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ニアミス1
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それぞれの想いが交錯する場所。
*
近付く春を教える日差しはほころび始めた梅の花のほのかな香りと溶け合い、悲しむ心を優しく包んでいた。
荘厳な日本家屋の南に面した和室の障子が開け放たれ、高い塀に囲まれた屋敷内には僧侶の読経が響き渡る。二間続きの二十畳程の広さとなった和室で御幸右京の葬儀が執り行われていた。
遺影の飾られた祭壇を前に木魚を叩きながらお経を読む僧侶と、親族がズラリと居並ぶ。所帯を持たなかった御幸は、有事の際は親族のみの密葬で、と遺したが、大企業の重役であった為、訪れる大勢の弔問客が途絶える事なく列を成していた。
広い庭にはテントを張り、葬儀が行われている和室の、祭壇近くの縁側前に焼香台が据えられていた。弔問客が焼香の番を待つ光景は、和室で正座をし葬儀に参列する親族席から見えていた。
参列者最前列の座布団が一つ、主を待ち、空いていた。二列目に座していた武明は、その空席を厳しい目で見詰める。
お祖父様は、こんな日にも。
読経と木魚の音の中で視線を庭に向けた武明は思わず腰を浮かしそうになった。
みちる!
ずっと会いたかった彼女との再会が、こんな形でなんて。武明は拳を握り締めた。
葬儀は親族のみですが、と前置きをした上で、御幸の執事であった近衛は星児とみちるの元に「お別れに来て頂けたら故人も喜びと思います」と葬儀の日時を知らせてよこした。
星児は何も言わずに、みちるに喪服とパールのネックレスとピアスを用意し、保は「俺は彼には面識はないから」と同伴はしなかった。
星児と共に、御幸邸の門を前にした時だった。みちるはこの邸宅を後にした時の感覚を思い出す。
次にここを訪れる時には何かが、と感じた不穏な予感。みちるは微かな目眩を覚えた。
「みちる、大丈夫か」
よろけたみちるを星児が優しく抱え、支えた。
「顔色が悪いな。少し休むか」
「大丈夫だよ」
心配そうに覗き込む星児に笑いかけ、みちるが星児の胸にそっと手を突いた時だった。一際目を引く黒塗りのリムジンが門を潜り抜け邸宅の玄関前に停車した。
星児の中に、まさか! と緊張が走る。
停車したリムジンからは運転席と助手席から素早く男達が降り、一人が恭しく後部座席のドアを開けた。
もう一人は家の中に入って行き、程無くして迎えの者を数人連れて外に出てきた。
一連の光景を、瞬きも忘れ凝視する星児の耳に周囲にいた誰かの呟きが聞こえた。
「津田恵三氏がみえたぞ」
ドアが開けられたリムジンの後部座席から降りた津田恵三は、フロックコートと言われる紳士の黒礼服にシルクハットを被っていた。
星児がずっと影だけを追い続けてきた男は、イメージとは違い、細身で小柄な男だった。しかし、周囲を威圧するようなオーラを放ち、降り立った瞬間、辺りの空気を変えた。
ステッキを片手に帽子の鍔にさりげなく手を添え、周囲には一切注意を払う事なく前を向いたまま悠然と、広く開けられた引き戸の玄関の中へと消えた。
顔は目深に被られたシルクハットで隠され、星児は彼の印象的な高く大きな鷲鼻しか伺い知る事が出来なかった。
邸宅の中に消えても尚、そのあまりにも大きな存在感を誇示するかのような余韻を残す。年は悠に八十を超えるというのに背筋を真っ直ぐに伸ばし歩く姿は威風堂々たるものだった。
星児は津田恵三を降ろしたリムジンが屋敷内の駐車場に移る為に動き出し見えなくなるまでそれを見据え、動かなかった。
あれが、津田恵三!
