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グレイストーン(3)

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「どうしてベッドが二つある部屋を取らなかったんだ」

 夜も更け、いざ寝ようとしたところでアイラはこの部屋にベッドが一つしかない事に気づいた。
 ルルは先にベッドに横になりながら言う。

「こっちの方が値段が安いですから。しばらく泊まるとなると宿代も馬鹿にならないので、こういうところで少しでも節約しないと」

 そうして自分の隣をポンポンと叩いてアイラを呼んだ。

「もう寝ますよ」
「私の宝石を売れば、こんな安宿には何日だって泊まれるだろ。たまには贅沢したい。城での生活は恋しくないが、広いふかふかのベッドは恋しい」
「はいはい」

 文句を言いながらベッドに入ってきたアイラを寝かしつけながら、ルルは静かな声で話した。

「今日出会ったイディナという女性、明日は仕事だと言っていましたが、時間を見つけてまた会いに来そうですね」
「うん。あいつはルルを気に入っている感じだったもんな」

 アイラはあくびをしながら言う。

「ただ好かれているだけならいいんですが、彼女は伯爵家の使用人ですから厄介です。しかも話を聞いていると、ただの使用人ながら伯爵とはよく言葉を交わすようですし、彼女はアイラの正体に気づかないにしても、彼女が世間話としてアイラの事を伯爵に話すかも……」

 街でこんな変わった子に会ったんですよ、とアイラの特徴を話せば、グレイストーン伯爵ならそれが行方不明になっているアイラだと気づくかもしれない、とルルは続ける。

「伯爵はきっとそういうところ鋭いですし、もしかしてと思ったらアイラを探しに来るかもしれません」
「これから寝るって時に怖い話をするなよ」

 アイラはそう言ってルルの腕の中で震えてから、「でも」と言葉を続ける。

「私がこの街に来ているかもと思っても、探しに来ない可能性も高いと思う。父上たちが生きていた時、しょっちゅう媚を売りに来ていた叔父上やトロージと違って、ヘクターってあまり王城に来る事はなかったし」
「まぁグレイストーン伯爵に限らず、まともな貴族たちはみんな登城を避けていましたからね。陛下たちと会話しても嫌な思いをするだけだったんでしょう。でもそう考えると確かに、伯爵はアイラがこの街に来ていると気づいても接触してこようとはしないかもしれません。面倒事を避けるように、気づいても気づかない振りをして私たちが街を出るまで静観する可能性もあります」
「うん、きっとそうだ。そう信じよう」

 アイラはその希望を胸に抱き、眠りについたのだった。


 それから三日間、アイラは基本的に宿の部屋にこもって過ごした。行方不明の王女という事が露見しないよう注意しなければならないという理由もあるが、主にグレイストーン伯爵と鉢合わせする事を恐れて自主的にこもっている。

 宿を出るのは馬に食事を与える時くらいだ。宿の人間は小屋の掃除はしてくれるけれど馬の世話まではしてくれないので、自分たちで餌を与え、時にはブラッシングをしてやらねばならない。
 馬は相変わらずのんびり屋だが、アイラやルルが姿を見せると機嫌よくしっぽを揺らしたし、子馬の方も遊び相手が来たとばかりにじゃれてきて可愛かった。

 そして今、アイラは二階の部屋の窓から宿の裏庭を見下ろして言った。

「楽しそうだな」

 裏庭は柵で囲われていて、馬を放す事ができるのだ。街中の宿なので庭と言っても狭いが、子馬が軽く走るくらいはできる。今、親子二頭はゆっくりと庭を歩いていた。

「あー、暇だな。ルル、何か面白い話をしてくれ」
「無茶振りやめてください」

 アイラは窓の外を見るのをやめ、ベッドにごろんと横になった。ルルは小型のテーブルセットの椅子に座って、アイラが脱いだブーツを磨いている。
 アイラはずっと城の中で生活してきて、外に出ても舗装された道や芝生の上だけを歩いた経験しかないからか、あまり下を見て歩かない。水溜りがあっても避けようとはせず真っ直ぐ突っ込んでいくので、靴がすぐに汚れてしまうのだ。

