舞姫【後編】

友秋

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カサブランカ

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「ぁく……っ……んっ」

 ビクンッと震えた白い躰が、紅を挿したようにフワと染まり、熱を帯びる。躰の芯から貫く悦楽を逃すように小さく開き、喘ぎを漏らす桜貝のような唇は、

「……ぁ……っ……」

 少し激しい口づけにより、塞がれた。白い手が、すがるように躯を求める。

「みちる」

 保の優しい声はみちるの心を震えさせた。

「保さん」

 みちるは保の躯にしがみつき、肌の温もりをより感じる為に、胸に顔を埋めた。保はみちるの躰を優しく抱き締め長い髪の毛をそっと梳いた。

 何も言わない。何も聞かない。

 しがみつくみちるは、不安と戦っていた。

 保さん、手を離さないで。この手を引いて、前へ前へ。

 みちるの脳裏には、昼間見た花屋の店先で咲き誇るカサブランカが過っていた。

 カサブランカの花束を贈ってくれた人がいた。

『みちる、君に似合う花だよ』

 香りが、忘れようとひたすら前を向くみちるの後ろ髪を引いていた。

「保さん」
「ん?」

 ベッドに潜り込んだ保とみちるは肌を密着させ、足を絡めさせていた。

 心の何処かにある隙間。隙間を吹き抜ける風は甘く切ない想いを運ぶ。

 目を閉じたみちるは、風吹き抜ける隙間を閉じようとするかのように保にしがみついた。応えるように、保はみちるにキスをする。

 今夜はいつも以上に甘えるみちるに保は優しく聞く。

「どうした?」

 優しい声は心を緩ませた。

「あの、ね。星児さん、は?」

 星児はここ二、三日帰っていなかった。

「気になる?」

 暗闇の中、いつもと少し違う保の声色に、みちるの胸がドキンと鳴った。思わずどぎまぎしてしまう。

「あ、えと。気になる、というか、心配してるの」

 密着するみちるの体温が、微かに上がったのを保は感じ取ってクスリと笑った。

「星児は」

 そうだな、と保は考え言う。

「より強固な要塞構築の為に日夜奔走してる」

 ストレートな物言いを避けた。みちるはその意味が全く分からず首を傾げた。

 オブラートに包み過ぎたか。

「身体を張ってるって事」

 苦笑いしながら言った保に、彼女は、そうなんだ? と相変わらずピンとはきていないようだった。

 星児は一月程前、少し大きなマネーゲームに失敗した。保が直ぐに気づき、事なきを得たが、
会社は多少の損害を被った。らしくないミスだった。

 ショックも悲しみも、決して口にしない星児だったが、どこかしらに歪み(ひずみ)が生まれているのかもしれない。

 焦るなよ、星児。

 気付けば既に眠りに落ちていたみちるの髪を、保は愛しげに撫でた。

 慣れない劇場回って踊って、だいぶ疲れているみたいだな。

 香蘭が閉鎖になってからは事務所に所属し方々へ派遣され、数週毎に劇場が変わるようになったみちる。

 本当は、何処かの劇場に預けて落ち着かせた方が良いのだが、星児も保もどうしても目の行き届く手元に置いておきたかったのだ。

 優しくキスをし、ブランケットを掛け直してやると、保はそっとベッドから下りた。傍らに置いてあったスポーツウェアを着、寝室を出た。



 リビングの大きな窓の側に行き、煙草をくわえて火を点ける。吐き出した煙の向こう、窓の外は冬の夜明けの曇天が拡がっていた。

 焦るな、と言ってもムリか。保は眉間にシワを寄せた。

 ここ数ヶ月で、田崎の動きが活発になっていた。ひと月前のマネーゲームは嵌めらたものだ。普段の星児なら絶対に勘づき警戒する筈なのに、今の星児にそれはムリだった。

 未公開株の違法な取引だった。あたかも正規の法に触れない取引のように巧みに偽られていたのだ。

 気付いた保が慌てて対処を施し大損害には至らなかったが、危うく捜査二課にまで目を付けられるところだった。

 あのヤロー、確実にうちを潰しにかかって……いや待てよ。田崎もそうだけど。

 煙草を指に挟む保は、舌打ちする。

 郡司だな。田崎にはあんな手の込んだマネーゲーム出来る脳はねぇな。

 郡司の入れ知恵に違いねぇ。

