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ヴィヴィアンの婚約

ヴィヴィアンは思い出した

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「クソ魔女」

 ヴィヴィアンが低い声でつぶやくと同時に、ごごごごご……と、不気味な地響きが鳴り出した。

 スカーレットは、つかんでいたユアンの胸ぐらから手を離すと、哀れみと軽蔑の入り混じった視線を向けながら言った。

「ユアン・グリッド、あんたの人生、詰んだわね」
「なっ……」
「ヴィヴィアンに向かって、絶対に言っちゃいけない言葉があるの。学院で同級生だったくせに、知らなかったとはね」
「何だよ! みんな言ってたじゃないか!」
「よく思い出しなさい。直接本人に向かって言った人間が、一人でもいた?」
「何人もいたさ!」
「ああ、言い直すわ。直接本人に言った人間が、卒業まで消されずに残っていたかしら」
「あ……」

 当時、学院で起きた複数の失踪事件を思い出したユアン・グリッドは、恐怖のあまり、床に崩れ落ちた。

 ごごごごごごごご。

 地響きはどんどん大きくなって、床に落ちている黒い虫たちとユアン・グリッドをビリビリと震えさせている。

「忘れていたのに……思い出さないようにしてたのに……あれもこれも、全部全部、『消した』のに……」

 ヴィヴィアンの両目が、赤い光を放ちはじめた。

 その両目をユアン・グリッドにひたりと据えて、ヴィヴィアンは言った。

「ユアン・グリッド」
「ひっ…す、すまない! 謝る!」
「許さない」
「さ、災禍……見るな! 助けてくれ! スカーレット様! メアリー!」
「消えろ」
「ぐぎゃあああ」

 ヴィヴィアンの目が放った赤い閃光に胸を貫かれ、ユアン・グリッドは汚い悲鳴をあげて意識を失い、床に臥した。

 同時に、床の黒い虫が全て消え去った。
 
「ユアン! そんな、ユアン、ユアン」

 メアリー・グリッドは倒れた夫にまろび寄ってしがみついた。

「なんて馬鹿なの……どうして、こんなことしたのよ…ヴィヴィアン様を傷つけて、私が喜ぶはずないじゃない。私の身体のことだって、ヴィヴィアン様のせいなんかじゃない、私自身の体質のせいだって、何度も説明したのに……」

 ヴィヴィアンは二人の様子を無表情に眺めながら立っていた。

 実のところ、目から強烈な魔術を放った反動で、立ったまま意識を飛ばしているのだけれども、それが分かっているのはスカーレットだけだった。

「あー、メアリー・グリッド、あんたの夫、別に死んだわけじゃないから」
「え、生きて…る?」
「たぶん明日くらいには起きるから、心配いらないわ」

(まあある意味、人がすっかり変わっちゃってるだろうけどね)

 心の中でそうつぶやきながら、スカーレットはヴィヴィアンの頬をペチペチと叩いた。

「ほら、戻ってきなさい」
「あ、あれ…?」
「ちょっと想定外だったけど、ぶちかましは成功して、呪いの元凶は粉砕できたから」
「ほんとだ、虫、消えてる。よく覚えてないけど、私、やった!」

 ヴィヴィアンは自分の拳を讃えるために、頬擦りをした。

「で、ユアン・グリッドの後始末だけど、ヴィヴィアンはどうしたい?」
「ええと、とりあえず、婚約破棄かな」

 ユアン・グリッドの横に座りこんでいたメアリー・グリッドが、ヴィヴィアンの言葉に反応した。

「あの、ヴィヴィアン様、本当に申し訳ありませんでした。ユアンのこと、許していただこうとは思いません。どうか償わせてください。私にできることでしたら、どんなことでもいたしますから」

 ヴィヴィアンはメアリーのやつれた顔を、じっと見つめた。

「えっと、メアリーさん?」
「はい」
「もしかして、どこかで会ってる……よね」
「はい」

 ヴィヴィアンは、消去した記憶の余韻のなかに、メアリーの気配を探した。

 くすんだ灰色の髪。
 枯れ草色の、やさしげな目。
 遠慮がちにヴィヴィアンを呼ぶ、柔らかな声。
 差し出される、甘い匂いの……

「クリームがいっぱい入ったパンの、メアリー」
「覚えていて下さいましたか」

 ヴィヴィアンにとって、学院での数少ない良い思い出のなかに、メアリーがいた。




 
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