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第七部 俺達の家族 -団結編-
プロローグ 今年もよろしくな その一
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「正道、大丈夫だよ」
「何が大丈夫なんだ。ふざけるな」
我ながら情けない男だと思う。
だが、両親に捨てられ、自暴自棄になっていたあの頃の俺は、どんな言葉も神経を逆なでするものにしか聞こえなかった。
ガキ相手だろうが、俺を想っての言葉であっても受け入れることが出来なかった。
それでも、目の前にいる……は俺を真っ直ぐに見据え、不敵な笑みを浮かべていた。
俺が怖くないのか?
俺は……を睨みつけているが、内心、戸惑っていた。
同級生、先生達は俺を恐れ、煙たがっていた。なのに、目の前のガキは俺を全く怖がっていない。理解できなかった。
そんな俺の心を見透かしたように……はまた、断言する。
「正道、大丈夫だから」
何の根拠もない、無責任な言葉。
俺は段々腹が立ってきて、つい喧嘩腰になる。
「何の根拠があってそんなこと言えるのかって聞いてるんだ。理由をさっさと言え」
「だって、私には分かるから。正道にはきっと明るい未来が待ってるよ。なぜなら……」
「なぜなら?」
俺はこのとき、何を想ったのか、思い出せない。期待していたのか、それとも、ガキの戯言と見下していたのか。
……は俺の予想を遙か斜めを行く言葉を俺にぶつけてきた。
「私が正道を幸せにしてあげる!」
「……夢か」
目覚ましが鳴る前に俺は目を覚ました。部屋の中は暗く、冷たい空気に顔がひんやりとするのを感じる。
なつかしい夢を見た。心の奥底にうずくかすかなぬくもりと痛みと……。
ぞくっ!
背中に悪寒を感じた。真冬なのに嫌な汗が背中をつうっとこぼれていく。
心の中で大切なことだ、思い出せと告げてくるが、脳は警報のように俺に忠告してくる。
思い出すな、と。
「……」
お、思い出さない方がいいな、これは。
俺は自分の直感を信じ、そう結論づけると、夢のことは忘れることにした。
体を起こし、俺はそっとルームメイトを起こさないよう、静かに着替えを始めた。
「正道君、おはよう」
「おはようございます、信吾さん」
朝のランニングに備え、庭で体をほぐしていると上春信吾さんが声を掛けてきた。
上春信吾。
髪は少し長めで、眉毛より少し下、耳元まで髪が伸びている。
健康的に日焼けした肌と笑顔を絶やさない明るい雰囲気は、周りを和ませる雰囲気があった。
背は俺より少し低いくらいで、百八十はある。
肉体系労働で鍛えた筋肉は引き締まっていて、実年齢よりも若々しく見える。まあ、精神年齢も低いから若く見えるのかもしれないが。
「相変わらず早起きだよね。大晦日までランニング?」
「習慣ですので。信吾さんはお仕事ですか?」
「いや、仕事は昨日まで。正月があけるまで仕事はないからもっと遅くまで寝ていたいとは思うんだけど、つい起きちゃうんだよね」
その気持ちはよく分かる。
体で覚えた習慣は年末年始だろうが関係ない。勝手に体が動いてしまうものだ。
「ねえ、正道君。今からランニングに行くんでしょ? 僕も一緒にいい? シュナイダーの散歩も兼ねてさ」
シュナイダーとは外国人っぽい名前だが、れっきとした柴犬である。
最近、ウチの家族になった仔犬で、拾ってきたときは痩せていて少し元気がなかったが、今では元気すぎてやんちゃだと思うくらいだ。
元気に走り回り、そして寝る。これの繰り返し。
ただ、寝てる時間が結構長いので少し心配になることもあるが、仔犬は十六時から十八時間ほど眠るといわれているので問題ないのかもしれない。
シュナイダーは散歩に連れて行ってもらえることを理解しているのか、尻尾を振り、信吾さんの足に体をこすりつけるようにまとわりついている。
「見てみて、正道君! これって愛情表現だよね!」
「シュナイダーは信吾さんよりも優位であることを誇示しているだけかもしれませんよ」
「……やめてよ、正道君。気持ちが冷めちゃうじゃない」
「躾は大事って事です。さっさと行きましょうか」
本気で落ち込んでいる信吾さんの肩を叩き、俺は庭を出る。
信吾さんは慌てて俺を追いかけ、シュナイダーは尻尾を振りながら俺達についてくる。
