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第46話 焦りと、異変
しおりを挟む「その声……井上先生ですか?」
「……内川君、扉を閉める時は、出入りする人がいないかきちんと確かめてからね」
ゆっくりと扉を開けながら、井上先生が顔を覗かせた。
怒りに任せて扉を閉めたのは部長なのだけど、彼女の姿は先生には見えない。俺はひとまず平謝りしておく。
「それにしても内川君、本当に一人で残るつもりだったのね」
扉に思いっきりぶつけてしまったのか、先生は鼻の頭をさすりながら室内を見渡す。
「もう少しで完成ですし、人物を描けるのは俺だけですから」
「気持ちはわかるけど、気負いすぎないでねー。これ、差し入れ」
「え?」
そう答えた矢先、先生からコンビニの袋を渡される。中にはお茶と幕の内弁当が入っていた。
「これ、もらっちゃっていいんですか?」
「もちろん。宿泊許可は出したけど、晩ごはん、どうするつもりだったの?」
「あー、考えてませんでした」
「やっぱりねー。廊下に毛布も運んできてるから、寝る時は使って。それと、私は朝まで職員室にいるから、何かあったらすぐに来ること」
「ありがとうございます」
お礼を言うと、先生は「学祭前のお泊まりかぁ……私もやったなぁ……」なんて言いながら、どこか嬉しそうに部室から去っていった。
「よし、今度こそ、ひと頑張りしますか」
食事を済ませた俺は再び気合を入れて、鉛筆を手に描きかけのポスターと向かい合う。
いくつもあるラフの中から、部長と決めておいた構図を選び、中央部分へと描き込んでいく。
背景を描く時はあれだけ口を挟んできていた部長も、今は少し離れた場所から俺の作業を見守ってくれていた。
「あれ? なんか違うな……」
だけど、いざ描き始めると背景と人物が微妙に合わない気がした。
朝倉先輩のタッチに合わせた背景ということもあり、下書きの段階ですでに男女のイラストが浮いてしまう。
それに、どこか笑顔が硬いような……。
――上手いとは思うけど……なんか硬いね。
思わず筆が止まった時、以前部長に言われた言葉が思い出された。
半年近く練習しているというのに、俺のイラストは上達していないんだろうか。
どこか不甲斐ない気持ちになりつつ、その後も描いては消し、描いては消しを繰り返す。何度やってもうまくいかなかった。
どうしても自然な笑顔にならない。まるで作り笑いのような、そんな表情になってしまう。
「部長、この目の部分なんですけど……」
やがて万策尽きた俺は部長に声をかけるも、反応がない。
「……あれ?」
不思議に思いながら視線を送ると、彼女は壁にもたれかかるように眠ってしまっていた。
部長は日中ずっと指示を出してくれていたし、皆がいなくなったことで、気が緩んでしまったのかもしれない。
「幽霊も眠るって言ってましたしね……部長、おつかれさまです」
俺は先生から借りた毛布を部長にかけてあげると、作業を再開したのだった。
「……護くん、そろそろ起きて」
「……え?」
気がつくと、俺は床にうつ伏せになっていて、部長に背中を揺すられていた。
「俺、寝ちゃってたんですか」
半分独り言のように呟いて、俺は体を起こす。頬を擦ると、ぱらぱらと消しゴムのカスが落ちた。
何度目かわからない消しゴムがけをしたところまでは覚えているのだけど、そこから先の記憶がなかった。どうやら集中力と眠気の限界が来て、眠ってしまったようだ。
「……って、今何時です!?」
そこでようやく意識がはっきりしてきて、俺は壁に目をやる。部室の時計は深夜1時を回っていた。
「も、もうこんな時間……急がないと!」
俺は慌てて鉛筆を手に取り、絵の続きに取り掛かるも、力が入りすぎていたのか芯が折れてしまった。
「ああ、くそっ……」
「……護くん、疲れてるみたいだったから、少し寝かせてあげたの」
机に置かれた鉛筆削りを手にした時、部長がうつむきがちにそう言った。
「……なんですかそれ。時間がないの、わかってるでしょう? 起こしてくださいよ」
「こういう時は、少し休んだほうが描けるんだよ。力まないで、肩の力を抜いて」
「そんなこと言ってる場合じゃないんですよ。今は本当に時間がないんです!」
「護くん、そんな怖い顔してたら、いいイラストは描けないよ。もっと楽しく……!」
「……ああもう、あなたは絵を描けないんですから、口出ししないでください!」
「……っ!」
焦りばかりが募り、俺は思わず叫んでしまった。
「……そんなこと、護くんに言われなくてもわかってるよ」
すっと真顔になった彼女が低い声で言い、その目尻から一筋の雫が落ちた。
「――え?」
その次の瞬間、部長の姿が透けた。
見間違いかと思って目をこするも、状況は変わらず。背後の壁が薄っすらと見えている。
「あの、部長……」
それを伝える間もなく、部長は部室を飛び出していく。その間もずっと、彼女は半透明のままだった。
驚きのあまりその場から動けずにいると、なんとも嫌な予感が脳裏をよぎる。
もしかして、俺もこのまま、他の皆と同じように彼女の姿が見えなくなってしまうのではないか。
あの声も感触も、すべて認識できなくなってしまうのではないか。
一度そう考えてしまうと、言いしれぬ恐怖と不安が急速に頭の中を満たしていく。
それと同時に、俺は思った。
そんなのは、嫌だと。
「――雨宮さん!」
その瞬間、俺は彼女を追って、部室を飛び出していた。
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