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大事な言葉
しおりを挟む大切な人に伝えられなかった大事な言葉は、必ず誰かが伝えてくれる。
*
「ああ、それは恐らく、胡蝶のエミコママだな」
「そうだよな、やっぱり」
二人の男の間で白い躰は力尽きたように堕ちていた。うつ伏せになった細い背中が静かな寝息と連動して波打つ。星児は艶のある黒い髪にキスをし、保は手をそっと握った。
「エミコママだとしたら、彼女はみちるに何を話したんだろうな?」
そうだな、と思案する星児は、みちるを起こさぬようそっと仰向けになった。頭の後ろで手を組みながら小さな明かりが薄暗く照らし出す天井を見詰め、言った。
「みちるは何も?」
ああ、と答えた保はみちるの手を離すことなく身体の向きを変え、枕に肘を置き頬杖を突いた。
「この様子だとエミコママはみちるに何も話してはいねーな。みちるは、もしママから何かを聞いていたとしたら、直ぐにわかるだろ。こいつは隠し事は出来ない。ぜってー挙動不審になるぜ」
星児はククッと小さく笑った。その通りだ、と保も思う。しかし。
「挙動不審とまではいかなくても、何か感じるものはあったみたいだ」
あの時に見せた彼女の涙が全てを物語る。
『胸が痛いの、苦しいの――』
嘘もついていなければ、隠し事もしていない。
みちるがエミコママから何かを聞いたとすれば、大きな衝撃を与えるものに他ならない。もしその何かを聞いたとして、隠して自分達と接する事が出来る程、みちるは器用ではない。
だからこそだ。
「母親の母親、血を辿った先にいる人間に十年ぶりに会ったんだ。そりゃあ、何か感じるだろ」
星児は身を起こすとみちるを抱き、うつ伏せの身体を仰向けにした。
「ん……」
微かに声を漏らした唇に星児がキスをした。
「起きねーな」
クスリと保が笑う。
「眠りの森の、とはいかないな。星児はみちるの王子サマじゃねーって事だ」
ハハハと笑った保に星児は「うるせーよ」と睨んだ。
「今夜のみちるは離れなかったな」
星児もみちるの手を取り、呟くように言った。
今夜のみちるはまるで、何かを忘れる為、寂しさを埋めるかのように星児と保を求めていた。
保は僅かに痛む胸を抱え、柔らかな手に唇を寄せた。滑らかな肌を感じながら目を閉じた保の目蓋に、みちるを見送る婦人が見せた瞳が映る。
何かを、訴えていたようだった。
彼女は俺に何を伝えたかったのだろう。
夢の中で浮遊するみちるの両手は、ずっと優しい手を握る。フワフワとユラユラと、何処かへ流れて行きそうな意識をその手がしっかりと掴んでくれていた。
みちる。
呼ぶのは、甘く痺れさせる声と低く響く柔らかな優しい声。
星児さん、保さん。何かお話ししてる。
夢と現を行き来しながら深い深い意識の泉に堕ちてゆく。みちるは星児と保の低い声で交わされる会話を聞いていた。内容までは分からない。
『幸せです』
迷う事なく答えていた。
完全に沈む意識に身を任せ、みちるは両手に感じる二人の男の手をもう一度握り締めた。確認するように。
触れる肌に感じる躰。いつも強く優しく包んでくれる二人の男。
この手があれば、何もいらない。でも、心の何処に風が吹き抜ける隙間がある。どうして?