家を出る前に、俺は信吾さんに確認した。
「ちゃんと用意しているか?」
「任せてよ! これでどこでうんちしても問題ナッシング!」
俺が信吾さんに確認したのは排泄物を処理する道具の確認だ。
シュナイダーは仔犬のせいか、やたら排泄するからな。家の中だけで排泄させれば楽なのだが、出てしまうものは仕方ない。
ペットシーツでしか排泄をしたがらない犬もいるらしいが、我が家の犬はどこでもしたがるので、根気よく対応するしかない。
持ち物は水を入れたペットボトル、ビニール袋と新聞紙の切れ端とスコップ。
これらを使用して排泄物の処理をする。
尿については最初、ペットボトルに水を掛ければいいのかと思ったが、水を掛けると広がってしまい、これでいいのかと不安になったことがあった。
それでも、排泄物には変わりないので、綺麗にしようとする意思は大切だと思いつつ、排水溝のあたりや草原といった匂いの残りにくいところにするように誘導している。
糞のタイミングは大体、くるくるとその場に周り、地面をかいだ後、少ししたら出す。お座りのようなポーズ、もしくは立ったまますることもある。
ここで新聞紙の紙切れを下に引くと、糞をとめてしまうことがあるので、出してから掃除することにしている。
尿も糞もすぐに出すわけではないので、根気よく待っているんだが、なぜか、こっちも気張ってしまうんだよな。
「……どこでもしたらダメだろ」
排泄物を気にする人がいる以上、ちゃんと躾をしておきたいのが本音だ。仔犬の時期にちゃんと躾をしておかないと後々苦労すると聞いているからな。
人間の都合で無理に躾けられるのは可哀想だと思うが、生活していく中では必要なことだ。
そのかわり、食住は保証されているので我慢していただきたい。衣は必要ないよな?
俺は軽く息を吐く。
白い息が空へとあがり消えていく。冬の冷たい空気は身が引き締まる気分だ。悪くない。
「それじゃあ……」
「待って、正道君! 僕、大変な事に気づいたんだ」
信吾さんがいきなりシリアスな顔になる。
なんだ? 何かあったのか?
シュナイダーだけが散歩まだなの? って顔をしているが、俺と信吾さんの間にはちょっとした緊迫感があった。
信吾さんは重々しく口を開く。
「うんちとうんこの違いって何だろう……」
「……」
どうでもいいことだった。
俺は汚物を見るような目で信吾さんを睨む。
信吾さんは慌てて弁解してきた。
「待って! 待ってよ! 気になるじゃない! 正道君は気にならないの? なるよね?」
真冬の新鮮で透き通った空気の中で排出物の話をするな、台無しだろうが。
頭が痛くなってきた。
「……はあ。『うんち』は肉や魚といったタンパク質が消化吸収を経て排泄されたもので、『うんこ』は野菜や穀物のみが消化吸収を経て排泄されたものだ。これでいいか?」
「何ソレ? なんで知ってるの? 正道君って、もしかしてヘンタ……」
「たたきのめすぞ」
たまたまtwitterで話題になったことを知っていただけだ。
だが、正直、感心させられた。明確な違いがあったんだって驚かされたっけな。
今はどうでもいい。
「もういいよな? それじゃあ……」
「行きますか!」
「わん!」
嬉しそうな信吾さんとシュナイダーを見ていると、どちらも子供のように思えて力が抜けるが仕方ない。
俺達はランニングの第一歩を踏み出した。
「ははっ、シュナイダー。そっちに行くのか? よし、行こうか!」
「おい、シュナイダーに好き勝手させるな。下に見られるぞ」
犬には主従関係が存在する。もし、自分より下と思われたら、犬は飼い主に従わなくなり、問題行動を起こしやすくなる。
だから、きっちりと教えてやるのだ。どちらが上かを。
「ははっ、正道君って好きな人が出来たら束縛するタイプでしょ? それに犬だって力で押さえつけられたら迷惑だって思うし、反抗したくなるよ。子供も犬も寛大な愛で育てなきゃいけないって思わない?」
「……お前は甘やかしすぎて、かみつかれるタイプだな」
俺の茶化しに、上春信吾はかみついてきた。
「そ、そんなことないから! カリスマ性抜群でしょ、僕は! ほら、僕って上春家の大黒柱だし!」
「家なし職なし金なしでスリーアウトだろうが。とっとと退場しとけ」
信吾さんは更にかみついてくるが、常々思う。
ガキか、己は。
そう思いつつ、信吾さんの行動力は目を見張るものがある。