堰を切ったような激流と化した血流に呼応し治まらない鼓動音は星児の頭の中で鐘を打つようにワンワンと鳴り響いていた。
険しい顔をしたまま動かなくなった星児を見上げ、みちるは不安そうに見上げる。
「星児さん?」
心の中にしっとりと響くその声が、星児を現実に引き戻した。我に返ったかのようにみちるの顔を見た星児は、優しく肩を抱き「悪ぃ」と笑いかけた。
星児の笑顔を見たみちるは躊躇いがちに聞いた。
「凄い人が来たみたいだね。星児さん、知ってるの?」
星児は言葉を選びながら答えた。
「あんま顔は知れてねーけど有名な男だ。フィクサーって、分かるか?」
フィクサー、と声には出さずとも口の中で確認するかのように咀嚼する様子を見せたみちるの頭を星児はクシャッと撫でた。
「みちるは分かんなくていーや」
何だか子供扱いされたようでカチンときたみちるは軽く剥れ、言った。
「分かります。私だってもう立派な社会人です。……立派、かどうかは分かんないけど……」
星児はククッと笑った。
フィクサー。表舞台に出てくる事はなくとも、政財界を動かす絶大な権力を持つ者。
「あの男こそ、政財界の影のドン、フィクサーなんだよ。俺も初めて見た」
みちるはドキドキする胸に手を当てる。
「どうしてそんな人が右京さんの葬儀に?」
みちるの問いは星児にしてみれば〝今更〟に他ならないものだが。
そうだ、みちるは何も知らないんだったな。
御幸はみちるの父・津田恵太とは従兄弟関係にある、という事実は伏せていた。星児に『最期まで古くからの知人で通す』と言っていた。
「御幸は、あの津田恵三という男の甥っ子なんだよ。御幸の母親が、あの男の妹なんだそうだ」
みちる、あの男はお前の実の祖父でもあるんだ。
星児は大事な一言は呑み込んだが、改めて自分の中で再確認して鳥肌が立った。
顔を上げ、荘厳な邸宅を見渡す。
この中で、何喰わぬ顔をしたあの男が葬儀に列席してやがるんだよな。
今ここにはあらゆる者の思惑が渦巻いている。陰謀も策略もだ。
長居は無用だ。
「みちる、焼香を済ませたらすぐに帰るぞ」
「え……でも……」
みちるは戸惑うように何かを言いかけたが星児はそれを遮るように肩を抱き、焼香を待つ列の方へ促した。
ゆっくり歩き出した時だった。
「みちるさん」
背後から女性の声がした。振り返ると周囲を憚るように喪服にエプロン姿の女性がみちるの傍に駈けてきた。御幸家の家政婦だった。
「ミキエさん!」
みちるが声を出すと、彼女は静かに、のジェスチャーをした。星児とは軽く会釈を交わしてから、再びみちるに向き直り言った。
「みちるさん、ご焼香の前にちょっと来て頂けますか」
え? という表情を見せたみちるに、ミキエは手短にやや早口で説明した。
「あまり遅くなるとご親族の方々が出て来てしまわれるから。その前にどうしてもみちるさんにお渡ししたいものがあるのです」
親族に見られずに渡したいもの。星児は瞬時に推察した。
「みちる、行ってこい。俺はあそこで煙草吸って待ってるからよ」
ミキエに「よろしく」と小声で言い、ミキエは小さく頷き「こちらです」と、御幸邸の勝手口の方へみちるの手を引き走り出した。みちるは慌てて付いて走って行った。
*
僧侶の読経だけが聞こえる中、遅れて来た事に悪びれる様子のない津田恵三が姿を現した。瞬間、空気が変わった。
葬儀に参列する親族皆が背筋を伸ばし姿勢を正す。そんな中武明だけはさほど緊張もせず涼しい表情のまま、祖父が席に着くのを見詰めていた。
むしろ冷めた色を浮かべた武明の瞳は、庭へ向かう。
