新見啓一郎の事件簿~終天の朔~

麻生 凪

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終天の朔

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「日の当たる場所なんか在りはしない、空っぽのこころに明日の風は届かない、堕ちて行くからだは誰にも見えはしない。朔の夜、信じることをやめた日が記念日になった。だから、闇を棲家と決めたんだ」

「それは……」

「そう『終天の朔』、9月20日付けのあなたが書いた日記です。天野さんが殺害された17日朔の晩、その3日後にね」

「…………」

 恭平の困惑した様子を確認しながら、新見は続ける。
「そして、これは天野さんのノートパソコンに残された最後の日記です。日付は9月17日、サイトへの投稿はされていません」
  新見はA4のコピー用紙を一枚テーブルの上に置くと、
「さくのよにひかりはあるの、わたしにはわかる。しんじつだけをてらしだす、みえないひかりがあなたをいぬき、そこにおちるかげ。ほのくらいそのかげがわたしのすべて」
   恭平の目を見ながら、礼子の最後の詩を読んだ。

「これは椎名さん、あなたが5月16日、日記サイトに投稿した詩『朔月』から、天野さんが引用したものです」

    恭平は新見から視線を逸らした。

「あなたのほのくらいかげが、わたしのすべて……大切な人を想って書いたのでしょう。私はこの詩に、『あなた』と書かれたその人の悲しみに対する天野さんの、深い理解と同情を感じました」

「…………」

「天野さんは、あなたがコンサートのアンコールで演奏したベートーベンの幻想曲風ソナタ、『月光』を聴きながら泣いていた……嗚咽のように、体をふるわせながら涙を流していたそうです」

 恭平は、何も言わず耳を傾けている。耳奥には、波しぶきのような耳鳴りが、微かに響き始めた。

「月光……そもそもベートーベンがつけたタイトルは『幻想曲風ソナタ』。それなのになぜ『月光』という呼び名が広まったのか……はっきりした理由はわかっていないが、もっとも有力とされているのは、ドイツの詩人レルシュタープの言葉がきっかけだという」

 ・・・・・・

『なにか寂しい詩ですね、わたしの心に重なります、わたしそのものかも……』

「朔月」にコメントありがとうございます。共感頂き感謝申し上げます。
初めてこのサイトを利用しました。今日は、少しばかり良いことがあったものですから、嬉しくなってしまって。でも、こんな詩を載せておきながらちょっと矛盾してますね、失礼しました(笑)

『お返事ありがとうございます。実はわたしも、今日初めてこのサイトを訪れたんです。ここのところ少しナーバスで、人恋しくなったのかも。そしたらLuna Lupsさんの詩に出会って、ほんとうにわたしの人生そのものというか、わたしの心に響いてしまって……でも、嬉しいことって(笑)、確かに矛盾してますね』

そうだったんですね。
ある尊敬する方に認められて、この詩を誉められて。今度、その人と一緒に仕事をすることになったんですが、その記念と言ったらなんですが……これまで生きた証しと言うか、僕の魂を綴ったものなんです。

『いろいろ苦労されてきたのですね。何度も読み返してしまいました。流浪のさだめ、漂白のみぎわに彷徨う魂、抜け殻の心……願いというものは儚いものですね、まるで手から離れてゆく風船のようで。腕を伸ばしても、背伸びをしても、失ってしまったものは二度とその手に戻らない』

儚い望み、風船ですか……

 ・・・・・・

「音楽評論家としても大きな影響力を持っていたレルシュタープがこの曲の第1楽章を聴き、《スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう》と例えた。この言葉が広まり、作品自体が『月光』と呼ばれるようになったと言われている。さらに、『月光』というネーミングを後押ししたもう一つの理由に、ベートーベンのはかない恋物語があった」

 恭平の瞼が、僅かながら震えた。

「作曲当時、彼が思いを寄せていた伯爵令嬢ジュリエッタ。この作品は、愛する彼女に贈られている。惹かれあった2人だが、境遇の差が生み出した壁は厚く、その恋はやがて終わりを迎える。切なく、はかない印象が『月光』という呼び名を後押したのではと……そんな名曲に、天野さんは自身の想いを重ねていたのではないかな」