信吾さんとの出会いはあまりいい印象がなかった。別に信吾さんが悪いわけじゃない。
ただ、信吾さんの婚約者があの女だった事に言いようのない何かを感じていた。
俺の両親は俺が起こした暴力事件のせいで別れてしまった。
しかも、俺の母親は親権を手にしておきながら、自分の両親に俺を預けたまま、どこかに消えてしまった。つまり、俺を捨てたのだ。
そのショックで、俺はこの世の全てを恨んだのだが、祖父の義信さん、祖母の楓さんのおかげで立ち直ることが出来た。
捨てられた先に救いがあるなんて、皮肉としか言いようがない。
両親に捨てられ、痛みが和らいできた頃、女は突然俺の前に現れて、やり直したいと戯れ言をほざきやがった。再婚相手である信吾さんを連れて。
正直、俺は信吾さんと仲良くやっていく事は出来ないと思っていた。
だが、信吾さんと話をしてみると、全然憎めなかった。それどころか、悪い気はしなかった。
きっと、信吾さんが俺の前の相棒である伊藤ほのかとどこか似ていたからだろう。
人懐っこい性格とお人好しな性格に、俺は信吾さんに伊藤の面影をみたから恨めなかった。
そもそも、俺が納得いかないのは女が勝手にやり直したいと言い出したことなので、信吾さんを恨むのはお門違いだ。そう自分に言い聞かせていた。
だが、俺は信吾さんと一度だけ本気でぶつかったことがある。信吾さんに俺が隠していたある想いを暴露しようとしたときだ。
あのときは手加減なしで信吾さんにぶつかったよな。
結局、信吾さんは俺達、藤堂家が抱えている問題を暴き出し、そして、ある提案を持ちかけた。
俺は信吾さんの提案に乗り、信吾さんが立案した『集合体』に参加することになった。
集合体。
俺達藤堂家と上春家がお互い協力し、足りないものを補完していく計画。
俺だけでなく、上春家も問題を抱えている。その問題を解決するために、俺達は手を組み、問題解決に取り込む為に手を組んだ。
俺が抱えている問題は、親に捨てられた事がトラウマになり、誰かと親密になるのが怖くなっていた。そのせいで、大切な人達を傷つけてきた。泣かせてしまった。
伊藤の涙を見て、つくづく思っていたんだ。
変わらなければならないと。
そう決心し、俺は信吾さん達と前に進むべく、一緒に暮らし始めたのだが……。
「わんわん!」
「ちょ! ま、正道君! シュナイダーが言うこと聞いてくれないんだけど!」
「早速なめられてんじゃねえよ」
全然前に進めていなかった。
まあ、当然だよな。すぐにトラウマを克服できるのであれば誰も苦労しない。
信吾さん曰く、あせらずゆっくりと、時間を掛けて対処しようとのこと。
俺は呆れつつも、どこかで納得していた。
人との信頼関係は一朝一夕でいくものじゃない。
特に信吾さんの抱えている問題、結婚せずに父親になったコンプレックスは、実際に女と結婚し、子供を作らない限り、始まりすらしないだろう。
だからこそ、女との結婚を早めたいはずだ。
それでも、信吾さんは俺に気遣って、すぐに女と結婚せずに、俺や義信さん、楓さんの信頼を得て、女と再婚しようとしているあたり、好感がもてる。
俺としては、なぜあんな女と結婚したがるのか、不思議で仕方ないのだが。だからといって、二人の出会いなんて聞いた日には、顔をしかめていそうだ。
信吾さんの口から甘ったるい恋愛話を聞かされるのは、何の拷問かと言いたくなる。
それにこの年になって、母親の恋愛話などまっぴらごめんだ。
「それじゃあ、正道君。僕達はここで」
「ああっ、車に気をつけてな」
「任せてよ!」
「わん!」
信吾さんは相変わらず、シュナイダーに振り回されながら、走らされている。
俺達が別れたのは、距離の違いからだ。
俺のランニングは十キロに対し、シュナイダーの散歩は二キロ程度。仔犬に十キロは流石に辛いので、信吾さんとシュナイダーは俺と別れて、先に家に帰る。
さて、ペースを上げるか。
俺はいつもの速度に戻し、ランニングを続けた。
「何が大丈夫なんだ。ふざけるな」
我ながら情けない男だと思う。
だが、両親に捨てられ、自暴自棄になっていたあの頃の俺は、どんな言葉も神経を逆なでするものにしか聞こえなかった。
ガキ相手だろうが、俺を想っての言葉であっても受け入れることが出来なかった。
それでも、目の前にいる……は俺を真っ直ぐに見据え、不敵な笑みを浮かべていた。
俺が怖くないのか?