みちるは。
求める姿は見えなかったが、彼女の隣にいた男が一人でいるのが見えた。
あの男。
武明はスッと立ち上がった。
「武明?」
怪訝な表情で見上げた隣に座る母の由美子にニッコリと微笑む。
「直ぐに戻ります」
武明はそっと席を外した。
*
みちる達を見送った星児は灰皿が置かれたにわか喫煙スペースに行き、胸ポケットから煙草を出すとくわえ、ライターで火を点けた。
暖かな陽射しが降りそそぐ庭を、煙草をふかしながら眺めていた星児に一人の青年が近付いてきた。星児は見たことのない青年を警戒するように睨み付けた。
洗練された佇まいの青年は鋭い視線に少しも怯む様子を見せず、星児の目の前で歩みを止めた。
背の高い、端正な顔立ちをした見るからに育ちの良さそうな青年。
見たことのない、は違うな。星児は思う。何処か、自分が知る男の面影が見えた。
スラックスのポケットに手を突っ込み煙草を咥えたまま動かない星児に、青年は軽やかに微笑んで言った。
「はじめまして。突然申し訳ありません。僕は津田武明と申します。僕の名前は、ご存知ですね?」
春の到来を教える風は嵐を運ぶ。吹き抜けた風は木々の葉をサワサワと鳴らしていた。
†††
みちるは、二十歳の冬にひと月もの間過ごした御幸邸の和室に通された。連れて来たミキエは辺りを見回してから障子を閉めた。
真ん中に置かれた座布団には、南向きの書院障子から漏れる優しい光が当たっている。
「お座りになってくださいな」
ミキエはおろおろするみちるに優しく声を掛けた。
みちるが座布団に座ると、ミキエは奥の部屋から濃い紫色の風呂敷包みを抱え持って来た。包みをみちるの前に置き、静かに口を開く。
「みちるさんにお約束の物を、今お渡ししておきますね」
「約束の?」
首を傾げたみちるにミキエは「開けてみてくださいな」と言い、指をピンと伸ばし揃え開いた手で風呂敷包みを差し示した。
恐る恐るその結び目を解いたみちるは息を呑む。
「あ、これ、あの時の」
包みの中は、着物と帯だった。みちるがこの御幸邸に連れて来られて、初めて対面した日に着せられた、梅の花があしらわれた薄紅色の春の着物と目にも鮮やかな金糸と銀糸の袋帯だ。
そうだった、とみちるは思い出す。
御幸邸を去る日『まだ自分には早いから』と断ったのだ。
ここで過ごした時間、御幸と語らった優しく心の温まる日々を美しい着物が語り掛けてくるみちるは曇る視界を手で拭う。
ミキエが何かに追われるように早口で話し始めた。
「この葬儀が終わると、ご親族の方々の形見分けが始まってしまうのです。
この着物も例外ではありません。
右京坊っちゃまにはお義姉様もお妹様もいらっしゃるのですから。
だから、今お渡しするしかなかったのです。
急ぎだったので小さく畳んでしまいましたが、お家にお戻りになったらちゃんと畳み直してこのたとう紙に包んでくださいね」
言いながらミキエは着物を包む長方形の和紙を半分に畳む。そして、もうひとつ。小さな箱と封筒を出し、その箱の蓋を開けた。
あの日着物と共に身につけた羽ばたく鳩の帯留だった。
「これは、右京坊っちゃまが心から愛された芸妓さんが、舞妓さんの時に贈られたものです。〝ぽっちり〟というものらしいですよ」
舞妓さんに?
何故そんな大事なものを私に、と戸惑うみちるにミキエは少し困った顔をしてみせた。
「今、私の口からは何も申し上げる訳にはいかないのですが。この封筒の中を後で開けてご確認くださいな。きっと何かが残されています」
何かが?
