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情愛
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保と龍悟が病院の玄関を出ると、西の空を夕闇が覆い始めていた。日の短さと秋風が、季節の移ろいを教える。
「みちるさんと保さんの関係って?」
駐車場へ向かい歩く保の背中に、龍悟が聞いた。
「んー」
その問いにはいつも詰まってしまう。
以前、〝妹〟と紹介した事もあった気がするが、今はそう表現してしまった時点で、全てに線を引かれてしまいそうだと保は思う。
保は小さく呟いた。
「大事な、女――」
そうだ、紛れもなくかけがえのない存在だ。口にしてみてはっきりと自覚した。
何よりも大事な存在。
「保さんの女なのか⁉︎」
パッと走り寄った龍悟が保の顔を覗き込んだ。龍悟の顔は興味津々だ。保は、自分の顔半分くらいの高さにある額にデコピンを喰らわした。
「ちげーんだよ」
自分の女と宣言出来ていたら今頃こんなに苦しんでねぇっつーの。
「いでっ!」と額を両手で押さえた龍悟を保は笑いながら見る。
「なんだよ、自分の女じゃねぇのに大事って、どういう意味だよ~?」
ブツブツ言う龍悟に保は、ゆっくり含めるように話して聞かせた。
「大人の事情ってヤツだ。男と女の関係なんて、ひと言で片付けられるもんじゃねーんだよ。お前も大人になったら分かる、かもしんねえな」
静かに話す保の言葉に、龍悟はおでこを押さえたまま首を傾げていた。
「ところでさ、龍悟の、みちるの印象は? 見惚れるみてーにボケッと突っ立っててよ」
駐車場に着き、愛車の解錠をした保は、話題を変えた。助手席に乗り込もうとしていた龍悟が怒鳴る。
「うるせーよ!」
予想通りの龍悟の反応に、保はハハハと笑い出した。
「見惚れてたんじゃねーよ。みちるさんは、綺麗っつーより、その、可愛い感じだしよ」
ふぅん、とシートベルトをしながら聞いていた保だったが、龍悟がポケットから煙草を出したのを見るや否や取り上げた。
「あっ!」
「少なくとも、俺の前では吸わせねぇよ」
「チェッ」
「大人になったら肺癌になるまで吸え」
言いながら、保は取り上げた煙草の箱をジャケットのポケットにしまった。
説教などしたくはないが、まだ十代である少年を拾い育てる者の責任というものを最低限は持つべきだ、という考えが星児と保の中にあった。
この世界に入ってしまった時点で健全な将来の展望など望めないかもしれないが、地に足を付けて生きていく力をつけさせてやる可能性は常に探っている。
車が駐車場を出た時、呟くように龍悟が話し出した。
「みちるさんを見たとき、施設にいたときに面倒みてくれた姉ちゃんを思い出した」
龍悟はほとんど過去の話はしない。
龍悟の背中にタバコの火によると思われる火傷痕が幾つもあるのを、星児も保も知っていた。恐らく、振り返りたくもない過去が背後にあるのだろう。
保はそうか、とだけ静かに応え、龍悟が語り始めた貴重な話にハンドル操作をしながら静かに耳を澄ました。
こんな時は、ムリに何かを引き出そうとするよりも、聞くだけに徹するのが一番だ。
「俺が施設に入った時からいた姉ちゃんで、七つくらい歳上だった。俺に初めて優しくしてくれた人だ。施設の先生の言うことなんて聞かなかったけど、その姉ちゃんのだけ言うことは聞いた」
ポツリポツリと語り出した龍悟の話に、保は星児と麗子の姿を重ねた。
まぁ、星児はマセてたからガキの時から姉貴がずっと好きで、龍悟のとは少し違うな。
黙ったままフロントガラスの向こうに続く道を見ながら保は思う。
本当の家族の愛を知らなかった少年の、本来ならば母親や兄弟姉妹に向けるべき情愛に似たものだったのだろう。
