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6話 母親としての自覚
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6話 母親としての自覚
ひろみが美容に関する投稿を始めてから、早2ヶ月。投稿する記事はどれも外すことなく注目され、幼稚園の保護者の間でも、絵里とひろみは注目の対象となっていた。幼稚園に送り迎えに行くたびに、成川や清水はもちろんのこと、ほとんど話したことがない親からも投稿について羨望の眼差しを向けられ、少しずつではあるが、化粧品類を取り扱う企業からも依頼が来るようになった。
絵里は絵里で、投稿する作品に注目が集まり、他の保護者から作り方を聞かれたり、製作の依頼を受けたりしていた。
その一方で、ひろみは弘明への教育に関する働きかけは少なくなっていった。敏明からは、「僕はもとから、のびのびと育ってくれたらいいと考えていたから、それでもいい」という言質を取ってから一緒に勉強する時間も減り、習い事をさせることも考えないようになっていた。投稿するたびにコメントがつき、その返信をしていると迎えの時間があっという間に来てしまうため、自分の両親に迎えを頼むことも増えていった。
(弘明もおばあちゃんやおじいちゃんに会えて嬉しい、って言ってるし。敏明さんも、あの子が喜んでるなら、何も文句は言わないでしょう。それよりも、もっと投稿に力を入れないと。依頼が来ることも増えたし、恥ずかしい投稿はできないわ。)
ちょうどこの日も、弘明の迎えをひろみの母に依頼していた。家の鍵が開く音がすると、弘明の帰宅を知らせる元気な声が聞こえるが、今日は鍵が開く音だけが聞こえ、弘明の声も聞こえなかった。
玄関先へ出向くと、悲しそうに俯いている弘明の姿と、困り顔の母が立っていた。
「どうしたの、弘明…。お母さん、何かあったの?」
弘明は、黙って俯いたまま、靴を脱いでそのまま部屋に入っていってしまった。
「お母さん、何か聞いてる?」
「それがねぇ…、迎えに行ったらずっとあの調子で。」
「いじめられたとか、何かあったのかしら…。」
「先生からは、そんな話は聞かなかったわよ。でも、私が思うに、貴女が迎えに来ないのが、寂しいんじゃないかしら。そりゃ、初めはおばあちゃんに会えて嬉しいって楽しそうにしてたけども、やっぱりお母さんが一番なんじゃないかしらねぇ…。」
ひろみの母はそう言って、家を後にした。子供部屋に入ると、絵本を広げて俯いている弘明の姿があった。
「…弘明。何かあったの?幼稚園で、嫌なことでもあった?」
「…ママ、何でお迎えに来てくれないの?」
「ママは、家でお仕事をしてるの。前にも言ったでしょう?」
弘明には、ひろみの母が迎えに行く理由として、家で仕事をすることになったから、と説明してあった。弘明はそれを聞いて、ママ頑張って!と激励をしてくれたが、周りの子どもたちはお母さんが迎えに来ており、そのギャップに寂しさを感じるようになったのだろう、と推測した。
「ママのお仕事は、いつ終わるの?」
「たくさんしないといけないことがあるから、もう少しかかるのよ。弘明は男の子でしょ。もう少し我慢できるわよね?」
「嫌だ!ママにお迎えに来てほしい!みんなはママがお迎えに来るのに、僕だけおばあちゃんなのは嫌だ!」
弘明は、今までに見たことのないほどの興奮状態で、最後の方は涙声になっていた。ひろみは、息子の興奮気味に涙を流し、母親に必死に訴える姿に心に刃物を刺されたような痛みを感じた。
「…弘明、寂しい思いさせてごめんね。明日からは、ママが迎えに行くわ。」
「…ほんと?」
「ええ、だからもう泣かないで。ね?」
「やったぁ!ママ、大好き!」
弘明は、先ほどの泣き顔から一転して嬉しそうにはしゃぎ回った。その様子に、ひろみは罪悪感を覚える。
(…SNSは、投稿さえ途切れなければいいわ。それより、弘明が寂しい思いをしてたことにも気づかなかったなんて…。)
自身はSNSの世界に入れば有名なインフルエンサーだが、家庭に戻れば1人の母でもある。その自覚を無くしかけていたことに反省し、明日からはちゃんと迎えに行こうと心に決めた。