ミキエは静かに締めくくった。
「右京坊っちゃまは、何かご覚悟のようなものをなさっていたようですね」
*
近付く春を教える日差しはほころび始めた梅の花のほのかな香りと溶け合い、悲しむ心を優しく包んでいた。
荘厳な日本家屋の南に面した和室の障子が開け放たれ、高い塀に囲まれた屋敷内には僧侶の読経が響き渡る。二間続きの二十畳程の広さとなった和室で御幸右京の葬儀が執り行われていた。
遺影の飾られた祭壇を前に木魚を叩きながらお経を読む僧侶と、親族がズラリと居並ぶ。所帯を持たなかった御幸は、有事の際は親族のみの密葬で、と遺したが、大企業の重役であった為、訪れる大勢の弔問客が途絶える事なく列を成していた。
広い庭にはテントを張り、葬儀が行われている和室の、祭壇近くの縁側前に焼香台が据えられていた。弔問客が焼香の番を待つ光景は、和室で正座をし葬儀に参列する親族席から見えていた。
参列者最前列の座布団が一つ、主を待ち、空いていた。二列目に座していた武明は、その空席を厳しい目で見詰める。
お祖父様は、こんな日にも。
読経と木魚の音の中で視線を庭に向けた武明は思わず腰を浮かしそうになった。
みちる!
ずっと会いたかった彼女との再会が、こんな形でなんて。武明は拳を握り締めた。
葬儀は親族のみですが、と前置きをした上で、御幸の執事であった近衛は星児とみちるの元に「お別れに来て頂けたら故人も喜びと思います」と葬儀の日時を知らせてよこした。
星児は何も言わずに、みちるに喪服とパールのネックレスとピアスを用意し、保は「俺は彼には面識はないから」と同伴はしなかった。
星児と共に、御幸邸の門を前にした時だった。みちるはこの邸宅を後にした時の感覚を思い出す。
次にここを訪れる時には何かが、と感じた不穏な予感。みちるは微かな目眩を覚えた。
「みちる、大丈夫か」
よろけたみちるを星児が優しく抱え、支えた。
「顔色が悪いな。少し休むか」
「大丈夫だよ」
心配そうに覗き込む星児に笑いかけ、みちるが星児の胸にそっと手を突いた時だった。一際目を引く黒塗りのリムジンが門を潜り抜け邸宅の玄関前に停車した。
星児の中に、まさか! と緊張が走る。
停車したリムジンからは運転席と助手席から素早く男達が降り、一人が恭しく後部座席のドアを開けた。
もう一人は家の中に入って行き、程無くして迎えの者を数人連れて外に出てきた。
一連の光景を、瞬きも忘れ凝視する星児の耳に周囲にいた誰かの呟きが聞こえた。
「津田恵三氏がみえたぞ」
ドアが開けられたリムジンの後部座席から降りた津田恵三は、フロックコートと言われる紳士の黒礼服にシルクハットを被っていた。
星児がずっと影だけを追い続けてきた男は、イメージとは違い、細身で小柄な男だった。しかし、周囲を威圧するようなオーラを放ち、降り立った瞬間、辺りの空気を変えた。
ステッキを片手に帽子の鍔にさりげなく手を添え、周囲には一切注意を払う事なく前を向いたまま悠然と、広く開けられた引き戸の玄関の中へと消えた。
顔は目深に被られたシルクハットで隠され、星児は彼の印象的な高く大きな鷲鼻しか伺い知る事が出来なかった。
邸宅の中に消えても尚、そのあまりにも大きな存在感を誇示するかのような余韻を残す。年は悠に八十を超えるというのに背筋を真っ直ぐに伸ばし歩く姿は威風堂々たるものだった。
星児は津田恵三を降ろしたリムジンが屋敷内の駐車場に移る為に動き出し見えなくなるまでそれを見据え、動かなかった。
あれが、津田恵三!