「俺は、人の優しさなんて知らなかったから」
黙ってしまった龍悟に保は静かに問いかけた。
「その姉さんは今は?」
直ぐに返答はなかったが、黙って龍悟の言葉を待つ。少しの間を置いて、答えが返ってきた。
「俺が中学入る頃にどっか金持ちの家に養女に行ったみてーだ。俺はまだガキだったからよく分かんねぇけど……」
養女、か。
保の胸に鋭い針となって突き刺さる。
姉貴と同じだ。保の脳裏に浮かんだのは、麗子の辛く暗い過去だった。
星児が十九の時に起こした暴行障害事件。姉貴をあの地獄から救い出す為にやったんだったな。
封印した筈の過去が不意に保の中に甦り、苦い味が拡がる感覚に顔をしかめ軽く頭を振った。
「あれから何回か手紙、来たけどさ。俺、返事書かなかったし、今はどうしてるか分かんね」
まるで独り言のように呟く龍悟に、保は優しく言葉をかけた。
「幸せになってるといいな」
龍悟は、黙って頷いていた。チラリと横目で見た保は言う。
「そのお姉ちゃんとは違うけどさ、今日会ったみちる、守ってくれないか」
「守る? 俺が?」
目を見開く龍悟に、保は頷いた。
「ああ、お前の初仕事」
ボディーガードなんて大層なものではない。まだこんなに幼い彼に、出来る訳がない。そんな事は分かっている。
けれど、常に誰かが彼女の傍にいる事は何かしらの抑止力になる筈だ、と保は考えた。
「本当は、俺達が守り通さなきゃいけないんだ。けど」
保の言葉に龍悟は鋭く反応した。
「俺、〝たち〟?」
「ああ、俺と星児な」
シートにもたれ掛かっていた龍悟が、ガバッと身を起こした。
「セイジさん!? なんで!?」
「ああ、ここが大事なポイントだったな。みちるは、俺と星児の大事な女だ」
〝セイジ〟と言う名前を聞いた途端、今与えられた仕事の責任にいきなり何トンもの負荷がかかったようだった。龍悟の顔に微かに緊張の色が見え、保は苦笑いする。
お前の中で俺と星児の立ち位置はどんだけの差があんだよ。今更どうでもいいけどよ。
気を取り直し、信号で止まった時に龍悟の顔を見た。
「そういうワケだからみちるの事よろしく頼むけどさ、まずないと思うけど、変な気は起こさないでくれよな。もし何かあったら、お前、星児に東京湾に沈められるから」
保はニッコリと微笑んだ。
「保さん、優男ヅラがマジ怖いぜ」
†
蛍光灯の明かりに、キラキラと光るペンダント。みちるはベッドで仰向けに横になったままペンダントのチェーンを両手に持ち、かざして見ていた。
凄い、ちゃんと直ってる。保さん、ありがとぉ。
みちるの胸が、キュンと鳴った。
保さん。
心の中で名前を呼び、ペンダントを抱き締めた。
「あら、可愛いペンダント。天使?」
検温に来たベテランそうな年配の看護師が体温計をみちるに渡しながら優しく声をかけた。受け取りながらみちるは「はい」と笑顔で答えた。
「恋人からかしら?」
え? と微かに頬を染めたみちるは肩を竦めた。
「残念ながら、違います。母からもらったものです」
小さな声で遠慮がちに答えたみちるに看護師は「そうなの?」とカルテに書き込む手を休めず答える。
「とても素敵な男性が毎日お見舞いにみえるでしょう。ナースステーションでちょっと話題になってるの」
毎日。保さんだ。目立つもんね。
星児は頻繁には来ない。ここ三、四日は姿を見せていなかった。
「でも私はね」
看護師が、アラームの鳴った体温計をみちるから受け取り、言った。
「もう一人の男性も気にかかるわね」
みちるが、ハッと彼女を見た。目尻に優しいシワが出来る看護師は、微笑んだ。
「貴女が眠っている間、ずっと傍に付いてらして。私達がいるから大丈夫ですよ、って言っても一晩中付きっきりだったの。貴女が目を覚ました時に、誰かがいてあげなくてはいけないからっ、て言ってらした」
星児さん!