受話器を取り、実家に電話をかける。するとひろみの母親が電話口に出た。
「あ、お母さん。ひろみよ。」
「弘明、大丈夫?何か、嫌なことでもあったのかい?」
「…お母さんの言う通りだったわ。私がお迎えに行けないことが、寂しかったみたい。」
「そうだったの…。家で仕事をしてて、忙しいのもわかるけど、弘明のこともちゃんと見てあげて。貴女の大事な子どもなんだから。」
「ええ、その自覚を無くすところだった。…母親失格よね、私。」
「失敗することは誰だってあるわ。だから明日からは、ちゃんと迎えに行ってやってね。」
母親の諭すような言葉を胸に刻み、ひろみは受話器を置いた。そして夕飯の準備までは、SNSのコメント返信に勤しみ、敏明が帰る頃には夕飯が出来上がるよう家事もしっかりとこなした。
「あれ、もう夕飯ができてるんだね。SNSの方は大丈夫なのかい?」
敏明は、SNSで収入を得始めてから、SNSも仕事の一つと考えてくれるようになり、多少のことには目を瞑ってくれていた。
「…弘明に、幼稚園に入ってから初めて怒られて泣かれちゃったの。幼稚園の迎えが私じゃないから寂しいって、言われちゃって。明日から迎えに行くから、って言ったら喜んでくれたわ。母親としての自覚を無くしてた、ごめんなさい。…弘明にも、ちゃんと謝ったから。」
「そっか。弘明は我慢強い子だからなぁ。でも、ちゃんと迎えに行けるのかい?」
「SNSの投稿は、毎日しなくてももうしっかり注目されるようになったし、企業からの依頼についてはちゃんと時間を調整してこなせるようにするわ。…貴方にも、負担をかけたわよね。ごめんなさい。」
「僕のことはいいよ。さ、みんなでご飯を食べよう。」
敏明は弘明に帰宅の挨拶をすると、弘明は一層喜んだ様子で父親に飛びついた。SNSを頻繁に投稿するようになって以降、3人で食卓を囲むことも少なくなっていたが、ひろみはスマートフォンを手元から遠ざけ、団欒を楽しむことにした。
敏明と弘明が寝室で寝静まった後、ひろみは残していたコメントの返信を手早く済ませた。時計を見ると深夜に入っており、慌てて寝支度を済ませて布団に入った。
(ちょっと、投稿する頻度から見直さないといけないわね。投稿するたびにコメントが付いちゃうから、家事と両立できるように考えないと…)
そう考えを巡らせるひろみだったが、いつの間にか意識が落ちており、いつもの時間に起きると疲れが残ってしまったのか、気だるさが感じられた。
何とか家事を済ませて弘明を幼稚園へ送ると、いつものように4人の井戸端会議が始まった。
「そういえば、岡田さんは今日どんなものを投稿するの?」
「私、この前の商品試してみたの、すごく良かった!」
「そう言ってもらえるのは嬉しいんだけど、今日は投稿できないかもしれないわね。最近は、うちの母にお迎えを頼んでたんだけど、昨日、弘明に迎えがママじゃないと嫌だって泣かれちゃって。家事と両立できるように、投稿する頻度を調整するつもりなの。」
「ええーそうなの?」
「でも、泣かれちゃうと母親としては辛いわよね。仕方ないわよ。」
「そうね、もう岡田さんは十分有名なインフルエンサーよ。ちょっと投稿が減ったくらいで、人気が落ちたりなんかしないわ。」
「先輩が言うなら間違いないわね!なんたって、ここにママもしながらインフルエンサーでもある林さんがいるんだもの!」
「成川さんはいつも調子が良いわよね、貴女も何か投稿してみたら?」
「私が何を投稿するってのよー、不器用だし、このシミとシワだらけの顔を出したって、誰も見てくれないわよ。」
ひろみは、3人の反応を見て、内心ほっとしていた。特に絵里の反応が気になっており、「ここで投稿を減らしたら、人気が落ちる」だの、「自分はインフルエンサーとしても母親業も両立できている」だのと言われないかと心配していた。
(まぁ、フォローしてくれてる人も、もう林さんの数を大きく上回ってるしね。インフルエンサーとしての実力は私の方が上。それさえキープできれば、何も問題はないわ。)
ひろみは、3人との雑談もそこそこに暇を告げ、自宅で家事に力を注いだ。余った時間は当然のようにSNSの投稿のネタ作り、企業からの依頼メールへの対応にあてたが、迎えの時間にはそれらの作業は切り上げ、幼稚園に車を走らせた。
