた恵果さんと触れ合うことが、一番の薬だったのだと思います。
でも蓮さんはそれを上手く口では言えず、恵果さんは恵果さんで、生きがいでもある仕事が今乗っていて少しばかり心に余裕が無かったんですね」
緒方君の話しを静かに聞いていた二人は深く頷いていた。
小さなすれ違いの積み重ねで出来た溝。心に何かしらの病を持った人には、とても大きな損害に繋がってしまう。
結婚生活三年目、慣れが招いた油断から。
〝もう大丈夫〟。
そう思っていたのね、きっと。
心身ともに健康な夫婦だって、重ねたすれ違いを放置しておけば修復不可能な亀裂となる。そんなケース、沢山見て来た。
語り合う事で互いを知り、互いを想う。思いやりの積み重ねが夫婦としての営みとなる。
でも、それを本当の意味で理解してもらうのは大変なの。
緒方君の持つ包み込むようなオーラは、向き合う人をみんな素直にさせてしまう力を持っている。
静かに頷く近藤さん夫婦に緒方君は続けた。
「これはどちらにも言えることですが、きちんと定期的に診断を受けて心の状態を確認し、適切に薬を服用していれば、それだけで日常生活はある程度滞りなく送れる筈です。
だから、原因が分かったところでもう一度、気持ちを落ち着けて、向き合うところからゆっくりと始めてみたらいかがですか」
緒方君はそこで一回言葉を切って、深く息を吐いてゆっくりと言った。
「相手を大事に想うなら、まず、自分を大事にする事を忘れないでください。
それは自分を大事に想ってくれる人を幸せにする事に繋がります。
大事な人の笑顔が見たいのなら尚更です」
ずしりと重く心に響くような言い方だった。
要するに、自分を大事にする事は、大事な人の笑顔を守る事に繋がる、そう言う事よね。
改めて要約したわたしは、胸に引っ掛かるものを感じた。
緒方君は――?
込み上げる想いで一杯の胸を抱えるわたしの前で、緒方君は優しい笑顔を絶やす事なく話しを続けた。
「それと、これは僕から言わせていただく大事な事です」
緒方君の声が変わる。柔らかさの中にピンと張った芯がある声になっていた。
近藤さん夫婦の表情が僅かに引き締まった。
「今は、お二人とも心の状態が不安定と言っていい時期です。
この時期に、人生を左右する決断は、お薦めしません。
いえ、避けるべきです」
二人は、あ、という顔をした。
緒方君はそんな彼らを見てニッコリと笑った。
「僕の言っている意味が、分かりますね」
恵果さんがわたしを睨んでる。目が「騙したんですね」と言っている。わたしは頭を下げて囁くように小さく「ごめんなさい」と言った。
「でも、話しだけは聞いて欲しかったの。わたしは、まだ可能性があるって、思ったの」
「可能性?」
恵果さんの困惑の表情が胸に重石を掛ける。
不安になる。わたしの判断が間違っていたら? って。
わたしは、まだ恵果さんの心が完全に蓮さんを拒絶している訳じゃないって信じている。だから緒方君に『彼らにもう一度向き合わせるチャンスを』と言ったの。
それが違っていたら?
恵果さんの目をジッと見つめた。
緒方君ならきっと、目の動き、表情、言動から相手の気持ちを見抜く事が出来る。
わたしにはそんな事は出来ないけれど、彼女のこれからの人生にとって幸せといえる最良な選択をして欲しいから、賭けに出た。
わたしも緒方君も、一か八かの賭けに出たんだ。
「ともかく、ご主人の事情を、知って、それからもう一度考えてみませんか?」
恵果さんの腕を掴んだまま、低く静かに言った。恵果さんはわたしの迫力に押されたらしく、「は……はい……」と黙り込んでしまった。
カーテンのこちら側の密やかなる攻防は、あちら側には伝わっていないようだった。
変わらず、静かに話しが続いていた。
「では、その頃の近藤さんは、鬱の時の落ち込みとは反対に、自身が今はなんでも出来るような気持ちの盛り上がりがあり、それが次第に感情のコントロールを難しくしていった、ということになりますね」
「はい……」
聞こえてくる会話に耳を澄ましているうちに、恵果さんの表情が硬くなり、小さく、呟くように言った。
「そうなんです……別人みたいになったんです……」
わたしは黙って恵果さんを見つめていた。
カーテンの向こうから、蓮さんの言葉が聞こえた。
「両親が、多重人格を疑って……でも、僕はそんな筈はないって。でも心配だから、しばらく行っていなかった心療内科に行って来いって言われて――」
時折、緒方君が絶妙のタイミングで頷き、促す様子が伝わってくる。多重人格、という言葉を耳にした時、恵果さんがビクッと震えた。
わたしは握ったままだった手をそっと撫でた。
