舞姫【後編】

友秋

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亀裂

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「忘れ物、ありませんか」
「うん、大丈夫です」

 部屋を見回し、ベッドの下まで覗いたみちるは、顔を上げてニコッと笑った。龍吾もはにかむような笑みを見せた。

「じゃぁ、俺がこれ持ちます」
「あ、ありがとう。ごめんね、お迎えに来てもらっちゃって……」
「いえ、保さんにしっかり頼まれましたから、気にしないでください」

 照れ臭いのかちょっぴりぶっきらぼうだ。すぐに顔を逸らしてしまった。みちるはクスリと笑う。

 このくらいの年の男の子は初めてだった。

 なんだか、とても新鮮です。

 それじゃ、行きますか、と龍吾はボストンバックを持ち、病室を出た。みちるも、ハンドバッグを手にそれに続いた。

 龍吾の後ろから廊下を歩くみちるは背中を眺めた。

 保ほどはではないが背が高い。伸び盛りであろう事を考えると、これから保と同じくらい、もしくはそれ以上高くなりそうだった。

 髪は茶髪、耳にはピアス。随分前に、星児がチラリと話していた事を、みちるは思い出していた。

『街でさ、今日ガキんちょ拾った。みちるを拾ったあの時の事を思い出してよ。お前とは違ってとんでもねぇ悪ガキだけどな』

 星児は笑っていた。

 あの時の少年なのだろう。みちるは龍吾の背中に優しく微笑んだ。

 貴方も、星児さんと保さんに救われたのね。

 みちるが初めて龍吾に会った日、保に連れて来られた龍悟は軽く頭を下げただけでひと言も話さなかった。ただ、伺うような目でみちるを見ていた。

 強い光を放つような切れ長の瞳が印象的な少年に、みちるは星児を重ねて見ていた。

「これ、あげる。美味しいよ」



 会計を待つロビーで長椅子に座ったみちるは、隣に腰を下ろした龍吾にキャラメルを渡した。

 まだ残る幼さが相まったぶっきらぼうに、みちるは初めて抱く感情があった。龍吾の、少し驚く表情にみちるはニコッと笑ってみせる。

 年齢より少しばかり幼く見えるその笑顔に、龍吾の心が少し解れた。

「甘いもの、嫌いかな?」
「あ、いや。……ありがとう」

 ボソッと聞こえるか聞こえないかのその言葉をみちるはちゃんと捉えていた。

「良かった」

 満足そうに微笑んだ柔らかなみちるの表情は、龍吾の奥底に眠る優しい記憶を呼び覚ました。
 
「お迎えのお駄賃です」
「ガキの使いかよっ」

 キャハハと笑ったみちるの声は荒んでいた少年の心を解すツボを押す。あくまで無意識に。

 星児と保に拾われたあの日から彼等が惜しみなく与えてくれた優しさを、今度は自分が返す時だと思っただけ。

 明るく笑うみちるの笑顔に、龍吾の端正な顔がくずれた。

「なんだよ」

 プッと吹き出し、笑い出した。顔を見合わせ、また笑う。緊張が解れた様子を見て取ったみちるが言った。

「私達は、姉弟みたい」
「え?」
「拾われた先にいた大事な人が、同じだった」

 龍吾は目を細めた。

 君は、姉ちゃんだ。


†††

「龍吾がさ」
「ん……?」

 家に戻るなり、みちるを抱き締めた保が言った。

「みちるを送り届けて事務所に戻って来たアイツが、やけに楽しそうにニヤニヤしてた。何、話した?」

 保がみちるの顔を覗き込む。少し驚いた表情を見せて保を見上げたみちるだったが、肩を竦めてフフフと笑った。

「内緒です」
「えー、なんだよ、それ」

 文句を言いながら保は左腕でみちるの腰を抱いたまま、右手をそっと頬に寄せた。優しく唇を重ねた。




 龍吾は、病院からタクシーでマンションまでみちるを送り届けた。

 車内での会話は途切れ途切れだったが、静かに流れる時間は彼等にとって心地よく過ごせる時だった。

 ポツリポツリと龍吾は自分の過去をみちるに話した。彼自身が驚く程素直に口から溢れ出たようだった。
 
