舞姫【後編】

友秋

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想いを信じて

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 今朝は、目が覚めた時から気分が良い。みちるは起き上がり、ベッドから下りた。

 うん、大丈夫。

 日一日と良くなっている事が実感出来た。

 窓は少し前に来た看護婦が開けて行ってくれた。青い空が見える。冬晴れの朝だった。

「星児さん、保さん……」

 無意識に口にした自分にハッとする。

 やっと喋れるようになったの。呼びかけられるようになったよ。でも。

 冷たそうな空の青さが目に染みた。溢れた涙を手で拭う。

 ごめんなさい、とだけ言い、拒んでしまった日から、彼らは来ていない。

 嫌われてしまった?

 ダメだ、涙が止まんない。

 屈み込んで声を殺して泣くみちるに看護婦が気付き、飛んできた。

「津田さん、どうされました」

 大丈夫です、と応えたが、みちるは看護婦によってベッドに戻された。

 こんな事ばっかり。

 ため息を吐き、もう一度空を見た。

 この空の下に、星児さんも保さんもいる。

 溢れそうな涙を抑える為に両手で顔を覆った。

 会いたいよ。でも、会えない。

 苦しいよ。おばあちゃん、聞いて。聞いて欲しいの。

 みちるはそっと目を開け白い天井を眺めた。

 おばあちゃんに会いに行こう。




 集中治療室の前まで行くと、スミ子がみちるの知らない男性と話していた。

 長身痩躯。シルバーグレーの髪の男性だ。

「あら、みちる。大丈夫?」

 歩いてきたみちるに気付いたスミ子が慌てて走り寄った。

「うん、今日は体調も良くて。看護婦さんにちゃんと許可貰って来たよ」

 ニコッと笑ったみちるの頬をスミ子は両手で挟んで優しく微笑んだ。

「スミ子さん、あの方は?」

 シルバーグレーの男性が柔らかな笑みを浮かべ会釈した。

「ああ、彼ね」

 フフとスミ子は肩を竦め、男性に手招きした。

「エミーの、心の恋人、かな」

 みちるは、首を傾げた。



「君が、エミコママの」

 柔らかな笑みと声がリンクする。

「若い頃のエミコママによく似ている」

 みちるの胸に温かな想いが広がった。

「彼は、斎藤和史さん。エミーが銀座でお店を始めた時からずっと、黒服としてエミーを守ってきた人よ」
「おばあちゃんの……」

 だから、心の恋人。

「毎日エミーの必要なものを届けてくれてるの」
「出来る事をしているだけですよ」

 声で人となりが伝わってくる。祖母の傍にいてくれた人。みちるは頭を下げた。

「おばあちゃんを、守ってくれてありがとうございます」

 今はそれしか言えない。

「よかった」

 え、と顔を上げると優しい瞳があった。

「エミコママが目を覚ました時、寂しくないね」

 斎藤は安堵の感情を滲ませ微笑んだ。

「大丈夫、エミコママは今、休養しているんだ。とにかく脇目も振らず突っ走ってきた人だから」
「そうね、ホントにその通り」

 頷き合う二人は肩を竦め小さく笑った。斎藤はみちるの頭に手を置いて真剣な目を合わせた。

 入院中、数多の男が見舞いに来たが、斎藤は他の男達と違う気がした。

「君が起こせばきっと目を覚ますよ」

 気遣いの温かな言葉を残して斎藤は帰って行った。

 センスの良いジャケットを着た姿勢の良い後ろ姿を見送ると、スミ子はみちるの手を取った。

「エミーね、今清拭と着替えの時間なの。終わるまでちょっと待ってましょ」
「うん」

 薄暗い廊下のベンチに座る。目の前にあるドアの向こうに、祖母がいる。不意に恋しさが込み上げみちるはスミ子の手を握った。

「みちる」

 柔らかな声に顔を上げると、少し疲れた様子のスミ子の笑顔があった。

「みちる、エミーはね、とっても愛情深い女でね。愛を与えた分、たくさんの愛を貰った女なの。でも、その分だけ、酷い裏切りにもあった」
「裏切り?」
「そう。でもね、エミーは酷い目にあっても一言だって恨み言を口にしなかった。自分が信じた相手に裏切られたのなら恨みっこなし、なんですって。後悔なんてしないんですって」