「さぁ、綺麗になりましたよ」

 ルルはそう言って、アイラにブーツを履かせようとしたが、

「いい。寝るから」

 とアイラはベッドに寝転んだままだ。
 ルルはため息をついてアイラの足を掴み、ズルズルと引っ張ってブーツを履かせた。

「さっきまでも寝ていたんですから、ちゃんと起きてください。下へ行ってお茶を入れてもらってきますから」
「お菓子も」

 すかさず言うアイラに、ルルは苦笑して返した。

「分かりましたよ。でも私から言い出さなくても貰えると思いますけど」

 この宿は六十代の店主夫婦二人とその子どもたちによって経営されているのだが、夫婦はアイラの事を気にかけて可愛がってくれているのだ。
 と言うのも、アイラが部屋にずっとこもっているので掃除をしに来た夫婦の妻のアンナに心配され、ルルは〝ライア〟に新しい設定を追加せざるを得なかったから。

 その設定というのが、病弱であるという事だ。
 ルルは病弱な弟のライアをここからもう少し北に行ったところにある自然豊かな保養地に連れて行こうとしているのだが、ここまでの道中でライアが疲れてしまったため、今はこの宿で体を休めている、という説明をアンナにしたのだ。

 おまけにアイラの偉そうな言動は演技で隠せるようなものではないので、元からの設定――両親を亡くしたショックから自分を王子と思い込んでいる――も説明しなければならなかった。

 その結果、アンナたちはアイラの事を『親を早くに亡くし、そのせいでおかしくなり、しかも生まれつき病弱』というとても可哀想な子と思い込んでいる。
 なので色々と優しくしてくれ、手作りのお菓子を差し入れてくれたりもするのだ。

「噂をしていたら、アンナさんの方から来てくれたようです」

 足音からルルはそう予想をつけて扉の方を見た。するとトントンと扉がノックされる。

「お茶とお菓子を持ってきたよ。お食べ」
「ありがとうございます」

 ルルが扉を開けると、白髪交じりのアンナがトレイに乗ったお茶とクッキーを小さなテーブルまで運んでくれた。

「いつも悪いな」

 アイラはベッドに座ったまま尊大に言う。しかしアンナは気にしておらず、孫に接するようにアイラを手招きする。

「こっちに来て食べな。そんなに細いといつまでたっても体力がつかないよ」
「うん。クッキーか。まぁまぁ美味しそうだな」
「王子様のお口に合えばいいけどね」
「お前のお菓子は結構美味しいからな。料理も上手いし。私がまだ城にいたら、夫婦一緒に専属料理人として雇っていたのに」
「はいはい、それは光栄だね」

 アイリーデで『太った山猫』の店主に言っていたのと同じような事をアイラが言うと、アンナは適当に返事をしながらも愉快そうに笑った。
 確かにアンナたちが作るものは美味しいのだが、アイラの味覚は繊細ではないので料理に対する採点は甘い。

「夕食は五時から八時までだからね。ちゃんと食べに来るんだよ」

 アンナはそう言って部屋を出て行った。
 元王女だという事実を知らない人にとって、アイラの尊大な態度は普通は腹が立つだろう。けれど何故か許される事が多いし、年上の人間には可愛がられる事もある。

 しかし、この街に来た初日に声をかけてきた女性――イディナには、アイラは相変わらず嫌われていた。ルルに気があるから、そのルルにまとわりつく厄介者の弟とでも思われているのだろう。

 イディナはグレイストーン伯爵の屋敷で使用人をしていて、出会った初日は休日だったらしいが、その翌日は忙しかったようで会いには来なかった。
 けれど昨日は時間を見つけてこの宿までルルを訪ねてきて、やはり初日と同じようにアイラの事は無視してルルの事ばかり見ていた。
 一緒に食事に行こうと誘われてもルルは断っているのだが、イディナは打たれ強く諦めない。