(考えてみれば、最近この近辺も車で全然走ってなかったわね…。本当、弘明には悪いことをしちゃった。)
車の中で1人、深いため息をつき、ひろみの母の「誰だって失敗はある」という言葉を反芻し、幼稚園に到着した。園から出てくる弘明は、満面の笑みでひろみに向かって走り出し、弘明にできる限りの力でひろみに抱きついた。
「ママ!ただいま!!」
「おかえり、弘明。」
「本当にきてくれた!ママ大好き!!」
「ママは嘘はつかないわよ。幼稚園はどうだった?」
「楽しかったよ!今日は、お友達にひらがなを教えてあげたんだ!」
「すごいじゃない、たくさん勉強したものね。」
嬉しそうな声と表情で、生き生きと母親に今日何があったかを報告する弘明。その姿をみて、息子にどれだけの心理的負担をかけていたかを改めて実感した。
帰り道の車中も、今日幼稚園でこんなことをした、友達とこんな遊びをした、など、弘明の話は尽きることがなかった。ひろみは、SNSに執心していて聞いてあげられなかった分の罪滅ぼしをするように、とことん耳を傾けた。
(弘明とこんなに話をするのも、久々な気がするわ…。本当に、寂しい思いをさせてしまってたのね。)
家につき、弘明の勉強の時間に付き合った後は、夕飯の準備。SNSを始める前の日常が、ひろみの中に戻りつつあった。
ただ、それでも以前から投稿していた記事にコメントは付き続け、その度に携帯の通知が鳴る。ひろみは、着信が鳴るたびにコメントへの返信をどうするか悩んだが、ひとまず家事を済ませてからにしよう、と通知の音を遮断し、家事に専念した。
家事から解放され、弘明が寝静まった頃にはたくさんの未返信コメントがついていた。ひろみは、残された時間で丁寧にコメントへ返信をしていく。その中のコメントに、気になるものがあった。
『HIROMI様 私は、KYOYAと申します。あなたの記事を拝見しまして、美容に関する研究、熱意がとても伝わってきました。私の経営する会社でも、女性向け美容品やメイク用品などを取り扱っておりますので、ぜひ、貴女の記事を我が社で取りあげたいと考えますが、いかがでしょうか。お返事をお待ちしております。』
こういった企業からのコメントは、最近は見慣れたものになっていた。このコメントだけをみれば、ただの企業からの依頼コメントだが、ひろみが目を止めた理由は、このコメントがついた後の、SNS上での反応だった。
『え、KYOYAって、あのKYOYA!?』
『とうとうHIROMIさんもKYOYAさんに注目される日が…!』
『私、ここのメイク用品めっちゃ使ってるよ。ほら、女優の〇〇もCMしてるやつとか!』
KYOYAという人のコメントが一つついただけで、この周りの反応。ひろみはこの人物のことは知らないが、超のつく有名人からコメントがついた、ということはよくわかった。
(企業からの依頼コメント、か…。弘明の世話をしながらでも、こなせるかしら。)
SNSに没頭していた頃なら、大はしゃぎして喜ぶところだが、ひろみの母に迎えを任せた故に息子を悲しませてしまったこと、気づけば家事も疎かになりがちになっていたことがどうしても頭をよぎり、手放しで喜べる心境にはなかった。
(…林さんは、こう言う時どうしてるのかしら。一度、相談してみてもいいかもしれない…。)
一通り返信を終えたひろみは、寝室に入り、息子とその隣ですやすやと眠る夫を見てほっと息を吐き、ひろみも眠ることにした。
次の日、息子を幼稚園に送った後、林を呼び止めて相談したいことがある、とカフェに誘った。
「どうしたんですか?深刻そうなお顔されてますけど…。」
「それが…、まず、これを見てほしいの。」
コメント欄にある、KYOYAという人からのコメントと、そのコメントがついたことで大騒ぎしている人たち。画面を見るなり、林は「すごいじゃない!」とひろみの手をとって興奮し始めた。
「この方、すごく有名な人なのよ。この人に注目されたインフルエンサーは、軒並み有名人になっていくの。そんな人にコメントをもらえるなんて…。やっぱり岡田さんはすごいわ。」
「そう言ってもらえるのは嬉しいんだけど…。前にも言ったように、弘明のことや家事のことを疎かにはできないし、林さんは、企業の依頼と育児、家事をどう両立してるのかなって。」