堰を切ったような激流と化した血流に呼応し治まらない鼓動音は星児の頭の中で鐘を打つようにワンワンと鳴り響いていた。
険しい顔をしたまま動かなくなった星児を見上げ、みちるは不安そうに見上げる。
「星児さん?」
心の中にしっとりと響くその声が、星児を現実に引き戻した。我に返ったかのようにみちるの顔を見た星児は、優しく肩を抱き「悪ぃ」と笑いかけた。
星児の笑顔を見たみちるは躊躇いがちに聞いた。
「凄い人が来たみたいだね。星児さん、知ってるの?」
星児は言葉を選びながら答えた。
「あんま顔は知れてねーけど有名な男だ。フィクサーって、分かるか?」
フィクサー、と声には出さずとも口の中で確認するかのように咀嚼する様子を見せたみちるの頭を星児はクシャッと撫でた。
「みちるは分かんなくていーや」
何だか子供扱いされたようでカチンときたみちるは軽く剥れ、言った。
「分かります。私だってもう立派な社会人です。……立派、かどうかは分かんないけど……」
星児はククッと笑った。
フィクサー。表舞台に出てくる事はなくとも、政財界を動かす絶大な権力を持つ者。
「あの男こそ、政財界の影のドン、フィクサーなんだよ。俺も初めて見た」
みちるはドキドキする胸に手を当てる。
「どうしてそんな人が右京さんの葬儀に?」
みちるの問いは星児にしてみれば〝今更〟に他ならないものだが。
そうだ、みちるは何も知らないんだったな。
御幸はみちるの父・津田恵太とは従兄弟関係にある、という事実は伏せていた。星児に『最期まで古くからの知人で通す』と言っていた。
「御幸は、あの津田恵三という男の甥っ子なんだよ。御幸の母親が、あの男の妹なんだそうだ」
みちる、あの男はお前の実の祖父でもあるんだ。
星児は大事な一言は呑み込んだが、改めて自分の中で再確認して鳥肌が立った。
顔を上げ、荘厳な邸宅を見渡す。
この中で、何喰わぬ顔をしたあの男が葬儀に列席してやがるんだよな。
今ここにはあらゆる者の思惑が渦巻いている。陰謀も策略もだ。
長居は無用だ。
「みちる、焼香を済ませたらすぐに帰るぞ」
「え……でも……」
みちるは戸惑うように何かを言いかけたが星児はそれを遮るように肩を抱き、焼香を待つ列の方へ促した。
ゆっくり歩き出した時だった。
「みちるさん」
背後から女性の声がした。振り返ると周囲を憚るように喪服にエプロン姿の女性がみちるの傍に駈けてきた。御幸家の家政婦だった。
「ミキエさん!」
みちるが声を出すと、彼女は静かに、のジェスチャーをした。星児とは軽く会釈を交わしてから、再びみちるに向き直り言った。
「みちるさん、ご焼香の前にちょっと来て頂けますか」
え? という表情を見せたみちるに、ミキエは手短にやや早口で説明した。
「あまり遅くなるとご親族の方々が出て来てしまわれるから。その前にどうしてもみちるさんにお渡ししたいものがあるのです」
親族に見られずに渡したいもの。星児は瞬時に推察した。
「みちる、行ってこい。俺はあそこで煙草吸って待ってるからよ」
ミキエに「よろしく」と小声で言い、ミキエは小さく頷き「こちらです」と、御幸邸の勝手口の方へみちるの手を引き走り出した。みちるは慌てて付いて走って行った。
*
僧侶の読経だけが聞こえる中、遅れて来た事に悪びれる様子のない津田恵三が姿を現した。瞬間、空気が変わった。
葬儀に参列する親族皆が背筋を伸ばし姿勢を正す。そんな中武明だけはさほど緊張もせず涼しい表情のまま、祖父が席に着くのを見詰めていた。
むしろ冷めた色を浮かべた武明の瞳は、庭へ向かう。
みちるは。
求める姿は見えなかったが、彼女の隣にいた男が一人でいるのが見えた。
あの男。
武明はスッと立ち上がった。
「武明?」
