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遺されたもの
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「みちるは何処に行くか決まってるの?」
楽屋の私物を整理するサラが、同じように片付けながら荷造りするみちるに聞いた。
「ううん。私はこのまま香蘭の所属で、派遣で色んな劇場回る事になったの。サラさんは?」
「んー、私は池袋のムーン劇場。麗子さんがちゃんと私に合う場所に話をつけてくれてた」
「そうなんだ、よかった。あそこなら私も行く事あると思う」
「じゃあまた会えるね」
「うん」
明るく答えたみちるに、サラは火の点いていないタバコをくわえたままニコッと笑った。
閉鎖が決まった香蘭劇場は、踊り子達が私物の荷造りに追われ、スタッフは片付けに奔走し、喧騒に包まれていた。
金色に染まっていた街の銀杏並木は、落ち葉となり風に舞い、店のショーウインドウは冬の装いをみせる。
麗子が自らの命を絶ってひと月が経とうとしていた。
†††
麗子の自殺は、突発的なものではなく、自分がいなくなった事で周囲の者達が迷惑を被る事のないよう、綿密な配慮を施してからのものだった。
香蘭劇場の閉鎖をそれとなくストリップ関連の仲間達に話しをし、踊り子一人一人の移転先にきめ細かな気配りがなされていた。もうストリップの世界から足を洗おうと考えていた踊り子にも次の仕事が見つかるまで困らぬような気遣いまで。
確固たる決意をした上での自殺だった。
遺書は、保宛に一通残っていただけだったが、みちるには亡くなる前日、電話があった。
リハーサル室での一件以来顔を合わせても言葉を交わす事はなかった麗子からの突然の電話に、みちるは緊張し直立不動のまま話しを聞いていた。
その日、みちるは初めて劇場の地方公演に参加していた。『そろそろ香蘭以外の舞台で踊る事にも慣れなさい』というお達しが麗子から出ていたのだ。
東京から遠く離れた札幌の劇場で受けた麗子からの電話は、『ごめんね、みちるちゃん』という言葉から始まった。静かで澄んだ、どこかスッキリとしたような晴れやかな声だった。
「みちるちゃん、この前はごめんね。貴女は何も悪くないのよ。怖い思いをさせてしまって本当にごめんなさい。みちるちゃんは今まで通りのみちるちゃんでいていいのよ」
「今まで通りの、私?」
「そうよ。無防備で愛らしくて、そうね」
電話の向こうで麗子がフフッと小さく笑った。
「これからもちょっぴり小悪魔のままでいてちょうだい」
「え……?」
思わず聞き返したみちるには答えず、麗子はゆっくりと噛み締めるように続けた。
「でも、もう少しだけ賢くなりなさい。いい、みちるちゃん? 自分の周りをちゃんと見てちゃんと気持ちに気付いてあげなさい。あんまり大事な人を苦しめちゃダメよ」
「あの?」
言葉の意味が呑み込めず、みちるは電話を持ったままオロオロする。みちるの様子が伝わったのか、麗子はクスクス笑っていた。
「今は分からなくてもいいわ。何かのきっかけで、『麗子さんがあんな事を言ってた』って思い出してくれればいいの」
麗子は最後におもむろに「みちるちゃん」と呼びかける。
「貴女は、幸せ掴む為に一歩一歩踏み締めて邁進しなさい。これは私との約束。みちるちゃん、私はやっぱりあなたが大好きよ。でも、ちょっとだけ、嫌いかな」
フフッと笑った麗子は含みを持たせ、じゃあステージしっかりね、と電話を切った。
麗子さん? 何だかまるで――。
電話を切ったみちるは胸騒ぎを覚えたが、開演時間が迫っておりその時はどうする事も出来なかった。
葬儀には、星児達が世話になった教会の牧師も来ていた。牧師は、麗子は教会の墓地に、と提案した。
問題ある養子先を見抜けず麗子を不幸にしてしまった牧師のせめてもの償いの意である事は、星児も分かったが、断った。
「麗子の絶っての希望は故郷の海への散骨だ。墓はいらないってさ。保宛の遺書に書いてあった。だから暫くは傍に置いて、夏が来たらそっちに行くよ」
そうか、と肩を落とした牧師に星児は、それからさ、と続ける。
「先生にこれだけは言っておくな。麗子は先生に対して恨み言なんてこれっぽっちも言ってなかったぜ。俺や保と同じように、先生には感謝の気持ちしか持ってねーよ。先生が、あそこにいる子供らの幸せを心底願っている事はみんな分かってんだよ」
牧師は言葉を詰まらせ、うつ向き肩を震わせる。
「星児、ありがとう」
掠れる声でそう言うだけで精一杯だった。ずっと、罪の意識に苛まれてきたのであろう恩人を、星児は労るような眼差しで見詰めていた。
†††
「これ、経理のデスクに回しといてくれ」
事務所のデスクに山積していた書類に全てに目を通し終えた保は、呼び出した若い部下に束にした一揃えを渡した。「はい」と受け取った部下は頭を下げて出ていった。
香蘭劇場の閉鎖に関しては、元々独立採算方式だった為それほどの痛手や影響は無かったが、麗子は思いの外顔が広く、葬儀の後も多方面に挨拶回りがあり執務が滞り、保は事務所に缶詰めだった。
静かになった部屋で煙草に火を点けた保は椅子の背もたれに深く身を預けた。
たゆたう煙の向こうに夜の街が拡がる。眠らぬ街を彩る明るい灯火に、星児の姿が映って消えた。
星児、まだ一度も涙見せてないな。
無感情の冷たさとは違う。紙一重の状態のところにいるのかもしれない。張り詰めた緊張はどこかに危険因子を孕んでいるように、保には思えた。
ひと月経つが必要最低限の会話しか交わさなくなっている言葉少なな星児の様子が、気にかかって仕方なかった。
ため息と共に煙を吐き出した保は背もたれから身を起こすと傍にあったバッグから封書を取り出した。
流麗な筆字で〝保様〟書かれた、自分にだけに残されていた直筆の遺書。みちるには、最期に電話があったと聞いた。
星児には?