「私なんか、ちょっと物を作っては投稿してるだけで、それが結果的に注目されるようになっただけなのよ。だから、投稿もまちまちだし、手芸用品のオファーなんてそうないから…。でも、これだけは言えるわ。このチャンスは逃しちゃダメよ。」
「そうは言っても…」
「こんなチャンス、滅多に巡ってこないわよ。もしかして、この依頼、受けないつもりなの…?」
絵里は、ひろみを心配するような目で質問を投げかける。
「まだ考えてるところだけど…。」
「そう…、でも、この依頼を断っちゃった後の、岡田さんの注目度が心配だわ。」
「え?」
「さっきも言ったけど、この人のコメントがついた人は、文字通り全員が有名人になっていくの。でも、断った人はどうなるかっていうと…。」
「…どうなるの?」
「『あのKYOYAの依頼を断った』っていう話が広まって、フォローしてた人たちが一気に離れていっちゃうの。KYOYAさんのファンクラブまであるくらいの、有名な人だから。…だから、岡田さんにはよく考えてもらいたいな、って」
ひろみは、絵里の話を聞いて愕然とした。有名人からの依頼を受けることは、それだけ自分自身に注目が集まっているという証明にもなるが、一方でその依頼を断るとデメリットも大きい。そして、今回コメントをした人間は、熱狂的なファンがついているほどの人間…。企業の依頼と育児・家事の両立方法を聞こうと思っていたところが、いつの間にか「インフルエンサーとしての人気維持」をとるか、「目の前の家庭」を取るかの二者択一に迫られていた。
ひろみは一先ず絵里と別れ、家事を一通りこなした後SNSを開いてKYOYAからのコメントを見た。相変わらずSNS上では、KYOYAの依頼に対するコメントがつき続けている。カフェにいた時は愕然としたが、家について家事を一通りこなした後のひろみは、ある種の対抗心が芽生えていた。
(…私よりも注目度が低いあの女に相談したのが間違いだったのよね。いいわ、やってやろうじゃない。せっかくここまで注目されて人気になってきたのに、それをみすみす手放すなんてことしたくない。)
ひろみは、今までにない程の緊張を感じながらスマートフォンを手に取り、KYOYAのコメントに対して返信を打ち始めていた。
ひろみが美容に関する投稿を始めてから、早2ヶ月。投稿する記事はどれも外すことなく注目され、幼稚園の保護者の間でも、絵里とひろみは注目の対象となっていた。幼稚園に送り迎えに行くたびに、成川や清水はもちろんのこと、ほとんど話したことがない親からも投稿について羨望の眼差しを向けられ、少しずつではあるが、化粧品類を取り扱う企業からも依頼が来るようになった。
絵里は絵里で、投稿する作品に注目が集まり、他の保護者から作り方を聞かれたり、製作の依頼を受けたりしていた。
その一方で、ひろみは弘明への教育に関する働きかけは少なくなっていった。敏明からは、「僕はもとから、のびのびと育ってくれたらいいと考えていたから、それでもいい」という言質を取ってから一緒に勉強する時間も減り、習い事をさせることも考えないようになっていた。投稿するたびにコメントがつき、その返信をしていると迎えの時間があっという間に来てしまうため、自分の両親に迎えを頼むことも増えていった。
(弘明もおばあちゃんやおじいちゃんに会えて嬉しい、って言ってるし。敏明さんも、あの子が喜んでるなら、何も文句は言わないでしょう。それよりも、もっと投稿に力を入れないと。依頼が来ることも増えたし、恥ずかしい投稿はできないわ。)
ちょうどこの日も、弘明の迎えをひろみの母に依頼していた。家の鍵が開く音がすると、弘明の帰宅を知らせる元気な声が聞こえるが、今日は鍵が開く音だけが聞こえ、弘明の声も聞こえなかった。
玄関先へ出向くと、悲しそうに俯いている弘明の姿と、困り顔の母が立っていた。
「どうしたの、弘明…。お母さん、何かあったの?」
弘明は、黙って俯いたまま、靴を脱いでそのまま部屋に入っていってしまった。
「お母さん、何か聞いてる?」
「それがねぇ…、迎えに行ったらずっとあの調子で。」
「いじめられたとか、何かあったのかしら…。」