 アイラとしては自分の奴隷に他の人間が近寄るのは面白くなかったが、今回はルルがあからさまに迷惑そうにしているからイディナの事はそれほど気にならなかった。
 聖女のサチの時は、情報を得るという目的のためとは言え、ルルの方もサチに近づいて仲良くしていたので腹が立ったが。

 と、こんな様子でアイラたちはグレイストーンでの生活を送っていたのだが、この街に来て五日目に、アイラはついに宿にこもっている事に飽きて外に出たいと言い出した。
 ルルは懐中時計を確認しながら、

「そうですね、ではちょっと散歩に行きましょうか。アンナさんたちに声をかけて夕食も外で取ってもいいかもしれませんね。そろそろイディナさんが仕事を終えてここにやって来そうな気もしますし、その前に出ましょう」

 と言う。そしてアイラに薄い外套を着せると、フードを被せて外に出た。
 
「良い葡萄酒が飲みたいな。ここに来るまでに葡萄畑があったし、確かグレイストーンやこの周辺では葡萄酒の製造が盛んだったはず」
「アイラはそんなにお酒が好きじゃないでしょう。それに良いものは高いですよ」
「お前は金の事を気にしてばかりだな」
「アイラが全く気にしないから」

 そんな事を言い合いながら大通りを歩く。そして五分ほど経ったところで、ルルが自分の服のポケットを探りながらこう言った。

「あ、財布を忘れてきました」
「ドジめ」

 自分の失敗は許すが他人の失敗には厳しいアイラが即座に言う。

「宿まで戻りましょう。イディナさんとばったり会わないといいのですが」
「来た道をまた歩くのか? 私はここで待っているからルルが取ってきてくれ」

 ルルは少し迷ったようだが、面倒臭がるアイラを通行人の邪魔にならないよう道の端に連れて行ってこう言った。

「では財布を取ってくるので、ここで待っていてください。すぐに戻ってきますから」
「うん」

 ルルは宿の方に向かって小走りで駆けていき、アイラはパン屋の建物の壁に背を預けて立った。もう夕方だからか、パン屋は営業を終えて閉まっている。
 そして街行く人たちを眺めながらじっとルルの帰りを待っていたが、ルルはやはり宿でイディナと鉢合わせてしまったのか、十分以上経っても戻ってくる気配はなかった。

「遅いな」

 フードを被ったままのアイラがそう呟いた時――

「何してるの?」

 アイラの顔を覗き込むようにして、一人の若い男が声をかけてきた。
 巻き毛の短い髪は茶色で、人懐っこそうな顔立ちをしており、声は明るい。服装も特に変わったところはなく庶民的で、良い意味でどこにでもいそうな男だ。

「誰だ、お前」

 男はアイラの愛想のなさに一瞬面食らったようだが、気を取り直して笑う。

「俺、セイジ。君は一人? ぽつんと立ってたから気になってさ」
「ルルを待ってるんだ。どこかで夕食を食べるつもりだったんだが、財布を忘れたから宿まで取りに行ってる」
「ルル?」
「うん」

 セイジはルルが誰なのか説明してほしそうだったが、アイラはそれに気づかずただ頷いた。
 セイジは諦めて次の質問に移る。

「宿って事は、旅の途中? 二人でこの街に来たの?」
「そうだ」
「夕食を食べる店はもう決まってる?」
「いや、決まってない」
「だったら、俺の店に来ない?」

 セイジは人の良さそうな笑みを浮かべて提案してくる。

「お前の店? お前、料理人なのか?」
「そうそう!」
「そうは見えないし、何となくお前の作る料理はまずそうだけど」
「初対面でひどいな! 絶対に美味いから来てよ」

 セイジはそう言ってアイラの手首を掴んだ。

「ルルを待ってないと」
「店はすぐそこだから、ルルちゃんが来たら店から声をかけられるよ。今日、お客さん全然来なくてさ。頼むよ、安くするから!」
「安く?」

 アイラは値段は気にしないが、安くなるとルルが喜ぶだろうと思って反応した。
 そしてセイジに連れられるまま、路地へと入っていったのだった。
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