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九章

九話 サイネリア -いつも喜びに満ちて- その三

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「い、伊藤さん! どうしたの、その顔?」
「……名誉めいよ負傷ふしょうかな」

 本当は先輩にお仕置きされただけだけど。
 先輩の容赦ようしゃないアイアンクローのあざがまだ残っている。ううっ……ひりひりするよ……いつか復讐してやる。

 お昼休み、私は古見君に今日のデートの事と先輩への愚痴を兼ねて、一緒に食事をとっていた。
 校舎裏の奥にある樫の木は、場所は遠いけど快適かいてきな場所だと思う。日当たりもいいし、樫の木の葉っぱが日よけにもなる。
 聞こえてくるのは、風になびいて葉がすれ合い、ささやくような小さな音だけ。まるで、ここだけ別世界のよう。
 静かにのんびりと過ごすにはもってこいかも。

 先輩とここで、二人っきりでご飯を食べたいな。その後は私が先輩に膝枕してあげるんだ。
 先輩の髪をそっと撫でながら、愛しい人の顔を独り占め。きっと、優しくて心地いい時間。

 先輩に腕枕してもらうのもいいかも。いや、するべきだよね。今日のお詫びを兼ねて。
 今日の朝の事は絶対に先輩が悪い! 先輩の為に努力してるのに、お説教ばかりで、サッキーと触れ合っちゃってるし。
 思い出すだけで腹が立つ!
 私は怒りに任せ、ご飯をぱくぱくと食べる。

「伊藤さんって意外とよく食べるよね? ウエイト大丈夫?」
「ウエイト?」
「体重別の階級って意味だよ。伊藤さん、スタイルいいし、食べ過ぎはよくないんじゃない?」

 箸の動きが止まる。私は古見君をジト目で睨む。
 女の子に体重の話なんてタブーだよ、古見君。でも、いやらしさとかそういうの感じないんだよね。
 だって、本当に心配げな表情をしてるし。

「……別に普通だもん。食欲の秋だし。沢山食べても、スポーツの秋だから大丈夫!」

 スポーツの秋だからといって、スポーツするわけでもないんですけどね! でも、大丈夫だよね?

「へえ、伊藤さん、スポーツするんだ? 何してるの?」

 ううっ、純粋な古見君の視線が痛い!
 私がしているスポーツなんて……。

「じょ、ジョギングかな? ウォーキングも毎日しているよ」

 主に登校中にね。嘘はついてない。
 私は改めて古見君の細い体格に羨望せんぼうの眼差しを送る。
 古見君、細いよね。ボクシングって体重の重さで階級が決まるんだっけ?

 だからって、お昼がサンドイッチ三切れしかないのはどうなの? しかも、サラダとタマゴだけ。女の子より小食だよね。
 私はちょっと気まずくなり、ご飯の食べるペースが遅くなる。ペースが遅くなるだけで、全部食べるんだけど。
 だって、栗ごはん美味しいし、デザートの梨も食べたいし。

「古見君はそれだけで足りるの?」
「試合が近いからね。僕、まだ身長が伸びているから、その分、体重を維持するのが大変で……だから、伊藤さんが幸せそうにご飯食べているのが羨ましくて……ごめんね、意地悪なこと言っちゃって」

 申し訳なさそうに謝ってくる古見君に、私の箸が完全に止まってしまう。
 そうだよね。ダイエット中の人の隣でおいしそうにご飯を食べられると嫌な気分になるよね。配慮はいりょが足りなかったかも。

「わ、私こそごめん。デリカシーがなかった。あっ、試合が近いなら遊びに行くのは無理かな?」
「うん、ごめんね。でも、今週の土曜日に試合だから、明日の日曜日は大丈夫だよ」

 そっか……試合か。仕方ないよね、
 古見君には古見君の生活がある。それを無理にこっちに合わせてもらうのはダメ。

「分かった。先輩にそう連絡しておくから。試合、頑張ってね。あっ、私、応援に……」

 私は言葉に詰まってしまう。ボクシングって殴りあいするんだよね。
 ううっ、まだ苦手かも。でも、古見君の晴れ舞台だし、友達として応援しないと……。

「無理しないで、伊藤さん。暴力が苦手なんでしょ?」
「……ごめんね、古見君」

 私は上目遣いで古見君に謝罪する。古見君はニコッと笑ってくれた。

「いいよ。それより、日曜日は楽しみにしていいのかな? 僕、誰かと遊びにいくことなんてないから、楽しみなんだ。ダメ……かな?」

 逆に気を遣わせてしまった。私は気持ちを切り替えて、明るく振舞ふるまう。

「ううん! 祝勝会もかねて、遊びにいこうよ! 試合が終わったら、食べても問題ないよね? 試合に勝てたら好きなもの、ゴチしてあげる! 先輩がね!」
「それは楽しみ。今度の試合は負けられない理由が増えたよ」
「負けられない理由?」

 古見君はうれしそうに笑って教えてくれた。

「うん。獅子王先輩にカウンターを教えてもらったから、今度の相手に使おうと思って。獅子王先輩に見てもらうんだ。強くなった僕の姿を!」

 古見君、本当にうれしそう……この笑顔だけで、古見君は獅子王先輩の事、好きだって思えちゃうんだけどね。絶対にLOVE。

 今日のデートの件は残念だけど、遊びにいく約束がなくなったわけじゃない。逆に日曜日なら、たくさん遊べる。先輩と長くいられる。そっちのほうがいいかも!

