男心と冬の空

せーら

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桜の下にて

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(さすが、地方随一のマンモス大学といったところか。)

 高木洋介は周囲に溢れる人々を見渡しながら内心呟いた。入学式の時も今も、この人の数は多すぎる。あまりの数に目眩を起こしてしまいそうだ。いつの間にか止まっていた足を再び前へ運ぶ。とにかく、なんとかここまで来れたのだ。三年も浪人して、何度も心が折れそうになったのにどうしても諦めることは許されなかった。父と同じ道を歩む。これが洋介の人生の道だった。

 市内の外れ、ありふれた住宅街の端に、高木医院は建っている。洋介の祖父が建てた小さな医院は、昔から地元住民のかかりつけ。祖父から父の代になっても、それは変わらない。高木家の長男として生まれた洋介は、初めからその医院を継ぐことが決まっていた。だから、幼い頃から当たり前のように医者になるんだと言われてきた。父にも、祖父にも、親戚からも。地方随一の偏差値を誇る、この大学の医学部に進学することも当然だった。

 人混みをすり抜けながら、洋介は大学の坂を登る。小高い丘の上に立つ大学は、医学部の他に看護学部、保健学部、薬学部が存在しており、当然に附属病院も存在する。大学の門とは入り口が反対になっているが。丘を降りて川を挟んだ東側には他学部のキャンパスが並んでいる。そこには文学部、経済学部、教育学部、法学部がある。工学部は五駅離れた田んぼの真ん中に建っている。他にも経済学部や体育学部が存在するが、いずれも隣市に建っているため、最早別大学のようなものだ。

 ともかく、洋介がこの春から通うのはここの丘の上に建つ医学部であることに変わらない。他学部のキャンパスに行くことはまずないだろうし、関わりを持つこともないだろう。そんな風に思いながら、キャンパス前の広場へ足を踏み入れた。そこには、先ほどまでとはまた別の人種が居た。

「テニスサークル募集中でーす!」
「我々ボランティアサークルと一緒に大学生活を謳歌しませんかー!」
「放送部部員募集中ー!」
「サッカー!!!」
「野球研究会でーす!!」
「…うわ。」

 響く大声に足が止まる。大学恒例のサークル勧誘だ。数々のサークルがチラシ片手に新入生を捕まえては声をかけている。これに捕まるのは非常にやっかいだ。
 洋介はサークルに参加するつもりは全くなかった。三年も浪人をしているから、他のことに構っている余裕は一切ない。勉強に集中し、一刻も早く卒業の道を歩む必要がある。

(いちいち対応するのも面倒だなぁ…どうする…?)

 この広場を突っ切るのは自殺行為のように思えた。ならば大回りするしかあるまい。キャンパスに沿って西に道はまだ続いている。桜並木が続く、その道にはサークル勧誘の先輩方の姿は見えない。西側にも小さな入り口はあったはずだ。オープンキャンパスの時の記憶を頼りに、洋介はとりあえず足を西に進ませた。

 広場からゆっくりと離れていくと、あれほど響いていた喧騒が少しずつ遠くなっていく。他の新入生の姿も見えなくなり、洋介は漸く静けさを手に入れることができた。
 ふと風が吹き、洋介の短い髪を撫でていく。頭上の桜が揺れて、花びらの雨を降らせた。もう桜は散り始めているようだ。見上げれば醒めるような青空と、風に揺れる桜。

(…結構綺麗だな…。)

 ポケットからスマートフォンを取り出してカメラを起動する。新たな一歩を踏み出した記念にでもと、写真を撮った。スマートフォンを下ろして、今撮ったばかりの写真を確認したその時。

「…?」

 画面の端に、黒い何かが写り込んでいる。自分の指が入り込んでしまったのかと思ったが、違った。その正体は、写り込んでいる太い桜の幹を見上げてすぐに分かった。枝分かれしたその幹の上に、人が居たからだ。