何も残さない訳が無い筈なのに、今のところそれらしきものは見つかっておらず、星児自身、保に何も話してはおらずあやふやなままだった。
保は封筒に書かれた麗子の字を眺める。
麗子と交友関係にある者達が大勢弔問に訪れ初めて知った。彼女がいかに沢山の男達に愛され、求められていたかを。
知らなかったよ。姉貴、何も言わないんだもんな。
でも、どんなに言い寄る男が現れても姉貴は、沼のような闇に沈んでいた自分を救い出してくれた星児しかいなかった、考えられなかった。
保は封筒から手紙を出して、何度も読み返したその遺書に再び目を通す。
関係が希薄な姉弟だから、と姉との繋がりを密にする努力しなかったのは、星児に対する微かな嫉妬もあったのだ。
どうせ姉貴は、星児しか見ていないんだから。
けれども麗子は、そんな自分をちゃんと分かっていた。姉として、ただ一人の肉親として、弟を想い、保にだけ手紙を残した。
遺書の前半は、弟である保に弔って欲しいという旨が事務的に書かれていたが、後半は彼を想う温かな言葉で溢れていた。
達筆だが、柔らかな文字が並ぶ優しい文体。
『ねぇ、保。以前私が言ったキツい言葉、覚えてる?
〝貴方は星児を超えられない〟
ごめんね、保は星児を超えなくていいのよ。保は、保なんだから。
比べる事なんてなかったんだわ。星児が持っていないもの、貴方はちゃんと持ってるんだから。
星児は保がいなくちゃダメなんだから。
二人とも、私の大事な弟よ』
〝二人とも弟〟。
星児までもを〝弟〟と言い切った言葉が、妙に引っかかったが、読み進めると、みちるに関係する事も綴られていた。
『みちるちゃんは、貴方達の気持ちは知らない。でもどうしても彼女を守りたいのでしょう。
だったらその想いを貫き通しなさい。
みちるちゃんが、どちらを選ぶにしても、後悔のないようにね。
最後に。
保、貴方は私の大事な、たった一人の肉親。たった一人のかけがえのない実の弟よ』
優しい字体で綴られてきた遺書は、それから、と、結びの文末に繋がる。
『これだけはちゃんと書き記しておくから、しっかり受け止めてね。
私は、決して人生を悲観した訳じゃない。
私は、幸せだった。だから、悲しまないで』
そうだった、泣いてなかったのは自分もだった。
保は灰皿に置いていた吸いかけの煙草を手にし、再びくわえた。ゆれ上る煙に目を細めた彼はフッと小さく笑う。
みちるが号泣して、自分は泣くタイミングを逃したんだな。
夜の街の灯りが、保の曇る視界に滲んでいった。
†††
麗子が亡くなった日からずっと、麗子の部屋で寝泊まりしていた星児は、仕事から戻って来た夜更け、アンティークのライティングデスクに目が行った。
楽しそうに映る写真の入ったフォトスタンドが幾つか飾られた、窓辺にあるデスクは満月の蒼白い光を受け、まるで存在を主張するかのように浮かび上がって見えた。
ネクタイを緩めていた星児は引き寄せられるようにゆっくりと近付いていき、何気なく一番上の引き出しを開けた。
綺麗に整理された引き出しの中には丁寧に梱包された箱が入っていた。箱には〝星児様〟と書かれた紙が貼ってあった。
楽屋の私物を整理するサラが、同じように片付けながら荷造りするみちるに聞いた。
「ううん。私はこのまま香蘭の所属で、派遣で色んな劇場回る事になったの。サラさんは?」
「んー、私は池袋のムーン劇場。麗子さんがちゃんと私に合う場所に話をつけてくれてた」
「そうなんだ、よかった。あそこなら私も行く事あると思う」
「じゃあまた会えるね」
「うん」
明るく答えたみちるに、サラは火の点いていないタバコをくわえたままニコッと笑った。
閉鎖が決まった香蘭劇場は、踊り子達が私物の荷造りに追われ、スタッフは片付けに奔走し、喧騒に包まれていた。
金色に染まっていた街の銀杏並木は、落ち葉となり風に舞い、店のショーウインドウは冬の装いをみせる。
麗子が自らの命を絶ってひと月が経とうとしていた。
†††
麗子の自殺は、突発的なものではなく、自分がいなくなった事で周囲の者達が迷惑を被る事のないよう、綿密な配慮を施してからのものだった。
香蘭劇場の閉鎖をそれとなくストリップ関連の仲間達に話しをし、踊り子一人一人の移転先にきめ細かな気配りがなされていた。もうストリップの世界から足を洗おうと考えていた踊り子にも次の仕事が見つかるまで困らぬような気遣いまで。