俺は……を睨みつけているが、内心、戸惑っていた。
同級生、先生達は俺を恐れ、煙たがっていた。なのに、目の前のガキは俺を全く怖がっていない。理解できなかった。
そんな俺の心を見透かしたように……はまた、断言する。
「正道、大丈夫だから」
何の根拠もない、無責任な言葉。
俺は段々腹が立ってきて、つい喧嘩腰になる。
「何の根拠があってそんなこと言えるのかって聞いてるんだ。理由をさっさと言え」
「だって、私には分かるから。正道にはきっと明るい未来が待ってるよ。なぜなら……」
「なぜなら?」
俺はこのとき、何を想ったのか、思い出せない。期待していたのか、それとも、ガキの戯言と見下していたのか。
……は俺の予想を遙か斜めを行く言葉を俺にぶつけてきた。
「私が正道を幸せにしてあげる!」
「……夢か」
目覚ましが鳴る前に俺は目を覚ました。部屋の中は暗く、冷たい空気に顔がひんやりとするのを感じる。
なつかしい夢を見た。心の奥底にうずくかすかなぬくもりと痛みと……。
ぞくっ!
背中に悪寒を感じた。真冬なのに嫌な汗が背中をつうっとこぼれていく。
心の中で大切なことだ、思い出せと告げてくるが、脳は警報のように俺に忠告してくる。
思い出すな、と。
「……」
お、思い出さない方がいいな、これは。
俺は自分の直感を信じ、そう結論づけると、夢のことは忘れることにした。
体を起こし、俺はそっとルームメイトを起こさないよう、静かに着替えを始めた。
「正道君、おはよう」
「おはようございます、信吾さん」
朝のランニングに備え、庭で体をほぐしていると上春信吾さんが声を掛けてきた。
上春信吾。
髪は少し長めで、眉毛より少し下、耳元まで髪が伸びている。
健康的に日焼けした肌と笑顔を絶やさない明るい雰囲気は、周りを和ませる雰囲気があった。
背は俺より少し低いくらいで、百八十はある。
肉体系労働で鍛えた筋肉は引き締まっていて、実年齢よりも若々しく見える。まあ、精神年齢も低いから若く見えるのかもしれないが。
「相変わらず早起きだよね。大晦日までランニング?」
「習慣ですので。信吾さんはお仕事ですか?」
「いや、仕事は昨日まで。正月があけるまで仕事はないからもっと遅くまで寝ていたいとは思うんだけど、つい起きちゃうんだよね」
その気持ちはよく分かる。
体で覚えた習慣は年末年始だろうが関係ない。勝手に体が動いてしまうものだ。
「ねえ、正道君。今からランニングに行くんでしょ? 僕も一緒にいい? シュナイダーの散歩も兼ねてさ」
シュナイダーとは外国人っぽい名前だが、れっきとした柴犬である。
最近、ウチの家族になった仔犬で、拾ってきたときは痩せていて少し元気がなかったが、今では元気すぎてやんちゃだと思うくらいだ。
元気に走り回り、そして寝る。これの繰り返し。
ただ、寝てる時間が結構長いので少し心配になることもあるが、仔犬は十六時から十八時間ほど眠るといわれているので問題ないのかもしれない。
シュナイダーは散歩に連れて行ってもらえることを理解しているのか、尻尾を振り、信吾さんの足に体をこすりつけるようにまとわりついている。
「見てみて、正道君! これって愛情表現だよね!」
「シュナイダーは信吾さんよりも優位であることを誇示しているだけかもしれませんよ」
「……やめてよ、正道君。気持ちが冷めちゃうじゃない」
「躾は大事って事です。さっさと行きましょうか」
本気で落ち込んでいる信吾さんの肩を叩き、俺は庭を出る。
信吾さんは慌てて俺を追いかけ、シュナイダーは尻尾を振りながら俺達についてくる。
家を出る前に、俺は信吾さんに確認した。
「ちゃんと用意しているか?」
「任せてよ! これでどこでうんちしても問題ナッシング!」
俺が信吾さんに確認したのは排泄物を処理する道具の確認だ。
シュナイダーは仔犬のせいか、やたら排泄するからな。家の中だけで排泄させれば楽なのだが、出てしまうものは仕方ない。