怪訝な表情で見上げた隣に座る母の由美子にニッコリと微笑む。
「直ぐに戻ります」
武明はそっと席を外した。
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みちる達を見送った星児は灰皿が置かれたにわか喫煙スペースに行き、胸ポケットから煙草を出すとくわえ、ライターで火を点けた。
暖かな陽射しが降りそそぐ庭を、煙草をふかしながら眺めていた星児に一人の青年が近付いてきた。星児は見たことのない青年を警戒するように睨み付けた。
洗練された佇まいの青年は鋭い視線に少しも怯む様子を見せず、星児の目の前で歩みを止めた。
背の高い、端正な顔立ちをした見るからに育ちの良さそうな青年。
見たことのない、は違うな。星児は思う。何処か、自分が知る男の面影が見えた。
スラックスのポケットに手を突っ込み煙草を咥えたまま動かない星児に、青年は軽やかに微笑んで言った。
「はじめまして。突然申し訳ありません。僕は津田武明と申します。僕の名前は、ご存知ですね?」
春の到来を教える風は嵐を運ぶ。吹き抜けた風は木々の葉をサワサワと鳴らしていた。
†††
みちるは、二十歳の冬にひと月もの間過ごした御幸邸の和室に通された。連れて来たミキエは辺りを見回してから障子を閉めた。
真ん中に置かれた座布団には、南向きの書院障子から漏れる優しい光が当たっている。
「お座りになってくださいな」
ミキエはおろおろするみちるに優しく声を掛けた。
みちるが座布団に座ると、ミキエは奥の部屋から濃い紫色の風呂敷包みを抱え持って来た。包みをみちるの前に置き、静かに口を開く。
「みちるさんにお約束の物を、今お渡ししておきますね」
「約束の?」
首を傾げたみちるにミキエは「開けてみてくださいな」と言い、指をピンと伸ばし揃え開いた手で風呂敷包みを差し示した。
恐る恐るその結び目を解いたみちるは息を呑む。
「あ、これ、あの時の」
包みの中は、着物と帯だった。みちるがこの御幸邸に連れて来られて、初めて対面した日に着せられた、梅の花があしらわれた薄紅色の春の着物と目にも鮮やかな金糸と銀糸の袋帯だ。
そうだった、とみちるは思い出す。
御幸邸を去る日『まだ自分には早いから』と断ったのだ。
ここで過ごした時間、御幸と語らった優しく心の温まる日々を美しい着物が語り掛けてくるみちるは曇る視界を手で拭う。
ミキエが何かに追われるように早口で話し始めた。
「この葬儀が終わると、ご親族の方々の形見分けが始まってしまうのです。
この着物も例外ではありません。
右京坊っちゃまにはお義姉様もお妹様もいらっしゃるのですから。
だから、今お渡しするしかなかったのです。
急ぎだったので小さく畳んでしまいましたが、お家にお戻りになったらちゃんと畳み直してこのたとう紙に包んでくださいね」
言いながらミキエは着物を包む長方形の和紙を半分に畳む。そして、もうひとつ。小さな箱と封筒を出し、その箱の蓋を開けた。
あの日着物と共に身につけた羽ばたく鳩の帯留だった。
「これは、右京坊っちゃまが心から愛された芸妓さんが、舞妓さんの時に贈られたものです。〝ぽっちり〟というものらしいですよ」
舞妓さんに?
何故そんな大事なものを私に、と戸惑うみちるにミキエは少し困った顔をしてみせた。
「今、私の口からは何も申し上げる訳にはいかないのですが。この封筒の中を後で開けてご確認くださいな。きっと何かが残されています」
何かが?
ミキエは静かに締めくくった。
「右京坊っちゃまは、何かご覚悟のようなものをなさっていたようですね」
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