お母さん。
「みちる」
「……離さないで……」
「ああ」
「離さないよ」
名を呼ばれて小さく呟いたみちるの手を星児と保は握り直し、頬に両方からキスをした。
「おやすみ、みちる」
ずっとこのままでいられたらどんなにか。
東の空が白み始める頃、三人はその身体を寄せ合い深い眠りに堕ちていった。
†††
池袋からさほど離れてはいない都心である事を忘れさせる、喧騒から隔離された空間がそこにあった。
雑司が谷鬼子母神。参道入り口で参拝者を出迎える二体の仁王像の間を通り、境内の奥に進むと神堂の脇には鬼子母神の石像が鎮守する。
彼女は、そこにいた。
「エミー」
スミ子に呼ばれ振り向いたエミコは、柔らかに微笑んだ。
今日はパンツスタイルに、毛先を緩く巻いた長い髪を下ろしていた。振り返った時に揺れた髪に、木々から漏れる陽光が反射し煌めく。
「ここに来たのは久しぶりだわ」
スミ子はエミコにゆっくりと歩み寄った。
「そう? 私は今でもたまに来るのよ」
エミコは、少し恐持ての鬼子母神像に手を合わせ、続ける。
「スミ子からもらった〝すすきみみずく〟もまだちゃんととってあるのよ」
ええ! と驚くスミ子に顔を上げたエミコは、フフと小さく笑った。
〝すすきみみずく〟とは、ススキの穂でみみずくを形作った小さな人形で、雑司が谷鬼子母神のお守りだ。
「何十年も前の事じゃないの。壊れちゃうでしょ」
「ちゃんとケースに入れてあるの」
「まあ、ご丁寧に」
手を合わせ、目を閉じたスミ子の隣でエミコは「そうねぇ」と呟く。
「もう遠い昔、なのね」
遠くを見る目をしたエミコにスミ子はいたずらっぽく言う。
「また新しいのちゃんと買ってあげるわヨ」
「じゃあ、買ってもらおうかしら」
顔を見合わせた二人はくすくすと笑い合った。
こんな穏やかな時を共に過ごすのはどれくらいぶりだろう。口にはせずとも互いに同じことを思っていることは分かっていた。
「すすきみみずくには、母娘の深い情愛の物語がある事、教えてくれたのはスミ子だったわね」
懐かしむように話し始めたエミコの言葉にスミ子は静かに耳を傾けた。
「あのお話を聞いた頃はまだ私も若かった。今なら素直に自分の中に浸透するわ」
「エミー」
「あの頃の私は、きっと鬼だったのよ。子を失うまでその罪深さに気づかなかった」
自らの欲望、幸せの形、価値観を、娘達に押し付けた。それが愛情であるかどうかすら、当時は考えもしなかった。今思えば、全ては自分の保身の為だったのかもしれない。
状況は大きく違えど、罪と愚かさに気づき帰依した鬼子母神という偉大な母。彼女は何よりも大きな愛で我が子を守り、包んでいた。
自分は?
いつしか母が子を想う気持ちに生じていったずれ。一体どこで間違えたのだろう。想いの先には後悔ばかり。
自分の愚かさに気付いた時はもう遅かった。
僅かな沈黙が続き、スミ子が言葉を探していると、先にエミコが口を開いた。
「この間ね、御幸さんの計らいで姫花の妹分だった芸妓さんにお会いすることが叶ったのよ」
「姫花の?」
そうなの、とエミコは微笑んでみせ、話を続ける。
「その時に、姫花の心を初めて教えてもらったの」
もう四十になるであろう姫千代という芸妓は、年を全く感じさせない可愛らしい女性だった。楽屋を訪問したエミコに、ずっとお会いしたかった、お話ししたい事があった、と涙ながらに話しをしてくれた。
『姫扇さんねえさんが、うちに話してくれはったんどす』
娘、姫花の大事な言葉を、彼女は伝えてくれた。
両親との関係が上手くいっていなかったという、舞妓だった姫千代に姫花は優しく語りかけた。
いくら血の繋がった親子でも、ちゃんと言葉にしないと伝わらないものがたくさんある事。
自分と同じ辛さを大切な妹分の舞妓に味わってもらいたくない事。
そして、一度拗れてしまった関係修復するのは、例え血の繋がった親子でも容易ではない事を、姫花は優しく、染み入る言葉で姫千代に語ったという。
姫花は、自ら縁を断ち切ってしまった母への、誰にも話すことのなかった母への想いの丈を、姫千代にだけ話していたのだ。
『ほんまはうち、ママが大好きやったの。ママに、褒めてもらいとうてママに認めてもらいとうて一所懸命気張ってきてん。せやけどうちは不器用で。かまってもらいとうて心配かけて迷惑かけて、挙句の果てにつっぱねてもうた。もう引っ込みがつかへんの。もう、うちからは何も言われへんの。ママとうちの関係を修復する道は、のうなってもうたの』