ペットシーツでしか排泄をしたがらない犬もいるらしいが、我が家の犬はどこでもしたがるので、根気よく対応するしかない。
持ち物は水を入れたペットボトル、ビニール袋と新聞紙の切れ端とスコップ。
これらを使用して排泄物の処理をする。
尿については最初、ペットボトルに水を掛ければいいのかと思ったが、水を掛けると広がってしまい、これでいいのかと不安になったことがあった。
それでも、排泄物には変わりないので、綺麗にしようとする意思は大切だと思いつつ、排水溝のあたりや草原といった匂いの残りにくいところにするように誘導している。
糞のタイミングは大体、くるくるとその場に周り、地面をかいだ後、少ししたら出す。お座りのようなポーズ、もしくは立ったまますることもある。
ここで新聞紙の紙切れを下に引くと、糞をとめてしまうことがあるので、出してから掃除することにしている。
尿も糞もすぐに出すわけではないので、根気よく待っているんだが、なぜか、こっちも気張ってしまうんだよな。
「……どこでもしたらダメだろ」
排泄物を気にする人がいる以上、ちゃんと躾をしておきたいのが本音だ。仔犬の時期にちゃんと躾をしておかないと後々苦労すると聞いているからな。
人間の都合で無理に躾けられるのは可哀想だと思うが、生活していく中では必要なことだ。
そのかわり、食住は保証されているので我慢していただきたい。衣は必要ないよな?
俺は軽く息を吐く。
白い息が空へとあがり消えていく。冬の冷たい空気は身が引き締まる気分だ。悪くない。
「それじゃあ……」
「待って、正道君! 僕、大変な事に気づいたんだ」
信吾さんがいきなりシリアスな顔になる。
なんだ? 何かあったのか?
シュナイダーだけが散歩まだなの? って顔をしているが、俺と信吾さんの間にはちょっとした緊迫感があった。
信吾さんは重々しく口を開く。
「うんちとうんこの違いって何だろう……」
「……」
どうでもいいことだった。
俺は汚物を見るような目で信吾さんを睨む。
信吾さんは慌てて弁解してきた。
「待って! 待ってよ! 気になるじゃない! 正道君は気にならないの? なるよね?」
真冬の新鮮で透き通った空気の中で排出物の話をするな、台無しだろうが。
頭が痛くなってきた。
「……はあ。『うんち』は肉や魚といったタンパク質が消化吸収を経て排泄されたもので、『うんこ』は野菜や穀物のみが消化吸収を経て排泄されたものだ。これでいいか?」
「何ソレ? なんで知ってるの? 正道君って、もしかしてヘンタ……」
「たたきのめすぞ」
たまたまtwitterで話題になったことを知っていただけだ。
だが、正直、感心させられた。明確な違いがあったんだって驚かされたっけな。
今はどうでもいい。
「もういいよな? それじゃあ……」
「行きますか!」
「わん!」
嬉しそうな信吾さんとシュナイダーを見ていると、どちらも子供のように思えて力が抜けるが仕方ない。
俺達はランニングの第一歩を踏み出した。
「ははっ、シュナイダー。そっちに行くのか? よし、行こうか!」
「おい、シュナイダーに好き勝手させるな。下に見られるぞ」
犬には主従関係が存在する。もし、自分より下と思われたら、犬は飼い主に従わなくなり、問題行動を起こしやすくなる。
だから、きっちりと教えてやるのだ。どちらが上かを。
「ははっ、正道君って好きな人が出来たら束縛するタイプでしょ? それに犬だって力で押さえつけられたら迷惑だって思うし、反抗したくなるよ。子供も犬も寛大な愛で育てなきゃいけないって思わない?」
「……お前は甘やかしすぎて、かみつかれるタイプだな」
俺の茶化しに、上春信吾はかみついてきた。
「そ、そんなことないから! カリスマ性抜群でしょ、僕は! ほら、僕って上春家の大黒柱だし!」
「家なし職なし金なしでスリーアウトだろうが。とっとと退場しとけ」
信吾さんは更にかみついてくるが、常々思う。
ガキか、己は。
そう思いつつ、信吾さんの行動力は目を見張るものがある。