蓮さんのお話しに区切りがついて、少しの沈黙を経て、緒方君がゆっくりと話しを始めた。
「そうですね、自分で感情のコントロールできないくらいに粗暴になる、というのは鬱の時とは全く違う別の人格のように思えますね。
解離性同一性障害か、と心配なさる気持ちは分かります。
けれど、近藤さんの場合は、ちょっと違います」
そうなんですか? という蓮さんの声が聞こえ、恵果さんが顔を上げる。緒方君は、ええ、と応えていた。
「躁うつ病という病は聞いたことはありますね?」
蓮さんの頷く気配があった。それを確認したように、緒方君の言葉が続く。
「現在は、双極性障害、と言うのですが、これは、対極の場所にある躁と鬱の間を行き来して揺れ動くのでそう呼ばれています。
僕の診断では、近藤さんはこれに当たるんです。
恐らく、これまで近藤さんを診ていた城崎先生も同じ診断をすると思います」
「双極性障害、ですか」
自らに言い聞かせるように蓮さんが呟いていた。緒方君が「はい」と応える。
「躁と鬱の症状が現れるにはバイオリズムのような周期があって、それは患者さんによって様々なので、このくらい、という期間は一概には示せませんが、近藤さんは恐らく……四年から五年、といったところでしょうか。
その間に、少しずつ移り変わっていっていくように思います」
穏やかに優しく、人の心にすっと浸透する緒方君の声が、聞こえる。
「鬱の時は、周りの人間も心配して必死にフォローしてくれるのですが、反対に躁の状態の時は、攻撃的になる方が多く、特に一番身近な人間を深く傷つけてしまう事が多いようです。
結果、周囲の人間もフォローをするのが難しいのです」
そこで一旦言葉を切った緒方君は、蓮さんの様子を窺っているようだった。
「お心当たりが、おありのようですね?」
胸がキュッと鳴くような、優しい声だった。蓮さんの、嗚咽が聞こえる。
「もっと、早く気付けばよかった……」
悲嘆にくれた声音が、ここまでしっかりと届いた。
蓮さんの深い後悔と苦しみが空気を震わせて、カーテンを超えて恵果さんに届いた。
わたしの手の中にある恵果さんの手が小さく震えていた。
うつ向いたままの恵果さんの感情は分からない。
泣いているの?
怒っているの?
この、賭けといってもいいわたしと緒方君の作戦は、どちらに転ぶか。
早鐘を打つような鼓動がずっと続いてる。
祈るような気持ちで、緒方君に、全てを託す。
わたしは、こうして恵果さんの手を握っていることしか出来ない。
緒方君――。
目を閉じて、緒方君の名前を呼んだ時、静かな澄んだ声が聞こえて来た。
「大丈夫ですよ、近藤さんはちゃんと、病気と付き合っていく覚悟が出来ているじゃないですか。
こうしてここに来てくれる方は、少しでも心を調節しながら生きていく意味を分かっていますから」
そこで一息置いた緒方君は、言った。
「こうしてもう一つの症状に気付くのは、遅くはなかった筈ですよ、きっと」
深い響きを持つ、色んな意味が詰まった言葉に聞こえた。
「恵果さん!?」
わたしが止める間もなく、立ち上がった恵果さんがカーテンを開けていた。
「恵果!?」
診察室には、向かい合う形で座る緒方君と、恵果さんのご主人、蓮さんの姿があった。
蓮さんは、信じられない、という驚いた表情でこちらを、恵果さんを見つめていた。
わたしは、抑えておけなくてごめんなさい、と内心で謝りながら緒方君へ視線を送ったけれど、緒方君は穏やかな笑みを浮かべたまま、少しも焦る様子は見せていなかった。
すべて、計算通りだった、とでも言うように。
「恵果……どうしてここに……」
予想だにしていなかった展開に、蓮さんが恵果さんと緒方君を見比べて言葉を失った。
当然の反応よね。こんな、診察を他の人に聞かせるなんてこと、完全にルール違反。
でも緒方君は、このご法度を犯してまで二人をどうにかしようとしてくれたの。
恵果さんと蓮さんにとって、この行為が吉とでるか凶とでるか、それはわたしも緒方君も分からない。
さっきから治まることを知らないわたしの鼓動が、より加速して、つんのめりそうになっている。
「恵果さん……」
蓮さんを見つめて何も言わない恵果さんに、わたしは堪らず声を掛けた。
緒方君、何か話して、この場をどうにかして! 心の中で叫んだ時だ。
「わたしが、悪いの?」
恵果さんの硬い声にドキッとした。
何を、言い出すの? 不安がわたしの胸を占める。
緒方君に訴えるような視線を向けたけれど、緒方君は動かない。
それどころか、おろおろとするわたしを見て、口を動かした。
〝だ・ま・っ・て・み・て・て〟
黙って見てて?
こんな、今にも暴発しそうな恵果さんを? 黙って?