姫扇は最後に姫千代に言った。
『姫千代ちゃんはご両親を大切にせなあかんえ。ほんまに伝えたいことは、ちゃんと口にせなあかんの』
姫花の深層にあった母への慕情。
エミコは姫千代の話を聞いた時、何故自分は気づいてあげられなかったのだろう、と思うと同時に姫花が自分を救ってくれたように思った。
ママごめんなさい、本当は私、ママが大好きだったのよ。
姫花の声が、聞こえた。
謝るのはママの方よ。ママだって、心から愛していたわ。
「都合が良すぎるわね。でもね、救いを求めて身勝手な解釈をしてしまうのよ」
自嘲気味に薄く笑ったエミコにスミ子は小さく首を振った。掛けるべき言葉がみつからない。
聞こえの良い、耳に心地の良い言葉など薄っぺらな慰めにしかならない。今自分にできる事は、とスミ子は思い巡らした。
傍にいてあげることだけ、ね。
敢えて、否定も肯定もしない。エミコの言葉には答えずスミ子は言う。
「どんな事があっても、私は死ぬまでエミーの傍にいるわよ。もう迷惑がられたって離れないんだから」
つまり、付いて行く、という意味。スミ子を見たエミコがまるで少女のように笑った。
「ありがとう、銀ちゃん」
「前にも言ったけど、その呼び方はちょっとネェ……」
少し歩きましょう、と言って歩きだしたエミコにスミ子は続き、境内をゆっくり巡る。
美麗な鬼子母神像が祀られている神堂を参拝し、赤鳥居が連なる武芳稲荷堂に差し掛かった時、ふとエミコが切り出した。
「もうひとつ、大事なこと」
え? とスミ子は振り向いた。
「同じ日にね、もう一つ出会いがあったの。スミ子が前に話していた子かもしれないわ」
二人は立ち止った。目を見開くスミ子に、真剣な眼差しのエミコが真っ直ぐに向き合った。
「まさか」
スミ子は固唾を呑みエミコは頷く。
「容姿も仕草も姫花の生き写し。津田みちると名乗ったわ。舞花が育てた姫花の娘」
樹齢三百年を超えると言われている大銀杏の木が風に吹かれ、まだ葉が繁る前の枝をしならせていた。春の風が音となって、彼女達の耳に届く。
スミ子が慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「確認したの?」
エミコは目を閉じゆっくり首を振った。
「どうして……!」
確認していない、と言うことはつまり。その関係を明かさなかった、ということ。スミ子にはわからなかった。
その女性がもし本当に姫花の娘だとしたら、エミコにとって最後の。
「姫花が、ううん、姫花と舞花がエミーに残してくれた、たった一つの忘れ形見じゃないのヨ!」
思いのほか高くなったスミ子の声は静かな境内に響き渡り、参拝客が遠巻きにこちらを伺う視線を感じた。まだ言いたいことはあったスミ子だったが、口を閉ざした。
エミコは赤鳥居のトンネルの中へとスミ子を促した。
赤いトンネルは、短く小さくとも幻想空間を演出する。現実世界から神の懐に招かれてゆくような錯覚を与えた。
祠の前に出ると、不思議と気持ちが落ち着いた。並んで手を合わせた時、エミコが静かに話し出す。
「確かに、あの子は私に残されたたった一つの希望と思ったわ。でもね、彼女と短い時間だったけれどお話ししてみてわかったの。
彼女と私の人生は、もうまったく別のものなのよ。彼女には彼女の歩いてきた道があるの。その、彼女の道に私の道はクロスしないのよ。
平行線のままなのよ。むりやりクロスさせて重ねる事は彼女の人格を侵食するような気がしてならないの。
それこそ、姫花と舞花に何もしてあげられなかった私の身勝手になってしまう」
そんなことまで考えなくてもいいのに。素直に感情を吐露すればいいのに、と思うスミ子は内心で叫ぶ。
言えばよかったじゃない、私は、アナタの二人のお母さんのお母さんなのよ、って! 言いたかったんでしょう? 言って抱きしめたかったんでしょ? 大事な娘達は思いっきり抱きしめてあげられなかったんだから!
「やせ我慢しちゃって」
「いやだわ、スミ子にはお見通しなのね」
エミコは寂しげに笑い、スミ子も笑う。
「仕方ないわね。いいわ。地の果てまで付いてってあげるわヨ」
「フフフ、頼りにしてるわ、銀ちゃん」
「だからね、松平銀平はもういないのヨ」
優しい春の風が、笑い合う二人を包み込むように吹き抜けた。
この風は、神様の、風。
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