「先生からは、そんな話は聞かなかったわよ。でも、私が思うに、貴女が迎えに来ないのが、寂しいんじゃないかしら。そりゃ、初めはおばあちゃんに会えて嬉しいって楽しそうにしてたけども、やっぱりお母さんが一番なんじゃないかしらねぇ…。」
ひろみの母はそう言って、家を後にした。子供部屋に入ると、絵本を広げて俯いている弘明の姿があった。
「…弘明。何かあったの?幼稚園で、嫌なことでもあった?」
「…ママ、何でお迎えに来てくれないの?」
「ママは、家でお仕事をしてるの。前にも言ったでしょう?」
弘明には、ひろみの母が迎えに行く理由として、家で仕事をすることになったから、と説明してあった。弘明はそれを聞いて、ママ頑張って!と激励をしてくれたが、周りの子どもたちはお母さんが迎えに来ており、そのギャップに寂しさを感じるようになったのだろう、と推測した。
「ママのお仕事は、いつ終わるの?」
「たくさんしないといけないことがあるから、もう少しかかるのよ。弘明は男の子でしょ。もう少し我慢できるわよね?」
「嫌だ!ママにお迎えに来てほしい!みんなはママがお迎えに来るのに、僕だけおばあちゃんなのは嫌だ!」
弘明は、今までに見たことのないほどの興奮状態で、最後の方は涙声になっていた。ひろみは、息子の興奮気味に涙を流し、母親に必死に訴える姿に心に刃物を刺されたような痛みを感じた。
「…弘明、寂しい思いさせてごめんね。明日からは、ママが迎えに行くわ。」
「…ほんと?」
「ええ、だからもう泣かないで。ね?」
「やったぁ!ママ、大好き!」
弘明は、先ほどの泣き顔から一転して嬉しそうにはしゃぎ回った。その様子に、ひろみは罪悪感を覚える。
(…SNSは、投稿さえ途切れなければいいわ。それより、弘明が寂しい思いをしてたことにも気づかなかったなんて…。)
自身はSNSの世界に入れば有名なインフルエンサーだが、家庭に戻れば1人の母でもある。その自覚を無くしかけていたことに反省し、明日からはちゃんと迎えに行こうと心に決めた。
受話器を取り、実家に電話をかける。するとひろみの母親が電話口に出た。
「あ、お母さん。ひろみよ。」
「弘明、大丈夫?何か、嫌なことでもあったのかい?」
「…お母さんの言う通りだったわ。私がお迎えに行けないことが、寂しかったみたい。」
「そうだったの…。家で仕事をしてて、忙しいのもわかるけど、弘明のこともちゃんと見てあげて。貴女の大事な子どもなんだから。」
「ええ、その自覚を無くすところだった。…母親失格よね、私。」
「失敗することは誰だってあるわ。だから明日からは、ちゃんと迎えに行ってやってね。」
母親の諭すような言葉を胸に刻み、ひろみは受話器を置いた。そして夕飯の準備までは、SNSのコメント返信に勤しみ、敏明が帰る頃には夕飯が出来上がるよう家事もしっかりとこなした。
「あれ、もう夕飯ができてるんだね。SNSの方は大丈夫なのかい?」
敏明は、SNSで収入を得始めてから、SNSも仕事の一つと考えてくれるようになり、多少のことには目を瞑ってくれていた。
「…弘明に、幼稚園に入ってから初めて怒られて泣かれちゃったの。幼稚園の迎えが私じゃないから寂しいって、言われちゃって。明日から迎えに行くから、って言ったら喜んでくれたわ。母親としての自覚を無くしてた、ごめんなさい。…弘明にも、ちゃんと謝ったから。」
「そっか。弘明は我慢強い子だからなぁ。でも、ちゃんと迎えに行けるのかい?」
「SNSの投稿は、毎日しなくてももうしっかり注目されるようになったし、企業からの依頼についてはちゃんと時間を調整してこなせるようにするわ。…貴方にも、負担をかけたわよね。ごめんなさい。」
「僕のことはいいよ。さ、みんなでご飯を食べよう。」
敏明は弘明に帰宅の挨拶をすると、弘明は一層喜んだ様子で父親に飛びついた。SNSを頻繁に投稿するようになって以降、3人で食卓を囲むことも少なくなっていたが、ひろみはスマートフォンを手元から遠ざけ、団欒を楽しむことにした。
敏明と弘明が寝室で寝静まった後、ひろみは残していたコメントの返信を手早く済ませた。時計を見ると深夜に入っており、慌てて寝支度を済ませて布団に入った。