それじゃあ、これ以上険悪になったらどうするの?
緒方君に対する不安がむくむくと胸の中に湧き出した時。
「わたしが、蓮を追い込んだっていうの?」
硬く、高い声だった。
ヤバイって!
緒方君がなんと言っても、わたしは黙ってはいられない!
「恵果さ」
「違う!」
わたしの声を覆い被せる声が診察室に響き渡った。
立ち上がった蓮さんが、ゆっくりと恵果さんのもとに来た。
その後ろで緒方君は椅子に足を組んでゆったり座ったまま、事の成り行きを見守っているようだった。
あくまでも、冷静に。
張り詰めた緊張に包まれる診察室で、蓮さんがゆっくりと言った。
「こんな病気に苦しんでるオレとずっと一緒に生きていくって言ってくれた恵果を、傷つけてしまって……。
本当は、礼を言いたかったのに。
それどころか、オレはオレは――」
小さな、やっと聞き取れるくらいの掠れた声は次第にすぼみ、最後は言葉にならなかった。
恵果さんが、その場で泣き崩れた。
「苦しかったよ、辛かったよ」
恵果さんの震える細い肩に、蓮さんがそっと手を伸ばして触れた。
「ごめんな、ごめん……」
うんうん、と頷きながら両手で顔を覆って泣き出した恵果さんを、蓮さんが抱き締めた。
緒方君を見ると、安堵の表情を見せている。
これが、狙いだった?
先の先まで、予想して。
早まらない。
わたしだったら、こうなる前に間に入ってしまって、まとまるものもまとまらなかったかもしれない。
緒方君は、一手も二手も先を読んでいる。
本当は、それは交渉が本職のわたしに必要な力。
わたしの胸に、新しい感情が芽吹く。上手く、具体的には言えないけれど。
緒方君は、すごい……。
抱き合って泣く近藤さん夫婦を一頻り見守っていた緒方君は、彼らが少し落ち着くと傍に行き、屈んで目線を合わせてゆっくりと話し始めた。
「恵果さんの仕事がお忙しくなっていた時期と、蓮さんの状態が少しずつ悪化していた時期がリンクしているようです。
それはたまたまなので、どちらが悪いわけでもありませんが、すれ違いが蓮さんの病状に影響した、ということは否めませんね。
蓮さんは、結婚する前からずっと寄り添ってくれていた恵果さんと触れ合うことが、一番の薬だったのだと思います。
でも蓮さんはそれを上手く口では言えず、恵果さんは恵果さんで、生きがいでもある仕事が今乗っていて少しばかり心に余裕が無かったんですね」
緒方君の話しを静かに聞いていた二人は深く頷いていた。
小さなすれ違いの積み重ねで出来た溝。心に何かしらの病を持った人には、とても大きな損害に繋がってしまう。
結婚生活三年目、慣れが招いた油断から。
〝もう大丈夫〟。
そう思っていたのね、きっと。
心身ともに健康な夫婦だって、重ねたすれ違いを放置しておけば修復不可能な亀裂となる。そんなケース、沢山見て来た。
語り合う事で互いを知り、互いを想う。思いやりの積み重ねが夫婦としての営みとなる。
でも、それを本当の意味で理解してもらうのは大変なの。
緒方君の持つ包み込むようなオーラは、向き合う人をみんな素直にさせてしまう力を持っている。
静かに頷く近藤さん夫婦に緒方君は続けた。
「これはどちらにも言えることですが、きちんと定期的に診断を受けて心の状態を確認し、適切に薬を服用していれば、それだけで日常生活はある程度滞りなく送れる筈です。
だから、原因が分かったところでもう一度、気持ちを落ち着けて、向き合うところからゆっくりと始めてみたらいかがですか」
緒方君はそこで一回言葉を切って、深く息を吐いてゆっくりと言った。
「相手を大事に想うなら、まず、自分を大事にする事を忘れないでください。
それは自分を大事に想ってくれる人を幸せにする事に繋がります。
大事な人の笑顔が見たいのなら尚更です」
ずしりと重く心に響くような言い方だった。
要するに、自分を大事にする事は、大事な人の笑顔を守る事に繋がる、そう言う事よね。
改めて要約したわたしは、胸に引っ掛かるものを感じた。
緒方君は――?
込み上げる想いで一杯の胸を抱えるわたしの前で、緒方君は優しい笑顔を絶やす事なく話しを続けた。
「それと、これは僕から言わせていただく大事な事です」
緒方君の声が変わる。柔らかさの中にピンと張った芯がある声になっていた。
近藤さん夫婦の表情が僅かに引き締まった。
「今は、お二人とも心の状態が不安定と言っていい時期です。
この時期に、人生を左右する決断は、お薦めしません。
いえ、避けるべきです」
二人は、あ、という顔をした。
緒方君はそんな彼らを見てニッコリと笑った。
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