 恭平は胸に溜めた息をゆっくり吐き出すと、静かに眼を開く。

「あなたと天野さんは、月をテーマにした日記でお互いの想いを重ねていましたね」

「…………」

「あなたが初めて日記サイトに自身の詩『朔月』を投稿したのは、5月16日。この日はあなたの21歳の誕生日であると共に、天野さんにとっても特別な日であった……あなた同様、彼女もまた、ある種の感慨を抱きながら、初めての日記サイトを訪れたのです。二人の出会いは単なる偶然では無かった。この事実を知った時私は、ただただ、言葉を失った……あなたが先程演奏した『フーガの技法』、フーガのように遁走《とんそう》しあう二人の魂は、重なり合ったのです」

 ・・・・・・

「見て、月があんなに綺麗。初めてよ、月を見てこんなにも穏やかな気持ちになったことなんて……あの日以来……今までなかった。寂しい人生よね、月を愛でる心の余裕など持てなかったもの。でもね、あなたが教えてくれた、変えてくれたの」

「僕だってそうさ、君に出会って、今まで感じたことの無い安らぎを実感しているよ」

「あぁ、あなたを愛しています……こんなにも……幸せなことはない」

「僕も愛しているよ……そう、帰る家なんか何処にもなかった。いつも孤独の中にいた……でもね、このロザリオだけが心の支えだったんだ。生まれた時からずっと僕を見守ってくれてた。そして、僕の願いを叶えてくれた……」

「ロザリオ……」

「あぁ、きっと、大切に想ってくれていた人が持たせたんだろう。ここにM.Mとあるだろ、その人のイニシャルかな……なんて、いつも考えていた」

「…………」

 ・・・・・・

(この沈黙こそが、如実に恭平の胸中をもの語る……)

 新見は賭けに出た。

「天野さんはね、実は妊娠していなかったのだよ」


「えっ……」
 半眼の瞼が一瞬のまばたきの後、大きく開かれた。

「彼女は、流産していたことを知らなかったんだ」


「……流産……」


「早発卵巣不全という不妊症だった、それは自身も知っていた。しかし、ある日、体調の異変に気付いた彼女は妊娠検査薬を使って調べてみたんだ。検査薬は陽性を示した。卵巣不全を克服し、確かに妊娠はしていた」

「…………」
    恭平の身体が震え始めた。

「でもね……枯渇しかけた卵胞から生まれた卵子に、完全には着床出来ていなかった。一度は着床したものの流れてしまった……それに気がつかなかったんだよ。その後完全に月経がなくなり閉経した為に、妊娠したと思い込んでいた……最期の時まで」

「……さいごの……とき……」

「これは彼女が、その日の為にと用意していたものだ」

 新見はショルダーバッグから靴下を取り出すと、テーブルの上に静かに置いた。

「これは、赤ちゃんの……くつした……」
 恭平は見つめたまま肩を大きく震わすと、右手でゆっくりと靴下に触れた。

「さぞ、嬉しかったんだろうね」


「うっ……うっ……俺は……」

「……椎名さん……」

「あぁ……俺は、なんてことを……うぅ……うぁー!」

「……やはり、知らなかったのですか……」


「うっ……うっ」
 暫く咽び泣いたあと、恭平は静かに犯行を自供し始めた。

「コンサートが終わった後に、会う約束をしていたんです」

「直接ビルの屋上に行ったんですね。初めてではなかった」

「あそこには、以前も二人で行きました……夜景が綺麗だった……」

「天野さんは、そこであなたを待っていたんですね」


「はい……」


 ・・・・・・・・


「あなたとはもう会わないと、決めていたのに……」

「なぜ、解らないよ……今日のコンサートに来てくれて本当に嬉しかった。ここからが勝負なんだ、やっと掴んだチャンスなんだ」

「だからもう、一緒に居られないの」

「邪魔になると思ってるの……逆だよ。君が居てくれないと……俺は成功して、君を幸せにするから」

「ああ、神様……あなたとはもう会わないと決めていたのに……でも、ひとりではきっと、わたしには出来ない……」

「なぜ、なぜ泣くんだよ。歳なんか関係ない……君が隣に居てくれなきゃ俺は」

「もうやめて、お願いだから……あなたと居てはいけないの。一緒に居たらまた、闇の中で生きることになる。お願いだからわたしの事は忘れて……」
 礼子は一瞬言葉を詰まらせ、恭平の手をとると