(ちょっと、投稿する頻度から見直さないといけないわね。投稿するたびにコメントが付いちゃうから、家事と両立できるように考えないと…)
そう考えを巡らせるひろみだったが、いつの間にか意識が落ちており、いつもの時間に起きると疲れが残ってしまったのか、気だるさが感じられた。
何とか家事を済ませて弘明を幼稚園へ送ると、いつものように4人の井戸端会議が始まった。
「そういえば、岡田さんは今日どんなものを投稿するの?」
「私、この前の商品試してみたの、すごく良かった!」
「そう言ってもらえるのは嬉しいんだけど、今日は投稿できないかもしれないわね。最近は、うちの母にお迎えを頼んでたんだけど、昨日、弘明に迎えがママじゃないと嫌だって泣かれちゃって。家事と両立できるように、投稿する頻度を調整するつもりなの。」
「ええーそうなの?」
「でも、泣かれちゃうと母親としては辛いわよね。仕方ないわよ。」
「そうね、もう岡田さんは十分有名なインフルエンサーよ。ちょっと投稿が減ったくらいで、人気が落ちたりなんかしないわ。」
「先輩が言うなら間違いないわね!なんたって、ここにママもしながらインフルエンサーでもある林さんがいるんだもの!」
「成川さんはいつも調子が良いわよね、貴女も何か投稿してみたら?」
「私が何を投稿するってのよー、不器用だし、このシミとシワだらけの顔を出したって、誰も見てくれないわよ。」
ひろみは、3人の反応を見て、内心ほっとしていた。特に絵里の反応が気になっており、「ここで投稿を減らしたら、人気が落ちる」だの、「自分はインフルエンサーとしても母親業も両立できている」だのと言われないかと心配していた。
(まぁ、フォローしてくれてる人も、もう林さんの数を大きく上回ってるしね。インフルエンサーとしての実力は私の方が上。それさえキープできれば、何も問題はないわ。)
ひろみは、3人との雑談もそこそこに暇を告げ、自宅で家事に力を注いだ。余った時間は当然のようにSNSの投稿のネタ作り、企業からの依頼メールへの対応にあてたが、迎えの時間にはそれらの作業は切り上げ、幼稚園に車を走らせた。
(考えてみれば、最近この近辺も車で全然走ってなかったわね…。本当、弘明には悪いことをしちゃった。)
車の中で1人、深いため息をつき、ひろみの母の「誰だって失敗はある」という言葉を反芻し、幼稚園に到着した。園から出てくる弘明は、満面の笑みでひろみに向かって走り出し、弘明にできる限りの力でひろみに抱きついた。
「ママ!ただいま!!」
「おかえり、弘明。」
「本当にきてくれた!ママ大好き!!」
「ママは嘘はつかないわよ。幼稚園はどうだった?」
「楽しかったよ!今日は、お友達にひらがなを教えてあげたんだ!」
「すごいじゃない、たくさん勉強したものね。」
嬉しそうな声と表情で、生き生きと母親に今日何があったかを報告する弘明。その姿をみて、息子にどれだけの心理的負担をかけていたかを改めて実感した。
帰り道の車中も、今日幼稚園でこんなことをした、友達とこんな遊びをした、など、弘明の話は尽きることがなかった。ひろみは、SNSに執心していて聞いてあげられなかった分の罪滅ぼしをするように、とことん耳を傾けた。
(弘明とこんなに話をするのも、久々な気がするわ…。本当に、寂しい思いをさせてしまってたのね。)
家につき、弘明の勉強の時間に付き合った後は、夕飯の準備。SNSを始める前の日常が、ひろみの中に戻りつつあった。
ただ、それでも以前から投稿していた記事にコメントは付き続け、その度に携帯の通知が鳴る。ひろみは、着信が鳴るたびにコメントへの返信をどうするか悩んだが、ひとまず家事を済ませてからにしよう、と通知の音を遮断し、家事に専念した。
家事から解放され、弘明が寝静まった頃にはたくさんの未返信コメントがついていた。ひろみは、残された時間で丁寧にコメントへ返信をしていく。その中のコメントに、気になるものがあった。
『HIROMI様 私は、KYOYAと申します。あなたの記事を拝見しまして、美容に関する研究、熱意がとても伝わってきました。私の経営する会社でも、女性向け美容品やメイク用品などを取り扱っておりますので、ぜひ、貴女の記事を我が社で取りあげたいと考えますが、いかがでしょうか。お返事をお待ちしております。』