確固たる決意をした上での自殺だった。
遺書は、保宛に一通残っていただけだったが、みちるには亡くなる前日、電話があった。
リハーサル室での一件以来顔を合わせても言葉を交わす事はなかった麗子からの突然の電話に、みちるは緊張し直立不動のまま話しを聞いていた。
その日、みちるは初めて劇場の地方公演に参加していた。『そろそろ香蘭以外の舞台で踊る事にも慣れなさい』というお達しが麗子から出ていたのだ。
東京から遠く離れた札幌の劇場で受けた麗子からの電話は、『ごめんね、みちるちゃん』という言葉から始まった。静かで澄んだ、どこかスッキリとしたような晴れやかな声だった。
「みちるちゃん、この前はごめんね。貴女は何も悪くないのよ。怖い思いをさせてしまって本当にごめんなさい。みちるちゃんは今まで通りのみちるちゃんでいていいのよ」
「今まで通りの、私?」
「そうよ。無防備で愛らしくて、そうね」
電話の向こうで麗子がフフッと小さく笑った。
「これからもちょっぴり小悪魔のままでいてちょうだい」
「え……?」
思わず聞き返したみちるには答えず、麗子はゆっくりと噛み締めるように続けた。
「でも、もう少しだけ賢くなりなさい。いい、みちるちゃん? 自分の周りをちゃんと見てちゃんと気持ちに気付いてあげなさい。あんまり大事な人を苦しめちゃダメよ」
「あの?」
言葉の意味が呑み込めず、みちるは電話を持ったままオロオロする。みちるの様子が伝わったのか、麗子はクスクス笑っていた。
「今は分からなくてもいいわ。何かのきっかけで、『麗子さんがあんな事を言ってた』って思い出してくれればいいの」
麗子は最後におもむろに「みちるちゃん」と呼びかける。
「貴女は、幸せ掴む為に一歩一歩踏み締めて邁進しなさい。これは私との約束。みちるちゃん、私はやっぱりあなたが大好きよ。でも、ちょっとだけ、嫌いかな」
フフッと笑った麗子は含みを持たせ、じゃあステージしっかりね、と電話を切った。
麗子さん? 何だかまるで――。
電話を切ったみちるは胸騒ぎを覚えたが、開演時間が迫っておりその時はどうする事も出来なかった。
葬儀には、星児達が世話になった教会の牧師も来ていた。牧師は、麗子は教会の墓地に、と提案した。
問題ある養子先を見抜けず麗子を不幸にしてしまった牧師のせめてもの償いの意である事は、星児も分かったが、断った。
「麗子の絶っての希望は故郷の海への散骨だ。墓はいらないってさ。保宛の遺書に書いてあった。だから暫くは傍に置いて、夏が来たらそっちに行くよ」
そうか、と肩を落とした牧師に星児は、それからさ、と続ける。
「先生にこれだけは言っておくな。麗子は先生に対して恨み言なんてこれっぽっちも言ってなかったぜ。俺や保と同じように、先生には感謝の気持ちしか持ってねーよ。先生が、あそこにいる子供らの幸せを心底願っている事はみんな分かってんだよ」
牧師は言葉を詰まらせ、うつ向き肩を震わせる。
「星児、ありがとう」
掠れる声でそう言うだけで精一杯だった。ずっと、罪の意識に苛まれてきたのであろう恩人を、星児は労るような眼差しで見詰めていた。
†††
「これ、経理のデスクに回しといてくれ」
事務所のデスクに山積していた書類に全てに目を通し終えた保は、呼び出した若い部下に束にした一揃えを渡した。「はい」と受け取った部下は頭を下げて出ていった。
香蘭劇場の閉鎖に関しては、元々独立採算方式だった為それほどの痛手や影響は無かったが、麗子は思いの外顔が広く、葬儀の後も多方面に挨拶回りがあり執務が滞り、保は事務所に缶詰めだった。
静かになった部屋で煙草に火を点けた保は椅子の背もたれに深く身を預けた。
たゆたう煙の向こうに夜の街が拡がる。眠らぬ街を彩る明るい灯火に、星児の姿が映って消えた。
星児、まだ一度も涙見せてないな。
無感情の冷たさとは違う。紙一重の状態のところにいるのかもしれない。張り詰めた緊張はどこかに危険因子を孕んでいるように、保には思えた。
ひと月経つが必要最低限の会話しか交わさなくなっている言葉少なな星児の様子が、気にかかって仕方なかった。
ため息と共に煙を吐き出した保は背もたれから身を起こすと傍にあったバッグから封書を取り出した。
流麗な筆字で〝保様〟書かれた、自分にだけに残されていた直筆の遺書。みちるには、最期に電話があったと聞いた。
星児には?