みちるは両手で顔を覆った。込み上げくる涙を必死に堪える。
「もうすぐ、退院できますよ」
看護師は優しく声をかけ、みちるの頭を軽く撫でて出ていった。
消灯時間が過ぎても、暗闇恐怖症のみちるの為に病室は小さな電気が点灯したままになっていた。個室の為、静寂の空間が拡がる。
仰向けになるみちるは、ほの暗い天井を見つめていた。色々な事が、頭の中を駆け巡る。特に気にかかったのは麗子の事だった。
みちるには、急に麗子が自分から距離を置き、遠く離れていったように思えてならなかった。
星児との関係は、決して口にはしていない。星児の気持ちも解らない。
何があっても星児が戻る場所は必ず麗子の所だという事は、みちるは痛い程分かっている。
何度も重ねたその肌が、彼の全てを覚えてる。
やっぱり、星児さんは苦しいです。
布団の中に潜り込んだみちるは、身を丸くした。目をギュッと閉じ、痛む胸を抱えて苦しい気持ちをやり過ごす。
一つの恋が終わり、再燃する何か。
秋の夜は、ゆっくり緩やかに更けてゆく。
「みちるさんと保さんの関係って?」
駐車場へ向かい歩く保の背中に、龍悟が聞いた。
「んー」
その問いにはいつも詰まってしまう。
以前、〝妹〟と紹介した事もあった気がするが、今はそう表現してしまった時点で、全てに線を引かれてしまいそうだと保は思う。
保は小さく呟いた。
「大事な、女――」
そうだ、紛れもなくかけがえのない存在だ。口にしてみてはっきりと自覚した。
何よりも大事な存在。
「保さんの女なのか⁉︎」
パッと走り寄った龍悟が保の顔を覗き込んだ。龍悟の顔は興味津々だ。保は、自分の顔半分くらいの高さにある額にデコピンを喰らわした。
「ちげーんだよ」
自分の女と宣言出来ていたら今頃こんなに苦しんでねぇっつーの。
「いでっ!」と額を両手で押さえた龍悟を保は笑いながら見る。
「なんだよ、自分の女じゃねぇのに大事って、どういう意味だよ~?」
ブツブツ言う龍悟に保は、ゆっくり含めるように話して聞かせた。
「大人の事情ってヤツだ。男と女の関係なんて、ひと言で片付けられるもんじゃねーんだよ。お前も大人になったら分かる、かもしんねえな」
静かに話す保の言葉に、龍悟はおでこを押さえたまま首を傾げていた。
「ところでさ、龍悟の、みちるの印象は? 見惚れるみてーにボケッと突っ立っててよ」
駐車場に着き、愛車の解錠をした保は、話題を変えた。助手席に乗り込もうとしていた龍悟が怒鳴る。
「うるせーよ!」
予想通りの龍悟の反応に、保はハハハと笑い出した。
「見惚れてたんじゃねーよ。みちるさんは、綺麗っつーより、その、可愛い感じだしよ」
ふぅん、とシートベルトをしながら聞いていた保だったが、龍悟がポケットから煙草を出したのを見るや否や取り上げた。
「あっ!」
「少なくとも、俺の前では吸わせねぇよ」
「チェッ」
「大人になったら肺癌になるまで吸え」
言いながら、保は取り上げた煙草の箱をジャケットのポケットにしまった。
説教などしたくはないが、まだ十代である少年を拾い育てる者の責任というものを最低限は持つべきだ、という考えが星児と保の中にあった。
この世界に入ってしまった時点で健全な将来の展望など望めないかもしれないが、地に足を付けて生きていく力をつけさせてやる可能性は常に探っている。
車が駐車場を出た時、呟くように龍悟が話し出した。
「みちるさんを見たとき、施設にいたときに面倒みてくれた姉ちゃんを思い出した」
龍悟はほとんど過去の話はしない。
龍悟の背中にタバコの火によると思われる火傷痕が幾つもあるのを、星児も保も知っていた。恐らく、振り返りたくもない過去が背後にあるのだろう。
保はそうか、とだけ静かに応え、龍悟が語り始めた貴重な話にハンドル操作をしながら静かに耳を澄ました。
こんな時は、ムリに何かを引き出そうとするよりも、聞くだけに徹するのが一番だ。
「俺が施設に入った時からいた姉ちゃんで、七つくらい歳上だった。俺に初めて優しくしてくれた人だ。施設の先生の言うことなんて聞かなかったけど、その姉ちゃんのだけ言うことは聞いた」
ポツリポツリと語り出した龍悟の話に、保は星児と麗子の姿を重ねた。
まぁ、星児はマセてたからガキの時から姉貴がずっと好きで、龍悟のとは少し違うな。
黙ったままフロントガラスの向こうに続く道を見ながら保は思う。
本当の家族の愛を知らなかった少年の、本来ならば母親や兄弟姉妹に向けるべき情愛に似たものだったのだろう。
「俺は、人の優しさなんて知らなかったから」
黙ってしまった龍悟に保は静かに問いかけた。
「その姉さんは今は?」
直ぐに返答はなかったが、黙って龍悟の言葉を待つ。少しの間を置いて、答えが返ってきた。