 目を丸くしたみちるにスミ子は肩を竦めた。

「凄い女でしょ」
「うん……」
「だから、斎藤さんのような男がちゃんと傍に残ったの。愛を与えるから、裏切りのない愛も手に入れられる」

 みちるの肩を優しく抱いてスミ子は言う。

「あなたはそんなエミーの血を引くのよ。愛情もたっぷり持ってる。人を信じる心を持ってる。強さもある。何より、あなたには、あなたを守ろうとする二人の母親の魂が付いてる」

 喉の奥がツンと痛くなった。今はまだ泣くまいと唇を噛んだみちるにスミ子は続ける。

「信じなさい。大丈夫だから。あなたは深く深く愛している男に、会いたいのでしょう」

 抑えていた涙が一気に溢れ出た。

「あなたを想う彼らの心に嘘はない。信じなさい。彼らの腕に、帰りなさい。そうしなければみちるは後悔する」
「スミ子さん……」

 スミ子の膝に顔を埋め、みちるは泣き出した。

「うん、うん。会いたい。私は星児さんと保さんを愛してる。この想いは絶対に消せない」
「そうそう、いい子。素直になって。大丈夫。彼らの愛も本物よ」

 「そうかな」と顔を上げたみちるの頬をそっと挟み、スミ子は微笑んだ。

「あのね、アタシはあなた達より長ーく波乱万丈人生を生きてきたのよ。そのアタシが見て判断したんだから、間違いなし!」

 本当は手離したくなんてないけれど。

 スミ子は心の中で呟く。

 この子の想いを燻らせてはいけない。

「中丸さんのご家族の方ー」

 集中治療室の自動扉が開き、看護婦が出て来た。

「さ、みちる、エミコおばあちゃんの手を握ってあげて」

 涙を拭い、みちるは明るく頷いた。

 想いを信じて、願い続けて。

 おばあちゃん、私の愛している人に会って欲しいの。




 
 この手が、この指が、この肌が、この唇が、覚えている。彼女の躰に刻み込んだつもりが、自分の躯にしっかりと刻み込まれてしまっていた。


 リビングが差し込んだ朝の光でいっぱいになっていた。ソファで目を覚ました星児は自分の手を見ていた。

 柔らかの肌の感触が、今でも残っている。耳に蘇るのは囁く声と、吐息。強引に躰を開き、目眩く快楽へ引き込んだ。絡まる躰に溺れ――。

 そうか、溺れていたのは自分か。はは、と自嘲気味に笑った星児はゆっくりと起き上がった。

 東の窓のブラインドの隙間から、明けた空の色が覗えた。

「早いな、もう起きていたのか」

 リビングの奥のドアが開き、保が出て来た。星児はああ、と答える。

 みちるが星児と保の元に帰らなくなった日から、三人で寝ていたベッドは使わなくなった。

 保は自室にあった簡易ベッドに眠り、星児はリビングのソファで眠るようになっていたが、星児は接待で用意された女と寝たりと、家にはろくに戻らなくなっていた。

「保も早いじゃねーか。今日の予定は?」

 星児はソファから立ち上がり伸びをした。

「鶯谷のラブホ売ることにしたから、今日はその関係の諸々」
「アレを売るのか」

 保はテレビを点け、星児はキッチンへ行き冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをグラスに注ぐ。
 
