愛を知らずに愛を乞う

藤沢ひろみ

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45.予定外の勤め

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 夕食を終えた那岐は自分の部屋で、ベッドの上に寝転がり本を読んでいた。

 祥月から与えられた本をひとまず読み終えたので、穂香に勧められた本を三日前から読み始めたところだ。

 内容は、旅商人の娘が訪れた国でそうとは知らずに出会った貴族の男と恋に落ち、男の家族から反対を受けたり様々な苦難を乗り越え結ばれるというものだ。

 本を手渡される時に意気揚々と、穂香がご丁寧にあらすじをほとんど説明してしまったのですでに知っている。
 読む必要性を感じなくもないが、感想を教えるよう言われてしまったので読むことになった。

 初めて読んでみて分かったが、女性に人気のロマンス物語というものは男の那岐には面白さが分からず、なかなかページが進まない。

「ふーん。女性はこういうのが好きなんだな」

 いわゆる玉の輿というものに、女性は憧れるのだろう。穂香も安定した暮らしがしたいと言っていた。

 働くこともなく贅沢な暮らしは、平民ならば憧れるものだ。
 だが一度経験してみると、那岐には贅沢な暮らしは退屈で馴染めない。やはり、毎日働いている方がマシだと思えた。

「俺なら、旅商人の方がいいけどな。色んな所に行くのも楽しそうだし、商売の駆け引きも面白そうだ」

 駆け引きは、“遊華楼の那岐”で覚えた。
 遊華楼を出て自由になったら何か普通の仕事をしたいとは思っていたが、商売人も向いていそうだ。

 とはいえ、次に自由になるのはいったいいつになるやら分からない。気の長い話に苦笑いした。

 ページをめくろうとすると部屋のドアがノックされる音がして、寝転がっていた那岐は起き上がった。

「失礼いたします。那岐様、お部屋にいらっしゃいますか?」

 安住に呼びかけられ、ドアを開けた。珍しく慌てた様子だ。
「どうしたんだ?」

「大変でございます。今晩、祥月様がお越しになられるそうです。急いでご準備いたしましょう」
「え!?」

 安住が慌てるのも無理はない。
 祥月が来る日は、いつも前日には知らされていた。

 特に女性は化粧など、めかしこむことに時間がかかる。那岐には化粧は必要ないが、マッサージを受けたり爪をやすりがけしたり、体もいつも以上に丁寧に洗わなければならない。
 激しい運動に備えて、夕食の量も少し控えるようにしている。

 勤めの日はとにかく、様々な事前準備が必要なのだ。そのため、突然訪問されるということはない。

 祥月は二日三日に一度のペースで、順番に愛人の元を訪れる。
 那岐の後は三日空くことが多いと聞いているので、次に那岐の順番が回ってくるのは早くても明後日の予定だった。

「なんで急に早まったんだ?」
「分かりません。けれど、間もなくおいでになられます。お急ぎ下さいませ」

 安住に急かされ、那岐は慌てて浴室へ向かった。

 例え急いでいても、祥月が抱く体は丁寧に洗わねばならず、後ろも解さなければならない。
 いつもはゆっくりと湯に浸かりながら体を洗ってもらうのも、湯船に湯を溜めながら同時進行となった。

 大急ぎで体を洗ってもらい、先に安住に浴室の外に出てもらうと、那岐は後ろを解した。この行為も今ではすっかり慣れたものになった。

「那岐様。祥月様がいらっしゃいました」

 後ろを解している最中に、浴室の外から安住に声を掛けられた。
 もう少ししっかり解したかったが祥月を待たせるわけにはいかず、那岐は慌てて浴室を出た。祥月の相手をしているのか、安住の姿はなかった。

 いつもは安住が丁寧に体を拭き、仕上げに化粧水と香油を塗ってくれるのだが、今はそんな時間がない。

 自分で手早く髪と体を拭くと、那岐はバスローブすら身に纏わず寝室に飛び出した。
「お、お待たせいたしました!」

 寝室に安住はすでにおらず、祥月が一人椅子に座り待っていた。
 全裸で現れた那岐を見て、祥月は目を丸くした。

「何という格好だ」
 呆れたように感想を述べられ、那岐はむっとした顔になる。

「急に来られるからですよ。どうせすぐ脱ぐんだから、バスローブを着る時間も惜しんだんです」
 那岐は両手を腰に当て胸を張った。全裸で威張っても格好悪いと、後から思った。

「それでも、雰囲気作りというものがあろう」

 あまりに意外なことを言われ、驚いた。
「雰囲気?」

 性欲を発散させるために来ているのに妙なことを言うものだと、祥月を見た。
 最初の頃、咥えろだの高めよだのの短い言葉しか発しなかった男の言葉とは思えない。

 バスローブ程度で雰囲気が変わるとは考えにくいが、子供のように全裸で飛び出すよりはマシだったかもしれないと反省した。

 しかし、と那岐は思案する。どうせ脱ぐのに今更バスローブを着直すのもおかしい。

 せめて慌てるのは止めて、落ち着くことにした。
「お待たせいたしました」
 今度は丁寧に、ゆったりとした足取りで近付くと、椅子に腰かけたまま祥月が見上げた。

 いつもは那岐が祥月を迎えるのに、祥月の方が待っているというのは不思議な感覚がした。どんな気持ちで待っていたのかと、尋ねてみたい気もする。

 祥月は立ち上がると、ガウンを脱ぎ始めた。
 すぐ脱ぐのだから、やはり裸でも正解だったと思い直した。

 ベッドの端に腰掛けた祥月の前にしゃがむと、那岐は躊躇なくまだ柔らかな祥月自身に手を伸ばす。

 その歪な形状に触れるのも咥えるのも、今は何の迷いもない。

 人はそのうち環境に慣れるものだが、那岐の場合は遊華楼を経験しているせいか愛人の仕事に慣れるのも早かった。

 橘宮のトップという地位にこだわっていたことも、今では何をそこまでこだわっていたのかとすら思える。
 自身ですら気付かぬうちにすっかり順応していたことには驚いたが、当然の成り行きとも思えた。

「髪が少し濡れている」

 指摘され顔を上げると、那岐は前髪を摘まんだ。
 急いでいたため、完全には乾かせていなかった。だが、支障のない程度だ。

 祥月の顔が近付く。

 キスをされるのかと、一瞬息を呑んだが違った。祥月は那岐の鎖骨のあたりで顔を止めると、くんと鼻を動かした。

「香油は付けていないのか」
「す、すみません。急に来られたので……」

 突然訪問した祥月が悪い。

 だが、まさかと那岐は祥月を見た。
「もしかして、におい……ますか?」

 ちゃんと石鹸で丁寧に洗ったが、体臭がするのかもしれない。少しショックを受けた。

 いや、と祥月は首を横に振った。
「あの香りが好きなわけではない。女性はそういうものが好きなようだが、別に私は付けなくとも構わないのだ」

 香油は祥月のために塗ることになっているのだと思っていた。
 祥月が求めていないのであれば、今後は不要だと安住に伝えておくことにした。

「そうか。本来の那岐は、こんな匂いか」
 再び顔の近くで祥月が鼻を動かすので、那岐は慌てた。

「まだ年齢的に、におうとか言われたくないんですけど! てか、石鹸でしょう!?」

 那岐が抗議すると、祥月は驚いた顔をした後、少しだけ可笑しそうに笑った。

 そんなふうに祥月が笑うのが珍しく、口淫するためにしゃがんでいたのに、那岐はしばらく顔を上げたまま祥月の顔から目が離せなかった。

 楽しそうな表情の祥月を見れたことが、少しだけ嬉しいような気がした。
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