こういった企業からのコメントは、最近は見慣れたものになっていた。このコメントだけをみれば、ただの企業からの依頼コメントだが、ひろみが目を止めた理由は、このコメントがついた後の、SNS上での反応だった。
『え、KYOYAって、あのKYOYA!?』
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(企業からの依頼コメント、か…。弘明の世話をしながらでも、こなせるかしら。)
SNSに没頭していた頃なら、大はしゃぎして喜ぶところだが、ひろみの母に迎えを任せた故に息子を悲しませてしまったこと、気づけば家事も疎かになりがちになっていたことがどうしても頭をよぎり、手放しで喜べる心境にはなかった。
(…林さんは、こう言う時どうしてるのかしら。一度、相談してみてもいいかもしれない…。)
一通り返信を終えたひろみは、寝室に入り、息子とその隣ですやすやと眠る夫を見てほっと息を吐き、ひろみも眠ることにした。
次の日、息子を幼稚園に送った後、林を呼び止めて相談したいことがある、とカフェに誘った。
「どうしたんですか?深刻そうなお顔されてますけど…。」
「それが…、まず、これを見てほしいの。」
コメント欄にある、KYOYAという人からのコメントと、そのコメントがついたことで大騒ぎしている人たち。画面を見るなり、林は「すごいじゃない!」とひろみの手をとって興奮し始めた。
「この方、すごく有名な人なのよ。この人に注目されたインフルエンサーは、軒並み有名人になっていくの。そんな人にコメントをもらえるなんて…。やっぱり岡田さんはすごいわ。」
「そう言ってもらえるのは嬉しいんだけど…。前にも言ったように、弘明のことや家事のことを疎かにはできないし、林さんは、企業の依頼と育児、家事をどう両立してるのかなって。」
「私なんか、ちょっと物を作っては投稿してるだけで、それが結果的に注目されるようになっただけなのよ。だから、投稿もまちまちだし、手芸用品のオファーなんてそうないから…。でも、これだけは言えるわ。このチャンスは逃しちゃダメよ。」
「そうは言っても…」
「こんなチャンス、滅多に巡ってこないわよ。もしかして、この依頼、受けないつもりなの…?」
絵里は、ひろみを心配するような目で質問を投げかける。
「まだ考えてるところだけど…。」
「そう…、でも、この依頼を断っちゃった後の、岡田さんの注目度が心配だわ。」
「え?」
「さっきも言ったけど、この人のコメントがついた人は、文字通り全員が有名人になっていくの。でも、断った人はどうなるかっていうと…。」
「…どうなるの?」
「『あのKYOYAの依頼を断った』っていう話が広まって、フォローしてた人たちが一気に離れていっちゃうの。KYOYAさんのファンクラブまであるくらいの、有名な人だから。…だから、岡田さんにはよく考えてもらいたいな、って」
ひろみは、絵里の話を聞いて愕然とした。有名人からの依頼を受けることは、それだけ自分自身に注目が集まっているという証明にもなるが、一方でその依頼を断るとデメリットも大きい。そして、今回コメントをした人間は、熱狂的なファンがついているほどの人間…。企業の依頼と育児・家事の両立方法を聞こうと思っていたところが、いつの間にか「インフルエンサーとしての人気維持」をとるか、「目の前の家庭」を取るかの二者択一に迫られていた。
ひろみは一先ず絵里と別れ、家事を一通りこなした後SNSを開いてKYOYAからのコメントを見た。相変わらずSNS上では、KYOYAの依頼に対するコメントがつき続けている。カフェにいた時は愕然としたが、家について家事を一通りこなした後のひろみは、ある種の対抗心が芽生えていた。
(…私よりも注目度が低いあの女に相談したのが間違いだったのよね。いいわ、やってやろうじゃない。せっかくここまで注目されて人気になってきたのに、それをみすみす手放すなんてことしたくない。)
ひろみは、今までにない程の緊張を感じながらスマートフォンを手に取り、KYOYAのコメントに対して返信を打ち始めていた。
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