「銀座のあのビル買うなら金が必要だろ。不動産と株、整理してまとまった金を作る」

 銀座のビル――と星児は心の中で反芻した。エミコママが今あの状態の為、宙ぶらりんだが、今のうちに打てる手は打っておこうと二人で決めていた。

 思い入れのある大事な財産だろう。そんなものをどこの誰とも分からないヤツに買ってもらいたくはない。

「随分と正統な方法で金作んだな」

 グラスを傾け中の水を揺らしながら星児はクククと笑った。保がチラリと向けた視線は意味深な色が注す。
 
「正統じゃぁねーよ。正規のルートじゃ金になんてなんねーよ。〝工夫〟はするさ。捕まらない程度にな」
「なるほど。相変わらず頼もしいな」

 星児は空になったグラスをシンクに置き、キッチンから出てきた。

「星児、今日は行くつもりなのか、あの――」
「ああ、行くさ」

 被せ気味に星児が答えた。

「場所は確か」
「ニューオータニだ」

 保は腕を組んだまま星児を見ていた。

「御幸氏はもういない。あの津田恵三にどうやって近づくんだよ。策はあんのかよ」
「策なんてねーよ」

 は? と保は片眉を上げ険しい表情を浮かべる。

「なんの策も無くてそんなとこ潜入して何の意味があるんだ?」

 星児はダイニングテーブルの上にあったタバコとライターを手にし、一本くわえ空を睨んだ。
 
「この会に重要な意味があるんだ。ターゲットは津田恵三だけじゃねぇ」
「星児、まさか」

 星児は、くわえたタバコにライターで火を点け煙を吐き出すと、保に視線を向け不敵に笑った。

「みちるをあんな目に合わせた張本人は、必ず来る。考えてみろよ。これは、あの男の懐に飛び込む絶好のチャンスだ。もっとも無警戒無防備のあの男に近づく最大にして最後のチャンスなんだよ」
「星児、何を考えてる?」

 再びタバコをくわえ、揺れ上る煙に目を細めていた星児は保の問い答えなかった。

「保」

 真剣な眼差しに、保は構える。

「俺にもしもの事があっても……いや、なんでもない」

 何かを言いかけてやめた星児は、手にした灰皿でタバコをもみ消しバスルームへ入っていった。

 背中を見送る保の胸に暗雲が過る。

 もしもって、どんなもしもなんだよ。



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感想 10

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みんなの感想(10件)

うさぎ
2020.06.12 うさぎ

す、スゴい⤴️⤴️
『舞姫』と『胡蝶』がリンクしてるので、相乗効果で、どちらの作品もドキドキです🎵

こんな贅沢な展開があるなんて〰️😍
大感謝です〰️😆

友秋
2020.06.12 友秋

うさぎさん🐰✨
喜んでいただけて、嬉しい限りです😭

無い知恵とスカスカの頭で絞り出しながら書き進めている感じなので、うさぎさんのお言葉にたくさんの力をいただいてます☺️

どうなるか…私もハラハラしてます(色んな意味で…😅)

頑張ります❗️

解除
うさぎ
2020.05.24 うさぎ

ともあきさ〰️ん💦
ちょっと気になるところがあって😣

『エミコママ』のとこが、時々『奈美絵』になってるんじゃないかと思うんです💦💦

どこ‼️とは正確には覚えてないんですけど、時々なので…💦

友秋
2020.05.25 友秋

わぁあっ💦
ありがとうございます!
実は最初の設定を変えた事情で直しそびれている場所が結構あるんです😱
ありがとうございます!
直ぐに!直ぐに直します❗️
ありがとうございます❗️❗️

解除
うさぎ
2020.05.07 うさぎ

やっぱりでした〰️😖
あんな素敵で紳士なおじさま(もっと格のある表現が思いつかなくてスミマセン💦😰)が…😭
それに、みちるちゃんも心配です😱😱

ともあきさん、うちが見捨てるなんて絶対ありえないですから、うちのことは気にしないで、思うままにジャンジャン書いてくださいね💦💦💦
振り払っても、かじりついていくくらいの勢いで読んでますから‼️

友秋
2020.05.08 友秋

うさぎさん、ありがとうございます😭💕

力をいただけたのでジャンジャン書いていきます❗️(😅💦)

お気に入りのキャラクターをどんどん退場させてしまい、あああ〜と思いながらも💦頑張って更新しますね❣️

解除

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