信吾さんとの出会いはあまりいい印象がなかった。別に信吾さんが悪いわけじゃない。
ただ、信吾さんの婚約者があの女だった事に言いようのない何かを感じていた。
俺の両親は俺が起こした暴力事件のせいで別れてしまった。
しかも、俺の母親は親権を手にしておきながら、自分の両親に俺を預けたまま、どこかに消えてしまった。つまり、俺を捨てたのだ。
そのショックで、俺はこの世の全てを恨んだのだが、祖父の義信さん、祖母の楓さんのおかげで立ち直ることが出来た。
捨てられた先に救いがあるなんて、皮肉としか言いようがない。
両親に捨てられ、痛みが和らいできた頃、女は突然俺の前に現れて、やり直したいと戯れ言をほざきやがった。再婚相手である信吾さんを連れて。
正直、俺は信吾さんと仲良くやっていく事は出来ないと思っていた。
だが、信吾さんと話をしてみると、全然憎めなかった。それどころか、悪い気はしなかった。
きっと、信吾さんが俺の前の相棒である伊藤ほのかとどこか似ていたからだろう。
人懐っこい性格とお人好しな性格に、俺は信吾さんに伊藤の面影をみたから恨めなかった。
そもそも、俺が納得いかないのは女が勝手にやり直したいと言い出したことなので、信吾さんを恨むのはお門違いだ。そう自分に言い聞かせていた。
だが、俺は信吾さんと一度だけ本気でぶつかったことがある。信吾さんに俺が隠していたある想いを暴露しようとしたときだ。
あのときは手加減なしで信吾さんにぶつかったよな。
結局、信吾さんは俺達、藤堂家が抱えている問題を暴き出し、そして、ある提案を持ちかけた。
俺は信吾さんの提案に乗り、信吾さんが立案した『集合体』に参加することになった。
集合体。
俺達藤堂家と上春家がお互い協力し、足りないものを補完していく計画。
俺だけでなく、上春家も問題を抱えている。その問題を解決するために、俺達は手を組み、問題解決に取り込む為に手を組んだ。
俺が抱えている問題は、親に捨てられた事がトラウマになり、誰かと親密になるのが怖くなっていた。そのせいで、大切な人達を傷つけてきた。泣かせてしまった。
伊藤の涙を見て、つくづく思っていたんだ。
変わらなければならないと。
そう決心し、俺は信吾さん達と前に進むべく、一緒に暮らし始めたのだが……。
「わんわん!」
「ちょ! ま、正道君! シュナイダーが言うこと聞いてくれないんだけど!」
「早速なめられてんじゃねえよ」
全然前に進めていなかった。
まあ、当然だよな。すぐにトラウマを克服できるのであれば誰も苦労しない。
信吾さん曰く、あせらずゆっくりと、時間を掛けて対処しようとのこと。
俺は呆れつつも、どこかで納得していた。
人との信頼関係は一朝一夕でいくものじゃない。
特に信吾さんの抱えている問題、結婚せずに父親になったコンプレックスは、実際に女と結婚し、子供を作らない限り、始まりすらしないだろう。
だからこそ、女との結婚を早めたいはずだ。
それでも、信吾さんは俺に気遣って、すぐに女と結婚せずに、俺や義信さん、楓さんの信頼を得て、女と再婚しようとしているあたり、好感がもてる。
俺としては、なぜあんな女と結婚したがるのか、不思議で仕方ないのだが。だからといって、二人の出会いなんて聞いた日には、顔をしかめていそうだ。
信吾さんの口から甘ったるい恋愛話を聞かされるのは、何の拷問かと言いたくなる。
それにこの年になって、母親の恋愛話などまっぴらごめんだ。
「それじゃあ、正道君。僕達はここで」
「ああっ、車に気をつけてな」
「任せてよ!」
「わん!」
信吾さんは相変わらず、シュナイダーに振り回されながら、走らされている。
俺達が別れたのは、距離の違いからだ。
俺のランニングは十キロに対し、シュナイダーの散歩は二キロ程度。仔犬に十キロは流石に辛いので、信吾さんとシュナイダーは俺と別れて、先に家に帰る。
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