「!?」

 まさかそんな所に人が居るとは思わず、洋介は息を飲んだ。何を好き好んで桜になど登っているのだろう。いや、これは関わらない方がいいのかもしれない。洋介は恐る恐る、できるだけ足音を立てないようにそこを通りすぎようとした。これだけたくさんの人間が通う大学だ。稀におかしな奴が居てもなんら不思議ではない。
 その桜の下、人影の真下にあたる位置を通りすぎようとした時。

「っ、いて。」

 頭上から何かが落ちてきて、洋介の頭に見事に当たってしまった。思わず声をあげ、頭に手をやる。足元には流行りの樹脂性の黒いサンダル。それを拾って見上げると、裸足がユラユラと揺れている。

「ごめんなさーい。当たったようだけど、それ履かせてくれるー?」

 女の声だった。桜の幹に登っている人物はどうやら女らしい。花に紛れて上半身はよく見えないが、下半身は見えた。黒いスウェットパンツからすらりと伸びた足は白く細い。

「ちょっと今は手が離せないんで頼むよ、おにーさーん。」
「…別にいいですけど…。」

 関わってしまった。しかもよりによって女。少しばかりの気まずさを感じつつ、洋介はその白い足へサンダルを引っかけた。

「どーもね。あんがと。」

 サンダルがお辞儀するようにペコリとして、枝の中に引っ込んだ。黒い影以外は見えなくなってしまった。洋介は今度こそそこを去ろうとした。
 こんなおかしな女に構っているうちに、初日から遅刻してはたまったものじゃない。女というのは実に面倒な生き物であると、洋介は知っている。彼にとって面倒じゃなかった女は、あの子以外に存在しない。もう何年も前に別れてから、会ってないあの子だけ。

「新入生?」

 去ろうとした足が止まる。頭上の桜の中の女からの問いかけで。

「そうですけど…。」
「あー、やっぱりね。あたしの事知んないんだからそうだろうとは思ったけど。」

 何を言っているのかよく分からない。桜の彼女はそんなにこの大学で有名なのだろうか。洋介は少し首を捻ってから頭上を見上げる。

「あなたは?何年生ですか?」
「四年だよ。」
「そんなに有名人なんですか?」

 ほんの少しの好奇心から訊ねると、桜の中からクスクスと笑い声が聞こえた。

「何?気になる?」
「…そりゃ、少しは…。今日からここに通いますし…。」
「じゃあそのうち嫌でも聞くと思うよ。」

 ガサッと桜の枝が揺れた。と、思ったら黒い影が洋介の目の前に落ちてきた。桜の花びらと共に、彼女がそこに降りてきたのだ。

 ふわりと揺れた髪は染めているのか、銀色でとても短い。猫のような眼差しと、両耳に輝くいくつかのピアス、ラフに羽織った黒のパーカーと、先ほどまで見えていたスウェットパンツ、首から下げられた重々しい一眼レフが揺れる。ニヤリと不敵に笑った彼女は言い放つ。

「木の上の変人ってね。」

 知らない人だと、一瞬思った。でも、洋介はすぐに分かった。彼女の名前が。

「…鈴橋…未果?」
「…はい?」

 彼女が不審そうに眉を潜める。彼女はどうやら洋介に気付いていないらしい。洋介は構わず、彼女の細い肩を掴んだ。

「…みーちゃん…みーちゃんだろ?」
「え…ぁ、や…どちらさん?」
 
 指の先をもじもじと弄りながら未果は首を傾げる。困惑する時のその癖は変わらない。何か困ったことがたったとき、彼女はその両手の指先をもじもじと弄る癖があった。だから、洋介はそんな仕草をしている時の彼女を、何度も助けたのだから。

「俺!高木洋介!覚えてない?」

 興奮しきった洋介が強めに言うと、未果は目を見開き、僅かに足を引いた。

「……え……よ、よー…ちゃん?」

 返ってきたその言葉は、洋介を喜ばせるのには充分だった。
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