 時間に余裕よゆうができたし、デートコース考えないと。
 先輩にデートコースを考えてもらおうかな~。前にやった恋愛講座で先輩のデートスキルはアップしているはずだし、師匠としては弟子の成長を見守らないとね。
 でもでも、先輩達と遊びにいきたいところあるし。古見君にも楽しんでもらいたいし、悩むな~。これは明日香たちに相談しなきゃ!

 そうと決まれば、早く先輩に知らせないと。
 でも、そんな優しくて楽しい時間も、突然現れた来訪者らいほうしゃによってたたこわされてしまう。

「古見、ちょっといいか?」

 私達の時間に割り込んできたのは、ジャージ姿の大人の人だった。ええっと、この人って確か……。

「はい。試合の事ですか、先生?」

 そうだ! ボクシング部の顧問の先生だ。先輩と獅子王先輩の試合のときに一度しか見たことないから忘れてた。
 顧問の先生が古見君の隣に座る。なんだろう、わざわざこんなところまで来るなんて。箸の動きが更に遅くなる。

「今週の試合な、出なくていいから。当分はロードワークと基礎トレにするからそのつもりでいろ」

 顧問の冷たく言い放つ発言に、古見君はショックを受けて青ざめている。古見君の口元が震えている。

「……どうしてですか?」
「言わなれなきゃ分からねえか? 俺は認めんからな。お前と獅子王の仲。俺の言いたいこと、分かるよな?」
「分かりません!」
「……なんで嬢ちゃんが返事する?」

 私はつい口をはさんでしまった。だって、こんなひどい話、聞き捨てならない!
 試合に出られないのは実力不足じゃなくて、同性愛が理由なんて納得いかない!
 古見君、試合の事、あんなに楽しみにしていたのに! 獅子王先輩にいいところ見せようと張り切っていたのに!

「やり方が汚いです! 大の大人がこんなズルして、恥ずかしくないんですか?」
「うるせえ、部外者は黙ってろ」
「部外者じゃありません。関係者です」
「……そうか、お前だな。獅子王に余計なことを吹き込んでいる風紀委員の女は?」

 顧問の鋭い目つきで睨まれる。普段の私ならすぐに目をそらしちゃうけど、今は違う。試合する権利を盾にする顧問のやり方が許せない。納得いかない。
 私もぐっと目に力を込め、にらみ返す。

「風紀委員なら分かるだろ? 男同士の恋愛なんてもってのほかだ!」
「何が問題なんですか! 実際に古見君は問題行動を起こしていません!」
「下駄箱のことがあっただろうが!」

 古見君の下駄箱に、腐ったパンと大怪我した猫を入れた件のこと? あんなの、犯人が悪い!
 私は手をぎゅっと握って、反論する。

「古見君は被害者ですよ? なぜ、被害者が責められなければいけないのか分かりません!」
「だから、男同士で付き合うなんてぬかすから……」
「告白したのは獅子王先輩です! 古見君は何も返事をしていません! 大体、付き合ってもいないんですよ? それなのに、どうして問題を起こした生徒の方が悪いとは思わないんですか? 古見君が悪いみたいに言われなきゃいけないんですか!」

 私は断固として、顧問の言い分を認めない。古見君が悪いなんて、そんなの理不尽。先輩なら絶対にひかない。そうですよね、先輩?
 顧問だって分かっているはず。だって、言葉に力がない。自分が正しいと思っている言葉には信じられるものがある。
 嘘の言葉は、事実を指摘されればもろく崩れるだけ。とりつくろっただけのもの。そんなものに負けたくない。

「そ、それは……そもそも古見の方も問題があるというか……はっきりさせねえのが悪いというか……」
「はっきりしないのは悩んでいるからでしょ? 古見君の悩みを聞いてあげました? 古見君の声に耳を傾けました? ボクシング部の顧問である前に教師なんでしょ、先生は! どうして、生徒の悩みを真剣に聞いてあげないんですか! 古見君の態度が悪いから、何かされたら古見君も悪いんですか? ふざけないでください! 問題を起こした生徒の自分勝手な主張に、どこに正当性があるっていうんですか!」

 私は知っている。犯人の主張を。どうして、こんなことを起こしたのか。あまりにも自分勝手で幼稚な言い訳。
 そんなことのために古見君が、何の罪もない猫が傷つくのは絶対におかしい。
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