「俺が中学入る頃にどっか金持ちの家に養女に行ったみてーだ。俺はまだガキだったからよく分かんねぇけど……」
養女、か。
保の胸に鋭い針となって突き刺さる。
姉貴と同じだ。保の脳裏に浮かんだのは、麗子の辛く暗い過去だった。
星児が十九の時に起こした暴行障害事件。姉貴をあの地獄から救い出す為にやったんだったな。
封印した筈の過去が不意に保の中に甦り、苦い味が拡がる感覚に顔をしかめ軽く頭を振った。
「あれから何回か手紙、来たけどさ。俺、返事書かなかったし、今はどうしてるか分かんね」
まるで独り言のように呟く龍悟に、保は優しく言葉をかけた。
「幸せになってるといいな」
龍悟は、黙って頷いていた。チラリと横目で見た保は言う。
「そのお姉ちゃんとは違うけどさ、今日会ったみちる、守ってくれないか」
「守る? 俺が?」
目を見開く龍悟に、保は頷いた。
「ああ、お前の初仕事」
ボディーガードなんて大層なものではない。まだこんなに幼い彼に、出来る訳がない。そんな事は分かっている。
けれど、常に誰かが彼女の傍にいる事は何かしらの抑止力になる筈だ、と保は考えた。
「本当は、俺達が守り通さなきゃいけないんだ。けど」
保の言葉に龍悟は鋭く反応した。
「俺、〝たち〟?」
「ああ、俺と星児な」
シートにもたれ掛かっていた龍悟が、ガバッと身を起こした。
「セイジさん!? なんで!?」
「ああ、ここが大事なポイントだったな。みちるは、俺と星児の大事な女だ」
〝セイジ〟と言う名前を聞いた途端、今与えられた仕事の責任にいきなり何トンもの負荷がかかったようだった。龍悟の顔に微かに緊張の色が見え、保は苦笑いする。
お前の中で俺と星児の立ち位置はどんだけの差があんだよ。今更どうでもいいけどよ。
気を取り直し、信号で止まった時に龍悟の顔を見た。
「そういうワケだからみちるの事よろしく頼むけどさ、まずないと思うけど、変な気は起こさないでくれよな。もし何かあったら、お前、星児に東京湾に沈められるから」
保はニッコリと微笑んだ。
「保さん、優男ヅラがマジ怖いぜ」
†
蛍光灯の明かりに、キラキラと光るペンダント。みちるはベッドで仰向けに横になったままペンダントのチェーンを両手に持ち、かざして見ていた。
凄い、ちゃんと直ってる。保さん、ありがとぉ。
みちるの胸が、キュンと鳴った。
保さん。
心の中で名前を呼び、ペンダントを抱き締めた。
「あら、可愛いペンダント。天使?」
検温に来たベテランそうな年配の看護師が体温計をみちるに渡しながら優しく声をかけた。受け取りながらみちるは「はい」と笑顔で答えた。
「恋人からかしら?」
え? と微かに頬を染めたみちるは肩を竦めた。
「残念ながら、違います。母からもらったものです」
小さな声で遠慮がちに答えたみちるに看護師は「そうなの?」とカルテに書き込む手を休めず答える。
「とても素敵な男性が毎日お見舞いにみえるでしょう。ナースステーションでちょっと話題になってるの」
毎日。保さんだ。目立つもんね。
星児は頻繁には来ない。ここ三、四日は姿を見せていなかった。
「でも私はね」
看護師が、アラームの鳴った体温計をみちるから受け取り、言った。
「もう一人の男性も気にかかるわね」
みちるが、ハッと彼女を見た。目尻に優しいシワが出来る看護師は、微笑んだ。
「貴女が眠っている間、ずっと傍に付いてらして。私達がいるから大丈夫ですよ、って言っても一晩中付きっきりだったの。貴女が目を覚ました時に、誰かがいてあげなくてはいけないからっ、て言ってらした」
星児さん!
みちるは両手で顔を覆った。込み上げくる涙を必死に堪える。
「もうすぐ、退院できますよ」
看護師は優しく声をかけ、みちるの頭を軽く撫でて出ていった。
消灯時間が過ぎても、暗闇恐怖症のみちるの為に病室は小さな電気が点灯したままになっていた。個室の為、静寂の空間が拡がる。
仰向けになるみちるは、ほの暗い天井を見つめていた。色々な事が、頭の中を駆け巡る。特に気にかかったのは麗子の事だった。
みちるには、急に麗子が自分から距離を置き、遠く離れていったように思えてならなかった。
星児との関係は、決して口にはしていない。星児の気持ちも解らない。
何があっても星児が戻る場所は必ず麗子の所だという事は、みちるは痛い程分かっている。
何度も重ねたその肌が、彼の全てを覚えてる。
やっぱり、星児さんは苦しいです。
布団の中に潜り込んだみちるは、身を丸くした。目をギュッと閉じ、痛む胸を抱えて苦しい気持ちをやり過ごす。
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秋の夜は、ゆっくり緩やかに更けてゆく。
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