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ヴィヴィアンの恋と革命

(7)タバサと魔鴨

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 厨房で昼ごはんの仕込みをしていたタバサは、誰かに呼ばれたような気がして、後ろを振り返った。

「んー?」

 廊下に出るための扉は閉まっているけれども、食堂につながる扉は開け放ってある。

「釜様のところに、誰か来たんだべか」

 午前のお茶の時間には早いけれども、喉の渇いた者が、飲み物でも取りにきたのかもしれない。

 そう思ったタバサは、先に作ってあった揚げ菓子を皿に盛って、食堂へ向かった。

「おやつもあるだよ。小腹が空いたなら食べでけろ……って、誰もいねえな」

 食堂では、大テーブルの上の錬金釜が、ゆったりと湯気を上げているだけで、人の姿は見えなかった。

「気のせいだっただか?」

 タバサは揚げ菓子の皿を大テーブルに置くと、廊下側の扉を開けて顔を出し、あたりを見回した。

 すると今度は、厨房のほうから声がした。

──タバサ……どこだ……

 その声は、タバサにとって、絶対に忘れることのない、けれども二度と聞けるはずのないものだった。

「まさか……まさか!」

 廊下に飛び出したタバサは、厨房の扉に体をぶつけるようにして開き、中に飛び込んだ。

 そこには、遥か昔に生き別れたタバサの夫が、別れた時の姿のままで立っていた。

──ああタバサ、やっと会えた。

 思い出の中の夫と寸分違わぬ姿は、蜃気楼のように頼りなく、いまにも空気に溶けて消えてしまいそうに見えた。

「アーチボルド様……だか?」

──そうだよ。君の夫で、ギルベルドの父親の、アーチボルド・セミグリッドだ。

 アーチボルドだという半透明の男は、悲しげに微笑みながら、頷いた。

「アーチボルド様……なんで……なんで……」

 タバサには、失踪した夫に尋ねたいことが山ほどあった。なのに、それが一つも口から出てこない。

──タバサ、僕は君にどうしても伝えなくちゃならないことがある。そのために、ここへ来たんだ。

「……」

──僕の家を陥れた、あの男のことだ。

 タバサの全身が硬く緊張した。
 
──時間がないから、よく聞いてほしい。あいつがまだことは、タバサも分かっているよね。

「…ああ、分かってるだ」

──奴はまだ君を狙ってる。君だけじゃない。君の子孫が、あの薬壺から逃れたことを知って、もう一度捕らえようとしているんだ。

「……」

──この屋敷の主のことも、奴はずっと狙っていた。薬壺の餌食にするためにね。奴はまもなく仕掛けてくるはずだ。だから……

 話している間に、アーチボルド・セミグリッドの姿が、どんどん薄くなっていく。

「アーチボルド様、消えてしまうだか!?」

──ごめん、君に会いたくて、今までなんとか意識をたもっていたけど、そろそろ限界だと思う。

「そんな…」

──いいかい、今夜、誰にも言わずに一人で屋敷を出て、病院に行くんだ。

「病院って、昨日のだか?」

──そうだ。そこで、君の血を引く者に会ってくれ。

 タバサは、自分が殴りかかったアーチバル・グリッドと、その息子たちの顔を思い出した。

「会って、どうするだ?」

──会えば、分かる。何もかもうまくいくから、心配ないよ。いいかい、絶対に誰にも言わずに行くんだよ。

「アーチボルド様…」

──『魔鴨も鳴かずば撃たれまい』って、君も実家で教わってただろ? 分かったら、頷いて。

 タバサは声を出さずにしっかりと頷いた。

──タビー、どうか幸せに…

 ささやくような声だけを残して、アーチボルドの幻影は完全に消え去った。

 そして、彼と入れ替わるように、色の黒い、大きな水鳥が姿を現した。

「魔鴨のおとり……アーチボルド様の言いたいことは、よく分かっただよ」

 タバサは頬を伝う涙を手で払うと、木でできた魔鴨の模型を抱え、天井に向かって叫んだ。

「お屋敷のリラ様、いますぐオラをビビ様のところへ送ってくれ!」



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