「あのね」

 ベッドの中でみちるが囁いた。

 シャワーを浴びた後の、ローズ系のフレグランスが微かに香るみちるの首筋に軽く唇を寄せていた保はそっと外し、髪を優しく梳きながら次の言葉を待った。

「龍吾君ね」

 ああ龍吾の話か、と保はみちるの顔を見つめた。

 明かりを落とした薄暗い部屋にはカーテンの隙間から満月の光が漏れ差し、白い肌が幻想的に映えていた。

「龍吾がどうした?」

 保の静かな問いに、みちるはゆっくりと言葉を探るように話し出す。

「龍吾君は、お母さんから愛された記憶が無いんだね」

 悲しそうな表情が、薄明かりの中にも伝わった。

「アイツ、みちるにそんな話を」

 保は微かな驚きを感じていた。

 みちるは無遠慮に相手に踏み込んでいくタイプじゃない。龍吾に過去を根掘り葉掘り聞いたとは思えない。

 恐らく、龍吾自身からみちるに話したのだ。

「龍吾君は、素直ないい子だよ」
「素直? 龍悟が?」

 すっとんきょうな声を上げた保の、みちるの髪を梳いていた手が止まる。保に抱かれた腕の中で、みちるはクスクス笑った。

「正直、最初はぶっきらぼうで怖い子かな、って思った。でもね」

 みちるが保の胸に顔を埋める。

「みちる」

 低く柔らかく、優しく響く保の声が心と躰に安堵をくれる。みちるは、小さく息をつくと、静かにゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。

「無償の愛情なんて本物の家族しか与えてあげられないものだけど、出来る限り近い愛情を龍吾君にあげたいな。本当は、男の子にとって、お母さんから貰う愛情が一番最初に異性から貰う大事な愛情なんだと思う。その、お母さんから貰った情愛が、大人になって大事な一人の女性を愛する礎になるんだと思う。今からでも遅くないよ。一つでも多くの情愛が龍吾君が誰かを愛する為の優しさと強さを生んでくれると思うんだ」

 息も忘れたように黙って聞き入っていた保はクスリと笑った。

「みちるが大人みたいな事を言ってる」
「私は大人ですっ」

 ハハハと笑った保の胸を軽く叩いたみちるだったが、でもね、と続ける。

「こんな事言っても、私なんかが彼に何が出来るかなんて分からないけど」

 みちるの言葉が終わらぬうちに保は彼女の躰を思い切り抱き締めていた。

〝龍吾を君に会わせた目的〟。

 言えなくなっちまった。保の腕に、力が籠る。

「みちる、大丈夫だ。みちるなら大丈夫だ」
「ありがとう、保さん」

 見つめ合う瞳を閉じて、少し激しい口づけを君に。




「星児がみちるによろしく伝えてくれって」

 保の腕に抱かれるみちるがハッと顔を上げた。星児に、ずっと会っていない事が心の片隅に引っかかっていた。

 今夜も帰って来る様子が無い事も気掛かりだったが、保に聞けずにいた。

 みちるの気持ちを酌んで、保が静かに語り出す。

「星児はここんとこずっと姉貴のとこに帰ってる」

 ああ……と言ったみちるの声に、寂しさと諦めが入り交じったような感情が籠もった。保はみちるの頰にキスをする。

「姉貴が今、少しだけ情緒不安定なんだよ」
「え」

 みちるは胸がざわつくのを感じていた。


†††

 愛撫の手を求め、繋がる事で、安堵する。けれど、触れ合う肌にも絡めた指にも、望む形の愛はなかった。

「んん……ぁっ」

 突き上げる感覚に震えた麗子の躰を、星児がしっかりと抱き締めた。

「大丈夫だ。俺はずっと、麗子の傍にいる」

 星児の首に腕を絡める麗子は、肩で息をしながら涙目で星児の瞳を覗き込んだ。

「……うん、うん」

 分かってる、分かってるけど。貴方がくれる〝愛の形〟が、もう以前のような、私の望む〝形〟じゃないの。

 私は、貴方を苦しめてるんじゃないかしら。

 私は、星児の重荷になるのは、いや!

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