 保は再び煙草をくわえ、白々と明け始めた鈍色の空を見詰めた。

『保、悪ぃな』

 弱気な星児なんて、見たくねーよ。

『とりあえず、俺は今出来る事をする。みちるを頼む』


 星児が、今出来る事。

 星児はここのところ連日連夜、賭博場への出入りと、翔仁会幹部の情婦と寝る事を繰り返していた。文字通り、身体を張っている。

〝情報を得る為〟と言っていたが、得られる利益よりもリスクの方が大きそうだ、と保は思う。

 息をつく暇もない程のスリルの中に身を置き、感傷に浸る隙を心に与えないようにしてるかのようにも見えた。

 信じてるよ、お前の事は。

 窓の外が明るくなり、部屋に陽光が射し込み始めていた。

 保は手にしていた灰皿で煙草を揉み消しダイニングテーブルの上に置き、バスルームに入って行った。


 
 つ……と伸ばしたみちるの手の先、保がいたその場所はもう冷たかった。みちるはゆっくりと目を開ける。

 保さん、いない。

 気配のない静かな部屋に、みちるの胸がキュゥと縮まった。フルフルッと頭を振る。

 寂しいから傍にいてとか、心細いから抱き締めてとか。そういう甘えとはお別れしないと私は前に進めない。

 再び固く目を閉じたみちるは、枕に顔を埋めた。

 静寂の空間、物音がしない部屋。耳に残る優しい声が甦る。

『みちる、愛してる』

 愛を言葉にして囁いてくれた、ただ一人の男(ひと)。みちるの瞼に、品格すら漂うあの姿が浮かんだ。

 あんな辛い別れ方をしたのに。私はどうして貴方を忘れられないのだろう。

 カサブランカの香りが呼び覚ましてしまった記憶はみちるの胸を締め付けていた。

 シーツを握りしめた時だった。

「みちる、泣いてるのか?」

 寝室のドアが開き、響きの良い柔らかな低い声がした。みちるの強張る心がフワリと弛む。枕から顔を上げ、姿を確認した瞬間、安堵に近い温かなものが込み上げた。

「泣いてないよ」
「ふぅん……」

 クスリと笑う保は、ゆっくりとみちるに近付く。ワイシャツにスラックス姿の彼からは、爽やかなフレグランスが香った。

 少し屈んだ保の手がスッと伸び、みちるの頬を優しく撫でた。

「俺はもう出掛けちまうけど、みちるは一人になって『寂しいよー』って泣いたりしないか?」

 ちょっと意地悪な言い方だ。

 意味ありげな微笑を浮かべ見詰める保に、みちるは頬を軽く睨んだ。

「保さん、私いくつだと思ってるの?」

 保はハハハッと笑い、みちるの唇に柔らかく甘いキスをした。瞬間、心の底に淀む澱が浄化されるように力が抜ける。同時にみちるの中に生まれるものは、〝罪悪感〟だ。

 私は誰を見詰めて、どう歩んでいったらいいのかまだ分からないの。

 ごめんなさい。

 ふと浮かんだその言葉に、みちる自身が戸惑う。

 私は誰に謝りたいのだろう?




 夕刻の事務所に、長身の、和装の麗しい夫人客が訪れた。

 いい香りを纏い、案内された先は星児の部屋だった。

「星児さん、お客さんです」

 溜まってしまった決済書類をデスクで片付けていた星児は客人を見て目を丸くした。

「スミ姐」

 スーツのボタンを締めてながら立ち上がる星児は、応接セットのソファを勧めた。

「あら、気を遣わないで。今日はこれを持ってきただけだから」

 スミ子はハンドバッグから袱紗を出した。包みを外すと香典袋が出てきた。

「ごめんなさいね、葬儀には行けなくて」

 恭しく香典を渡され星児は「いや、気にするな」と答えながらも有り難く受け取った。

 この街は狭い。商売をしていれば人は知れる。麗子は有名な方で、スミ子は一緒にお茶を飲むくらいの知り合いではあった。

「本当に、惜しい人を」
「まあな」

 あまり話したがらなそうな星児の様子を敏感に察知し、スミ子は麗子に関する話はそれ以上しなかった。

 ソファに腰を下ろしたスミ子にお茶が出され、星児も向かいに座った。

「この間、話が途中になってしまったネ」
「この間?」
「銀座の胡蝶のママの話」
「ああ、それだ」

 星児が身を乗り出し、スミ子は微笑んだ。

「エミーの娘達の話、聞きたかったんでしょう」
「そうだ、頼む」

 煙草を勧め、灰皿を用意しながら星児は話を促した。
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