「どうかお願い、殺して下さい」
 と、懇願した。

「訳が解らないよ」

 恭平は動転し、すがる礼子が持つショルダーバッグを払いのけた。

 礼子は点滅を繰り返す街灯を頼りに、バッグの中の小銭入れから飛び散った数枚を、一枚一枚ゆっくり拾い上げながら、

「わたしたちはコインの裏と表。わたしは朔、漆黒の暗闇。あなたは展望の新月...出会ってはいけなかった……」
 と咽びながら、震える声で呟いた。

「椎名、いえ、大原 恭平……」

「……なぜ、以前の名字を」

「あなたは……わたしの息子……」  

「えぇ、いま……なんて言ったんだ」

 恭平は自分の耳を疑った。

「あなたは、わたしと大原 愛明のこどもなの……」

「嘘、だろ……」

「あなたがお守りにしてるロザリオは21年前……わたしが授けたものよ……この前、見せてくれた時、全てを知ってしまった」

「…………」

「裏に刻んだのは、名前のイニシャルなんかじゃない……。My Moon、わたしのお月さま。そして、あなたの父親を殺したのはわたし……あの時炎の中で、あなたを見つけられなかった……」
 
 恭平は悪夢を見ているかのように、目を瞑ったまま眉間に皺を寄せ首を振る。

「死んだとばかり思ってた……」

「えっ! 」

「あの夜……朔の暗闇に紛れて、あなたを捨てたのよ……」
 恭平の両手をとり、静かに自身の喉元に導く礼子の瞳から、一筋の涙が頬をつたう。

「殺して……」

 言葉が詰まった。

「殺して、あなたの子がお腹の中にいるの……こんな恐ろしいこと、許される訳がない……殺して……そうでないと、わたし……産んでしまう」


「なんだって……」
 恭平の声もまた、震えている。

「聞こえなかったの、あなたの子がいるの……わたしの中に」

「……うそだ……」
   恭平は空を仰ぎ、涙で曇る星々をただ見つめる。
    
 胸の十字が疼いた……

「自分では死ねないの。この子を殺せないのよ、だからお願い……おねがいぃ……」

 懇願する礼子は、頬を伝う涙を抑えることが出来ない。

 礼子の溢れた涙が手の甲に辿り着いた瞬間、恭平の瞼にマンハッタン ヴィレッジ・ヴァンガードの客席が映った。

「あぁ……」

 恭平は深く嗚咽をはきだすと、両の掌に力を入れた。

 
 『真由理』 
 これは夢なのか、現実なのか。脳内に靄がかかったような感覚……魂が抜け堕ちて行く瞬間ふと恭平に、通り者が訪れたの。

(とおりものに、あたる……)

    
 恭平の手から崩れ堕ちてゆく礼子の顔に苦痛の表情は無い。ただ 眠るように、静かにゆっくりと倒れてゆく。


『真由理』
 君は、「死の欲動」Thanatosに脅迫されつつ、自己《じこ》欺瞞《ぎまん》的に、「生の欲動」Erosに自らを委ねる。人間には、虚無……死へ誘惑される衝動がある。それは主題化されないまま不吉に君を誘い続ける。「生の欲動」の基礎に、「死の欲動」がある。これが君の欲動、リビドーの真の姿だ。……彼女にとって、月の光は眩し過ぎたの。たとえそれが新月の、月と闇の間から僅かに零れ落ちる雫のような光でさえ、朔の漆黒に堕ち入った天野 礼子には眩しかったのよ……
 終天の朔に支配された彼女には。


「真実だけを照らし出す、見えない光があなたを射ぬき、其処に落ちる影。仄暗いその影がわたしの全て」

 詩を綴る礼子の想いに触れ、新見は目を瞑ったまま右手の握り拳を額にあてた。


 探しさがし辿り着いた
 ここがわたしのまほろば

 泣いたのは月のせい

 こよない月が眩し過ぎたから……



 草花《そうくわ》静寂にして、銀杏を揺らした風は止んでいた。けれどもそこに、先程までの暖かい陽光はない。枝に佇む鳥たちは知っているのだ、虚ろな秋空を。風凪の、暫し異様な静けさは、いずれ嵐となる前触れなのだということを。故に、じっと留《とど》まるのだ。

 風凪……
 礼子はその一瞬に、魂の宿り木を想い、恭平は、人生の安らぎを見た。二人に、どう結末を知ることが出来ようか。
 神の悪戯か、この世に生を受けた時からの運命《さだめ》だったのか。
 もしあの日、どちらかが前を横切らねば、二人の人生の方向は別だったかもしれぬ。


 そして深く、ため息をついた。


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