何も残さない訳が無い筈なのに、今のところそれらしきものは見つかっておらず、星児自身、保に何も話してはおらずあやふやなままだった。
保は封筒に書かれた麗子の字を眺める。
麗子と交友関係にある者達が大勢弔問に訪れ初めて知った。彼女がいかに沢山の男達に愛され、求められていたかを。
知らなかったよ。姉貴、何も言わないんだもんな。
でも、どんなに言い寄る男が現れても姉貴は、沼のような闇に沈んでいた自分を救い出してくれた星児しかいなかった、考えられなかった。
保は封筒から手紙を出して、何度も読み返したその遺書に再び目を通す。
関係が希薄な姉弟だから、と姉との繋がりを密にする努力しなかったのは、星児に対する微かな嫉妬もあったのだ。
どうせ姉貴は、星児しか見ていないんだから。
けれども麗子は、そんな自分をちゃんと分かっていた。姉として、ただ一人の肉親として、弟を想い、保にだけ手紙を残した。
遺書の前半は、弟である保に弔って欲しいという旨が事務的に書かれていたが、後半は彼を想う温かな言葉で溢れていた。
達筆だが、柔らかな文字が並ぶ優しい文体。
『ねぇ、保。以前私が言ったキツい言葉、覚えてる?
〝貴方は星児を超えられない〟
ごめんね、保は星児を超えなくていいのよ。保は、保なんだから。
比べる事なんてなかったんだわ。星児が持っていないもの、貴方はちゃんと持ってるんだから。
星児は保がいなくちゃダメなんだから。
二人とも、私の大事な弟よ』
〝二人とも弟〟。
星児までもを〝弟〟と言い切った言葉が、妙に引っかかったが、読み進めると、みちるに関係する事も綴られていた。
『みちるちゃんは、貴方達の気持ちは知らない。でもどうしても彼女を守りたいのでしょう。
だったらその想いを貫き通しなさい。
みちるちゃんが、どちらを選ぶにしても、後悔のないようにね。
最後に。
保、貴方は私の大事な、たった一人の肉親。たった一人のかけがえのない実の弟よ』
優しい字体で綴られてきた遺書は、それから、と、結びの文末に繋がる。
『これだけはちゃんと書き記しておくから、しっかり受け止めてね。
私は、決して人生を悲観した訳じゃない。
私は、幸せだった。だから、悲しまないで』
そうだった、泣いてなかったのは自分もだった。
保は灰皿に置いていた吸いかけの煙草を手にし、再びくわえた。ゆれ上る煙に目を細めた彼はフッと小さく笑う。
みちるが号泣して、自分は泣くタイミングを逃したんだな。
夜の街の灯りが、保の曇る視界に滲んでいった。
†††
麗子が亡くなった日からずっと、麗子の部屋で寝泊まりしていた星児は、仕事から戻って来た夜更け、アンティークのライティングデスクに目が行った。
楽しそうに映る写真の入ったフォトスタンドが幾つか飾られた、窓辺にあるデスクは満月の蒼白い光を受け、まるで存在を主張するかのように浮かび上がって見えた。
ネクタイを緩めていた星児は引き寄せられるようにゆっくりと近付いていき、何気なく一番上の引き出しを開けた。
綺麗に整理された引き出しの中には丁寧に梱包された箱が入っていた。箱には〝星児様〟と書かれた紙が貼ってあった。
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